2007'03.17 (Sat) 03:43
最終話の感想と一緒にしちゃうのは京アニに失礼なので分離。
今まで散々、京アニkanonについて風呂敷を広げてきたので、それをたたみます。
(注:京アニ版についての記述のつもりですが、一部微妙に原作と混同してる部分があるかもです(まあ混同しても問題ないっぽいですが))
【kanonのテーマ】
京アニ版 kanon 22話 「追想の交響楽(シンフォニー)~symphony~」感想
key作品(主に『ONE』『kanon』から)における「人と人との関係性(絆)」と「別れの許容」についての雑文
上の記事で書いたりしましたが、kanonのテーマは恐らく『受け入れること』です。
別れの受け入れ。現実の受け入れ。
上記エントリーにも書きましたが、『kanon』全シナリオに共通する要素として『別れ』があります。
真琴シナリオなら、過去の真琴・祐一の別れ。
それが受け入れられなかったから、真琴は今再び現れた。
そして再度訪れる、真琴との別れ。
舞シナリオなら、過去の舞・祐一の別れ。
それが受け入れられなかったから、舞は魔物を生み出した。
そして向き合うことになる、魔物―――自身の檻との別れ。
栞シナリオなら、栞自身の全てとの別れ。
もうすぐ死ぬというのが決定づけられた栞。姉との別れ。祐一との別れ。世界との別れ。それを受け入れるための、祐一。
それでも彼女に襲い掛かる、全てとの別れ。
名雪シナリオなら、母との別れ。
事故により母との死別の恐怖にさらされた名雪。それを受け入れられず、自らの殻に閉じこもる。
あゆシナリオなら、祐一との別れ。夢との別れ。
7年前に果たせなかった祐一との別れを果たすダッフルあゆ。
そしてまた、自身が見ている『夢』とも別れの時が来る。
これらは全て、各ヒロインが体験する別れです。
勿論別れというのは一人では成しづらいものなので、その表裏一体といえる間柄に祐一の存在があるのですが、それでも、この「ヒロインに別れを直面させて、そしてその受け入れに困窮させる」という作りはkanonの大きな特徴でしょう。
そして、その別れの受け入れに大きく助力する存在が、祐一。
先にも書きましたが、『別れ』というものは決して一人では成しえません。誰かが別れに直面したなら、その相手となりうる誰かが存在している。ヒロインが別れに直面したならば、その相手となりうる存在―――祐一がいる。祐一も、同時に別れを迎えている。
とはいえ、別れの大きさは人それぞれ。真琴や舞が感じたほど、祐一は彼女達との別れを大きなモノに感じなかった。京アニ版だとさらに、栞との別れも小さくなった。そんななか、一際大きく祐一の中に存在する別れ―――すなわち、あゆとの別れ。
最終回で明らかになった、祐一の記憶の捏造。
7年前の記憶が思い出せなかったのも。カチューシャについてを曖昧なままにしていたのも。全部、自分の弱い心を潰さない為の、思い出を傷付けない為の、嘘。つまり、彼は7年前の別れを『受け入れていなかった』のです。
kanon 24話「夢の果ての追復曲~kanon~」感想
こちらに書いたとおり、祐一は最終的にその別れを、現実を受け入れる事にします。そして恐らく、そうなれたのは今までの積み重ねがあったから。沢山の人との出会い、別れ。それらを経験し、少しづつ強く優しくなれたから、祐一は別れを・現実を受け入れることが出来た。皆のお陰で。
祐一が別れを・現実を受け入れられなかったことから始まったこの『kanon』は、祐一が別れを・現実を受け入れる事によって終わったのです。―――夢の終わり。
そしてその別れの受け入れには、過去エントリにも書きましたが、『他人の力』が大きく関わってきます。そもそも、各ヒロインが各々の別れを受け入れたのも、祐一という他人の力が大きく関わっている。『人と人との関係』。色んな人と出会い、色んな人が助けてくれて、それらを全部力に変えて、別れを・現実を受け入れていく。
「お前は一人ぼっちなんかじゃない」
祐一があゆに対してかけた言葉ですが、それは祐一にも、他のヒロインにも当て嵌まること。みんな一人ぼっちじゃない。他人との繋がりがあるから生きていける、別れを受け入れられる、現実を受け入れられる。
これまでの23回と半分、そこで出会った人、見たもの聞いたもの、感じたもの、その全てが結実して、この祐一の別れの・現実の受け入れが成しえるのです。
『別れ・現実』を受け入れられなかったことから始まり、『別れ・現実』を受け入れたことにより終わる。そしてそれは、決して自分一人の力なんかじゃなくて、他人の力添えによるものでもある。積み上げた他人との関係―――絆が、紡ぎだすものでもある。
