2009'06.26 (Fri) 03:05
言うことありません!!
てゆうかですね、もう『けいおん!』がやるって時点で、なんだってアリなんですよ。前回のアンコール=「もっと」に合わせて映された部室の風景。二回目の「ふわふわタイム」、これはムギから、自発的に・突発的にはじまります。打ち合わせもなく、示し合わせもなく。それが意味するものは「もっと」でしょう。もっと続けたいから、もっとここに居たいから、演奏し出す。そしてみんなも、そのムギの気持ちに続く。
ムギの「もっと(=演奏)」に、律の「もっと」が続いて、さらに澪の「もっと」、梓の「もっと」、唯の「もっと」と来て、さらには観客の「もっと(=手拍子)」まで入ってくる。
この演奏箇所には、誰もいない軽音部室――部室に続く階段、ティーセット、仲良くくっつく5人のかばん、いつもみんなで座っていた席――が映し出されますが、その非人称な映像を、視聴者の「もっと」として捉えることはできるでしょう。もっと『けいおん!』が見たい、続いてほしい、この部室にいたい。この映像にそれを読み取るまなざしは、視聴者の「もっと」である。
だからねー、この「番外編」が、特別に答えてくれたアンコールじゃなくて、最初から決まっていた予定調和のアンコールなのは分かってますけど、もうね、それでもね、「もっと」見れただけで、僕は幸せ。
今回は「なんでもないありふれた一日」を映したような回でしたが、これがもし、第1話、第2話くらいでやってたら、確実に全然つまんない印象を受けたと思うんですよ。それが、この最後の最後にやったからこそ、まあつまんないかどうかは人によりけりなんですけど、僕としては、つまんなくはなかった。
今回に関しては、その差異でしょう。
ここまで見てきたから「視える」ものが、この回には「在る」。
「唯のメール」が、今回のハイライトのひとつでしょうけど、あれの価値・意味――つまり、あれを受け取った彼女たちのあれに向けられたまなざしなんかは、ここまで見てきた人間じゃないと決して分からない。
そういうものが在る。
しかしこれでけいおん!終わっちゃうとか、もうマジで勘弁してほしいなー。
もっと、もっと。アンコールをもう一回、いやそれ以上、願う。
てゆうかですね、もう『けいおん!』がやるって時点で、なんだってアリなんですよ。前回のアンコール=「もっと」に合わせて映された部室の風景。二回目の「ふわふわタイム」、これはムギから、自発的に・突発的にはじまります。打ち合わせもなく、示し合わせもなく。それが意味するものは「もっと」でしょう。もっと続けたいから、もっとここに居たいから、演奏し出す。そしてみんなも、そのムギの気持ちに続く。
ムギの「もっと(=演奏)」に、律の「もっと」が続いて、さらに澪の「もっと」、梓の「もっと」、唯の「もっと」と来て、さらには観客の「もっと(=手拍子)」まで入ってくる。
この演奏箇所には、誰もいない軽音部室――部室に続く階段、ティーセット、仲良くくっつく5人のかばん、いつもみんなで座っていた席――が映し出されますが、その非人称な映像を、視聴者の「もっと」として捉えることはできるでしょう。もっと『けいおん!』が見たい、続いてほしい、この部室にいたい。この映像にそれを読み取るまなざしは、視聴者の「もっと」である。
だからねー、この「番外編」が、特別に答えてくれたアンコールじゃなくて、最初から決まっていた予定調和のアンコールなのは分かってますけど、もうね、それでもね、「もっと」見れただけで、僕は幸せ。
今回は「なんでもないありふれた一日」を映したような回でしたが、これがもし、第1話、第2話くらいでやってたら、確実に全然つまんない印象を受けたと思うんですよ。それが、この最後の最後にやったからこそ、まあつまんないかどうかは人によりけりなんですけど、僕としては、つまんなくはなかった。
今回に関しては、その差異でしょう。
ここまで見てきたから「視える」ものが、この回には「在る」。
「唯のメール」が、今回のハイライトのひとつでしょうけど、あれの価値・意味――つまり、あれを受け取った彼女たちのあれに向けられたまなざしなんかは、ここまで見てきた人間じゃないと決して分からない。
そういうものが在る。
しかしこれでけいおん!終わっちゃうとか、もうマジで勘弁してほしいなー。
もっと、もっと。アンコールをもう一回、いやそれ以上、願う。
2009'06.19 (Fri) 03:14
……どうしようか。
ものすごくよかった。
もうなんというか、言葉もないです。
「いまいるこの講堂が、わたしたちの武道館です!」
これ。
