2009'05.29 (Fri) 04:36
憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可愛い憂が可(以下無限ループ
もう憂以外どうでもよくなってしまった。キャラクターがじゃなくて、話とか演出とか全部。
わけわからん。
わけわからんぞ自分。
これがキャラ萌えというヤツか……。
えーとなんだっけ、書いてなかった7話のかんそーね。
「繰り返し」。
やはり一年前と「同一なもの」、そして「異なるもの」、この二つが目立ちましたね。
そもそもこの4月という時期自体が一年前と同一なのですが、たとえば、部活動が新入生を勧誘、チラシで勧誘というのが、一年前と同一のシチュエーションでありながら、去年は貰う方、今年は渡す方と異なっている。

たとえば、この部室での勧誘という姿も、事象は同一でも、するもの・されるもの/入部・非入部という結果、と、異なるものが生じている。一年前は唯が座っていた場所に新入生が座り、一年前と同じ様にお菓子でもてなし、一年前と同じ様にゆるい感じに会話し、でも一年前とは違う。「同じ」ではなく。




たとえば、演奏と、そこで映される学校内のイメージという、一年前、唯の目の前で「翼をください」が演奏されながら描かれたものと同一のもの。
でもやっぱ異なるものがある。演奏されている曲目は異なるし、場所も異なるし、当然技量も異なっているし、挿入されるイメージもまた、異なる。
同一のものと異なるもの。
時は違うけど同じ様な事象なんだから、同一な部分があってもおかしくないんですけど、でも異なっていて当然なんですよね。やってるものも違うし、やられているものも違う。たとえば、一年前の翼をくださいは、唯に向けて演奏されたもので、あそこで挿入されたイメージは、あの頃まだ新入生だった唯にとっての(これからの)学校生活・部活動から連なるイメージ。対して今回私の恋はホッチキスは、新入生に向けて演奏されたもので、ここで挿入されているイメージは、新入生の彼女たちにとっての、(これからの)学校生活・部活動から連なるイメージ。
そこは同じものがあるけれど、やっぱり異なるものもある。
それぞれ異なるということですね。
だから、演奏見て入部を決めるものもいれば、部室で見学した結果入部をしないものもいる。
ムギには彼女たちが「楽しそうな」人たちに見えたから入部をしたけれど、今回見学に来た子はむしろそれに引いてしまった。唯は演奏聞いて「なんだか楽しそう」と入部決めたけど、今年入部しなかった子たちには、それは入部を決意させるほどのものではなかった。
みんなそれぞれの理由で、入部するし、入部しない。
それは梓にとっても、ですね。
てゆうかさ~、憂はなんで入部しないんでしょう?
あれかな~、お姉ちゃんの自立的なそれとかに過干渉しないように的な気遣い的な何かですかねぇ。それとも何か遠慮してんのかなぁ。あるいは自分がお姉ちゃん超過保護だって分かってて、どうしてもお姉ちゃんの世話しちゃうから、それが他の人のお姉ちゃんを見る目に悪影響を与えるとか思ってるとか――でもその辺だったら、同じ学校を選ぶ段でもちょっと引っかかりそうだしなあ。
うーん、ここはやはりアレですね。
「これ以上お姉ちゃんと一緒にいると、お姉ちゃんのことを好きになりすぎちゃうから……だから私たち、ちょっとくらいは離れた方がいいの……悲しいけど、寂しいけど、うん、がまんする!」
これですね!これしかない!これじゃないと納得しない!こういうことにしとけ!しちゃえ!
でも同じ学校には通っちゃう。せめてそのくらいは、自分を甘やかしちゃう。
ホントもうね、だからね(だから……だと……?)、憂ちゃんはちょーかわいいんですよー。
てゆうか憂が軽音部入ってないから憂の出番が全然ないんですけど第9話ァ!!!
(↑第9話の感想はこの一言で終わりです)
京アニさんは原作を改変して憂を軽音部に入れてしまったらどうだろう。
もうね、いっそ改変しまくって。
憂を軽音部に入れてお姉ちゃんとラブラブにさせてみたらどうだろう。
タイトルも改変。
『ういゆい!』に。
これしかない。
ハルヒに喰われ気味らしいけいおん人気を爆発させるには、これしかない。いやもうこれじゃタイトルけいおんじゃないけど。
憂を軽音部に入れる。部活に入った憂は、部室でお姉ちゃんを観察しながら「ギター弾いてるお姉ちゃんかわいいよね~」「お菓子食べてるお姉ちゃんかわいいよね~」「お喋りしているお姉ちゃんかわいいよね~」「歩いてるお姉ちゃんかわいいよね~」「まばたきしているお姉ちゃんかわいいよね~」「もうお姉ちゃんっていうだけで全てがかわいいよね~」と、お姉ちゃんかわいいをただひたすら連呼しまくる。
そんな、夢のような軽音楽部。
ああ、最高じゃないですか!
そしてお姉ちゃんの世話をかいがいしく焼きまくる憂を見ていた澪と梓は、そこに何となく嫉妬を覚えてしまうのです。「ゆ……唯が取られる……?」。除け者にされているかのようになって初めて思う、この微妙な気持ち。早速アタックしようとするけれど、時既に遅し、ういゆいの絆は鉄壁で完璧、入り込む隙間はどこにもなし! 「ふふ……おねえちゃんはわたしのものだよ?」。嫉妬に怒り狂う澪と梓! それを余裕でいなす憂! そしてそれを見て頬をうっとりと赤く染めまくりのムギ! ノベライズ化は中里十、ゲーム化はふぐり屋! これでかつる!
え、律っちゃん? 「律っちゃんいい」(「ヨッくんいい」の声音で)
え~とですね、つまりですね、私は憂の出番を待ち焦がれているわけです。我われは憂の出番を待ち望みまくっているわけですよ。世界は憂を待っている。もうスケールでっかくしちゃったよ! そのくらい憂の出番を待っている。つうか憂だけで一作作れよ(もうめちゃくちゃだ!)。
まあ、百合とかじゃないんですけどね。
なんだろうな、あの、姉妹なのに「おねえちゃんかわいいよね~」と言ってしまう、それを当然としてしまう、そう受け止めている、あの態度。
あれがよろしいのですよ。百合だなんてむしろとんでもない。むしろいらない。可愛いという視線が必要だ。
……となると、ある一つの視聴者の視座の置き場として機能していると言えなくもないかもしれません。唯って可愛いよなぁ、唯をやしないたいくらいだよ~という視聴者の視点と同一的であり、ならばそういう視聴者にとっては、憂の視線と自らの視線は自然同一化されるものであり、つまり憂は我われの視線を持った理想的な存在であるともいえる。
まあ、そんなことはどうでもいいや!(いいのかよ)