それらが根底にあるからこそ、この『kanon』のテーマは『別れ・現実の受け入れ』だと思うのです。
そして京都アニメーション版kanonが優れている、というか原作の"完璧な"補完といえる内容になっているのは、最終的に『相沢祐一』にスポットを当て、いわば祐一シナリオと言える様な内容にしたことでしょう。
原作では真には叶わなかった、祐一の別れ・現実の受け入れ。それを成し得たのが、この作品でした。
雪が溶ける頃、冬の日の物語もまた、思い出に還る。
思い出に還っていなかった7年前の出来事を受け入れる事によって、思い出に還したのです。
またあゆにとっても、そして他のキャラクターにとってはこの冬の出来事を思い出に還した(と思われる描写が多少覗いていた)―――その点で非常に優れた『kanon』でした。
【相沢祐一について】
京アニ版 kanon 20話 の感想っぽいもの
アニメ 京アニ版 kanon 13話「あぶなげなトリオたち」
上記のエントリあたりでアレやコレやと頭を悩ませてきたのですが。
祐一に関しては、祐一考察のエライ人の祐一考待ちで(いや冗談っすw)。
祐一の異常性については、敢えて書くまでもないくらいです。
つまり、誰彼構わずコナかけまくるの性質。特に序盤~中盤くらいでは沢山の所でこんなことが言われていたでしょう。超ジゴロ。流石ギャルゲー主人公。これなんてエロゲ?と。
はっきり言うと、この祐一は本当に『異常』です。
ありえません。普通の人間じゃないです。これを普通の人間だとは認められません。
だからこそ、ギャルゲー主人公だからな、とか思って自分を納得させていた訳です。
まずこれが第一の落とし穴。
本来ギャルゲーにおいては、大抵の場合で主人公=自分といった立ち位置での物語構成なのですが、アニメの場合はあまりそうではありません。というか、基本的に殆どそうではありません(例えば今期放送しているアニメを思い返してみても……主人公=自分、なんていえるモノあるかなぁ?パンプキンシザーズとか?(違うか))
例えば僕が途中で混乱してしまったように、祐一の異常性を正当化するために、「ギャルゲー主人公だから」なんて方法を取ってしまったが為に、主人公=自分、なんていうモノについて考えを巡らせてしまったのです。
祐一の異常性は、ギャルゲー主人公だからしょうがない。ではなぜ、京アニはこの"まんま"ギャルゲー主人公を"ここに"持ってきたのか?とか思ってしまったのです。
まずこの前提が大違い。この祐一はギャルゲー主人公では無かったのです。
となると、一端無理からに封印した問題が蘇ります。「祐一の異常性」。
祐一に、出会う人全てを助けよう、目に入るもの全てを救おう、なんて趣味はありませんので、どうしてもこの祐一の行動は「異常」に見える。
京アニ版 kanon 23話 「茜色の終曲~finale~」
この祐一の異常性に対して、僕は一応ですが、彼は「必死になっていた」という結論(一応だから結論とは言わないか)を出しました。
記憶はなくても、体は覚えているもの。例え記憶を封じても、事実あったということだけは封じる事が出来ない。
過去の喪失から、「喪失すること」に恐れ、そしてその時の自分の無力感に悔恨を抱いている祐一は、かっての失ったモノを無駄にしない為に、あの無力感を払拭する為に、必死に足掻いていた、必死に頑張っていた。それが、あの異常・ジゴロともいえる行動にあったのではないでしょうか。
その後は言わずもがな。『カノン』と『年輪』の話。
幾度も別れを繰り返し、幾度も無力を味わって、けれど少しづつ強く優しくなっていく。そして、そうやって得た彼の強さが、優しさが、7年前の『嘘』と彼を向き合わせ、そして7年越しに『別れ・現実』を受け入れることが出来た。
彼の物語は、あゆの物語と表裏一体。
kanon 24話「夢の果ての追復曲~kanon~」
7年前に止まった祐一の、そしてあゆの時間を、もう一度動き出させる為のストーリー。
だが何故、ここまで「ジゴロ・鬼畜」とか呼ばれるまで、徹底してソレを実践するに至ったのか。これはやはり、視聴者との乖離を狙ったのではないかと思います。主に原作プレイヤーに対してのみの処置。
当初はギャルゲー主人公、つまりイコール自分のフォーマットから逸れずに運行し、序盤~中盤にかけて、ギャルゲー主人公なのにイコール自分ではない、という構成に落とし込み、つまりイコール自分なのかそうじゃないのかの境界線に立たせた上で、あゆとのキスで一気に視聴者から祐一を解き放つ。
つまり、原作プレイヤーにとって、7年もの間培ってきた・燻ってきた「相沢祐一」、それをゼロにする為にこうしたのではないかと思うのです。だって京アニkanonは『祐一の物語』だったのだから。相沢祐一の先入観や理想像を持ったまま入り込まれても迷惑、いや却って邪魔になるだけだから。
