2007'08.28 (Tue) 06:04
(まえがき)
天元突破グレンラガンの第三部、17話~22話について。
や、久々に、テキストファイルにコピペすると30KB越える長い文章書いちまいました(つか長すぎ)。しかし幾らグダグダ書いているとはいえ、この程度の分量では、第三部については全然語りきれないくらいにこのグレンラガン、濃密でして。なのでテーマを記事タイトルに沿ったもの一つに絞ってみました。
■ 恐怖と不安
――――――――――――――――――――――――――――


「自分の為に戦う」というのと、「自分自身と戦う」というのは、結果ではなく起点を見れば、相容れないものであって。
「やりたいようにやる」「やりたいことをやる」という自分の意思・考え・思い・感情を起点とした行動は――それが誰かの為であっても、それが自分の意思・考え・思い・感情を曲げていない(それに素直である)以上、「自分の為」と言えるのです。その行動をするのが心地よい・その行動をしたい、というのは、根源的には自分の為です。ちょっと極論っぽくありますが、例えば、誰かの為にその人になにか贈り物をする、としても、それが『自分がやりたいこと』であれば、その行動は『自分の為』に(も)帰結するのです。やりたいこと、をやるのですから、それは誰かの為にもなっているでしょうけど、『自分の為』にもなってしまうのは当然のこと。
たとえばカミナシティの人達は、「自分の家が壊された」「自分の生活の為」「保身の為」「イラつきや不安の解消の為」、デモを行ったり暴動を起こしたりする。
たとえばシモンは、自分のやり方を押し通すようにだったり、苛立ちを発散させるが如くだったりと、ムガンに攻撃したりする(17話・18話あたり)。
やりたいように・やりたいことを……というのは、純粋といえば純粋なんですけど、自分の感情に全然十全じゃありません。
問題からの逃避でもあるし、不安や恐怖からの逃避でもあるし、その先にある……未来の自分からの逃避でもあるわけです。こんなことをしても月は墜ちてくるし、こんなことをしてもニアは元には戻らない。そんなことは分かっていても、その時の想いや、その時の感情――怒り・不安など――によって、このような行動を起こしてしまう。
そこにこそ、『自分自身と戦う』と相容れないモノが生じるのです。
たとえば、上記のような感情での行動には、逆説的に、ひとつの疑問が生じます。
「なんでそんな感情を抱いているんだ?」、という疑問が。
なんで家が壊されて怒るのか。なんで月が墜ちてくるのに不安がるのか。なんでニアが変わってしまったことに苛立つのか。
自分の身を守る。自分の命を守る。今の生活を守る。大切な人を守る。
守る、という感情、失いたくない、という感情。
そしてそれが"難しい"から、彼らはそのこと――守る・失いたくないが達成できない――つまり守れない・失われるという「恐怖・不安」に目を背けるがゆえ、あのような行動に出るのです。
これは――長い目で見れば「自分の為」とは言えないのでしょうが、その時の感情だけで言えば、完全に「自分の為」です。
自分の本当の本心、一番望むものが達成できないという恐怖・不安にかられての行動。デモも、八つ当たりのような戦いも、何も解決しません。解決するのは、その時の自分の気持ちくらいです。気持ち・感情の積み重ね、その道筋こそが人の人生とも言えるのですが、ただただ、気持ち・感情に依るだけでは――その時の気持ち・感情に依るだけで、恐怖や不安から目を逸らしていては、突破できない壁が沢山あるのです。
『自分自身と戦う』というのは、その不安や恐怖と戦うことです。
大事なものを失うかもしれない、大切なものを守れないかもしれない、自分が死ぬかもしれない。
そういった、『現実』として目の前に立ちはだかる不安・恐怖と戦うこと――それが、自分自身との戦い。
「アニキが教えてくれたこと」という台詞がありましたが、それはこのことでもあります。
カミナは……極端な話、『感情』と『意思』だけで頑張ってきました。
「死」から守られていた地中を捨て、自分の可能性を突き詰められる地上へと出る。
地下にいれば、地震や病気等の死はあっても、ガンメンに殺されるような、地上にある日常的な死は存在しません。与えられた仕事をこなし、決められたルールを守れば、大きな危険にさらされることもない。
しかしそれを得るには、自分の意思を、感情を通すことを諦めなければなりません。安定した生活もある、死の危険からも免れる。不安も恐怖も、地上に比べれば非常に少ない。けれどその代わり、己の意思を・感情を貫き通すことはできない。
その意思を・感情を通す為に、カミナは地上にやってきたのです。親父を追いかけ追い越す為。自分の限界を知り、それを突破する為。
しかしそこには、当然『恐怖・不安』が存在しています。
第2話。道端に転がる死体に自分の「死」を想起させられ、そしてその死体が、自分の親父だと知った時のように。
いつかは死ぬ。
そしてそのいつかは、すぐ――今日かも、明日かもしれない。
人が人である限り、いつかは死にます。大事なものも失うし、大切なものも守れなかったりします。
恐怖、不安。そういった、出来れば見たくない、目を背けたくなるような自分の感情を自覚し、それと戦うこと。それこそが、『自分自身との戦い』です。
死の恐怖・不安、失うことへの恐怖・不安、守れないことへの恐怖・不安、そして何より、自分が自分でなくなることの…自分が目指す自分でなくなることへの恐怖・不安。
それに対して、「一歩も退かない」こと。
「無理を通して道理を蹴っ飛ばす」の言葉どおり、このまま行けば恐怖・不安が現実のものになるのだけれど、そこを、それを知った自分の感情で蹴っ飛ばす。
『自分自身の恐怖や不安といかに戦っていくか』―――それこそが、「アニキの教えてくれたこと」なのです。
戦うべきは自身の恐怖や不安。
例えば、一見無関係に思えるマヨコ先生編のエピソードなんかも、その色合いを有していました。



父親の形見のカバンという大切なモノのために、恐怖や不安を乗り越え、木に登るナキム。
自分の本心という大切なモノのため、嫌われるかも・関係が壊れるかもという恐怖や不安を乗り越えて、本当のことを告白するマオシャ。
大切なものを守るためには、恐怖や不安を乗り越えて戦わなくてはならない。
時には、生活や安定も捨てなければならない場合もある。例えばヨーコ。子供を守るために銃を手に取り、ロシウの言葉に真実を知り、子供たちに空を取り戻すため銃を握りしめる。
彼女はヨマコからヨーコに戻ること――戦いを選ぶことにより、ナキムやマオシャたち「先生」で居続け、彼ら彼女らと一緒にいることが出来なくなる、つまりこの生活もイマの状況も失わなくてはならないのだけれど、それでも、彼女は守るために戦う。
恐怖や不安がある。失うことや失くすものもある。
それでもそれらを知った上で、戦う。
恐怖や不安を知ること。それが最初の一歩。その上で、それを乗り越えていくこと。
■ シモン
――――――――――――――――――――――――――――

