2008'02.25 (Mon) 01:06
CLANNAD~光見守る坂道で~1 コミデジコミックス (コミデジコミックス)
(2008/02/21)
原作:Key、藤井 理乃 他
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もの凄く原作(原作小説『光見守る坂道で』)準拠です。話は99%くらい同じです。
とはいえ、絵の無いモノに絵を付けているので、当然ながらそこには作者さんの理解や解釈が見て取れます。
僕としては、それが心地よかったり、あんまり心地よくなかったり。つまり、「俺の脳裏に映った情景はソレじゃねーよ。俺脳内情景の方が順当だよ」とかもあれば、「近い!俺脳内情景に限りなく近い!」とかもあれば、「おお、その情景は素晴らしい!作者さんやるなぁ」とかもあったり。『情景』って書いた所は、『解釈』に置きかえて頂いてもイイかも。
うーん、やっぱ、前も書いたけど、「原作と同じだから原作を読めばいい」という考えはありえん。
作品って乱暴に言えば、『情報』だと思うんですよ。
何かしら伝えたいことや書きたいことがあるとするじゃないですか。それを、例えば小説だったら、『文章』にする。その文章の中には、物語やキャラクターや設定やテーマが詰まっている。
詰まっているんですけど……それは『文章』を読んでしか伝わらないんですよ。伝えたいことや書きたいことを伝えるための伝達手段としての文章。人間、思って・考えているだけで、思って・考えていることは当然伝わらず、それを誰かに伝えようとしたら、何らかの形で……伝達できるカタチで、残さなければならない。
そういう点で、それはもう加工された『情報』になっていると言っても良いと思うのです。少なくとも受け手にとって小説の中の文章は、物語でも、キャラクターでも、設定でも、テーマでもなく、それらをこちらに伝えてくれる『情報』でしかない。
そして、その情報を読んだ時にどう感じるかは、また別なんです。例えば、作者さんにとって、伝えたいことを過不足無く書けた作品があるとします。それを読んだ作者さん本人は、「ああ、伝えたかったことや書きたかったことが、完璧に伝わってくる」と思うでしょう。その本の情報を認識して、整理して、理解した先に、自身の伝えたいもの・書きたいものがキッチリと見えている。
でも受け取る読者側としてはどうでしょう。その本を読んで、文章を読んで、情報を読んで、認識して整理して理解した先が、作者さんの伝えたいもの・書きたいものだとは限りませんよね?だって読者は作者さんと違う人間なんだから。たったひとつの言葉ですら、僕らそれぞれ解釈も認識も違ってくるのに、たくさんの言葉で綴られたたくさんの情報が、誰にでも同じに認識されるとは到底思えない。たとえばよっぽど誰にでも伝わるように書いたって、他人に比べて全然知識が乏しい読者さんとか、圧倒的に人生経験豊富な読者さんとか、認識のプロセスが特異な読者さんとかだったら、また違ってくるのではないでしょうか。"よっぽど誰にでも伝わる"という前提からして、相当難しいと仮定だと思われますが。認識も、理解も、一人一人の固有で厳密には全く異なるものですから。
つまりはそういうことです。
原作小説と漫画。
元となる物語・キャラクター・設定・テーマが同じでも、それを表現する方法が異なる・表現者が異なる、つまり『情報』が異なっているので、そこから得られる認識も理解も異なってくる。
もちろん、原作と全く異なるモノでは無いですから、原作を知っている人にとって新鮮な情報はかなり少ないと言えるのですが。
だからって、「原作と同じだから原作を読めばいい」という考えはありえねー。絶対にありえねー(何晏)。
ああ、感想を忘れてました。
とにかく風子の話が最高です。原作も死ぬほど好きなんですが、漫画版は死んだかと思うくらい好きです。
個人的に、合う所もあれば合わない所もあるのですが、全体的に、解釈の深さと誠実さは十分なモノだと思えるほどの情景が展開されてますので、正直、かなり好きです。
人様に薦める場合は。趣味に合うかは別として、決して悪くはないと思いますよ。といったかんじです。
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2008'02.23 (Sat) 16:14
WEB拍手コメントの返信を半年以上していない僕ですが、いつもありがたく読ませていただいております。