……なんかもう、なんもいう必要はないわなー。言語化するだけ野暮というもの。
「わたしにとっての」なんですよね。唯にとっての、律にとっての、ムギにとっての、澪にとっての、あずにゃんにとっての。それは”この中身だから”いまいるここがそれになったんだし、”いまいるここがそう”だからこの中身がその内実になった。講堂=武道館だけじゃなくて、全部そうなんですよ。彼女にとっての軽音部、部室、ギー太、軽音部の誰か、あるいは全体、……もう、もろもろの何か。
たとえば梓は今回「このまま唯先輩抜きで演奏しても意味ないです」とまで云ってましたが、これは当初の梓から考えるととても大きな変化です。「意味がない」とまで云っちゃってる。梓にとっての(学祭での)演奏に、唯がいなくては意味すらない。梓がそんなふうに思えるようになった、つまり「梓にとっての」がそのような形になったのは、それまでの言動・出来事・中身によるでしょうし、ということは逆に、その「梓にとっての」の内実は、それまでの言動・出来事・中身そのものである。
そんな風にね……、彼女たちは練習ばっかやってたわけじゃなく、部室でお茶飲んでだべってることが多く、合宿も半分以上遊んでて、でもさ、だから、だからこそ、ここで、「いまいるこの講堂が、わたしたちの武道館です!」になれたんだと思う。もちろん、違う道でもここに辿り着けたかもしれない。けど。この道が辿り着いた場所は、そこだった。その価値は、本当に武道館ライブを行うことと比べて少しも目劣りするようなものじゃないでしょう。わたしにとっての武道館でライブをすることは、本当の武道館でライブをすることに、少しも劣らない。そして交換できるものでもない。仮に、必死に練習して本当に武道館ライブが出来てたとしても、その価値はその価値で、この講堂でのライブとは全く違う意味である。そしてその場合は、もし学祭でライブをやるとしても、このセリフはなく、つまり「この気持ち」はなく、今回のライブとは全く別の価値になる。
「いまいるここ」でのライブは、「いまいるここ」以外でのライブと交換できないし、決して価値も低くない。
自分が「いまいるここ」は、自分が過去・未来・あるいは”if”のなかに居た「そこ」と交換できないし、それと比べて価値が低いものでもない。
これは、この軽音部だから、この人たちだから、こうであったという、何ものにも換え難い、何ものにも劣らない、価値。
もう言葉いらないです。完璧な肯定を見せられた。僕もこれを完璧に肯定せざるを得ない。いや、そんなん抜きにしても素晴らしいんだけど。本当に素晴らしい。
「何かしなくちゃと思うんだけど、いったい何をしたらいいんだろう?」(第一話)から、辿り着いたところ。もちろん、「わたしにとっての」は、ここで終わりじゃなくて、永遠にどこにでも何処まででも辿り着き続けるんだけど。それが、他人から見てどんなに中身のないようなものでも、どんなに価値の低いようなものでも、彼女(ら)にとってみれば、自分自身の、唯ひとつの、何ものにも換え難いものなんでしょう。『けいおん!』は中身がないとかいう感想は、正直、もう全く違いすぎると言わざるを得ません。むしろ逆です。描かれているものは、「わたしたち(視聴者)」にとってはどうでもいい中身かもしんないけど、「彼女たち」にとっては何ものにも換えられず価値も劣らない中身に溢れている。成長も変化も、成功も栄光も、ドラマも物語も、それとは別次元。ここにあるのは、唯の、ムギの、律の、澪の、梓の、または憂の、和の、さわちゃんの、その他もろもろの、みんなの、「彼女(たち)にとっての」であった。
ものすごくよかった。
もうなんというか、言葉もないです。
「いまいるこの講堂が、わたしたちの武道館です!」
これ。
……なんかもう、なんもいう必要はないわなー。言語化するだけ野暮というもの。
「わたしにとっての」なんですよね。唯にとっての、律にとっての、ムギにとっての、澪にとっての、あずにゃんにとっての。それは”この中身だから”いまいるここがそれになったんだし、”いまいるここがそう”だからこの中身がその内実になった。講堂=武道館だけじゃなくて、全部そうなんですよ。彼女にとっての軽音部、部室、ギー太、軽音部の誰か、あるいは全体、……もう、もろもろの何か。
たとえば梓は今回「このまま唯先輩抜きで演奏しても意味ないです」とまで云ってましたが、これは当初の梓から考えるととても大きな変化です。「意味がない」とまで云っちゃってる。梓にとっての(学祭での)演奏に、唯がいなくては意味すらない。梓がそんなふうに思えるようになった、つまり「梓にとっての」がそのような形になったのは、それまでの言動・出来事・中身によるでしょうし、ということは逆に、その「梓にとっての」の内実は、それまでの言動・出来事・中身そのものである。