原作既プレイヤーに対し、一端祐一とプレイヤーとのイコールで結ばれていた関係を完全に白紙に戻した。それは勿論、祐一を救うため。祐一を救う物語。彼を救うためには、各々の中に存在する祐一を一端解き放たなければならなかった。だからこうした。
つまり、原作既プレイヤーに対して、今までの祐一との別れ、その受け入れをしやすいようにした配慮なのです。
(我ながら極論だ。祐一考は書き直し、考察しなおす理由大アリなんで、そのうち直すかもしれません。)
【kanonと視聴者】
京アニ版 kanon 22話 「追想の交響楽(シンフォニー)~symphony~」感想
22話の時に書いたもの。
あゆが木の上から見ていた景色はこの街の全景であって、もしも今も彼女はそこからこの街を眺めているとすれば、この街自体にあゆが偏在している、そんな考え方もできなくはないのではないでしょうか。つまり、かって天野が言っていた通り、原作で栞が言っていた通り、祐一は、彼女達は、「誰かの夢の中にいる」―――そしてその誰かは、あゆ。
(ここから先、反転していた部分)
これは、(一応原作的に)ゲームの物語なんて『夢』のようなモノだと考えれば、このゲーム自体が『夢』と言えなくもありません。「誰かの夢の中にいる」―――つまり、彼女達がこのゲーム(『夢』)の中の登場人物であるということを、明示的に表している台詞でもあります。奇跡が起きるこの街・世界自体を包み込む、偏在しうるあゆの夢の中であり、同時に、このような存在つまり高すぎるフィクション性は、一気にこの物語を『物語に』落とし込むものでもあります。つまり、なんで奇跡が起きるかというと、『物語』だから、フィクションだから、夢だからということ。そして―――そのあゆも、物語も、奇跡も、全て一つに纏めれば、いや、全て一つに纏まっているモノが、このゲーム『kanon』。ゲームをプレイすること、現実から離れること、つまり夢を見ているようなもの。これは、作中的にはあゆの夢であり、そして作品と受け取り手で考えると、プレイヤーがkanonによって見ている夢なのでもある。
幾度繰り返しても翳りのないこの物語、そのさよならはこの夢の物語の後に静かに降り立つのです。
kanonという物語が夢であり、そして夢はいつかは覚めなくてはならない。例えばそう、あゆの見続けていた夢が、終わりを告げた様に。
この夢の物語は、その夢の終わった後をほとんど見せてくれません、いや、見せる必要がない。原作でも、アニメでも、『あゆの夢が終わった後』は、スパッと終わります。一瞬で。夢から現実へと、地続きではなく、日常から非日常への跳躍かのように、間を飛ばして冬から春へと瞬間的に移動します。
後日談なんて必要ない。その後どうなったかなんて気にしても仕方ない。ここで終わり。夢は、ここで終わりなのです。
「さよならは翳りない夢のあと静に降りたつ」
の言葉通り、夢が終わった瞬間に、kanonは視聴者に「さよなら」を告げたのです。
放送から7年前に原作が発売されたkanon。
何故今、再度アニメ化されたのか。
恐らく、きっと、7年前に記憶を、想い出を美化した祐一にその真実を突きつけたように、7年前のkanonの記憶を想い出を美化してしまっているかもしれない僕たちに、その真実を突きつけたかったのではないでしょうか。kanonは7年前に終わっている。夢は7年前に終わっている。それでも―――それでもなお、その夢をまだ見続けているのか、と。
こうして。
僕らは色んな作品と出会って、別れていく。
色んな人と出会って、別れていく。
そんな同じ様なことを繰り返しながらも、実は少しづつ豊かになっていってるんじゃないでしょうか。別れも現実も受け入れて、強く優しく前へと歩んでいく祐一のように。幾度も繰り返して、少しづつ豊かになっていく。
7年前のkanonとの別れ。そして今また、kanonとの別れ。
これらを受け入れる。美化も封印もせず、しっかりと受け入れる。
そうすればこの『kanon』という物語も、また、自分の中の思い出に還るのではないでしょうか―――。
WEB拍手を送る
今まで散々、京アニkanonについて風呂敷を広げてきたので、それをたたみます。
(注:京アニ版についての記述のつもりですが、一部微妙に原作と混同してる部分があるかもです(まあ混同しても問題ないっぽいですが))
雪が溶ける頃、冬の日の物語もまた、思い出に還る(kanon・パッケージより)
【More】
【kanonのテーマ】
京アニ版 kanon 22話 「追想の交響楽(シンフォニー)~symphony~」感想