憂かわいいよ憂!
以上だよ~。8話と9話の感想おわり!
もう憂以外どうでもよくなってしまった。キャラクターがじゃなくて、話とか演出とか全部。
わけわからん。
わけわからんぞ自分。
これがキャラ萌えというヤツか……。
えーとなんだっけ、書いてなかった7話のかんそーね。
「繰り返し」。
やはり一年前と「同一なもの」、そして「異なるもの」、この二つが目立ちましたね。
そもそもこの4月という時期自体が一年前と同一なのですが、たとえば、部活動が新入生を勧誘、チラシで勧誘というのが、一年前と同一のシチュエーションでありながら、去年は貰う方、今年は渡す方と異なっている。

たとえば、この部室での勧誘という姿も、事象は同一でも、するもの・されるもの/入部・非入部という結果、と、異なるものが生じている。一年前は唯が座っていた場所に新入生が座り、一年前と同じ様にお菓子でもてなし、一年前と同じ様にゆるい感じに会話し、でも一年前とは違う。「同じ」ではなく。




たとえば、演奏と、そこで映される学校内のイメージという、一年前、唯の目の前で「翼をください」が演奏されながら描かれたものと同一のもの。
でもやっぱ異なるものがある。演奏されている曲目は異なるし、場所も異なるし、当然技量も異なっているし、挿入されるイメージもまた、異なる。
同一のものと異なるもの。
時は違うけど同じ様な事象なんだから、同一な部分があってもおかしくないんですけど、でも異なっていて当然なんですよね。やってるものも違うし、やられているものも違う。たとえば、一年前の翼をくださいは、唯に向けて演奏されたもので、あそこで挿入されたイメージは、あの頃まだ新入生だった唯にとっての(これからの)学校生活・部活動から連なるイメージ。対して今回私の恋はホッチキスは、新入生に向けて演奏されたもので、ここで挿入されているイメージは、新入生の彼女たちにとっての、(これからの)学校生活・部活動から連なるイメージ。
そこは同じものがあるけれど、やっぱり異なるものもある。
それぞれ異なるということですね。
だから、演奏見て入部を決めるものもいれば、部室で見学した結果入部をしないものもいる。
ムギには彼女たちが「楽しそうな」人たちに見えたから入部をしたけれど、今回見学に来た子はむしろそれに引いてしまった。唯は演奏聞いて「なんだか楽しそう」と入部決めたけど、今年入部しなかった子たちには、それは入部を決意させるほどのものではなかった。
みんなそれぞれの理由で、入部するし、入部しない。
それは梓にとっても、ですね。
てゆうかさ~、憂はなんで入部しないんでしょう?
あれかな~、お姉ちゃんの自立的なそれとかに過干渉しないように的な気遣い的な何かですかねぇ。それとも何か遠慮してんのかなぁ。あるいは自分がお姉ちゃん超過保護だって分かってて、どうしてもお姉ちゃんの世話しちゃうから、それが他の人のお姉ちゃんを見る目に悪影響を与えるとか思ってるとか――でもその辺だったら、同じ学校を選ぶ段でもちょっと引っかかりそうだしなあ。
うーん、ここはやはりアレですね。
「これ以上お姉ちゃんと一緒にいると、お姉ちゃんのことを好きになりすぎちゃうから……だから私たち、ちょっとくらいは離れた方がいいの……悲しいけど、寂しいけど、うん、がまんする!」
これですね!これしかない!これじゃないと納得しない!こういうことにしとけ!しちゃえ!
でも同じ学校には通っちゃう。せめてそのくらいは、自分を甘やかしちゃう。
ホントもうね、だからね(だから……だと……?)、憂ちゃんはちょーかわいいんですよー。
てゆうか憂が軽音部入ってないから憂の出番が全然ないんですけど第9話ァ!!!
(↑第9話の感想はこの一言で終わりです)
京アニさんは原作を改変して憂を軽音部に入れてしまったらどうだろう。
もうね、いっそ改変しまくって。
憂を軽音部に入れてお姉ちゃんとラブラブにさせてみたらどうだろう。
タイトルも改変。
『ういゆい!』に。
これしかない。
ハルヒに喰われ気味らしいけいおん人気を爆発させるには、これしかない。いやもうこれじゃタイトルけいおんじゃないけど。
憂を軽音部に入れる。部活に入った憂は、部室でお姉ちゃんを観察しながら「ギター弾いてるお姉ちゃんかわいいよね~」「お菓子食べてるお姉ちゃんかわいいよね~」「お喋りしているお姉ちゃんかわいいよね~」「歩いてるお姉ちゃんかわいいよね~」「まばたきしているお姉ちゃんかわいいよね~」「もうお姉ちゃんっていうだけで全てがかわいいよね~」と、お姉ちゃんかわいいをただひたすら連呼しまくる。
そんな、夢のような軽音楽部。
ああ、最高じゃないですか!
そしてお姉ちゃんの世話をかいがいしく焼きまくる憂を見ていた澪と梓は、そこに何となく嫉妬を覚えてしまうのです。「ゆ……唯が取られる……?」。除け者にされているかのようになって初めて思う、この微妙な気持ち。早速アタックしようとするけれど、時既に遅し、ういゆいの絆は鉄壁で完璧、入り込む隙間はどこにもなし! 「ふふ……おねえちゃんはわたしのものだよ?」。嫉妬に怒り狂う澪と梓! それを余裕でいなす憂! そしてそれを見て頬をうっとりと赤く染めまくりのムギ! ノベライズ化は中里十、ゲーム化はふぐり屋! これでかつる!
え、律っちゃん? 「律っちゃんいい」(「ヨッくんいい」の声音で)
え~とですね、つまりですね、私は憂の出番を待ち焦がれているわけです。我われは憂の出番を待ち望みまくっているわけですよ。世界は憂を待っている。もうスケールでっかくしちゃったよ! そのくらい憂の出番を待っている。つうか憂だけで一作作れよ(もうめちゃくちゃだ!)。
まあ、百合とかじゃないんですけどね。
なんだろうな、あの、姉妹なのに「おねえちゃんかわいいよね~」と言ってしまう、それを当然としてしまう、そう受け止めている、あの態度。
あれがよろしいのですよ。百合だなんてむしろとんでもない。むしろいらない。可愛いという視線が必要だ。
……となると、ある一つの視聴者の視座の置き場として機能していると言えなくもないかもしれません。唯って可愛いよなぁ、唯をやしないたいくらいだよ~という視聴者の視点と同一的であり、ならばそういう視聴者にとっては、憂の視線と自らの視線は自然同一化されるものであり、つまり憂は我われの視線を持った理想的な存在であるともいえる。
まあ、そんなことはどうでもいいや!(いいのかよ)