シモン。
彼は基本的に……7年前から変わっていません。
シモンの行動・戦闘は、一言でいうと『出来るの証明』。
どんな敵が出ても倒せる、どんな困難にも立ち向かえる。自分が出来るんだ、突破出来るんだということを証明する為かのような彼の戦い。
ただ、7年前と違うのは…いや、同じと言えば同じなんですが…それでも違うのは……今回は、『現実』――つまり守るべきものたち――がいることを、十分に見ていなかったということでしょう。
ムガンに対し、一人突っ走ったかのように戦いを挑んでしまったように。自分でなければヤツラに勝てないとでも思ってるかのような行動をとってしまうように。
ムガンのこと、月のこと。彼は不安に浸る子供たちに「なんとかしてみせる」と言いましたが、それは少しも具体的でない、敵も目的も問題点も定かではない、厳しく言うと「現実を見ていない」ような発言でして。対してロシウは、しっかりと現実を見、優先順位を決め、その上でこの問題をなんとかしてみせようとしている。
シモンの戦いが、その「なんとかしてみせる」を現実のものにする、そのことの証明のようなものだとしても、そこに具体性も何もなければ、いやそもそもシモン自体が現実を認識していない以上、人々はそのことを、シモンのことを「信じる」ことは出来ません。
その彼が、しっかりと現実を見据えるのは、爆弾を搭載したグレンラガンで出撃した時。
新たな兵器を得て、新たな戦術を得て、ムガンを倒す・人々を、街を守るグラパールを見て、シモンはキノンにこう言うのです。「すまなかった」と。
自分でなければ成しえないと思っていた。自分がなんとかするべきだと思っていた。それこそが、自分のやらなければならないことだと思っていた。
でも違った。
グラパールは自分以上に上手く成し得、ロシウは自分以上に上手く成し得ている。
これが現実。別に彼にだけしか『出来る』訳では無いし、彼が一番上手く『出来る』訳では無い。いや寧ろ、シモンが人々を守る為、彼がやるべきことは、この混乱を収めるため牢に繋がれることなんじゃないだろうか。
現実を見据えたシモンは牢に繋がれます。
そして―――ここで現実を見据えたからこそ、だからこそ、かつての「なんとかする」という言葉が力を得るのです。現実を見据えない「なんとかする」には意味がない。ただの虚言、気休めにしかすぎない。けれどもし、現実を見据えた上で、たとえ具体的でなくても、絶対の信念と決意を持って「なんとかする」と言うのならば……?現実を知った上で、失うかもしれない恐怖も守れないかもしれない不安も知った上で、それでも「なんとかする」、諦めずに戦い続けるのならば?
■ ロシウ
――――――――――――――――――――――――――――

ロシウ。
ロシウは、自信の恐怖や不安を認識していました。
平和な世界を維持していく上での不安・恐怖。
新たに出現した敵、ムガンとそれに反応する民衆への不安・恐怖。
月が落ちてくることに対する対策。宇宙に待ち伏せている敵。
守るべきものがあり、それを守らなくてはならない。
彼が口にした「やらなければならないことをやる」のように。
守るべき人たちがいて、それを守らなくてはならない。しかし、現実はただ「守る!」と口にしただけでは守れません。問題が生じた時、問題が生じるたびに、一番の目的から最もリスクが少ない方法を取る。
ムガンに対しては、グレンラガンではなくグラパールを用いる。法治国家という社会システムを守る為のこと。
月の衝突に対し、各地にシェルターを見つける&作る。人々を守る為のこと。
月の衝突で地上も地下も全てダメになると知ったら、地下に逃げる人たちは見捨てて、人間そして動物の「種」を守る行動に出る。
ムガンがアークグレンを襲ってきたら、カミナシティの人々を半数近く見捨てても空に逃げる。全滅から守る為の行動。
これが彼の「やらなければならないこと」です。
守らなくてはならない。そして、守るのが難しくなったのなら、せめて守れるものだけは守らなくてはならない。その為には、他の可能性は全て切り捨てていく。グレンラガンならば突破できるかもしれない、ガンメンならば倒せるかもしれない、シモンならば、いや自分以外の誰かならば、もっと守れるかもしれない、そういった可能性を全て切り捨て、そして"そういった可能性があるということ"、その全てを受け入れているのです。
ロシウが幾度か示した葛藤と、リーロンが言った「あの子、壊れなきゃいいけど」で彼が壊れなかったことは。全滅を免れる為に救えなかった者を見殺しにすること―――つまりは"救えなかった者は自分が殺したということと同意である"、そういった自分の行動の先にある恐怖や不安すらも、ロシウは受け入れているのです。
自分の責務に纏わる恐怖や不安。
自分の行動の結果の恐怖や不安。
そのどちらも、十分に認識した上で、そのどちらも、十分に受け入れた上で、「最悪」を免れる為の「最善」を尽くす。
それが、ロシウの選んだ道です。
現実を見据え、その上で。
敗北の可能性を見据え行動するロシウと。
敗北の可能性を否定して行動するシモン。
敗北の可能性を考慮するのは、当然といえば当然でしょう。誰だって、もしもダメだったら、もしも上手く行かなかったら……という可能性を考えて行動している。「俺はこの学校に絶対受かるから、一校しか受験しない!」とか、「今日の競馬、絶対当るから全財産をかける!」みたいな、敗北の可能性を考えない、思い切りの良すぎる行動はなかなか出来ません。
ある意味、これがロシウとシモンの差ですね。
どちらも、現実において失うものがある、守れないものがあるという恐怖・不安を認識した上で、それを『出来る限り』免れようと頑張るのだけれど。ここでダメで、それで終わりじゃなくて、次がある。そう認識し、最悪を免れる為の最善を尽くすロシウと。ここも次も全て拾おうとする、最良を手に入れる為に最善を尽くすシモン。
イチかバチかという、敗北を考えない思い切った勝負。
シモンがやってるのは端的に言うとそういうことですが、さて、それって何で出来るのだと思います?
答えは『信じること』。
負けないって信じることです。出来るって信じること。
普通なら不可能、常識的に考えれば不可能。いや、可能かもしれないけど、可能性はゼロではないけれど、それはゼロでないだけで…僅かな可能性でしかない。けれど、そこに懸ける。「だったら、俺にとっては100%と同じことだ」というシモンの台詞通り。出来るって思いを懸ける。つまりは、自分自身を信じるのです。
もしかしたら負けるかもしれない、もしかしたら上手く行かないかもしれない、もしかしたら全滅するかもしれない……そういった思いで「最悪」さえ逃れようという考えでは、決して辿り着けないもの。
なにせ最悪なんかゆうに内包してしまっていますからね。ロシウは決断のたび、救えない人間を諦めるたび、彼らの死(という可能性)を自信の責任としてしっかりと負っていましたが、シモンはそんな可能性は見ていない、いやそんな可能性は彼の中には存在していない。出来る、という可能性しか存在していない、そしてそれが『信じる』ということなのです。
■ 螺旋の力
――――――――――――――――――――――――――――

「地上から出て7年、たった7年で、人間たちはどれだけ文明を進歩させましたか?異常なスピードだと思いませんか?」
「それこそが螺旋族のポテンシャル」
もの凄い成長力と、もの凄い推進力。それが螺旋の力ですね。
当初、苦労してなんとかグレンラガンが倒したムガンが、ちょっとあとには簡単に倒せるようになり、終いにはただの雑魚になってしまう。
二部までの、獣人・ガンメンとの戦いの時もそうだったけど。
日々努力し邁進し、研鑽し研究し、実行して実証する。
この圧倒的な成長力。この目的に突き進む推進力。