key作品(主に『ONE』『kanon』から)における「人と人との関係性(絆)」と「別れの許容」についての雑文
上の記事で書いたりしましたが、kanonのテーマは恐らく『受け入れること』です。
別れの受け入れ。現実の受け入れ。
上記エントリーにも書きましたが、『kanon』全シナリオに共通する要素として『別れ』があります。
真琴シナリオなら、過去の真琴・祐一の別れ。
それが受け入れられなかったから、真琴は今再び現れた。
そして再度訪れる、真琴との別れ。
舞シナリオなら、過去の舞・祐一の別れ。
それが受け入れられなかったから、舞は魔物を生み出した。
そして向き合うことになる、魔物―――自身の檻との別れ。
栞シナリオなら、栞自身の全てとの別れ。
もうすぐ死ぬというのが決定づけられた栞。姉との別れ。祐一との別れ。世界との別れ。それを受け入れるための、祐一。
それでも彼女に襲い掛かる、全てとの別れ。
名雪シナリオなら、母との別れ。
事故により母との死別の恐怖にさらされた名雪。それを受け入れられず、自らの殻に閉じこもる。
あゆシナリオなら、祐一との別れ。夢との別れ。
7年前に果たせなかった祐一との別れを果たすダッフルあゆ。
そしてまた、自身が見ている『夢』とも別れの時が来る。
これらは全て、各ヒロインが体験する別れです。
勿論別れというのは一人では成しづらいものなので、その表裏一体といえる間柄に祐一の存在があるのですが、それでも、この「ヒロインに別れを直面させて、そしてその受け入れに困窮させる」という作りはkanonの大きな特徴でしょう。
そして、その別れの受け入れに大きく助力する存在が、祐一。
先にも書きましたが、『別れ』というものは決して一人では成しえません。誰かが別れに直面したなら、その相手となりうる誰かが存在している。ヒロインが別れに直面したならば、その相手となりうる存在―――祐一がいる。祐一も、同時に別れを迎えている。
とはいえ、別れの大きさは人それぞれ。真琴や舞が感じたほど、祐一は彼女達との別れを大きなモノに感じなかった。京アニ版だとさらに、栞との別れも小さくなった。そんななか、一際大きく祐一の中に存在する別れ―――すなわち、あゆとの別れ。
最終回で明らかになった、祐一の記憶の捏造。
7年前の記憶が思い出せなかったのも。カチューシャについてを曖昧なままにしていたのも。全部、自分の弱い心を潰さない為の、思い出を傷付けない為の、嘘。つまり、彼は7年前の別れを『受け入れていなかった』のです。
kanon 24話「夢の果ての追復曲~kanon~」感想
こちらに書いたとおり、祐一は最終的にその別れを、現実を受け入れる事にします。そして恐らく、そうなれたのは今までの積み重ねがあったから。沢山の人との出会い、別れ。それらを経験し、少しづつ強く優しくなれたから、祐一は別れを・現実を受け入れることが出来た。皆のお陰で。
祐一が別れを・現実を受け入れられなかったことから始まったこの『kanon』は、祐一が別れを・現実を受け入れる事によって終わったのです。―――夢の終わり。
そしてその別れの受け入れには、過去エントリにも書きましたが、『他人の力』が大きく関わってきます。そもそも、各ヒロインが各々の別れを受け入れたのも、祐一という他人の力が大きく関わっている。『人と人との関係』。色んな人と出会い、色んな人が助けてくれて、それらを全部力に変えて、別れを・現実を受け入れていく。
「お前は一人ぼっちなんかじゃない」
祐一があゆに対してかけた言葉ですが、それは祐一にも、他のヒロインにも当て嵌まること。みんな一人ぼっちじゃない。他人との繋がりがあるから生きていける、別れを受け入れられる、現実を受け入れられる。
これまでの23回と半分、そこで出会った人、見たもの聞いたもの、感じたもの、その全てが結実して、この祐一の別れの・現実の受け入れが成しえるのです。
『別れ・現実』を受け入れられなかったことから始まり、『別れ・現実』を受け入れたことにより終わる。そしてそれは、決して自分一人の力なんかじゃなくて、他人の力添えによるものでもある。積み上げた他人との関係―――絆が、紡ぎだすものでもある。
それらが根底にあるからこそ、この『kanon』のテーマは『別れ・現実の受け入れ』だと思うのです。
そして京都アニメーション版kanonが優れている、というか原作の"完璧な"補完といえる内容になっているのは、最終的に『相沢祐一』にスポットを当て、いわば祐一シナリオと言える様な内容にしたことでしょう。
原作では真には叶わなかった、祐一の別れ・現実の受け入れ。それを成し得たのが、この作品でした。
雪が溶ける頃、冬の日の物語もまた、思い出に還る。