憂かわいいよ憂!
以上だよ~。8話と9話の感想おわり!
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2009'05.15 (Fri) 03:16
もうお前ら結婚しちゃえよ……!>憂と唯
順番はこれです。憂と唯です。明らかに憂×唯です。いやごめん明らかっていうか多分だけど。
唯は「他意が無さすぎる」ので、×の前には置きづらすぎるのです。天然的にその才能を発揮することはするんだけど、それゆえに、ある種の主体性を欠く。
逆に憂は、主体的な行動ゆえに、わたしたちが見たときの視座の置き場としての主体として機能するんです。今回の一番最初が、「その日、お姉ちゃんはたくさん叱られました」――そして思い出し笑い、と、憂視点だったという点なんかは、まさにそういったところでしょう。結果的にか狙ってかはともかく、唯と同定させるのは難しすぎて、憂と同定させるのは比較的容易い。
しかしまー、このお姉ちゃんなら、そりゃ憂も姉萌えになりますよ。そりゃなるよ。そして恐らく「姉妹だから」、屈託なく萌えられる。憂と唯が結婚できない日本の法制度と社会的な常識にはうらめしい気持ちを抱くが、しかし、もし日本の法制度と社会的な常識が憂と唯の結婚を普通に受けいれるものであったら、この関係は成り立たないのではないだろうか。どこまでいっても姉妹だからこそ、あの状態で居れるのかもしれない。その視線に混じり気はない。純粋に「姉萌え」である。
あとあれよ。平沢姉妹って、なにかあるとすぐ本に頼るのねw(献立、一発芸入門、サルでもできる集中方、ギター入門)
けいおん!の良さは、なんといいますか、ここまで見てきて思った、ていうか確信的に思ったのですが、やっぱ描写の誠実さ、安定さ、実直さ、そこらへんかなと。
それぞれの人たちがさ、本当に「それぞれに沿った」行動とか、表情とか、仕草とか、思考とか、本当に行っているんですよ。
たとえば澪がああいうキャラなのは、ああいうキャラを作った結果澪になったのではなく、澪がこういう言動や思考や表情や仕草やらを重ねた結果、ああいうキャラになったなぁ、と。
よく見える律の細かさ、必要なときに確認と行う気づかい(前回のエアMCとかね)とか、ムギのみんなと同じこと指向(第1話のポテトとか、今回の「わーい」とか)とか。本当細かいとこ言うと、第2話、ギター買いに行ったときにファミレス行ったじゃないですか。あそこで、それぞれが何かそれぞれに沿った感じのメニューを頼んで(律:ケーキ系とジュース系、澪&紬:ホットのコーヒーor紅茶、唯:パフェ、飲み物は水で済ます)て、なんかもーその瞬間に「これやべえ」とか思ったのです。これ超細けえ。
プレゼント交換のときにみんなそれぞれ全く違う感触、感慨を抱いていた、ということを実直に描写したあたりなんかは、本当にそういうのを感じました。
みんなそれぞれ。
それがいいとか悪いとかじゃなくて、「それぞれ」である彼女たち固有の描写の積み重ねが、今の彼女たちを作っている。彼女たちのポジションや何やらも、最初からそうであったのではなく、彼女たちの行動や性格が、それぞれのポジションを作っていった。(だからこそ、唯は最初ギターが超うまい人に「間違えられた」)。
それも常々変化していくもので、たとえば今回は律が唯に手を上げたりしてたんすね。最後の部分。あれはビックリしたのですが、しかしここまでの描写を見てきた身としては、納得できるものでもありましたよね。唯の積み重ねが、そして律の積み重ねが、彼女たちそれぞれのポジションを流動させ、関係を構築して、「そういうことができる」間柄になったんだろうなと。
そんな感じで、おわり。
順番はこれです。憂と唯です。明らかに憂×唯です。いやごめん明らかっていうか多分だけど。
唯は「他意が無さすぎる」ので、×の前には置きづらすぎるのです。天然的にその才能を発揮することはするんだけど、それゆえに、ある種の主体性を欠く。
逆に憂は、主体的な行動ゆえに、わたしたちが見たときの視座の置き場としての主体として機能するんです。今回の一番最初が、「その日、お姉ちゃんはたくさん叱られました」――そして思い出し笑い、と、憂視点だったという点なんかは、まさにそういったところでしょう。結果的にか狙ってかはともかく、唯と同定させるのは難しすぎて、憂と同定させるのは比較的容易い。
しかしまー、このお姉ちゃんなら、そりゃ憂も姉萌えになりますよ。そりゃなるよ。そして恐らく「姉妹だから」、屈託なく萌えられる。憂と唯が結婚できない日本の法制度と社会的な常識にはうらめしい気持ちを抱くが、しかし、もし日本の法制度と社会的な常識が憂と唯の結婚を普通に受けいれるものであったら、この関係は成り立たないのではないだろうか。どこまでいっても姉妹だからこそ、あの状態で居れるのかもしれない。その視線に混じり気はない。純粋に「姉萌え」である。
あとあれよ。平沢姉妹って、なにかあるとすぐ本に頼るのねw(献立、一発芸入門、サルでもできる集中方、ギター入門)
けいおん!の良さは、なんといいますか、ここまで見てきて思った、ていうか確信的に思ったのですが、やっぱ描写の誠実さ、安定さ、実直さ、そこらへんかなと。
それぞれの人たちがさ、本当に「それぞれに沿った」行動とか、表情とか、仕草とか、思考とか、本当に行っているんですよ。
たとえば澪がああいうキャラなのは、ああいうキャラを作った結果澪になったのではなく、澪がこういう言動や思考や表情や仕草やらを重ねた結果、ああいうキャラになったなぁ、と。
よく見える律の細かさ、必要なときに確認と行う気づかい(前回のエアMCとかね)とか、ムギのみんなと同じこと指向(第1話のポテトとか、今回の「わーい」とか)とか。本当細かいとこ言うと、第2話、ギター買いに行ったときにファミレス行ったじゃないですか。あそこで、それぞれが何かそれぞれに沿った感じのメニューを頼んで(律:ケーキ系とジュース系、澪&紬:ホットのコーヒーor紅茶、唯:パフェ、飲み物は水で済ます)て、なんかもーその瞬間に「これやべえ」とか思ったのです。これ超細けえ。
プレゼント交換のときにみんなそれぞれ全く違う感触、感慨を抱いていた、ということを実直に描写したあたりなんかは、本当にそういうのを感じました。
みんなそれぞれ。
それがいいとか悪いとかじゃなくて、「それぞれ」である彼女たち固有の描写の積み重ねが、今の彼女たちを作っている。彼女たちのポジションや何やらも、最初からそうであったのではなく、彼女たちの行動や性格が、それぞれのポジションを作っていった。(だからこそ、唯は最初ギターが超うまい人に「間違えられた」)。
それも常々変化していくもので、たとえば今回は律が唯に手を上げたりしてたんすね。最後の部分。あれはビックリしたのですが、しかしここまでの描写を見てきた身としては、納得できるものでもありましたよね。唯の積み重ねが、そして律の積み重ねが、彼女たちそれぞれのポジションを流動させ、関係を構築して、「そういうことができる」間柄になったんだろうなと。
そんな感じで、おわり。
2009'05.10 (Sun) 23:52
わたしたちはこれを考えなければならない。
このイメージにより生じた新たなるイメージを。