「螺旋の本能に突き動かされた愚かな生命は、闇雲に天を目指す」
「言葉や理性ではその衝動を抑えきれない」
「それができるのは『恐怖』だけだ」(ロージェノム)
「恐怖と絶望こそ、上昇する螺旋への最大の抑止力」(黒ニア)
諦めずに進む力、目的に向かう力を抑えつけるものは、その推進力以上の恐怖――たとえば死や、大切なものを失うこと――や、進む先に希望はないという絶望――ニアの「希望があるように見えながら、それがダメだとわかったとき、あなた方は深く絶望する」という台詞のように、度重なる困難を越える手を繰り出すたびに前に立ちふさがる壁――そういったものこそが、何ものにも縛られずに進む螺旋力への最大の抑止力となる。
逆に言うと、目的に向かい諦めず進む力、それこそが螺旋力といえるわけです。
アークグレンの中の人の不安により、螺旋力が減少したように。
不安・恐怖・絶望。それらを受け入れ、進むのを止める、成長するのを止める、つまり「あきらめる」というのが、何よりの螺旋力への敵。
で、これまた逆に言うと、「あきらめない」というのが螺旋力にとって最大の力となるのです。
「高速で回転する物体は、力を加えても、回転数は常に一定の方向を指し示す」
この回転する力への説明、これを感情(意思)に置き換えるといい感じに繋がります。
回転の速さは感情・意思の強さ。加えられる力は恐怖や絶望。
大したことの無い感情・意思なら、ちょっとした恐怖で抑制できる。絶望を感じれば、進む力も見失う。
強い感情・意思なら、強い恐怖を与えればいい。もっと強い感情・意思なら、もっと強い恐怖を与えればいい。高速で回転する物体でも、圧倒的な力で抑え込めば、その回転は止まってしまう。
感情・意思が強力なら、それに見合う恐怖や絶望を与えればいい。それで力は失われる。メチャクチャ高速で回転しているのなら、ハチャメチャな力で抑え付ければいい。それならば、どんな物体でも、回転は止まる。
そう、実際、止まりそうになりました。
ムガンの出現を乗り越え、月の衝突に対処し、地下シェルターの壊滅予測を飲み込んできたロシウ―――恐怖・絶望という力に対し、自分の責務として毅然とした意思を持ってきたロシウですら、宇宙空間での圧倒的戦力による待ち伏せという、さらなる恐怖・絶望の前に、『あきらめる』という考えが浮かんでしまった。己の回転を止めそうになってしまった。
恐怖・絶望を乗り越えるだけの回転を持っているのなら、さらなる恐怖・絶望を与えてやればいい。そうすれば回転は止まり、螺旋の力――成長する力も、推進する力も消失する。
しかし、如何なる恐怖・絶望にも、あきらめなかった男が、シモンが居た。
恐怖、絶望。不安や不穏。実現できる可能性、失敗する可能性。失うもの、守れないもの。
人々を守れないかもしれない。地球は滅びるかもしれない。仲間を失うかもしれない。ニアは救えないかもしれない。自分も死ぬかもしれない。
それでも、そんな恐怖・不安という力に微塵も影響を受けず、己の感情で・意思で、力強く回転を続けるシモン。
なんで彼はあきらめないのか、なんで彼は恐怖にも絶望にも打ちひしがれないのかというと、それは『信じているから』。
可能性がゼロじゃないなら、自分にとっては100%と同じ。
自分が出来ると思っているのだから、絶対に出来る。
「俺を誰だと思っている」
かつてカミナが、自分が理想とする自身を信じて言い放った言葉と同じく。
シモンが、自身が実証する自分を信じて言い放つ言葉。
出来ると信じている。
だから彼にとって、可能性がゼロでないのなら、それは100%と同じ意味。
そして実際に、この世界において、信じるというのは何よりも強い――何よりも力強く螺旋力を生み出し、そしてだからこそ、その力が、その『信じる』を、現実のものへと昇華させる。
■ 『信じる』ということ
――――――――――――――――――――――――――――
恐怖や不安を受け止める方法も。
恐怖や不安を受け入れる方法も。
恐怖や不安を受け止め、受け入れ、その上で進む為の方法も。
全ては『信じる』―――自分を信じること。誰かを信じること。自分を信じる誰かを信じること。誰かを信じる自分を信じること。そこに存在します。
この第三部におけるクライマックス、カテドラル・テラの制御システムへの突入時のシーンのように。

ニアの体はムガンと同じ構成物質で作られています。大きな衝撃を与えると爆発してしまう。一刻も早く制御部にギガコアドリルを差し込みたいのですが、万が一、これがニアに触れてしまえば、彼女の体は爆散し、制御部もろとも破壊されてしまう(と同時に、恐らくニアも死んでしまう)。
「俺の知ってるニアじゃない」と、今のニアが全くの別物であると一度は認識したシモン。しかしニアの指に宿る指輪を見て、このニアは、自分の知っているニアで"も"あると、認識し直します。
グレン団、四天王との戦い、ロージェノムとの決戦、その後の平和になった世界での生活……その中で培われたシモンとニアとの道。その今までが失われてないからこそ、ニアは今でも、指輪をはめている。
ニアは、アンチスパイラルのメッセンジャーとなっても、今までと全く同じニアではないけれど、でも、「ニア」ではある。
シモンは、そこに懸けた。
このニアがあのニアであること、そこに懸けた。それを信じた。
"ニアを信じる自分を信じた"。
だからここで、遠慮なく躊躇なく、ギガコアドリルを差し込んだ。
そして……信じたとおり、ニアがニアであったからこそ、ニアは避けた。