とはいえ、返事をしたくない、というワケではございませんでして、もっとこう、質問だったり、雑談だったり、気になるようなことであれば、積極的に返していきたいなと思っております。たぶん(あいまい)。
と、そんな前置きをしつつ。先日頂いたWEB拍手のコメントで、
前提としてひとつ記しておきたいのは。そう思うのは悪いとか良くないとか読みが足らないとか、そういうのではありません。どう思うか、どう感じるかなんて人それぞれですし、読みにも感情にも正解なんてあるわけない、視座によっていくらでも流動するものですし、そこを変えろとか言われてもお互いマジ無理ですし。顕示欲の足しにしかならない議論をしても、不毛過ぎます。
それだけだとこれ以上書いてもムダなんですけど、何気にこの京アニCLANNAD、そこのところも見越して作られている節が見受けられますので、その辺を記していきます。いきたいです。
とはいえ、返事をしたくない、というワケではございませんでして、もっとこう、質問だったり、雑談だったり、気になるようなことであれば、積極的に返していきたいなと思っております。たぶん(あいまい)。
と、そんな前置きをしつつ。先日頂いたWEB拍手のコメントで、
クラナドの合唱部は胸糞悪いというのを頂きまして、実は似たような感想を余所のサイト様でも少し拝見したこともありまして、ちょっと気になりましたのでその辺りについてお話したいと思います。
自分の弱さを盾にして、要求を通そうとする、手段は問わず脅迫さえもする
(※前後を少し省略しております)
前提としてひとつ記しておきたいのは。そう思うのは悪いとか良くないとか読みが足らないとか、そういうのではありません。どう思うか、どう感じるかなんて人それぞれですし、読みにも感情にも正解なんてあるわけない、視座によっていくらでも流動するものですし、そこを変えろとか言われてもお互いマジ無理ですし。顕示欲の足しにしかならない議論をしても、不毛過ぎます。
それだけだとこれ以上書いてもムダなんですけど、何気にこの京アニCLANNAD、そこのところも見越して作られている節が見受けられますので、その辺を記していきます。いきたいです。
2008'02.20 (Wed) 04:12
2008'02.10 (Sun) 04:30
2008'02.08 (Fri) 04:09
2008'02.03 (Sun) 05:26
さて。凄い今さらながら、アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」の感想と考察を始めたのですが。(ホント遅い)
そちらをご覧頂く前に、ひとつ、自分の視座を表明しておきたいと思います。
なお、原作は「消失」だけ既読、「分裂」もちょっとだけ読みましたが、「憂鬱」~「消失」間、「消失」~「分裂」間のエピソードは(両作品内の記述で分かる範囲以外には)何一つ知らない、アニメ版ハルヒ視聴は1年半ぶりくらい、現状第1話だけ見直した、
という状態でこの記事を書いています。
(当然ながら、言及対象はアニメ版だけになります)
上記は、去年の年末に1年以上ハルヒを見ていない僕がうろ覚えで書いたハルヒ印象なのですが、この辺が今回、ひとつの視座になっております。
つまり、この涼宮ハルヒの憂鬱を、『ハルヒの自己肯定の話』という視座から見ていこうかな、と。
そもそもハルヒの不思議探し・不思議好き、つまり「特別」を志向する思考は行き過ぎていて、自分を否定してしまってる節があります。だって興味あるのは「宇宙人、もしくはそれに準じるナニカ」で、「ただの人間には興味ありません」ならば、ハルヒって自分自身にも興味ないわけじゃないですか。(自分の能力は自覚してないから、自分から見れば「ただの人間」は脱していないわけですし)
特別じゃなければ価値は無い、と断じる。だがその実、自分自身は特別ではない。だから探す。「特別」を。自分自身に価値を見い出せるような特別を――価値を見い出せるような出会いを。
けれど結局は、「興味ありません」と言っていた、ハルヒから見ればただの人間であるキョンに興味を持ち、みくる・長門・古泉(ハルヒから見れば普通人)にも多少なりとも興味を持つ――しかも、「こんなことしている暇は無い」と断じた、ただの人間と過ごす時間を自分から作り出している――という変化。
自分の肯定と他者の肯定。
無価値が有価値へとシフトする心境の変化。
「白雪姫」「眠れる森の美女」――それは両方とも眠っているお姫様を起こすための口づけ。眠っている。何に眠っている?何を目を瞑って見ないようにしている?