この三つのイメージ。この連なり。
最初と2枚目の画像だけなら、そこから想定されるのは「パンツ」であろう。


澪が倒れ、観客がなんか騒いでて(しかも恥ずかしー的なニュアンスで)、カメラに映ってはいないが澪の体勢的には明らかにパンツが見えてる感じである。
もしも3枚目の画像がなく、この2つだけだとしたらと仮定しよう。
これが「パンツのドアップ」なのか、それとも「まったく関係ないただの柄(イメージ映像)」なのか、そこは深く取られない。どちらにしろ同じだからだ。これが本当にパンツ(をドアップで)見せたものであろうと、これが本当はパンツとは全く関係ないただの柄――たとえば「こういう柄のお茶碗を」、そうと分からないように、柄だけを映したものなのか、どちらにしろ効果は同じで、それはわたしたちに『パンツ』をイメージさせる。
映像においては、x+y は必ずしも「xy」になるとは限らない。それぞれの文脈を介し認識される。転んだ絵+なんかの柄は、その文脈に沿った認識から「パンツ」という、前者とも後者ともイコールで結ばれないものを想起させる。x+y×文脈=n となりえる。
のですが、今回の「けいおん!」の場合、ここに第三者、お米が、お茶碗が加わる。



ど、どういうことなの……?
1枚目と2枚目の画像なら、文脈を介して導き出されるイメージは「パンツ」で終わる。なのに、なぜかそこに3枚目の画像、「お茶碗@お米大盛り」が加わっている!
言うまでもありませんが、最後の画像が加わらなくて、「パンツ」としては認識されえます。パンツ的なものが、パンツと思わしきものが描かれた、と。その観点だけからいうと、最後の画像は、本来無くてもいい。1枚目と2枚目だけでパンツは伝わっているし、そしてなにより、3枚目の画像は「パンツ」のイメージに直接的には寄与しない!
そうですよ、お茶碗大盛りのごはんなんですよ? 「お茶碗大盛りのごはん」を見て、「パンツ」を想起する人間なんてこの世界にはたしてどのくらいいるというのでしょう? そういう特殊プレイ(お茶碗プレイ)をやったことある人とかならいざ知らず、てゆうかなんだそれ、そんなプレイあるのか、ちょう興味ある、やったことある人教えて下さい。それはともかくだ、3枚目はそれ単体でも、この文脈でも、「パンツ」に直截的には結び付かない。
もちろん、お茶碗からはみ出すほどの大盛りのごはんはパンツからはみ出すほどのエロティックボディ的な淫靡さを誘発するし、パンツ=性欲ときてごはん=食欲とくるコンビネーションはわれわれの欲望に突き刺さるような請求心を持つだろう。他にも色々な想像ができるだろう。しかし、どれも想像である。たしかではない。
そして、それは、「1枚目+2枚目」の『画像』の連鎖から、つまり視覚領域を主に導き出されたイメージ、それと異なる。「1枚目+2枚目+3枚目」は、画像のみならず、視覚領域からのイメージのみならず、そこに『意味』的な解釈があってはじめて解釈される、つまり暗喩や隠喩を求める部分から発動している。
眼で見て当たり前のように「そうだ」と分かる前者と異なり、後者は考えた末に「もしかしたらこうかも(こういう意味かも)」と解釈される。そしてその解釈も、当然分かりやすいもの、記号的なものではなく、分かりづらい、とらえにくい、人によって様々に解かれるようなものになっている。
この違いは大きいでしょう。
つまりここにおいて、この「1枚目+2枚目+3枚目」の画像の連鎖を「パンツ」という意味合いで解きほぐした場合、3枚目は「そこに収まりきらない何か」となっている。
そしてそれこそが、ここにおけるキモとなる。ひとつの意味に回収しきれない「何か」があるからこそ、この連鎖に「パンツ」に集約しきれないイメージが生まれる。しかも今回は、2枚目の画像がズームアウトして3枚目の画像に至るから、より――つまり、2枚目の画像はパンツをドアップに映したものでも他のイメージでもなんでもなく、「お茶碗のアップだ」ということが明らかになっている――そうなる。
「1枚目+2枚目」の組み合わせはパンツのようである、しかし「1枚目+2枚目+3枚目」の時点で、「1枚目+2枚目」はパンツでない(しかしパンツをイメージさせるものである)ことが明らかになっている、けれども。「3枚目」そのものに、お茶碗の柄としてのパンツが残存する。しかし、この「3枚目」は、『パンツ』だけを考えるなら不必要であり、むしろこれが無ければ、2枚目を単純にパンツのイメージと解釈できるのに、これがあるから、「単純に」ではなく、ひとつ迂回した形での「パンツ」としての理解に至る。そこにはひとつ、「何か」としての、3枚目(ならび3枚目という連鎖)の回収しきれないものが残る。
ここにはもはや、パンツそのものを描く以上のエロさと強度が生まれている。パンツを描くことなく、パンツを描かないでパンツのリアリティを描くこともなく、それ以上のものを描いている。回収しきれない何かが、そうであるがゆえ、そこに解釈しきれない余地と、自己解釈に陥らなければならない余地、その両方を生み出す。非隣接的な、非類似的なもの――お茶碗がそこにある――が、わずかな「柄」を頼りに隣接・類似しようとしている!てゆうかしている!(別にこの3枚目は、柄さえ一緒なら「お茶碗」でなくとも可能だったはずだ)