ニアは過去を捨ててはいないと語るシモン。
ニアは自分に助けを求めて現れたと語るシモン。
その信が届いたからか…いや、助けを求めるその行動のように、ドリルを避けるこの行動のように、ニアがシモンのことを「信じていた」からか。ニアは己を取り戻し、そして言います。「迎えに来てくれるのですか?」と。
アンチスパイラルのメッセンジャーとなり、自分で自分をコントロール出来ないニア。自分の意思も感情も、全く持って、自分の行動に反映させることが出来ない。
何も出来ない。元に戻る可能性も、ほとんど無い。
言うなれば、ニアにとっては。最大の、絶望。
そんな状況下なのに、こんな、「迎えに来てくれるのですか?」と、希望を投げかけるような言葉を出す。これこそが、恐怖も絶望も乗り越える『信じる』という力。そう、シモンが言った、ゼロでないなら100%と同じという言葉、そしてシモンが言った、「俺を誰だと思っている」という言葉。この言葉に。そこに潜む感情に。そこに込められた意思に。
これを、この語で、この感情で、この意思で言えるシモンを、ニアは信じたからこそ、「迎えに来てくれるのですか?」という希望を口にすることが出来たのです。
まだニアはニアであると信じてくれたシモンを……つまり"自分を信じるシモンを信じた"ことで。
人というのはそれぞれの人で、全く違うものでして。
他人が何を考えているのか、何を思っているのかなんて、基本的には分かりません。大体の想像くらいでは分かるかもしれないですけど、それはその他人が自身で認識しているそれと、決して同じになることはないでしょう。
そんな他人、全てを分かることもない他人のことを『信じる』ということ。
そして、その自分が信じる他人が、その自分の信を信じてくれる、ということ。
それでもやはり、人はそれぞれ、どうしようもないくらいに違う。
シモンがニアの全てを分かっていないのは明らかだし、ニアがシモンの全てを分かっていないのも当然。
自分と他人は決定的に違う。分かり合えるかもしれないし、ともに歩むことも出来るかもしれないけれど、それぞれ違う人間、全く同じ道はありえない。
全く同じではないから。その『信じる』という行為にすら、恐怖と不安が付き纏う。
もしかすると、自分が信じている誰か――自分の中の誰かという像は、その人のことを正確に捉えていないかもしれない。勘違いかもしれないし、恣意的に解釈しているだけかもしれない。そして、その答えが、正確に分かることは無い。
勘違いかもしれないし、裏切られるかもしれないし、そもそもいいように解釈しているだけなのかもしれない。『信じる』という行為は、信じる相手と、何よりそれを行う自分自身に、恐怖と不安をもたらす行為でもある。
だから、『自分を信じる』。
自分自身を信じられない、そのような弱さは、みな始めは持っています。
シモンも持っていました。でも、幾度もの戦いの中で、幾度もの恐怖と絶望を乗り越える中で、何よりも、―――「お前を信じる俺を信じろ」「俺を信じるお前を信じろ」―――幾度も幾度も『信じてきた』中で、自分自身を信じられるだけの強さを得てきた、つまり自分自身に対する恐怖や不安を失くして来たのです。
相手を信じる自分を信じるし、自分を信じる相手を信じるし、そして何より、『自分が信じる自分を信じる』。
「俺が信じるお前でもねぇ、お前が信じる俺でもねぇ」
「お前が信じる、お前を信じろ!」
今まで歩んできた道があり、アニキの言葉があったからこそ。OP曲に言う「あの日くれた言葉が今でもこの胸の確かに届いているから」。
ここでニアを信じられた。いや、それ以前に、もっと前から。ニアのことも、他の誰かのことも、そして何より自分自身のことを、信じてこれた。
シモンとニアのこの先がどうなるのかは分かりませんが。
全く違う人間同士が、全く違う人間同士を、全く違う互いの意思と感情で信じる。違う人同士の二つの信が、捻れて交わる。この力はきっと、グレンラガンにおいては、何よりも強力で強大に、恐怖も絶望も押し退けるでしょう。
WEB拍手を送る
天元突破グレンラガンの第三部、17話~22話について。
や、久々に、テキストファイルにコピペすると30KB越える長い文章書いちまいました(つか長すぎ)。しかし幾らグダグダ書いているとはいえ、この程度の分量では、第三部については全然語りきれないくらいにこのグレンラガン、濃密でして。なのでテーマを記事タイトルに沿ったもの一つに絞ってみました。
【More】
■ 恐怖と不安
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「自分の為に戦う」というのと、「自分自身と戦う」というのは、結果ではなく起点を見れば、相容れないものであって。
「やりたいようにやる」「やりたいことをやる」という自分の意思・考え・思い・感情を起点とした行動は――それが誰かの為であっても、それが自分の意思・考え・思い・感情を曲げていない(それに素直である)以上、「自分の為」と言えるのです。その行動をするのが心地よい・その行動をしたい、というのは、根源的には自分の為です。ちょっと極論っぽくありますが、例えば、誰かの為にその人になにか贈り物をする、としても、それが『自分がやりたいこと』であれば、その行動は『自分の為』に(も)帰結するのです。やりたいこと、をやるのですから、それは誰かの為にもなっているでしょうけど、『自分の為』にもなってしまうのは当然のこと。
たとえばカミナシティの人達は、「自分の家が壊された」「自分の生活の為」「保身の為」「イラつきや不安の解消の為」、デモを行ったり暴動を起こしたりする。
たとえばシモンは、自分のやり方を押し通すようにだったり、苛立ちを発散させるが如くだったりと、ムガンに攻撃したりする(17話・18話あたり)。
やりたいように・やりたいことを……というのは、純粋といえば純粋なんですけど、自分の感情に全然十全じゃありません。
問題からの逃避でもあるし、不安や恐怖からの逃避でもあるし、その先にある……未来の自分からの逃避でもあるわけです。こんなことをしても月は墜ちてくるし、こんなことをしてもニアは元には戻らない。そんなことは分かっていても、その時の想いや、その時の感情――怒り・不安など――によって、このような行動を起こしてしまう。
そこにこそ、『自分自身と戦う』と相容れないモノが生じるのです。
たとえば、上記のような感情での行動には、逆説的に、ひとつの疑問が生じます。
「なんでそんな感情を抱いているんだ?」、という疑問が。
なんで家が壊されて怒るのか。なんで月が墜ちてくるのに不安がるのか。なんでニアが変わってしまったことに苛立つのか。
自分の身を守る。自分の命を守る。今の生活を守る。大切な人を守る。
守る、という感情、失いたくない、という感情。
そしてそれが"難しい"から、彼らはそのこと――守る・失いたくないが達成できない――つまり守れない・失われるという「恐怖・不安」に目を背けるがゆえ、あのような行動に出るのです。
これは――長い目で見れば「自分の為」とは言えないのでしょうが、その時の感情だけで言えば、完全に「自分の為」です。
自分の本当の本心、一番望むものが達成できないという恐怖・不安にかられての行動。デモも、八つ当たりのような戦いも、何も解決しません。解決するのは、その時の自分の気持ちくらいです。気持ち・感情の積み重ね、その道筋こそが人の人生とも言えるのですが、ただただ、気持ち・感情に依るだけでは――その時の気持ち・感情に依るだけで、恐怖や不安から目を逸らしていては、突破できない壁が沢山あるのです。
『自分自身と戦う』というのは、その不安や恐怖と戦うことです。
大事なものを失うかもしれない、大切なものを守れないかもしれない、自分が死ぬかもしれない。
そういった、『現実』として目の前に立ちはだかる不安・恐怖と戦うこと――それが、自分自身との戦い。
「アニキが教えてくれたこと」という台詞がありましたが、それはこのことでもあります。
カミナは……極端な話、『感情』と『意思』だけで頑張ってきました。
「死」から守られていた地中を捨て、自分の可能性を突き詰められる地上へと出る。
地下にいれば、地震や病気等の死はあっても、ガンメンに殺されるような、地上にある日常的な死は存在しません。与えられた仕事をこなし、決められたルールを守れば、大きな危険にさらされることもない。
しかしそれを得るには、自分の意思を、感情を通すことを諦めなければなりません。安定した生活もある、死の危険からも免れる。不安も恐怖も、地上に比べれば非常に少ない。けれどその代わり、己の意思を・感情を貫き通すことはできない。
その意思を・感情を通す為に、カミナは地上にやってきたのです。親父を追いかけ追い越す為。自分の限界を知り、それを突破する為。
しかしそこには、当然『恐怖・不安』が存在しています。
第2話。道端に転がる死体に自分の「死」を想起させられ、そしてその死体が、自分の親父だと知った時のように。
いつかは死ぬ。
そしてそのいつかは、すぐ――今日かも、明日かもしれない。
人が人である限り、いつかは死にます。大事なものも失うし、大切なものも守れなかったりします。
恐怖、不安。そういった、出来れば見たくない、目を背けたくなるような自分の感情を自覚し、それと戦うこと。それこそが、『自分自身との戦い』です。
自分の限界を越えること。無理だと思える場面でも、必死に抗い続ける彼は、一途にその思いの為に戦い続けます。負けを認めたら、無理だと認めたら、そこでおしまい。それが限界になってしまう。だから負けも無理も認めない。―――彼は、獣人たちと戦うと同時に、自分の中の「負け」「無理」を認めようとする心とも、戦っていたのです。
「負けねえ退かねえ悔やまねえ!前しか向かねえ振り向かねえ!」
「無理を通して道理を蹴っ飛ばすんだよ!」
彼が口にする言葉は、自分自身を鼓舞する言葉のように聞こえました。
無理だ、負ける、引き返したい、駄目だ、限界だ。
そんな思いを認めさせない、己を鼓舞するための言葉。「男の魂~~」なんて部分なんて、本当にそう。男なんだから、こうありたい、こうあるべきだ、なんて思いが乗っています。
そして何より。
「俺を誰だと思ってやがる!」
この言葉が、一番の自分に対する鼓舞。
獣人どもに言ってる言葉じゃありません。カミナが有名になってからならともかく、カミナが無名時代にこんなこと言った所で、相手は「?」ってなるだけです。知らない人から「俺を誰だと思ってやがる」なんて言われたって、「だから?」となってしまうだけ。
この言葉は、自分に対して言っているのです。
無理だ、負ける、引き返したい、怖い、逃げたい、限界だ。そんなことを思う自分の心に対して、自分が理想としている『カミナ』を提示して、「逃げるなっ!立ち向かえ!」と叫んでいるのです。
死の恐怖・不安、失うことへの恐怖・不安、守れないことへの恐怖・不安、そして何より、自分が自分でなくなることの…自分が目指す自分でなくなることへの恐怖・不安。
それに対して、「一歩も退かない」こと。
「無理を通して道理を蹴っ飛ばす」の言葉どおり、このまま行けば恐怖・不安が現実のものになるのだけれど、そこを、それを知った自分の感情で蹴っ飛ばす。
『自分自身の恐怖や不安といかに戦っていくか』―――それこそが、「アニキの教えてくれたこと」なのです。
戦うべきは自身の恐怖や不安。
例えば、一見無関係に思えるマヨコ先生編のエピソードなんかも、その色合いを有していました。