考察をするためには、ある程度視座を限定することが重要になるんじゃないかと考えています。なので今回は、その辺を気にしていきたいと思っています。
あとそれ以外にも……第1話感想・考察にも書いたように、ハルヒはキョンをどう見ているのかということや、キョンの心情――特にこの
この辺は、視聴するたびに重視したり軽視したりと変化するかもしれませんが。
そんな感じで、「涼宮ハルヒの憂鬱」を『自己肯定(ならびに他者肯定、世界の肯定)』の話である可能性、という視座から考えていき、また全話視聴後には、当記事に対するアンサー記事も記したいと思っています。
なんか風呂敷広げすぎで怖いんですけどw、以上です。
そちらをご覧頂く前に、ひとつ、自分の視座を表明しておきたいと思います。
なお、原作は「消失」だけ既読、「分裂」もちょっとだけ読みましたが、「憂鬱」~「消失」間、「消失」~「分裂」間のエピソードは(両作品内の記述で分かる範囲以外には)何一つ知らない、アニメ版ハルヒ視聴は1年半ぶりくらい、現状第1話だけ見直した、
という状態でこの記事を書いています。
(当然ながら、言及対象はアニメ版だけになります)
『キョンはハルヒが望んだから現われた人物ではないのではないか』
細かいところとか思考過程とか飛ばして結論から言うと。
最終回のアレを見ても分かるように、キョンはハルヒを認めたというか受け入れた、と"ハルヒは思っている"のですよ。この自分を認め、受け入れてくれていると。子供の頃野球場に行って、自分が何処にでもいるちっぽけな存在であるということが明らかになった彼女のことを、"何処にでもいるちっぽけな存在では『ない』"として認め受け入れた人がいる、それがキョンだと。
でもそれはハルヒが望んだことなのかーというと、違うんじゃないかなー、と思う。
あそこから始まる願望は、誰か一人の特別を望むベクトルではなく、皆に対する……いや、これはちょっと違うかな。皆からじゃなくて(もしくはそれを踏まえた上で)、『自分が自分を特別と思うこと』というベクトルの願望じゃないかな、と思った。
誰か一人が自分の事を"何処にでもいるちっぽけな存在では『ない』"と認め受け入れるのではなく、自分が自分のことを"何処にでもいるちっぽけな存在では『ない』"と認め受け入れること。それが望みのベクトルではないかと。
そして、その実現として、宇宙人や未来人や超能力者や異世界人といった、"特別"なモノとコンタクトを取ることにより、自分自身も特別になる――自分がそこに"特別"という価値を見い出すのではないのかな、と(この辺は少し精査が必要)。
なんにしろ、自分を認めてくれる誰かを望んではいなかったんじゃないかなー、と思うんですよ。大体、そんな望みだったら中学時代に叶えてろっつー話で。あー、古泉とか長門とかみくるが『今になって』登場してきたのは、「高校に入ればなんかいるかも(あるかも)」的な願望をハルヒが軽く口に出していたことから察するに、願望の実現の方向転換が図られたのかな、と少し思う。つまり、中学までは『いる確率が低いと自認しながらも探す』という方向が、高校では、そこに抱いていた期待から『いる確率が多少はあると思いながら探す』へと変化したんじゃないかなぁと。だから見つかった。いる(というか、出会える)と思って探しているから。
で、キョン。
キョンが異世界人ならともかく、普通の人間だとして。
彼の事は、別に探してはいません。つうか望んでも欲してもいません。自分の事を"何処にでもいるちっぽけな存在では『ない』"と思ってくれる人なんか望んでいなくて、ハルヒが望んでいたのは、自分自身が自分自身のことを"何処にでもいるちっぽけな存在では『ない』"と思える何か、だったからです。
……まあ上記ふたつ、字面だけならどっちも同じというか、似た感じなんですけど、一つ目の方にはワンステップ入るのですよ。ハルヒ自身の感情。誰かが自分を認めてくれることから、自分自身を認める、という感情が生まれる。
誰かが自分を特別に思ってくれることが、自分で自分を特別に思えることになる、だなんて、ハルヒは恐らく想定していなかったと思うんです。あー、もちろん相手がキョンであることも重要で、ハルヒはキョンのことを『同類』に近いように思っているんじゃないかなー、と思うんです。この辺は今度、時間でもあったら何とかかんとかします。
想定していなかったんだから、望むべくもないかな、と。
望んでいなかったものを手に入れたのに、それが望みを叶えることになる。思っていたのとは違う形だけど、十分、自分にとって心地よい形で。そういうことはよくあることじゃないかな、と思います。
上記は、去年の年末に1年以上ハルヒを見ていない僕がうろ覚えで書いたハルヒ印象なのですが、この辺が今回、ひとつの視座になっております。
つまり、この涼宮ハルヒの憂鬱を、『ハルヒの自己肯定の話』という視座から見ていこうかな、と。
そもそもハルヒの不思議探し・不思議好き、つまり「特別」を志向する思考は行き過ぎていて、自分を否定してしまってる節があります。だって興味あるのは「宇宙人、もしくはそれに準じるナニカ」で、「ただの人間には興味ありません」ならば、ハルヒって自分自身にも興味ないわけじゃないですか。(自分の能力は自覚してないから、自分から見れば「ただの人間」は脱していないわけですし)
特別じゃなければ価値は無い、と断じる。だがその実、自分自身は特別ではない。だから探す。「特別」を。自分自身に価値を見い出せるような特別を――価値を見い出せるような出会いを。
けれど結局は、「興味ありません」と言っていた、ハルヒから見ればただの人間であるキョンに興味を持ち、みくる・長門・古泉(ハルヒから見れば普通人)にも多少なりとも興味を持つ――しかも、「こんなことしている暇は無い」と断じた、ただの人間と過ごす時間を自分から作り出している――という変化。
自分の肯定と他者の肯定。
無価値が有価値へとシフトする心境の変化。
「白雪姫」「眠れる森の美女」――それは両方とも眠っているお姫様を起こすための口づけ。眠っている。何に眠っている?何を目を瞑って見ないようにしている?