イメージとして”だけ”確固として存在しているのだ(あの世界に実際にある(このお茶碗が)かどうかは定かではない)。パンツと何も関係ないものが、パンツと隣接して。それは、われわれの脳内、認識、解釈でも隣接する。無駄に隣接しやがると言いたくなるくらい隣接するが、「在る」以上無駄でも何でもなく、それは「1枚目+2枚目」の幸せな連鎖を突き崩し、外部的な「何か」を(しかもこの3枚目ではそれまでと「示すこと」/「語ること」の区分が変化している(図像的な記号と象徴的な記号)、より外部的なもの)そこに突き刺し、ただのパンツのイメージ以上の混沌、カオスをそこに招き入れるのだ。
そして、それは、忘れちゃいけない。
あっちの世界のなかでは、澪がパンツを見られて、観客がパンツを見ている。このひとつのわけのわからなさ、外部性、「パンツ」に回収しきれないイメージはどこに繋がるかといえば、そこにである。
つまり、これは、パンツを描く(あるいはパンツのイメージを描く)だけではなく、そのときの澪や観客、あるいはその場の混沌なども間接的に描いているのだ。
単純にパンツを描くだけだったら、ただ「パンツ」を描いただけだっただろう。1枚目と2枚目を描くだけなら、ただ「パンツ」を描いただけだっただろう。しかし3枚目が描かれることにより、あの場、あの瞬間、澪、観客、軽音部のみんな、そういったものも、その混沌も、間接的に描かれている。
もはやパンツが描かれていないことなど何の問題にもならない。ここにはパンツ以上のものが描かれているのだから。
という解釈はどうだろうか。
このイメージにより生じた新たなるイメージを。



この三つのイメージ。この連なり。
最初と2枚目の画像だけなら、そこから想定されるのは「パンツ」であろう。


澪が倒れ、観客がなんか騒いでて(しかも恥ずかしー的なニュアンスで)、カメラに映ってはいないが澪の体勢的には明らかにパンツが見えてる感じである。
もしも3枚目の画像がなく、この2つだけだとしたらと仮定しよう。
これが「パンツのドアップ」なのか、それとも「まったく関係ないただの柄(イメージ映像)」なのか、そこは深く取られない。どちらにしろ同じだからだ。これが本当にパンツ(をドアップで)見せたものであろうと、これが本当はパンツとは全く関係ないただの柄――たとえば「こういう柄のお茶碗を」、そうと分からないように、柄だけを映したものなのか、どちらにしろ効果は同じで、それはわたしたちに『パンツ』をイメージさせる。
映像においては、x+y は必ずしも「xy」になるとは限らない。それぞれの文脈を介し認識される。転んだ絵+なんかの柄は、その文脈に沿った認識から「パンツ」という、前者とも後者ともイコールで結ばれないものを想起させる。x+y×文脈=n となりえる。
のですが、今回の「けいおん!」の場合、ここに第三者、お米が、お茶碗が加わる。



ど、どういうことなの……?
1枚目と2枚目の画像なら、文脈を介して導き出されるイメージは「パンツ」で終わる。なのに、なぜかそこに3枚目の画像、「お茶碗@お米大盛り」が加わっている!
言うまでもありませんが、最後の画像が加わらなくて、「パンツ」としては認識されえます。パンツ的なものが、パンツと思わしきものが描かれた、と。その観点だけからいうと、最後の画像は、本来無くてもいい。1枚目と2枚目だけでパンツは伝わっているし、そしてなにより、3枚目の画像は「パンツ」のイメージに直接的には寄与しない!
そうですよ、お茶碗大盛りのごはんなんですよ? 「お茶碗大盛りのごはん」を見て、「パンツ」を想起する人間なんてこの世界にはたしてどのくらいいるというのでしょう? そういう特殊プレイ(お茶碗プレイ)をやったことある人とかならいざ知らず、てゆうかなんだそれ、そんなプレイあるのか、ちょう興味ある、やったことある人教えて下さい。それはともかくだ、3枚目はそれ単体でも、この文脈でも、「パンツ」に直截的には結び付かない。
もちろん、お茶碗からはみ出すほどの大盛りのごはんはパンツからはみ出すほどのエロティックボディ的な淫靡さを誘発するし、パンツ=性欲ときてごはん=食欲とくるコンビネーションはわれわれの欲望に突き刺さるような請求心を持つだろう。他にも色々な想像ができるだろう。しかし、どれも想像である。たしかではない。
そして、それは、「1枚目+2枚目」の『画像』の連鎖から、つまり視覚領域を主に導き出されたイメージ、それと異なる。「1枚目+2枚目+3枚目」は、画像のみならず、視覚領域からのイメージのみならず、そこに『意味』的な解釈があってはじめて解釈される、つまり暗喩や隠喩を求める部分から発動している。
眼で見て当たり前のように「そうだ」と分かる前者と異なり、後者は考えた末に「もしかしたらこうかも(こういう意味かも)」と解釈される。そしてその解釈も、当然分かりやすいもの、記号的なものではなく、分かりづらい、とらえにくい、人によって様々に解かれるようなものになっている。
この違いは大きいでしょう。
つまりここにおいて、この「1枚目+2枚目+3枚目」の画像の連鎖を「パンツ」という意味合いで解きほぐした場合、3枚目は「そこに収まりきらない何か」となっている。
そしてそれこそが、ここにおけるキモとなる。ひとつの意味に回収しきれない「何か」があるからこそ、この連鎖に「パンツ」に集約しきれないイメージが生まれる。しかも今回は、2枚目の画像がズームアウトして3枚目の画像に至るから、より――つまり、2枚目の画像はパンツをドアップに映したものでも他のイメージでもなんでもなく、「お茶碗のアップだ」ということが明らかになっている――そうなる。
「1枚目+2枚目」の組み合わせはパンツのようである、しかし「1枚目+2枚目+3枚目」の時点で、「1枚目+2枚目」はパンツでない(しかしパンツをイメージさせるものである)ことが明らかになっている、けれども。「3枚目」そのものに、お茶碗の柄としてのパンツが残存する。しかし、この「3枚目」は、『パンツ』だけを考えるなら不必要であり、むしろこれが無ければ、2枚目を単純にパンツのイメージと解釈できるのに、これがあるから、「単純に」ではなく、ひとつ迂回した形での「パンツ」としての理解に至る。そこにはひとつ、「何か」としての、3枚目(ならび3枚目という連鎖)の回収しきれないものが残る。
ここにはもはや、パンツそのものを描く以上のエロさと強度が生まれている。パンツを描くことなく、パンツを描かないでパンツのリアリティを描くこともなく、それ以上のものを描いている。回収しきれない何かが、そうであるがゆえ、そこに解釈しきれない余地と、自己解釈に陥らなければならない余地、その両方を生み出す。非隣接的な、非類似的なもの――お茶碗がそこにある――が、わずかな「柄」を頼りに隣接・類似しようとしている!てゆうかしている!(別にこの3枚目は、柄さえ一緒なら「お茶碗」でなくとも可能だったはずだ)