そんな風にね……、彼女たちは練習ばっかやってたわけじゃなく、部室でお茶飲んでだべってることが多く、合宿も半分以上遊んでて、でもさ、だから、だからこそ、ここで、「いまいるこの講堂が、わたしたちの武道館です!」になれたんだと思う。もちろん、違う道でもここに辿り着けたかもしれない。けど。この道が辿り着いた場所は、そこだった。その価値は、本当に武道館ライブを行うことと比べて少しも目劣りするようなものじゃないでしょう。わたしにとっての武道館でライブをすることは、本当の武道館でライブをすることに、少しも劣らない。そして交換できるものでもない。仮に、必死に練習して本当に武道館ライブが出来てたとしても、その価値はその価値で、この講堂でのライブとは全く違う意味である。そしてその場合は、もし学祭でライブをやるとしても、このセリフはなく、つまり「この気持ち」はなく、今回のライブとは全く別の価値になる。
「いまいるここ」でのライブは、「いまいるここ」以外でのライブと交換できないし、決して価値も低くない。
自分が「いまいるここ」は、自分が過去・未来・あるいは”if”のなかに居た「そこ」と交換できないし、それと比べて価値が低いものでもない。
これは、この軽音部だから、この人たちだから、こうであったという、何ものにも換え難い、何ものにも劣らない、価値。
もう言葉いらないです。完璧な肯定を見せられた。僕もこれを完璧に肯定せざるを得ない。いや、そんなん抜きにしても素晴らしいんだけど。本当に素晴らしい。
「何かしなくちゃと思うんだけど、いったい何をしたらいいんだろう?」(第一話)から、辿り着いたところ。もちろん、「わたしにとっての」は、ここで終わりじゃなくて、永遠にどこにでも何処まででも辿り着き続けるんだけど。それが、他人から見てどんなに中身のないようなものでも、どんなに価値の低いようなものでも、彼女(ら)にとってみれば、自分自身の、唯ひとつの、何ものにも換え難いものなんでしょう。『けいおん!』は中身がないとかいう感想は、正直、もう全く違いすぎると言わざるを得ません。むしろ逆です。描かれているものは、「わたしたち(視聴者)」にとってはどうでもいい中身かもしんないけど、「彼女たち」にとっては何ものにも換えられず価値も劣らない中身に溢れている。成長も変化も、成功も栄光も、ドラマも物語も、それとは別次元。ここにあるのは、唯の、ムギの、律の、澪の、梓の、または憂の、和の、さわちゃんの、その他もろもろの、みんなの、「彼女(たち)にとっての」であった。
2009'06.12 (Fri) 03:07
今回はまったくさっぱり憂が出てこないけど、けどまあいいんじゃないかな〜面白いんじゃないかな〜楽しいんじゃないかな〜と見てたんだけど、次回予告に……
憂が出た!!
いやーもうなんというか、わたくし、そこで感動の涙を流してしまいましたってゆうか頭おかしいね自分!
この、……憂!
次回予告の、……憂!
夕日を浴びておねえちゃんと囁く、……憂!
マーベラス。
我々は今、マーベラスな次回予告を目にした。
夕日の美しさ。色合いの美しさ。憂の美しさ。憂という存在の美しさ。圧倒的、衝撃的。
素晴らしく衝撃的な、この次回予告の憂。
マーベラス。
えっと、てゆうか、次回予告の憂の衝撃だけで今回の内容全てが記憶の彼方に消え去ってしまいました。やっべー、今回どんな内容だったかなー。いい話だったと思うんだけどなー(ひどい)。
やはり「視線」なんじゃないですかねー。
とか思うんですね。『けいおん!』。
「○○が見る××」というのは、当然みんな異なっていて、たとえば憂が見る唯、律が見る唯、梓が見る唯、和が見る唯なんてのは、みんなそれぞれ異なっている。物理的には同じ「唯」っていう人間なんだけど、そこにかかるフィルターがそれぞれにあって。前回の唯がごろごろしてるの見た時の憂・律・梓の反応なんかが、それの象徴的な一枚の絵ですね。
視覚的に「見えている」ものはそれぞれ同じだけど、感情的に「見えている」ものはそれぞれ違う。
そういう意味の「視線」。
これはもちろん唯に対してだけじゃなくて、「○○が見る××」というのは、彼女らの人の数だけ存在します。唯が見る律と澪が見る律との違い、律が見るムギと梓が見るムギの違い、和が見る澪とさわちゃんが見る澪の違い、憂が見る梓と澪が見る梓の違い。ここでいう「違い」というのは、すなわち個々の視線のこと、その差異。
それは目立たないほど小っちゃいものから大っきなものまで、様々あるけど、たしかに違う。何か違う。