父親の形見のカバンという大切なモノのために、恐怖や不安を乗り越え、木に登るナキム。
自分の本心という大切なモノのため、嫌われるかも・関係が壊れるかもという恐怖や不安を乗り越えて、本当のことを告白するマオシャ。
大切なものを守るためには、恐怖や不安を乗り越えて戦わなくてはならない。
時には、生活や安定も捨てなければならない場合もある。例えばヨーコ。子供を守るために銃を手に取り、ロシウの言葉に真実を知り、子供たちに空を取り戻すため銃を握りしめる。
彼女はヨマコからヨーコに戻ること――戦いを選ぶことにより、ナキムやマオシャたち「先生」で居続け、彼ら彼女らと一緒にいることが出来なくなる、つまりこの生活もイマの状況も失わなくてはならないのだけれど、それでも、彼女は守るために戦う。
恐怖や不安がある。失うことや失くすものもある。
それでもそれらを知った上で、戦う。
恐怖や不安を知ること。それが最初の一歩。その上で、それを乗り越えていくこと。
■ シモン
――――――――――――――――――――――――――――

シモン。
彼は基本的に……7年前から変わっていません。
シモンの行動・戦闘は、一言でいうと『出来るの証明』。
どんな敵が出ても倒せる、どんな困難にも立ち向かえる。自分が出来るんだ、突破出来るんだということを証明する為かのような彼の戦い。
ただ、7年前と違うのは…いや、同じと言えば同じなんですが…それでも違うのは……今回は、『現実』――つまり守るべきものたち――がいることを、十分に見ていなかったということでしょう。
ムガンに対し、一人突っ走ったかのように戦いを挑んでしまったように。自分でなければヤツラに勝てないとでも思ってるかのような行動をとってしまうように。
ムガンのこと、月のこと。彼は不安に浸る子供たちに「なんとかしてみせる」と言いましたが、それは少しも具体的でない、敵も目的も問題点も定かではない、厳しく言うと「現実を見ていない」ような発言でして。対してロシウは、しっかりと現実を見、優先順位を決め、その上でこの問題をなんとかしてみせようとしている。
シモンの戦いが、その「なんとかしてみせる」を現実のものにする、そのことの証明のようなものだとしても、そこに具体性も何もなければ、いやそもそもシモン自体が現実を認識していない以上、人々はそのことを、シモンのことを「信じる」ことは出来ません。
その彼が、しっかりと現実を見据えるのは、爆弾を搭載したグレンラガンで出撃した時。
新たな兵器を得て、新たな戦術を得て、ムガンを倒す・人々を、街を守るグラパールを見て、シモンはキノンにこう言うのです。「すまなかった」と。
自分でなければ成しえないと思っていた。自分がなんとかするべきだと思っていた。それこそが、自分のやらなければならないことだと思っていた。
でも違った。
グラパールは自分以上に上手く成し得、ロシウは自分以上に上手く成し得ている。
これが現実。別に彼にだけしか『出来る』訳では無いし、彼が一番上手く『出来る』訳では無い。いや寧ろ、シモンが人々を守る為、彼がやるべきことは、この混乱を収めるため牢に繋がれることなんじゃないだろうか。
現実を見据えたシモンは牢に繋がれます。
そして―――ここで現実を見据えたからこそ、だからこそ、かつての「なんとかする」という言葉が力を得るのです。現実を見据えない「なんとかする」には意味がない。ただの虚言、気休めにしかすぎない。けれどもし、現実を見据えた上で、たとえ具体的でなくても、絶対の信念と決意を持って「なんとかする」と言うのならば……?現実を知った上で、失うかもしれない恐怖も守れないかもしれない不安も知った上で、それでも「なんとかする」、諦めずに戦い続けるのならば?
■ ロシウ
――――――――――――――――――――――――――――