イメージとして”だけ”確固として存在しているのだ(あの世界に実際にある(このお茶碗が)かどうかは定かではない)。パンツと何も関係ないものが、パンツと隣接して。それは、われわれの脳内、認識、解釈でも隣接する。無駄に隣接しやがると言いたくなるくらい隣接するが、「在る」以上無駄でも何でもなく、それは「1枚目+2枚目」の幸せな連鎖を突き崩し、外部的な「何か」を(しかもこの3枚目ではそれまでと「示すこと」/「語ること」の区分が変化している(図像的な記号と象徴的な記号)、より外部的なもの)そこに突き刺し、ただのパンツのイメージ以上の混沌、カオスをそこに招き入れるのだ。
そして、それは、忘れちゃいけない。
あっちの世界のなかでは、澪がパンツを見られて、観客がパンツを見ている。このひとつのわけのわからなさ、外部性、「パンツ」に回収しきれないイメージはどこに繋がるかといえば、そこにである。
つまり、これは、パンツを描く(あるいはパンツのイメージを描く)だけではなく、そのときの澪や観客、あるいはその場の混沌なども間接的に描いているのだ。
単純にパンツを描くだけだったら、ただ「パンツ」を描いただけだっただろう。1枚目と2枚目を描くだけなら、ただ「パンツ」を描いただけだっただろう。しかし3枚目が描かれることにより、あの場、あの瞬間、澪、観客、軽音部のみんな、そういったものも、その混沌も、間接的に描かれている。
もはやパンツが描かれていないことなど何の問題にもならない。ここにはパンツ以上のものが描かれているのだから。
という解釈はどうだろうか。
2009'05.09 (Sat) 04:02
![]() | 耳鳴坂妖異日誌 手のひらに物の怪 (角川スニーカー文庫) (2009/05/01) 湖山真 商品詳細を見る |
新人さん。最初の方は超面白いかったのですが、進むにつれてだれてきてしまった感があり、ちょっと残念でしたが、今後に期待したい感じでもありました。
てゆうかですね、シークエンス、その選択と分量がとってもいい感じでした。特に前半。細かいことは、もうちょっと読み込まないと言えないんですけど、とりあえず。
妖異に関する説明で語られてた、彼らの性質。生まれたときから、その「本来」というものが既に定まっている。そこに存在意義を見い出していて、たとえばグレムリンに間違われたところで怒ったように、彼らはそれをとても重要なものとして見ているのですが、ひるがえれば。アイデンティティは、完全に個人で獲得するものでも、完全に個人で背負うものでも、完全に個人に責任が行き着くものでもなく。
生まれながらの所与である。
それは、さらに言うと、「交換可能である」ということでもあります。
彼・彼女たちは、個性もあり、個人個人でもあるけれど、存在意義は、アイデンティティは、完全には個人個人に没しきれていない。
なぜ彼女は携帯電話なのか? いままで主人(主人というか、持ち主?)を乗り換えてきたのか?
彼女の存在意義が全体に基づいた交換可能性に立脚しているということは、同時に、彼女にとって(その存在意義にとって)関わる者は性質さえ同じならば誰であろうと交換可能である、ということでもあります。
交換可能性。
しかし、交換不可能性。
そうです、描かれるのは、重要なところは殆ど全て、交換不可能性。いまどきの、個性的な妖異はそれとして認められ、死は、当然交換不可能なものとして悲しまれる。存在意義からは交換可能なのに、交換は不可能な「存在」である。それがここに示されている。
つまり、存在は存在意義に立脚していない。
むしろ、邪魔なくらい――というか、枷なくらい。
草太には太刀が合ってる。でも、だからこそ使わない方がいい気がするの。
合いすぎるそれは、かえって良くない。それに支配されてしまうから。存在意義を、大文字の「存在意義」に立脚してしまっては、しすぎてしまっては、それしかできないし、それをやることになるし、それに縛られるし、それに支配される。
だからこそ、使わない方がいい。だからこそ、遠く離れた方がいい。
存在意義に立脚しない存在――大文字の存在意義に頼らないで「存在」する、自分で存在意義を手に入れるために。
そしてだからこそ、妖異である。そこに絡む必要があるし、その集団にコミットする必要がある。社会的な担保から離れた、非日常的な不可思議にこそ、大文字ではない自分の「存在意義」を見つけられる。
……そして。そこから排除されても、「存在」は続く。「存在」が続くかぎり、存在意義を手に入れる戦いも続けられる。
そういう、おはなし。
2009'05.08 (Fri) 03:41
シャランラシャランラ~
や、なんかこれ、すごいツボに嵌っちゃったんですけど。
ムギが荷物運んでるときに発したことば。
シャランラシャランラ~
なぜかお気に入りすぎる。
さてさてさて。何から話せばいいのやら。
律っちゃんと澪の関係、その呼吸は、たしかに幼馴染のもの、少なくとも唯やムギとの関係とは一線を画してしまっているでしょう。
あのね、部室でライブの予行練習するとこがあったじゃないですか。あそこで澪を「デンジャラス」と云って、それでいて自分を持ち上げて、結果的に笑いがとれて、みんなの緊張がほぐれたのですが。
そこで律は、澪の笑顔を確認してから笑ってるんですよね。
澪の緊張をほぐすためわざとやったのかどうか。正確なところなんて、誰にでもずっと謎なんだろうけど。まるでそうであるかのように、いや、たぶん、きっとそうであるかのように。悪ノリして、みんなが笑って、澪が笑って、それをきちんと確認してから、律も笑う。澪が普段と同じ様に、怒って、ゲンコツしたりして――そういうことができるような流れに、律はわざと、敢えて、もっていった。緊張をほぐすため。「普段と同じ」な澪にするため。自分が怒られるのも、殴られるのも、ピエロるのも承知で。
まるでそのように見えるのです。そして、きっとそうなのでしょう。
同じ様にふざけてても、律にゲンコツしても唯にはゲンコツしない。律に怒るようには、唯には怒らない。バイトが嫌でも、唯のため、唯が関わるから頑張る――頑張る理由(乗り越えないと、自分を)を見つける。律には「ボーカル代わって」と泣きつけるけれど、唯には「ごめん唯、そんなつもりじゃなかったから」と、泣きつけない、つまり、甘えられない。
本当の怒りも、本当の甘えも、律にだけ。
唯と一緒に不真面目でゲンコツくらった律が第4話くらいで「何で私だけ~」と言っていますが、「律だけ」、なんですよ。本当の意味で怒れるのも、本当の意味で甘えられるのも。
だってね、「あの澪」なんですぜ。
唯やムギに対するときと律とで態度が違うというより、むしろ「あの澪」が、唯やムギとこんなに打ち解けられていることの方が驚きに値するんじゃないでしょか。
というかさ、律って結構「確認」しますよね。意外としっかり見てるところがあったりする。たとえば第1話、合唱部の見学しようとして音楽室にやってきたムギの前で、嘘の軽音部動機を語るときなんか、チラっと横目でムギの方を確認していたりします。ちゃんとを見てるか、食いつきはどうか、どういう反応か、と。
必要に応じて。「見られてること」に、自覚的になる。
そういえば、部室での予行演習は、ある意味「エアライブ」の体を為していましたね。
楽器も持たず、観客もいない、そもそも部室なんだけど。みんな、ステージのノリで、楽器を弾くふりをして、存在しないオーディエンスの声が既にして聞こえてくる。
ライブの予行演習でありながら、ある意味、ライブ自体がここで既に行われている。
それに対し本番のライブは、実際の(学園祭での)ライブを殆ど見せず、彼女たちの架空のライブツアー、というか、架空のPV、「エアPV」を見せているようでした。
ここのライブは、もはやPVで、デビュー自体がここで既に行われている。
その、ふたつのイメージ。跳躍するイメージ。
部室はそこに繋がっていて、ライブはそこに繋がっている。
あくまで、イメージとして。
花火をバックにした演奏のときと、ある意味同じ。そこには別のモノが見えている、見い出されている。イメージとして存在している。「繋がっている」。
あれが、目指せ武道館ライブを、澪に思わせた世界であったように。これは、”さらに”を、わたしたちに思わせる、世界でもある。きっと。
あとなんだっけ。パンツ。
ただの縞模様を見せるだけでなく、「ご飯大盛り」ってw エロ過ぎるだろ、ご飯大盛りって。