個々人じゃなくて集団でもそう。たとえば、軽音部に入らないことを決めた憂のクラスメイトが見る軽音部と、軽音部に入部した梓が見る軽音部の、違い。
それぞれが異なる。
視聴者はここにおいて、単数にしろ複数にしろ、どれかになることも、ひとつに繋ぎ合せることもできる。大昔に「不可視の五人目」とか書いたけど、そういう点では確かにそうでしてね、ここにおいて、(描かれることなく)描かれてる「視線」を、ひとつに纏め上げたり、あるいは単数に自分の視線を見たりといったことができる――いずれにせよ、そこで描かれている「視線」をほぼ全て認識する(支配する)ことができるわけです。切り返しショットを纏め上げる不可視の仲介者のように、切り返し描かれる複数の視線を纏め上げる不可視の五人目として、そこに存在できる。
あー、これ「視線」って言葉使うと齟齬りそうですね。先にも書いたけど、視覚的な意味ではなく、○○にとっての××、的な意味で。
映像面でも、例えばパンがあんまりない、(部室では特に)切り返しショット的というか、うーんあとで考える、とにかく、カメラの配置の仕方が、なんか「飛ぶように」動く、あと誰の主観でもないのだけれど誰かの主観かのようなアングルとか結構目立つ、とか、なんとか。
以前「律のたんこぶ」ってなんなんだろーと思ったのですが、つまりはそういうものですね。あれは誰かの視線には存在しうるものである。ええと、ここで注意なのは「存在しているもの」ではないという点です。存在しうる。実際にあるのかどうかは分からない。ただし、誰かの――たとえば叩いた澪の、あるいは叩かれた律の、もしくはそれを見ていた誰かの――視線には、それが存在しうる。その叩きの衝撃が、本当は存在しないたんこぶとして表象されている。ええ、何度も言いますが、本当に「見えているもの」としての視線ではありません。てゆうか、もしそうだったら、「たんこぶ」は存在していていいわけがない。たんこぶが存在できるのは、本当は見えないものがその誰かには(イメージとして)見えているからです。
この「だんこぶ」は、その残滓です。誰かの視線の残滓としての「たんこぶ」。それは誰かの視線を決定付けるものでも特定させるものでもないけれども、視線の存在を、その映像の中に繋ぎ止めて、それを見る私たちが、その視線自体を繋ぎ止められる(あるいは纏め上げられる)ようにするもの。
これでも「視点」じゃないんですよ。視座としての機能ではない。たんこぶが残滓として存在しているように、存在していないような、すぐに消えてしまうような、――残滓としてしか存在できないような、そういった「視線」、見えないし描かれてないけどそれが見えるし描かれている(だからこそ不可視の五人目なんですけど)、そのような感じです。
あとでなんかもちっとまともに書くかも。書かないかも。
あー、あとね! 次回予告見て驚いた!
次で最終回!
まじですか……。はえーよーぉー!
憂が出た!!
いやーもうなんというか、わたくし、そこで感動の涙を流してしまいましたってゆうか頭おかしいね自分!
この、……憂!
次回予告の、……憂!
夕日を浴びておねえちゃんと囁く、……憂!
マーベラス。
我々は今、マーベラスな次回予告を目にした。
夕日の美しさ。色合いの美しさ。憂の美しさ。憂という存在の美しさ。圧倒的、衝撃的。
素晴らしく衝撃的な、この次回予告の憂。
マーベラス。
えっと、てゆうか、次回予告の憂の衝撃だけで今回の内容全てが記憶の彼方に消え去ってしまいました。やっべー、今回どんな内容だったかなー。いい話だったと思うんだけどなー(ひどい)。
やはり「視線」なんじゃないですかねー。
とか思うんですね。『けいおん!』。
「○○が見る××」というのは、当然みんな異なっていて、たとえば憂が見る唯、律が見る唯、梓が見る唯、和が見る唯なんてのは、みんなそれぞれ異なっている。物理的には同じ「唯」っていう人間なんだけど、そこにかかるフィルターがそれぞれにあって。前回の唯がごろごろしてるの見た時の憂・律・梓の反応なんかが、それの象徴的な一枚の絵ですね。
視覚的に「見えている」ものはそれぞれ同じだけど、感情的に「見えている」ものはそれぞれ違う。
そういう意味の「視線」。
これはもちろん唯に対してだけじゃなくて、「○○が見る××」というのは、彼女らの人の数だけ存在します。唯が見る律と澪が見る律との違い、律が見るムギと梓が見るムギの違い、和が見る澪とさわちゃんが見る澪の違い、憂が見る梓と澪が見る梓の違い。ここでいう「違い」というのは、すなわち個々の視線のこと、その差異。