ロシウ。
ロシウは、自信の恐怖や不安を認識していました。
平和な世界を維持していく上での不安・恐怖。
新たに出現した敵、ムガンとそれに反応する民衆への不安・恐怖。
月が落ちてくることに対する対策。宇宙に待ち伏せている敵。
守るべきものがあり、それを守らなくてはならない。
彼が口にした「やらなければならないことをやる」のように。
守るべき人たちがいて、それを守らなくてはならない。しかし、現実はただ「守る!」と口にしただけでは守れません。問題が生じた時、問題が生じるたびに、一番の目的から最もリスクが少ない方法を取る。
ムガンに対しては、グレンラガンではなくグラパールを用いる。法治国家という社会システムを守る為のこと。
月の衝突に対し、各地にシェルターを見つける&作る。人々を守る為のこと。
月の衝突で地上も地下も全てダメになると知ったら、地下に逃げる人たちは見捨てて、人間そして動物の「種」を守る行動に出る。
ムガンがアークグレンを襲ってきたら、カミナシティの人々を半数近く見捨てても空に逃げる。全滅から守る為の行動。
これが彼の「やらなければならないこと」です。
守らなくてはならない。そして、守るのが難しくなったのなら、せめて守れるものだけは守らなくてはならない。その為には、他の可能性は全て切り捨てていく。グレンラガンならば突破できるかもしれない、ガンメンならば倒せるかもしれない、シモンならば、いや自分以外の誰かならば、もっと守れるかもしれない、そういった可能性を全て切り捨て、そして"そういった可能性があるということ"、その全てを受け入れているのです。
ロシウが幾度か示した葛藤と、リーロンが言った「あの子、壊れなきゃいいけど」で彼が壊れなかったことは。全滅を免れる為に救えなかった者を見殺しにすること―――つまりは"救えなかった者は自分が殺したということと同意である"、そういった自分の行動の先にある恐怖や不安すらも、ロシウは受け入れているのです。
自分の責務に纏わる恐怖や不安。
自分の行動の結果の恐怖や不安。
そのどちらも、十分に認識した上で、そのどちらも、十分に受け入れた上で、「最悪」を免れる為の「最善」を尽くす。
それが、ロシウの選んだ道です。
現実を見据え、その上で。
敗北の可能性を見据え行動するロシウと。
敗北の可能性を否定して行動するシモン。
敗北の可能性を考慮するのは、当然といえば当然でしょう。誰だって、もしもダメだったら、もしも上手く行かなかったら……という可能性を考えて行動している。「俺はこの学校に絶対受かるから、一校しか受験しない!」とか、「今日の競馬、絶対当るから全財産をかける!」みたいな、敗北の可能性を考えない、思い切りの良すぎる行動はなかなか出来ません。
ある意味、これがロシウとシモンの差ですね。
どちらも、現実において失うものがある、守れないものがあるという恐怖・不安を認識した上で、それを『出来る限り』免れようと頑張るのだけれど。ここでダメで、それで終わりじゃなくて、次がある。そう認識し、最悪を免れる為の最善を尽くすロシウと。ここも次も全て拾おうとする、最良を手に入れる為に最善を尽くすシモン。
イチかバチかという、敗北を考えない思い切った勝負。
シモンがやってるのは端的に言うとそういうことですが、さて、それって何で出来るのだと思います?
答えは『信じること』。
負けないって信じることです。出来るって信じること。
普通なら不可能、常識的に考えれば不可能。いや、可能かもしれないけど、可能性はゼロではないけれど、それはゼロでないだけで…僅かな可能性でしかない。けれど、そこに懸ける。「だったら、俺にとっては100%と同じことだ」というシモンの台詞通り。出来るって思いを懸ける。つまりは、自分自身を信じるのです。
もしかしたら負けるかもしれない、もしかしたら上手く行かないかもしれない、もしかしたら全滅するかもしれない……そういった思いで「最悪」さえ逃れようという考えでは、決して辿り着けないもの。
なにせ最悪なんかゆうに内包してしまっていますからね。ロシウは決断のたび、救えない人間を諦めるたび、彼らの死(という可能性)を自信の責任としてしっかりと負っていましたが、シモンはそんな可能性は見ていない、いやそんな可能性は彼の中には存在していない。出来る、という可能性しか存在していない、そしてそれが『信じる』ということなのです。
■ 螺旋の力
――――――――――――――――――――――――――――

「地上から出て7年、たった7年で、人間たちはどれだけ文明を進歩させましたか?異常なスピードだと思いませんか?」
「それこそが螺旋族のポテンシャル」
もの凄い成長力と、もの凄い推進力。それが螺旋の力ですね。
当初、苦労してなんとかグレンラガンが倒したムガンが、ちょっとあとには簡単に倒せるようになり、終いにはただの雑魚になってしまう。
二部までの、獣人・ガンメンとの戦いの時もそうだったけど。
日々努力し邁進し、研鑽し研究し、実行して実証する。
この圧倒的な成長力。この目的に突き進む推進力。

「螺旋の本能に突き動かされた愚かな生命は、闇雲に天を目指す」
「言葉や理性ではその衝動を抑えきれない」
「それができるのは『恐怖』だけだ」(ロージェノム)
「恐怖と絶望こそ、上昇する螺旋への最大の抑止力」(黒ニア)
諦めずに進む力、目的に向かう力を抑えつけるものは、その推進力以上の恐怖――たとえば死や、大切なものを失うこと――や、進む先に希望はないという絶望――ニアの「希望があるように見えながら、それがダメだとわかったとき、あなた方は深く絶望する」という台詞のように、度重なる困難を越える手を繰り出すたびに前に立ちふさがる壁――そういったものこそが、何ものにも縛られずに進む螺旋力への最大の抑止力となる。
逆に言うと、目的に向かい諦めず進む力、それこそが螺旋力といえるわけです。
アークグレンの中の人の不安により、螺旋力が減少したように。
不安・恐怖・絶望。それらを受け入れ、進むのを止める、成長するのを止める、つまり「あきらめる」というのが、何よりの螺旋力への敵。
で、これまた逆に言うと、「あきらめない」というのが螺旋力にとって最大の力となるのです。
「高速で回転する物体は、力を加えても、回転数は常に一定の方向を指し示す」
この回転する力への説明、これを感情(意思)に置き換えるといい感じに繋がります。
回転の速さは感情・意思の強さ。加えられる力は恐怖や絶望。
大したことの無い感情・意思なら、ちょっとした恐怖で抑制できる。絶望を感じれば、進む力も見失う。
強い感情・意思なら、強い恐怖を与えればいい。もっと強い感情・意思なら、もっと強い恐怖を与えればいい。高速で回転する物体でも、圧倒的な力で抑え込めば、その回転は止まってしまう。
感情・意思が強力なら、それに見合う恐怖や絶望を与えればいい。それで力は失われる。メチャクチャ高速で回転しているのなら、ハチャメチャな力で抑え付ければいい。それならば、どんな物体でも、回転は止まる。
そう、実際、止まりそうになりました。
ムガンの出現を乗り越え、月の衝突に対処し、地下シェルターの壊滅予測を飲み込んできたロシウ―――恐怖・絶望という力に対し、自分の責務として毅然とした意思を持ってきたロシウですら、宇宙空間での圧倒的戦力による待ち伏せという、さらなる恐怖・絶望の前に、『あきらめる』という考えが浮かんでしまった。己の回転を止めそうになってしまった。
恐怖・絶望を乗り越えるだけの回転を持っているのなら、さらなる恐怖・絶望を与えてやればいい。そうすれば回転は止まり、螺旋の力――成長する力も、推進する力も消失する。
しかし、如何なる恐怖・絶望にも、あきらめなかった男が、シモンが居た。
恐怖、絶望。不安や不穏。実現できる可能性、失敗する可能性。失うもの、守れないもの。
人々を守れないかもしれない。地球は滅びるかもしれない。仲間を失うかもしれない。ニアは救えないかもしれない。自分も死ぬかもしれない。
それでも、そんな恐怖・不安という力に微塵も影響を受けず、己の感情で・意思で、力強く回転を続けるシモン。
なんで彼はあきらめないのか、なんで彼は恐怖にも絶望にも打ちひしがれないのかというと、それは『信じているから』。
可能性がゼロじゃないなら、自分にとっては100%と同じ。
自分が出来ると思っているのだから、絶対に出来る。
「俺を誰だと思っている」
かつてカミナが、自分が理想とする自身を信じて言い放った言葉と同じく。
シモンが、自身が実証する自分を信じて言い放つ言葉。
出来ると信じている。
だから彼にとって、可能性がゼロでないのなら、それは100%と同じ意味。
そして実際に、この世界において、信じるというのは何よりも強い――何よりも力強く螺旋力を生み出し、そしてだからこそ、その力が、その『信じる』を、現実のものへと昇華させる。
■ 『信じる』ということ
――――――――――――――――――――――――――――
恐怖や不安を受け止める方法も。
恐怖や不安を受け入れる方法も。
恐怖や不安を受け止め、受け入れ、その上で進む為の方法も。
全ては『信じる』―――自分を信じること。誰かを信じること。自分を信じる誰かを信じること。誰かを信じる自分を信じること。そこに存在します。
この第三部におけるクライマックス、カテドラル・テラの制御システムへの突入時のシーンのように。