思い出に還っていなかった7年前の出来事を受け入れる事によって、思い出に還したのです。
またあゆにとっても、そして他のキャラクターにとってはこの冬の出来事を思い出に還した(と思われる描写が多少覗いていた)―――その点で非常に優れた『kanon』でした。
【相沢祐一について】
京アニ版 kanon 20話 の感想っぽいもの
アニメ 京アニ版 kanon 13話「あぶなげなトリオたち」
上記のエントリあたりでアレやコレやと頭を悩ませてきたのですが。
祐一に関しては、祐一考察のエライ人の祐一考待ちで(いや冗談っすw)。
祐一の異常性については、敢えて書くまでもないくらいです。
つまり、誰彼構わずコナかけまくるの性質。特に序盤~中盤くらいでは沢山の所でこんなことが言われていたでしょう。超ジゴロ。流石ギャルゲー主人公。これなんてエロゲ?と。
はっきり言うと、この祐一は本当に『異常』です。
ありえません。普通の人間じゃないです。これを普通の人間だとは認められません。
だからこそ、ギャルゲー主人公だからな、とか思って自分を納得させていた訳です。
まずこれが第一の落とし穴。
本来ギャルゲーにおいては、大抵の場合で主人公=自分といった立ち位置での物語構成なのですが、アニメの場合はあまりそうではありません。というか、基本的に殆どそうではありません(例えば今期放送しているアニメを思い返してみても……主人公=自分、なんていえるモノあるかなぁ?パンプキンシザーズとか?(違うか))
例えば僕が途中で混乱してしまったように、祐一の異常性を正当化するために、「ギャルゲー主人公だから」なんて方法を取ってしまったが為に、主人公=自分、なんていうモノについて考えを巡らせてしまったのです。
祐一の異常性は、ギャルゲー主人公だからしょうがない。ではなぜ、京アニはこの"まんま"ギャルゲー主人公を"ここに"持ってきたのか?とか思ってしまったのです。
まずこの前提が大違い。この祐一はギャルゲー主人公では無かったのです。
となると、一端無理からに封印した問題が蘇ります。「祐一の異常性」。
祐一に、出会う人全てを助けよう、目に入るもの全てを救おう、なんて趣味はありませんので、どうしてもこの祐一の行動は「異常」に見える。
京アニ版 kanon 23話 「茜色の終曲~finale~」
この祐一の異常性に対して、僕は一応ですが、彼は「必死になっていた」という結論(一応だから結論とは言わないか)を出しました。
記憶はなくても、体は覚えているもの。例え記憶を封じても、事実あったということだけは封じる事が出来ない。
過去の喪失から、「喪失すること」に恐れ、そしてその時の自分の無力感に悔恨を抱いている祐一は、かっての失ったモノを無駄にしない為に、あの無力感を払拭する為に、必死に足掻いていた、必死に頑張っていた。それが、あの異常・ジゴロともいえる行動にあったのではないでしょうか。
その後は言わずもがな。『カノン』と『年輪』の話。
幾度も別れを繰り返し、幾度も無力を味わって、けれど少しづつ強く優しくなっていく。そして、そうやって得た彼の強さが、優しさが、7年前の『嘘』と彼を向き合わせ、そして7年越しに『別れ・現実』を受け入れることが出来た。
彼の物語は、あゆの物語と表裏一体。
kanon 24話「夢の果ての追復曲~kanon~」
7年前に止まった祐一の、そしてあゆの時間を、もう一度動き出させる為のストーリー。
だが何故、ここまで「ジゴロ・鬼畜」とか呼ばれるまで、徹底してソレを実践するに至ったのか。これはやはり、視聴者との乖離を狙ったのではないかと思います。主に原作プレイヤーに対してのみの処置。
当初はギャルゲー主人公、つまりイコール自分のフォーマットから逸れずに運行し、序盤~中盤にかけて、ギャルゲー主人公なのにイコール自分ではない、という構成に落とし込み、つまりイコール自分なのかそうじゃないのかの境界線に立たせた上で、あゆとのキスで一気に視聴者から祐一を解き放つ。
つまり、原作プレイヤーにとって、7年もの間培ってきた・燻ってきた「相沢祐一」、それをゼロにする為にこうしたのではないかと思うのです。だって京アニkanonは『祐一の物語』だったのだから。相沢祐一の先入観や理想像を持ったまま入り込まれても迷惑、いや却って邪魔になるだけだから。
原作既プレイヤーに対し、一端祐一とプレイヤーとのイコールで結ばれていた関係を完全に白紙に戻した。それは勿論、祐一を救うため。祐一を救う物語。彼を救うためには、各々の中に存在する祐一を一端解き放たなければならなかった。だからこうした。
つまり、原作既プレイヤーに対して、今までの祐一との別れ、その受け入れをしやすいようにした配慮なのです。