それは目立たないほど小っちゃいものから大っきなものまで、様々あるけど、たしかに違う。何か違う。
個々人じゃなくて集団でもそう。たとえば、軽音部に入らないことを決めた憂のクラスメイトが見る軽音部と、軽音部に入部した梓が見る軽音部の、違い。
それぞれが異なる。
視聴者はここにおいて、単数にしろ複数にしろ、どれかになることも、ひとつに繋ぎ合せることもできる。大昔に「不可視の五人目」とか書いたけど、そういう点では確かにそうでしてね、ここにおいて、(描かれることなく)描かれてる「視線」を、ひとつに纏め上げたり、あるいは単数に自分の視線を見たりといったことができる――いずれにせよ、そこで描かれている「視線」をほぼ全て認識する(支配する)ことができるわけです。切り返しショットを纏め上げる不可視の仲介者のように、切り返し描かれる複数の視線を纏め上げる不可視の五人目として、そこに存在できる。
あー、これ「視線」って言葉使うと齟齬りそうですね。先にも書いたけど、視覚的な意味ではなく、○○にとっての××、的な意味で。
映像面でも、例えばパンがあんまりない、(部室では特に)切り返しショット的というか、うーんあとで考える、とにかく、カメラの配置の仕方が、なんか「飛ぶように」動く、あと誰の主観でもないのだけれど誰かの主観かのようなアングルとか結構目立つ、とか、なんとか。
以前「律のたんこぶ」ってなんなんだろーと思ったのですが、つまりはそういうものですね。あれは誰かの視線には存在しうるものである。ええと、ここで注意なのは「存在しているもの」ではないという点です。存在しうる。実際にあるのかどうかは分からない。ただし、誰かの――たとえば叩いた澪の、あるいは叩かれた律の、もしくはそれを見ていた誰かの――視線には、それが存在しうる。その叩きの衝撃が、本当は存在しないたんこぶとして表象されている。ええ、何度も言いますが、本当に「見えているもの」としての視線ではありません。てゆうか、もしそうだったら、「たんこぶ」は存在していていいわけがない。たんこぶが存在できるのは、本当は見えないものがその誰かには(イメージとして)見えているからです。
この「だんこぶ」は、その残滓です。誰かの視線の残滓としての「たんこぶ」。それは誰かの視線を決定付けるものでも特定させるものでもないけれども、視線の存在を、その映像の中に繋ぎ止めて、それを見る私たちが、その視線自体を繋ぎ止められる(あるいは纏め上げられる)ようにするもの。
これでも「視点」じゃないんですよ。視座としての機能ではない。たんこぶが残滓として存在しているように、存在していないような、すぐに消えてしまうような、――残滓としてしか存在できないような、そういった「視線」、見えないし描かれてないけどそれが見えるし描かれている(だからこそ不可視の五人目なんですけど)、そのような感じです。
あとでなんかもちっとまともに書くかも。書かないかも。
あー、あとね! 次回予告見て驚いた!
次で最終回!
まじですか……。はえーよーぉー!
2009'06.05 (Fri) 03:36
1週間ぶりの……
憂だ!
憂だ!
憂だ!
1週間ぶりに憂が登場してくれた……!
憂が登場してくれたあまりの嬉しさに泣いてしまいました(なにゆえ)。
憂の可愛さは異常です。神です。ゴッド神。
ええ、もう今週は大満足です。神回です。なぜなら憂が登場してくれたからー。
あとてりぃさん京アニデビューおめでとうございますw
やはり視線というものですね、視線。憂の「お姉ちゃんかわいい」というあのお姉ちゃんを見る視線。軽音部の中には決して入らずに、でも知らんぷりではなく見守ってるし手助けもする。その軽音部を見る視線。
それが好きなんです。そして、僕自身の見方でもある。
「お姉ちゃんってあったかくて気持ちいい」の先にあるのは何か? それはあずにゃんの唯に抱きつかれたときの反応の変化が十全に表していますが、単純な肉体的接触「以外のもの」がそこにあるということです。憂だって、お姉ちゃんがあったかくて気持ちいいだけで、誰に抱きつかれてもあったかくて気持ちいいわけではない。「あったかくて気持ちいい」の内実とは、肉体的なそれだけでは決してないということ。
それは「視線」にも言えます。視線が見ているものは、眼球的な、視覚的なそれだけでは決してない。単純に「眼に見えるもの」以外の(以上の)ものを収めているからこそ、それは「視線」と呼ばれるのです。
この辺については、なんか込み入りそうなので、あとでなんか書きます。
とにかく。
今回は良かった。最高だった。だって憂が(以下略
憂だ!
憂だ!
憂だ!
1週間ぶりに憂が登場してくれた……!