だってご飯大盛りだぜ、食欲を揺さぶるようなあの大盛り、ああ時計を見たら深夜2時半近く、そろそろお腹も空いてきた、そこに現れるは「ご飯大盛り」! しかも、「パンツに盛られている」のだ!! パンツの表象にご飯が盛られている! 食欲と性欲の淫靡なるコラボレーションだw!
や、つうか、まじ、普通に見せられるより遥かにエロい。
さすがというか、むしろ勘弁して下さいといいたくなるくらいw
や、なんかこれ、すごいツボに嵌っちゃったんですけど。
ムギが荷物運んでるときに発したことば。
シャランラシャランラ~
なぜかお気に入りすぎる。
さてさてさて。何から話せばいいのやら。
律っちゃんと澪の関係、その呼吸は、たしかに幼馴染のもの、少なくとも唯やムギとの関係とは一線を画してしまっているでしょう。
あのね、部室でライブの予行練習するとこがあったじゃないですか。あそこで澪を「デンジャラス」と云って、それでいて自分を持ち上げて、結果的に笑いがとれて、みんなの緊張がほぐれたのですが。
そこで律は、澪の笑顔を確認してから笑ってるんですよね。
澪の緊張をほぐすためわざとやったのかどうか。正確なところなんて、誰にでもずっと謎なんだろうけど。まるでそうであるかのように、いや、たぶん、きっとそうであるかのように。悪ノリして、みんなが笑って、澪が笑って、それをきちんと確認してから、律も笑う。澪が普段と同じ様に、怒って、ゲンコツしたりして――そういうことができるような流れに、律はわざと、敢えて、もっていった。緊張をほぐすため。「普段と同じ」な澪にするため。自分が怒られるのも、殴られるのも、ピエロるのも承知で。
まるでそのように見えるのです。そして、きっとそうなのでしょう。
同じ様にふざけてても、律にゲンコツしても唯にはゲンコツしない。律に怒るようには、唯には怒らない。バイトが嫌でも、唯のため、唯が関わるから頑張る――頑張る理由(乗り越えないと、自分を)を見つける。律には「ボーカル代わって」と泣きつけるけれど、唯には「ごめん唯、そんなつもりじゃなかったから」と、泣きつけない、つまり、甘えられない。
本当の怒りも、本当の甘えも、律にだけ。
唯と一緒に不真面目でゲンコツくらった律が第4話くらいで「何で私だけ~」と言っていますが、「律だけ」、なんですよ。本当の意味で怒れるのも、本当の意味で甘えられるのも。
だってね、「あの澪」なんですぜ。
唯やムギに対するときと律とで態度が違うというより、むしろ「あの澪」が、唯やムギとこんなに打ち解けられていることの方が驚きに値するんじゃないでしょか。
というかさ、律って結構「確認」しますよね。意外としっかり見てるところがあったりする。たとえば第1話、合唱部の見学しようとして音楽室にやってきたムギの前で、嘘の軽音部動機を語るときなんか、チラっと横目でムギの方を確認していたりします。ちゃんとを見てるか、食いつきはどうか、どういう反応か、と。
必要に応じて。「見られてること」に、自覚的になる。
そういえば、部室での予行演習は、ある意味「エアライブ」の体を為していましたね。
楽器も持たず、観客もいない、そもそも部室なんだけど。みんな、ステージのノリで、楽器を弾くふりをして、存在しないオーディエンスの声が既にして聞こえてくる。
ライブの予行演習でありながら、ある意味、ライブ自体がここで既に行われている。
それに対し本番のライブは、実際の(学園祭での)ライブを殆ど見せず、彼女たちの架空のライブツアー、というか、架空のPV、「エアPV」を見せているようでした。
ここのライブは、もはやPVで、デビュー自体がここで既に行われている。
その、ふたつのイメージ。跳躍するイメージ。
部室はそこに繋がっていて、ライブはそこに繋がっている。
あくまで、イメージとして。
花火をバックにした演奏のときと、ある意味同じ。そこには別のモノが見えている、見い出されている。イメージとして存在している。「繋がっている」。
あれが、目指せ武道館ライブを、澪に思わせた世界であったように。これは、”さらに”を、わたしたちに思わせる、世界でもある。きっと。
あとなんだっけ。パンツ。
ただの縞模様を見せるだけでなく、「ご飯大盛り」ってw エロ過ぎるだろ、ご飯大盛りって。
だってご飯大盛りだぜ、食欲を揺さぶるようなあの大盛り、ああ時計を見たら深夜2時半近く、そろそろお腹も空いてきた、そこに現れるは「ご飯大盛り」! しかも、「パンツに盛られている」のだ!! パンツの表象にご飯が盛られている! 食欲と性欲の淫靡なるコラボレーションだw!
や、つうか、まじ、普通に見せられるより遥かにエロい。
さすがというか、むしろ勘弁して下さいといいたくなるくらいw
2009'05.08 (Fri) 02:49
つうことで『東のエデン』なんですが、まあ僕が言うまでもないことなんですが超面白いです。
何このワクワク感?
何でこんなワクワクできんの?
それはねえ、『幻想』なのよ。
たぶんきっといやマジで。
マジか?
誰か「物語の面白さにおける幻想」みたいなことを語った人はいないのだろうか。参考にしたい。むしろ引用してしゅぱっと終わらせたい。
物語の面白さというのは『幻想』に非常に強く担保される。いや、引き出される。最近そんなことばっか書いてますけど、本気でそんなこと思っています。うーんこれ、マジでそうなんじゃねえかな、てゆうか本当なんじゃねえかな、とかね、けっこう本気で思ってます。
幻想。見えているもの・知っているもの・分かっているものの【奥(裏)】側、というものへの想いです。それは「未来」ということも含めます。いま見えている・知っている・分かっているものは、「深層」から描写により表に滲み出た「表層」ではないだろうか。いま見えている・知っている・分かっているものを生み出すほどの<何か>が、その奥(裏)には”まだあるんじゃないか”、
という幻想。横軸(共時的)にはそれで、縦軸(通時的)には、描写されていない過去や未来に対するものとなります。
それはともかく、3話、あと2話のだいいちいんしょう。別の場所に書いたものの完全なるコピペ。
「東のエデン」第2話見た。
空港で一回別れて、(豊洲がわかんなくて)トイレに駆けつけて再会して、港で別れそうになりながらも『無言で』手を差し出して別れなかったり。細かい点だけど、出会いや別れには、いつもこう、「偶然的なもの」が添付されている……というか、されていてもおかしくない、シチュエーションである。そんな感じがしますねー。
そして第3話も見た。
上手いねー煽るねーという印象。「見た目」というのは、その文字通りですね、「奥」というのを想起させます。たとえば冒頭、豊洲の街の街灯の異様なくらいの赤さとその統一性は、それゆえに不吉なものを想起させたのではないでしょうか。
常に「見た目」には、その「奥」を想像させる余地が生まれる。とはいっても、それはあくまで想像の「奥」。もし本当に「奥」があったとしても、それは想像した「奥」とはまったく別物かもしれません。わんちゃんの影がまるで怪物だった箇所など、象徴的でしょう。見た目(影)は怪物に見える、だからその奥(影を生んだ生き物)もきっと怪物、そこにはどんな恐ろしい化物がいることか……しかし実際のところ、居たのは化物とは似ても似つかないカワイイわんちゃん。影として表れた見た目から想像できる姿(奥)とは似ても似つかない存在が、その奥には居たわけです。
記憶喪失だし、わけわかんないところいっぱいあるし、お金持ってるっぽいし……森美咲の滝沢くんに対する印象・心象は、はたしてどうか。謎とか不思議とか、またカッコイイとかちょっとイイかも、などなど思っているでしょうが、しかしまさか(恐らくですが)本当にテロリストで、ニート二万人誘拐してぶっ殺しちゃった(ぶっ殺そうとしちゃった)、などとは思っていないでしょう。ノブレスケータイに関してもそう。ショッピングモールが住みかなのは変だけど、まさかそれが出所も分からない超うさんくさいお金に拠るものだと、思ってもいないのではないでしょうか。森美咲は。その、見た目の滝沢くんの「裏」、色々想像しているだろうけど、まさかテロリスト、まさか人殺し(多分)、まさか救世主とは考えていない、恐らく。ならばこそ、疑念が生まれるわけですね。その「裏」を見て、森美咲は、それでも滝沢に興味・好意が持てるのだろうか。喪っている状態の記憶は、どんな想像でも受け入れる、崇高な対象だけれども、もし記憶が還ってくれば、その瞬間それは毒となるアガルマなんじゃないだろうか。
ふと横を見れば「証拠」に行き当たってしまう可能性もあるこのショッピングセンターで。