ニアの体はムガンと同じ構成物質で作られています。大きな衝撃を与えると爆発してしまう。一刻も早く制御部にギガコアドリルを差し込みたいのですが、万が一、これがニアに触れてしまえば、彼女の体は爆散し、制御部もろとも破壊されてしまう(と同時に、恐らくニアも死んでしまう)。
「俺の知ってるニアじゃない」と、今のニアが全くの別物であると一度は認識したシモン。しかしニアの指に宿る指輪を見て、このニアは、自分の知っているニアで"も"あると、認識し直します。
グレン団、四天王との戦い、ロージェノムとの決戦、その後の平和になった世界での生活……その中で培われたシモンとニアとの道。その今までが失われてないからこそ、ニアは今でも、指輪をはめている。
ニアは、アンチスパイラルのメッセンジャーとなっても、今までと全く同じニアではないけれど、でも、「ニア」ではある。
シモンは、そこに懸けた。
このニアがあのニアであること、そこに懸けた。それを信じた。
"ニアを信じる自分を信じた"。
だからここで、遠慮なく躊躇なく、ギガコアドリルを差し込んだ。
そして……信じたとおり、ニアがニアであったからこそ、ニアは避けた。

ニアは過去を捨ててはいないと語るシモン。
ニアは自分に助けを求めて現れたと語るシモン。
その信が届いたからか…いや、助けを求めるその行動のように、ドリルを避けるこの行動のように、ニアがシモンのことを「信じていた」からか。ニアは己を取り戻し、そして言います。「迎えに来てくれるのですか?」と。
アンチスパイラルのメッセンジャーとなり、自分で自分をコントロール出来ないニア。自分の意思も感情も、全く持って、自分の行動に反映させることが出来ない。
何も出来ない。元に戻る可能性も、ほとんど無い。
言うなれば、ニアにとっては。最大の、絶望。
そんな状況下なのに、こんな、「迎えに来てくれるのですか?」と、希望を投げかけるような言葉を出す。これこそが、恐怖も絶望も乗り越える『信じる』という力。そう、シモンが言った、ゼロでないなら100%と同じという言葉、そしてシモンが言った、「俺を誰だと思っている」という言葉。この言葉に。そこに潜む感情に。そこに込められた意思に。
これを、この語で、この感情で、この意思で言えるシモンを、ニアは信じたからこそ、「迎えに来てくれるのですか?」という希望を口にすることが出来たのです。
まだニアはニアであると信じてくれたシモンを……つまり"自分を信じるシモンを信じた"ことで。
人というのはそれぞれの人で、全く違うものでして。
他人が何を考えているのか、何を思っているのかなんて、基本的には分かりません。大体の想像くらいでは分かるかもしれないですけど、それはその他人が自身で認識しているそれと、決して同じになることはないでしょう。
そんな他人、全てを分かることもない他人のことを『信じる』ということ。
そして、その自分が信じる他人が、その自分の信を信じてくれる、ということ。
それでもやはり、人はそれぞれ、どうしようもないくらいに違う。
シモンがニアの全てを分かっていないのは明らかだし、ニアがシモンの全てを分かっていないのも当然。
自分と他人は決定的に違う。分かり合えるかもしれないし、ともに歩むことも出来るかもしれないけれど、それぞれ違う人間、全く同じ道はありえない。
全く同じではないから。その『信じる』という行為にすら、恐怖と不安が付き纏う。
もしかすると、自分が信じている誰か――自分の中の誰かという像は、その人のことを正確に捉えていないかもしれない。勘違いかもしれないし、恣意的に解釈しているだけかもしれない。そして、その答えが、正確に分かることは無い。
勘違いかもしれないし、裏切られるかもしれないし、そもそもいいように解釈しているだけなのかもしれない。『信じる』という行為は、信じる相手と、何よりそれを行う自分自身に、恐怖と不安をもたらす行為でもある。
だから、『自分を信じる』。
自分自身を信じられない、そのような弱さは、みな始めは持っています。
シモンも持っていました。でも、幾度もの戦いの中で、幾度もの恐怖と絶望を乗り越える中で、何よりも、―――「お前を信じる俺を信じろ」「俺を信じるお前を信じろ」―――幾度も幾度も『信じてきた』中で、自分自身を信じられるだけの強さを得てきた、つまり自分自身に対する恐怖や不安を失くして来たのです。
相手を信じる自分を信じるし、自分を信じる相手を信じるし、そして何より、『自分が信じる自分を信じる』。
「俺が信じるお前でもねぇ、お前が信じる俺でもねぇ」
「お前が信じる、お前を信じろ!」
今まで歩んできた道があり、アニキの言葉があったからこそ。OP曲に言う「あの日くれた言葉が今でもこの胸の確かに届いているから」。
ここでニアを信じられた。いや、それ以前に、もっと前から。ニアのことも、他の誰かのことも、そして何より自分自身のことを、信じてこれた。
シモンとニアのこの先がどうなるのかは分かりませんが。
全く違う人間同士が、全く違う人間同士を、全く違う互いの意思と感情で信じる。違う人同士の二つの信が、捻れて交わる。この力はきっと、グレンラガンにおいては、何よりも強力で強大に、恐怖も絶望も押し退けるでしょう。
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テーマ : 天元突破グレンラガン - ジャンル : アニメ・コミック
ロシウは何故「あなたは生き残るべき人だ」なんて事を言ったのでしょう?
また何故こんな問題発言を言わせたのでしょう?
聞いた時びっくりしました。
また何故こんな問題発言を言わせたのでしょう?
聞いた時びっくりしました。
無銘 | 2007年08月29日(水) 00:24 | URL | コメント編集
>無銘さん
僕もちょっとビックリしました。
う~ん、なんでロシウはこんなこと言ったのでしょうね。
救えるモノは救って、救えないモノは救わない。
「お前の意思、ブレはねえな」とキタンに称されたその姿勢ですが、地下シェルターが無効であることを知ってからのロシウの描写を見る限り、その「救えないモノの命を見捨てること」に、非常に重い責任を感じていたと思われます。事情が事情だから仕方がないとはいえ、彼は自身で「指導者の義務は決定」というようなことを述べていたとおり、そのこと(救えないモノを見捨てること)を、「自らの意思で」決定しているのですから。
彼が救いの手を差し伸べなかった人間は、そのまま、彼が殺したということと同意である―――少なくとも、『決定』を信条に置くロシウにとっては、そのことは明確だったのではないでしょうか。その信条の元に、今まで色んな政策を「決定」してきたという責任が、彼にはあるわけですし、それを心に置いてここまで来た彼としては、今更その信に反することは出来ないでしょう。
救えないモノ―――すなわち、このアークグレンに乗っていないモノを見殺しにする。全てを知った上で、全てを隠し、住民を地下シェルターに避難させ、カミナシティの人間と動物達をアークグレンに乗せるという"選択肢"を決定したロシウにとっては、見殺しではなく「自分が殺した」に近い意味を持っているのでしょう。
アークグレンに乗っていないものは、自分が殺したことと同意である。
アークグレンに乗っていなくて、月の衝突で死ぬであろうヨーコは、自分が殺したことと同意である。