憂が登場してくれたあまりの嬉しさに泣いてしまいました(なにゆえ)。
憂の可愛さは異常です。神です。ゴッド神。
ええ、もう今週は大満足です。神回です。なぜなら憂が登場してくれたからー。
あとてりぃさん京アニデビューおめでとうございますw
やはり視線というものですね、視線。憂の「お姉ちゃんかわいい」というあのお姉ちゃんを見る視線。軽音部の中には決して入らずに、でも知らんぷりではなく見守ってるし手助けもする。その軽音部を見る視線。
それが好きなんです。そして、僕自身の見方でもある。
「お姉ちゃんってあったかくて気持ちいい」の先にあるのは何か? それはあずにゃんの唯に抱きつかれたときの反応の変化が十全に表していますが、単純な肉体的接触「以外のもの」がそこにあるということです。憂だって、お姉ちゃんがあったかくて気持ちいいだけで、誰に抱きつかれてもあったかくて気持ちいいわけではない。「あったかくて気持ちいい」の内実とは、肉体的なそれだけでは決してないということ。
それは「視線」にも言えます。視線が見ているものは、眼球的な、視覚的なそれだけでは決してない。単純に「眼に見えるもの」以外の(以上の)ものを収めているからこそ、それは「視線」と呼ばれるのです。
この辺については、なんか込み入りそうなので、あとでなんか書きます。
とにかく。
今回は良かった。最高だった。だって憂が(以下略
2009'05.29 (Fri) 04:36
憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可(以下無限ループ
もう憂以外どうでもよくなってしまった。キャラクターがじゃなくて、話とか演出とか全部。
わけわからん。
わけわからんぞ自分。
これがキャラ萌えというヤツか……。
えーとなんだっけ、書いてなかった7話のかんそーね。
「繰り返し」。
やはり一年前と「同一なもの」、そして「異なるもの」、この二つが目立ちましたね。
そもそもこの4月という時期自体が一年前と同一なのですが、たとえば、部活動が新入生を勧誘、チラシで勧誘というのが、一年前と同一のシチュエーションでありながら、去年は貰う方、今年は渡す方と異なっている。

たとえば、この部室での勧誘という姿も、事象は同一でも、するもの・されるもの/入部・非入部という結果、と、異なるものが生じている。一年前は唯が座っていた場所に新入生が座り、一年前と同じ様にお菓子でもてなし、一年前と同じ様にゆるい感じに会話し、でも一年前とは違う。「同じ」ではなく。




たとえば、演奏と、そこで映される学校内のイメージという、一年前、唯の目の前で「翼をください」が演奏されながら描かれたものと同一のもの。
でもやっぱ異なるものがある。演奏されている曲目は異なるし、場所も異なるし、当然技量も異なっているし、挿入されるイメージもまた、異なる。
同一のものと異なるもの。
時は違うけど同じ様な事象なんだから、同一な部分があってもおかしくないんですけど、でも異なっていて当然なんですよね。やってるものも違うし、やられているものも違う。たとえば、一年前の翼をくださいは、唯に向けて演奏されたもので、あそこで挿入されたイメージは、あの頃まだ新入生だった唯にとっての(これからの)学校生活・部活動から連なるイメージ。対して今回私の恋はホッチキスは、新入生に向けて演奏されたもので、ここで挿入されているイメージは、新入生の彼女たちにとっての、(これからの)学校生活・部活動から連なるイメージ。
そこは同じものがあるけれど、やっぱり異なるものもある。
それぞれ異なるということですね。
だから、演奏見て入部を決めるものもいれば、部室で見学した結果入部をしないものもいる。
ムギには彼女たちが「楽しそうな」人たちに見えたから入部をしたけれど、今回見学に来た子はむしろそれに引いてしまった。唯は演奏聞いて「なんだか楽しそう」と入部決めたけど、今年入部しなかった子たちには、それは入部を決意させるほどのものではなかった。
みんなそれぞれの理由で、入部するし、入部しない。
それは梓にとっても、ですね。
てゆうかさ〜、憂はなんで入部しないんでしょう?
あれかな〜、お姉ちゃんの自立的なそれとかに過干渉しないように的な気遣い的な何かですかねぇ。それとも何か遠慮してんのかなぁ。あるいは自分がお姉ちゃん超過保護だって分かってて、どうしてもお姉ちゃんの世話しちゃうから、それが他の人のお姉ちゃんを見る目に悪影響を与えるとか思ってるとか――でもその辺だったら、同じ学校を選ぶ段でもちょっと引っかかりそうだしなあ。
うーん、ここはやはりアレですね。
「これ以上お姉ちゃんと一緒にいると、お姉ちゃんのことを好きになりすぎちゃうから……だから私たち、ちょっとくらいは離れた方がいいの……悲しいけど、寂しいけど、うん、がまんする!」
これですね!これしかない!これじゃないと納得しない!こういうことにしとけ!しちゃえ!
でも同じ学校には通っちゃう。せめてそのくらいは、自分を甘やかしちゃう。
ホントもうね、だからね(だから……だと……?)、憂ちゃんはちょーかわいいんですよー。
てゆうか憂が軽音部入ってないから憂の出番が全然ないんですけど第9話ァ!!!