考察をするためには、ある程度視座を限定することが重要になるんじゃないかと考えています。なので今回は、その辺を気にしていきたいと思っています。
あとそれ以外にも……第1話感想・考察にも書いたように、ハルヒはキョンをどう見ているのかということや、キョンの心情――特にこの
「こうして俺達は出会っちまったぁ。しみじみ思う、偶然だと信じたいと」の真意とかを探りたいなぁと。
この辺は、視聴するたびに重視したり軽視したりと変化するかもしれませんが。
そんな感じで、「涼宮ハルヒの憂鬱」を『自己肯定(ならびに他者肯定、世界の肯定)』の話である可能性、という視座から考えていき、また全話視聴後には、当記事に対するアンサー記事も記したいと思っています。
なんか風呂敷広げすぎで怖いんですけどw、以上です。
テーマ : 涼宮ハルヒの憂鬱関連 - ジャンル : アニメ・コミック
2008'02.03 (Sun) 04:59
何で今さら?と思われるかも知れませんが、あらためて視聴しましたので。
感想とか書いてなかったし、考察とかしたことなかったんで、書いてみたいし、してみたい、という気持ちが強いですので、書くし、します。
原作は「消失」だけ既読。「分裂」もちょっとだけ読みましたが、「憂鬱」~「消失」間、「消失」~「分裂」間のエピソードは(両作品内の記述で分かる範囲以外には)何一つ知りません。
アニメ版ハルヒ視聴は1年半ぶりくらいですが、放映当時は沢山みました。とはいえ、細かい部分なんかは結構忘れちゃっています。
そんなこんなで、的はずれなコトや想像が逞しすぎるコトを書くかもしれませんが、ご笑覧いただければ幸いです。
あ、何気に。ハルヒに関する、よそ様のご感想や考察は、ほぼ全く読んだこと無かったりします。全部終わったら読み漁る予定でして、そしてそこで「あ、そうなのか!わー何書いてんだ俺はー」とショックを受ける予定でして、それもまた楽しみ。
感想とか書いてなかったし、考察とかしたことなかったんで、書いてみたいし、してみたい、という気持ちが強いですので、書くし、します。
原作は「消失」だけ既読。「分裂」もちょっとだけ読みましたが、「憂鬱」~「消失」間、「消失」~「分裂」間のエピソードは(両作品内の記述で分かる範囲以外には)何一つ知りません。
アニメ版ハルヒ視聴は1年半ぶりくらいですが、放映当時は沢山みました。とはいえ、細かい部分なんかは結構忘れちゃっています。
そんなこんなで、的はずれなコトや想像が逞しすぎるコトを書くかもしれませんが、ご笑覧いただければ幸いです。
あ、何気に。ハルヒに関する、よそ様のご感想や考察は、ほぼ全く読んだこと無かったりします。全部終わったら読み漁る予定でして、そしてそこで「あ、そうなのか!わー何書いてんだ俺はー」とショックを受ける予定でして、それもまた楽しみ。
テーマ : 涼宮ハルヒの憂鬱関連 - ジャンル : アニメ・コミック
2008'02.01 (Fri) 01:58
未完成な内容。ちょっとここから時間掛かりそうなので、一端暫定的に上げしますー。
※以下には、京都アニメーションの「CLANNAD」15話までの内容が含まれています。
アニメのネタバレになりますので、閲覧の際にはご注意下さい。
※画面比率「4:3」視聴時の感想です。
※以下には、京都アニメーションの「CLANNAD」15話までの内容が含まれています。
アニメのネタバレになりますので、閲覧の際にはご注意下さい。
※画面比率「4:3」視聴時の感想です。
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