(我ながら極論だ。祐一考は書き直し、考察しなおす理由大アリなんで、そのうち直すかもしれません。)
【kanonと視聴者】
京アニ版 kanon 22話 「追想の交響楽(シンフォニー)~symphony~」感想
22話の時に書いたもの。
あゆが木の上から見ていた景色はこの街の全景であって、もしも今も彼女はそこからこの街を眺めているとすれば、この街自体にあゆが偏在している、そんな考え方もできなくはないのではないでしょうか。つまり、かって天野が言っていた通り、原作で栞が言っていた通り、祐一は、彼女達は、「誰かの夢の中にいる」―――そしてその誰かは、あゆ。
(ここから先、反転していた部分)
これは、(一応原作的に)ゲームの物語なんて『夢』のようなモノだと考えれば、このゲーム自体が『夢』と言えなくもありません。「誰かの夢の中にいる」―――つまり、彼女達がこのゲーム(『夢』)の中の登場人物であるということを、明示的に表している台詞でもあります。奇跡が起きるこの街・世界自体を包み込む、偏在しうるあゆの夢の中であり、同時に、このような存在つまり高すぎるフィクション性は、一気にこの物語を『物語に』落とし込むものでもあります。つまり、なんで奇跡が起きるかというと、『物語』だから、フィクションだから、夢だからということ。そして―――そのあゆも、物語も、奇跡も、全て一つに纏めれば、いや、全て一つに纏まっているモノが、このゲーム『kanon』。ゲームをプレイすること、現実から離れること、つまり夢を見ているようなもの。これは、作中的にはあゆの夢であり、そして作品と受け取り手で考えると、プレイヤーがkanonによって見ている夢なのでもある。
幾度繰り返しても翳りのないこの物語、そのさよならはこの夢の物語の後に静かに降り立つのです。
kanonという物語が夢であり、そして夢はいつかは覚めなくてはならない。例えばそう、あゆの見続けていた夢が、終わりを告げた様に。
この夢の物語は、その夢の終わった後をほとんど見せてくれません、いや、見せる必要がない。原作でも、アニメでも、『あゆの夢が終わった後』は、スパッと終わります。一瞬で。夢から現実へと、地続きではなく、日常から非日常への跳躍かのように、間を飛ばして冬から春へと瞬間的に移動します。
後日談なんて必要ない。その後どうなったかなんて気にしても仕方ない。ここで終わり。夢は、ここで終わりなのです。
「さよならは翳りない夢のあと静に降りたつ」
の言葉通り、夢が終わった瞬間に、kanonは視聴者に「さよなら」を告げたのです。
放送から7年前に原作が発売されたkanon。
何故今、再度アニメ化されたのか。
恐らく、きっと、7年前に記憶を、想い出を美化した祐一にその真実を突きつけたように、7年前のkanonの記憶を想い出を美化してしまっているかもしれない僕たちに、その真実を突きつけたかったのではないでしょうか。kanonは7年前に終わっている。夢は7年前に終わっている。それでも―――それでもなお、その夢をまだ見続けているのか、と。
「この曲の名前、ご存じですか? カノンです。パッヘルベルのカノン。
同じ旋律を何度も繰り返しながら少しずつ豊かに、
美しく和音が響き合うようになって行くんです。
そんな風に一見違いのない毎日を送りながら、
でも少しづつ変わっていけたらいいですよね」
こうして。
僕らは色んな作品と出会って、別れていく。
色んな人と出会って、別れていく。
そんな同じ様なことを繰り返しながらも、実は少しづつ豊かになっていってるんじゃないでしょうか。別れも現実も受け入れて、強く優しく前へと歩んでいく祐一のように。幾度も繰り返して、少しづつ豊かになっていく。
7年前のkanonとの別れ。そして今また、kanonとの別れ。
これらを受け入れる。美化も封印もせず、しっかりと受け入れる。
そうすればこの『kanon』という物語も、また、自分の中の思い出に還るのではないでしょうか―――。
WEB拍手を送る
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テーマ : Kanon~カノン~ - ジャンル : アニメ・コミック
え~勘違いしないと思うけど一応。
京アニやkeyが広げた風呂敷たたんだんじゃなくて、僕が今までの感想であれやこれやと広げてきた風呂敷をたたんだだけの内容です。
京アニやkeyが広げた風呂敷たたんだんじゃなくて、僕が今までの感想であれやこれやと広げてきた風呂敷をたたんだだけの内容です。
なしお | 2007年03月19日(月) 02:06 | URL | コメント編集
こんばんは、祐一考察のエロイ人です!