(↑第9話の感想はこの一言で終わりです)
京アニさんは原作を改変して憂を軽音部に入れてしまったらどうだろう。
もうね、いっそ改変しまくって。
憂を軽音部に入れてお姉ちゃんとラブラブにさせてみたらどうだろう。
タイトルも改変。
『ういゆい!』に。
これしかない。
ハルヒに喰われ気味らしいけいおん人気を爆発させるには、これしかない。いやもうこれじゃタイトルけいおんじゃないけど。
憂を軽音部に入れる。部活に入った憂は、部室でお姉ちゃんを観察しながら「ギター弾いてるお姉ちゃんかわいいよね〜」「お菓子食べてるお姉ちゃんかわいいよね〜」「お喋りしているお姉ちゃんかわいいよね〜」「歩いてるお姉ちゃんかわいいよね〜」「まばたきしているお姉ちゃんかわいいよね〜」「もうお姉ちゃんっていうだけで全てがかわいいよね〜」と、お姉ちゃんかわいいをただひたすら連呼しまくる。
そんな、夢のような軽音楽部。
ああ、最高じゃないですか!
そしてお姉ちゃんの世話をかいがいしく焼きまくる憂を見ていた澪と梓は、そこに何となく嫉妬を覚えてしまうのです。「ゆ……唯が取られる……?」。除け者にされているかのようになって初めて思う、この微妙な気持ち。早速アタックしようとするけれど、時既に遅し、ういゆいの絆は鉄壁で完璧、入り込む隙間はどこにもなし! 「ふふ……おねえちゃんはわたしのものだよ?」。嫉妬に怒り狂う澪と梓! それを余裕でいなす憂! そしてそれを見て頬をうっとりと赤く染めまくりのムギ! ノベライズ化は中里十、ゲーム化はふぐり屋! これでかつる!
え、律っちゃん? 「律っちゃんいい」(「ヨッくんいい」の声音で)
え〜とですね、つまりですね、私は憂の出番を待ち焦がれているわけです。我われは憂の出番を待ち望みまくっているわけですよ。世界は憂を待っている。もうスケールでっかくしちゃったよ! そのくらい憂の出番を待っている。つうか憂だけで一作作れよ(もうめちゃくちゃだ!)。
まあ、百合とかじゃないんですけどね。
なんだろうな、あの、姉妹なのに「おねえちゃんかわいいよね〜」と言ってしまう、それを当然としてしまう、そう受け止めている、あの態度。
あれがよろしいのですよ。百合だなんてむしろとんでもない。むしろいらない。可愛いという視線が必要だ。
……となると、ある一つの視聴者の視座の置き場として機能していると言えなくもないかもしれません。唯って可愛いよなぁ、唯をやしないたいくらいだよ〜という視聴者の視点と同一的であり、ならばそういう視聴者にとっては、憂の視線と自らの視線は自然同一化されるものであり、つまり憂は我われの視線を持った理想的な存在であるともいえる。
まあ、そんなことはどうでもいいや!(いいのかよ)


憂かわいいよ憂!
以上だよ〜。8話と9話の感想おわり!
もう憂以外どうでもよくなってしまった。キャラクターがじゃなくて、話とか演出とか全部。
わけわからん。
わけわからんぞ自分。
これがキャラ萌えというヤツか……。
えーとなんだっけ、書いてなかった7話のかんそーね。
「繰り返し」。
やはり一年前と「同一なもの」、そして「異なるもの」、この二つが目立ちましたね。
そもそもこの4月という時期自体が一年前と同一なのですが、たとえば、部活動が新入生を勧誘、チラシで勧誘というのが、一年前と同一のシチュエーションでありながら、去年は貰う方、今年は渡す方と異なっている。

たとえば、この部室での勧誘という姿も、事象は同一でも、するもの・されるもの/入部・非入部という結果、と、異なるものが生じている。一年前は唯が座っていた場所に新入生が座り、一年前と同じ様にお菓子でもてなし、一年前と同じ様にゆるい感じに会話し、でも一年前とは違う。「同じ」ではなく。




たとえば、演奏と、そこで映される学校内のイメージという、一年前、唯の目の前で「翼をください」が演奏されながら描かれたものと同一のもの。
でもやっぱ異なるものがある。演奏されている曲目は異なるし、場所も異なるし、当然技量も異なっているし、挿入されるイメージもまた、異なる。
同一のものと異なるもの。
時は違うけど同じ様な事象なんだから、同一な部分があってもおかしくないんですけど、でも異なっていて当然なんですよね。やってるものも違うし、やられているものも違う。たとえば、一年前の翼をくださいは、唯に向けて演奏されたもので、あそこで挿入されたイメージは、あの頃まだ新入生だった唯にとっての(これからの)学校生活・部活動から連なるイメージ。対して今回私の恋はホッチキスは、新入生に向けて演奏されたもので、ここで挿入されているイメージは、新入生の彼女たちにとっての、(これからの)学校生活・部活動から連なるイメージ。
そこは同じものがあるけれど、やっぱり異なるものもある。
それぞれ異なるということですね。
だから、演奏見て入部を決めるものもいれば、部室で見学した結果入部をしないものもいる。
ムギには彼女たちが「楽しそうな」人たちに見えたから入部をしたけれど、今回見学に来た子はむしろそれに引いてしまった。唯は演奏聞いて「なんだか楽しそう」と入部決めたけど、今年入部しなかった子たちには、それは入部を決意させるほどのものではなかった。
みんなそれぞれの理由で、入部するし、入部しない。
それは梓にとっても、ですね。
てゆうかさ〜、憂はなんで入部しないんでしょう?