端的に言うと、「ヨーコを殺したくないから」、「あなたは生き残るべき人だ」、このようなことを言ったのでしょうね。
「救えるモノは救って救えないモノは救えない」が、
自分が救いたいモノは救って救いたくないモノは救えない、か、
救えないモノの中でもどうしても救いたいモノだけは救う、なのか、は分かりませんが。
今までに対し、この言葉は、矛盾しているような決定です。
「お前の意思、ブレはない」が、ギリギリの状況でブレてしまったのか、それとも、初めからこういったことはその意思の中に内包されていたのか。
普通に考えれば、それが意思に内包なんてありえない感じですけど、最後の最後、グレンラガンが月の制御に行ったその時まで、自分の「決定」を……今までのベクトルを通したロシウですから、その可能性も無くはないと思いますね(メチャクチャ、ロシウが冷たいキャラになっちゃいますけど)。
長くなった上に結論出てなくてごめん。
「ヨーコを自分が殺したくない」というのは確かだと思う。
僕もちょっとビックリしました。
う~ん、なんでロシウはこんなこと言ったのでしょうね。
救えるモノは救って、救えないモノは救わない。
「お前の意思、ブレはねえな」とキタンに称されたその姿勢ですが、地下シェルターが無効であることを知ってからのロシウの描写を見る限り、その「救えないモノの命を見捨てること」に、非常に重い責任を感じていたと思われます。事情が事情だから仕方がないとはいえ、彼は自身で「指導者の義務は決定」というようなことを述べていたとおり、そのこと(救えないモノを見捨てること)を、「自らの意思で」決定しているのですから。
彼が救いの手を差し伸べなかった人間は、そのまま、彼が殺したということと同意である―――少なくとも、『決定』を信条に置くロシウにとっては、そのことは明確だったのではないでしょうか。その信条の元に、今まで色んな政策を「決定」してきたという責任が、彼にはあるわけですし、それを心に置いてここまで来た彼としては、今更その信に反することは出来ないでしょう。
救えないモノ―――すなわち、このアークグレンに乗っていないモノを見殺しにする。全てを知った上で、全てを隠し、住民を地下シェルターに避難させ、カミナシティの人間と動物達をアークグレンに乗せるという"選択肢"を決定したロシウにとっては、見殺しではなく「自分が殺した」に近い意味を持っているのでしょう。
アークグレンに乗っていないものは、自分が殺したことと同意である。
アークグレンに乗っていなくて、月の衝突で死ぬであろうヨーコは、自分が殺したことと同意である。
端的に言うと、「ヨーコを殺したくないから」、「あなたは生き残るべき人だ」、このようなことを言ったのでしょうね。
「救えるモノは救って救えないモノは救えない」が、
自分が救いたいモノは救って救いたくないモノは救えない、か、
救えないモノの中でもどうしても救いたいモノだけは救う、なのか、は分かりませんが。
今までに対し、この言葉は、矛盾しているような決定です。
「お前の意思、ブレはない」が、ギリギリの状況でブレてしまったのか、それとも、初めからこういったことはその意思の中に内包されていたのか。
普通に考えれば、それが意思に内包なんてありえない感じですけど、最後の最後、グレンラガンが月の制御に行ったその時まで、自分の「決定」を……今までのベクトルを通したロシウですから、その可能性も無くはないと思いますね(メチャクチャ、ロシウが冷たいキャラになっちゃいますけど)。
長くなった上に結論出てなくてごめん。
「ヨーコを自分が殺したくない」というのは確かだと思う。
衣装はすべからく暗喩であって、緩んだ襟元はその隙間から裸の心が見えてしまっているという事ではないか?
と考察されているサイトがありました。
殺したくないという個人的な本心がつい出てしまったって事?
それにしてももっと違う言葉があったんじゃないかなぁという気もしますが。
いまいちすっきりしないですね。
あ、管理人さんを責めているわけではないですよ!(汗)
と考察されているサイトがありました。
殺したくないという個人的な本心がつい出てしまったって事?
それにしてももっと違う言葉があったんじゃないかなぁという気もしますが。
いまいちすっきりしないですね。
あ、管理人さんを責めているわけではないですよ!(汗)
無銘 | 2007年09月01日(土) 00:32 | URL | コメント編集
>無銘さん
>衣装はすべからく暗喩であって……
おお!その考察は、かなり上手いトコ突いてそうですね(というか、グレンラガンの絵って全てが何かの暗喩か隠喩に思えてしまえます)。
う~ん、僕が思うにですね、「ブレはねぇ」と言われたとおり、ロシウは殆ど「ブレてない」と思うのです。ずっと、最後の最後の「1分で撤退」の指示に至るまで、自分の考え、その方向性を貫いていて。
そんなロシウの決断で一番、というか唯一「ブレ」に見えるのが、この「あなたは生き残るべき人だ」の決断だけだと思うんですね。
これが、ロシウの弱さ……たとえば重圧とか、たとえば決断以前の本心から生じた「ブレ」となのか、
それとも、ロシウの決断自体に初めからこのようなことは内包されており、逃げ出した先、アークグレンが生き残った先を考えてある程度恣意的に選別しているのか。
判断できるほどの材料は無いんですけど、僕としてはちょっと「後者より」かな、と思っています。動物を乗せることから、幾度か出てきた「○○だけは守る」(しかも対象が、状況に応じて刻々と変わる)などの発言から……一見柔軟性があるように見えるんだけど、実は先を見据えて恣意的であったのではないかな、と少し思うのです。
や、どちらにしろ、推測しか出来ない程度の材料なんですけどね(笑)。
予告を見た感じだと、次回では、多少はロシウの内面とか明かされるんじゃないでしょうか。
>衣装はすべからく暗喩であって……
おお!その考察は、かなり上手いトコ突いてそうですね(というか、グレンラガンの絵って全てが何かの暗喩か隠喩に思えてしまえます)。
う~ん、僕が思うにですね、「ブレはねぇ」と言われたとおり、ロシウは殆ど「ブレてない」と思うのです。ずっと、最後の最後の「1分で撤退」の指示に至るまで、自分の考え、その方向性を貫いていて。
そんなロシウの決断で一番、というか唯一「ブレ」に見えるのが、この「あなたは生き残るべき人だ」の決断だけだと思うんですね。
これが、ロシウの弱さ……たとえば重圧とか、たとえば決断以前の本心から生じた「ブレ」となのか、
それとも、ロシウの決断自体に初めからこのようなことは内包されており、逃げ出した先、アークグレンが生き残った先を考えてある程度恣意的に選別しているのか。
判断できるほどの材料は無いんですけど、僕としてはちょっと「後者より」かな、と思っています。動物を乗せることから、幾度か出てきた「○○だけは守る」(しかも対象が、状況に応じて刻々と変わる)などの発言から……一見柔軟性があるように見えるんだけど、実は先を見据えて恣意的であったのではないかな、と少し思うのです。
や、どちらにしろ、推測しか出来ない程度の材料なんですけどね(笑)。
予告を見た感じだと、次回では、多少はロシウの内面とか明かされるんじゃないでしょうか。
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