うそです!全然です。まだまだ見習いです。
たこーすけです。
今日は、祐一考察の我が師匠の一人であるところのなしおさんのところへ書き込みに参りました。
なしおさんには、TBでもコメントでも大変お世話になりました。
御一緒することが出来て、とても楽しかったです。
本当に、ありがとうございました。
思い返せば、何度か申し上げました通り、「あゆヤバイ」からずっとなしおさんのレビューを楽しみにしてまいりました。
そして、さかのぼったりしてみて、「ハルヒ」ネタもいいなあと思っていたところに…
第1話の「まとめ報告」に戦慄したことを思い出します。というか、ちょっと引いたw
これはヤバイ!この人はマジ凄い!と思いました。
でも、流石にあれは一回きりだったのですね?少し残念に思ったものでしたww
また、「らき☆すた」あるいは「CLANNAD」で、是非御一緒させて頂きたく思います。
そのときを楽しみにしております。
ぼくも、なしおさんに倣って、自身の「風呂敷たたみ」をしなきゃなーと思っています。
ちょっと今、時間がとれなくて全然出来ていないのですが。
書きあがったら、TBを送らせて頂こうと思っています。
その際はよろしくお願い致します。
それでは!
うそです!全然です。まだまだ見習いです。
たこーすけです。
今日は、祐一考察の我が師匠の一人であるところのなしおさんのところへ書き込みに参りました。
なしおさんには、TBでもコメントでも大変お世話になりました。
御一緒することが出来て、とても楽しかったです。
本当に、ありがとうございました。
思い返せば、何度か申し上げました通り、「あゆヤバイ」からずっとなしおさんのレビューを楽しみにしてまいりました。
そして、さかのぼったりしてみて、「ハルヒ」ネタもいいなあと思っていたところに…
第1話の「まとめ報告」に戦慄したことを思い出します。というか、ちょっと引いたw
これはヤバイ!この人はマジ凄い!と思いました。
でも、流石にあれは一回きりだったのですね?少し残念に思ったものでしたww
また、「らき☆すた」あるいは「CLANNAD」で、是非御一緒させて頂きたく思います。
そのときを楽しみにしております。
ぼくも、なしおさんに倣って、自身の「風呂敷たたみ」をしなきゃなーと思っています。
ちょっと今、時間がとれなくて全然出来ていないのですが。
書きあがったら、TBを送らせて頂こうと思っています。
その際はよろしくお願い致します。
それでは!
>たこーすけさん
やったー!エロイ、もといエライ人からコメント頂けた~!
どうもこんばんはです。
こちらこそ大変お世話になりました。たこーすけさんを始めとする多くの方のコメント等があったからこそ、ここまでやってこれた(やってしまった)のだと、今更ですが真にそう思います。
この場を勝手にお借りして言うと、きっとたこーすけさんやyukitaさんなどコメント下さった方々、他web拍手下さった方々、トラックバック下さった方々がいなければ途中で投げ出していたかもしれません。今更こんなことに真に気付くなんて遅すぎですが、本当にありがとうございました。とっても楽しかったです。
ギャーー!過去のエントリも見て下さっていたのですか……。あれは全部若気の至りです。第1話のアレなんて自分でも今見たらめっちゃ引きますよ。後生ですから忘れて下さいww。
そういえばクラナドの前に「らき☆すた」があるんですね。またトラバ送らせて頂いたり、コメント送らせて頂きます。そしてなにより、たこーすけさんの記事自体に期待させて頂きます(ぶっちゃけアニメ本編よりも期待してたりw)。
>ぼくも、なしおさんに倣って、自身の「風呂敷たたみ」をしなきゃなーと思っています。
おお、ついにエライ人の見解が聞ける(笑)!
いやはや、楽しみに待たせて頂きます。
やったー!エロイ、もといエライ人からコメント頂けた~!