あれかな〜、お姉ちゃんの自立的なそれとかに過干渉しないように的な気遣い的な何かですかねぇ。それとも何か遠慮してんのかなぁ。あるいは自分がお姉ちゃん超過保護だって分かってて、どうしてもお姉ちゃんの世話しちゃうから、それが他の人のお姉ちゃんを見る目に悪影響を与えるとか思ってるとか――でもその辺だったら、同じ学校を選ぶ段でもちょっと引っかかりそうだしなあ。
うーん、ここはやはりアレですね。
「これ以上お姉ちゃんと一緒にいると、お姉ちゃんのことを好きになりすぎちゃうから……だから私たち、ちょっとくらいは離れた方がいいの……悲しいけど、寂しいけど、うん、がまんする!」
これですね!これしかない!これじゃないと納得しない!こういうことにしとけ!しちゃえ!
でも同じ学校には通っちゃう。せめてそのくらいは、自分を甘やかしちゃう。
ホントもうね、だからね(だから……だと……?)、憂ちゃんはちょーかわいいんですよー。
てゆうか憂が軽音部入ってないから憂の出番が全然ないんですけど第9話ァ!!!
(↑第9話の感想はこの一言で終わりです)
京アニさんは原作を改変して憂を軽音部に入れてしまったらどうだろう。
もうね、いっそ改変しまくって。
憂を軽音部に入れてお姉ちゃんとラブラブにさせてみたらどうだろう。
タイトルも改変。
『ういゆい!』に。
これしかない。
ハルヒに喰われ気味らしいけいおん人気を爆発させるには、これしかない。いやもうこれじゃタイトルけいおんじゃないけど。
憂を軽音部に入れる。部活に入った憂は、部室でお姉ちゃんを観察しながら「ギター弾いてるお姉ちゃんかわいいよね〜」「お菓子食べてるお姉ちゃんかわいいよね〜」「お喋りしているお姉ちゃんかわいいよね〜」「歩いてるお姉ちゃんかわいいよね〜」「まばたきしているお姉ちゃんかわいいよね〜」「もうお姉ちゃんっていうだけで全てがかわいいよね〜」と、お姉ちゃんかわいいをただひたすら連呼しまくる。
そんな、夢のような軽音楽部。
ああ、最高じゃないですか!
そしてお姉ちゃんの世話をかいがいしく焼きまくる憂を見ていた澪と梓は、そこに何となく嫉妬を覚えてしまうのです。「ゆ……唯が取られる……?」。除け者にされているかのようになって初めて思う、この微妙な気持ち。早速アタックしようとするけれど、時既に遅し、ういゆいの絆は鉄壁で完璧、入り込む隙間はどこにもなし! 「ふふ……おねえちゃんはわたしのものだよ?」。嫉妬に怒り狂う澪と梓! それを余裕でいなす憂! そしてそれを見て頬をうっとりと赤く染めまくりのムギ! ノベライズ化は中里十、ゲーム化はふぐり屋! これでかつる!
え、律っちゃん? 「律っちゃんいい」(「ヨッくんいい」の声音で)
え〜とですね、つまりですね、私は憂の出番を待ち焦がれているわけです。我われは憂の出番を待ち望みまくっているわけですよ。世界は憂を待っている。もうスケールでっかくしちゃったよ! そのくらい憂の出番を待っている。つうか憂だけで一作作れよ(もうめちゃくちゃだ!)。
まあ、百合とかじゃないんですけどね。
なんだろうな、あの、姉妹なのに「おねえちゃんかわいいよね〜」と言ってしまう、それを当然としてしまう、そう受け止めている、あの態度。
あれがよろしいのですよ。百合だなんてむしろとんでもない。むしろいらない。可愛いという視線が必要だ。
……となると、ある一つの視聴者の視座の置き場として機能していると言えなくもないかもしれません。唯って可愛いよなぁ、唯をやしないたいくらいだよ〜という視聴者の視点と同一的であり、ならばそういう視聴者にとっては、憂の視線と自らの視線は自然同一化されるものであり、つまり憂は我われの視線を持った理想的な存在であるともいえる。
まあ、そんなことはどうでもいいや!(いいのかよ)


憂かわいいよ憂!
以上だよ〜。8話と9話の感想おわり!