どうもこんばんはです。
こちらこそ大変お世話になりました。たこーすけさんを始めとする多くの方のコメント等があったからこそ、ここまでやってこれた(やってしまった)のだと、今更ですが真にそう思います。
この場を勝手にお借りして言うと、きっとたこーすけさんやyukitaさんなどコメント下さった方々、他web拍手下さった方々、トラックバック下さった方々がいなければ途中で投げ出していたかもしれません。今更こんなことに真に気付くなんて遅すぎですが、本当にありがとうございました。とっても楽しかったです。
ギャーー!過去のエントリも見て下さっていたのですか……。あれは全部若気の至りです。第1話のアレなんて自分でも今見たらめっちゃ引きますよ。後生ですから忘れて下さいww。
そういえばクラナドの前に「らき☆すた」があるんですね。またトラバ送らせて頂いたり、コメント送らせて頂きます。そしてなにより、たこーすけさんの記事自体に期待させて頂きます(ぶっちゃけアニメ本編よりも期待してたりw)。
>ぼくも、なしおさんに倣って、自身の「風呂敷たたみ」をしなきゃなーと思っています。
おお、ついにエライ人の見解が聞ける(笑)!
いやはや、楽しみに待たせて頂きます。
初めまして。
ここのblogと平行してkanonを再視聴してみました。
なかなか納得できる部分が多く、非常に楽しませていただきました。
特に祐一の考察が納得できましたね。
リアルタイムで視聴しているときには違和感があった彼の行動も、「5人のヒロインの物語」としてではなく「1つの物語としてのkanon」としてみるといろいろ納得できると。
>>過去の喪失から、「喪失すること」に恐れ
だから最初に真琴を持ってきたんでしょうね。
真琴に関しては言い訳もできないほど完全な喪失ですから。
今にしてみると真琴→舞へのつなぎは見事としか言いようがありません。
真琴の最後で祐一が思ったこと、舞に対しておせっかいとも取れる行動と夜の校舎でぶつけた言葉。
これらは1つの物語として繋がっていたんだなぁ、と
何が言いたいのかわけわかりませんね。
さすがにこれ以上はここで書くべきことではないのでこれで失礼させていただきます。
素晴らしい考察、ありがとうございました。
今度はクラナドの時にでも顔を出すかもしれませんのでよろしくです。
ここのblogと平行してkanonを再視聴してみました。
なかなか納得できる部分が多く、非常に楽しませていただきました。
特に祐一の考察が納得できましたね。
リアルタイムで視聴しているときには違和感があった彼の行動も、「5人のヒロインの物語」としてではなく「1つの物語としてのkanon」としてみるといろいろ納得できると。
>>過去の喪失から、「喪失すること」に恐れ
だから最初に真琴を持ってきたんでしょうね。
真琴に関しては言い訳もできないほど完全な喪失ですから。
今にしてみると真琴→舞へのつなぎは見事としか言いようがありません。
真琴の最後で祐一が思ったこと、舞に対しておせっかいとも取れる行動と夜の校舎でぶつけた言葉。
これらは1つの物語として繋がっていたんだなぁ、と
何が言いたいのかわけわかりませんね。
さすがにこれ以上はここで書くべきことではないのでこれで失礼させていただきます。
素晴らしい考察、ありがとうございました。
今度はクラナドの時にでも顔を出すかもしれませんのでよろしくです。
LOST | 2007年06月17日(日) 15:58 | URL | コメント編集
>LOSTさん
はじめまして。うわ、ウチのトコ見ながらkanon再視聴だなんて、ありがたすぎて勿体無すぎて恐ろしくなるくらいです。
今になって見直すと、拙い部分が沢山ありすぎて恥ずかしくて火を吹いちゃうくらいのレビューなんですが、それでも楽しんで頂けたようで心底に嬉しい限りです。本当にありがとうございます。
>今度はクラナドの時にでも顔を出すかもしれませんのでよろしくです。
こちらこそよろしくお願いします。どういった内容のものが書けるかなんて、当然まだ分からないですが、それでも出来るだけ真摯に書けるよう努力したいと思います。いやホント、クラナドすっごく好きなんで(笑)。
はじめまして。うわ、ウチのトコ見ながらkanon再視聴だなんて、ありがたすぎて勿体無すぎて恐ろしくなるくらいです。
今になって見直すと、拙い部分が沢山ありすぎて恥ずかしくて火を吹いちゃうくらいのレビューなんですが、それでも楽しんで頂けたようで心底に嬉しい限りです。本当にありがとうございます。
>今度はクラナドの時にでも顔を出すかもしれませんのでよろしくです。
こちらこそよろしくお願いします。どういった内容のものが書けるかなんて、当然まだ分からないですが、それでも出来るだけ真摯に書けるよう努力したいと思います。いやホント、クラナドすっごく好きなんで(笑)。
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最終話。最後まできて、初めて、あゆの可愛らしさを猛烈に知った。こんばんは、たこーすけです。Kanon最終話を視聴しましたので、その感想を書きたいと思います。原作ゲーム未プレイ、東映版も未見です。以下、原作未プレイ者が好き勝手に感想を書いています。とんちんかん
2007/03/19(月) 00:09:14 | たこーすけの、ちょろっと感想
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