しかしこの、今僕が書いた滝沢くんに関すること(現在の情報からの推測)もまた、「見た目」でもあるわけです。見えてることから想像する。不安も、恐怖も。はたは希望も、期待も。わんちゃんの「影絵の怪物」が、やはり象徴的でしょう。それはひとつの定式を教えてくれるわけです。「怪物は常に影である――恐怖は常に影である」。怪物は喋ってはいけない。正体不明――イマジネールに作用するものが、はじめて、怪物となりうる。想像・幻想が、恐怖・怪物を生み出す。すべての幻想は、すべてそこにしかないわけで、見えてないからこそ幻想が介在できるのです。
それは小出しにされる、各々の情報に関してもそうでして、だからこそ上手いし煽られてるわけですよ。日本も、ミサイルも、セレソン・ノブレスケータイ、こいつらは何なのか、滝沢、さらに森美咲……見た目レベルで留めているのみならず、「奥」をまるで”魅力的なもの”として隠している。崇高が連ねるように構成されているわけです。
あー、上のは、それ放送直後に記したやつなんで、現時点の情報からすると何かアレじゃね?って箇所があるけれどみなさんには華麗にスルーなさることを期待しています。
で、第4話。
漠然。そして漠然は幻想を生む。
「ミスター・アウトサイド」「国を救う」。
この(ゲーム)の提案者であり支配者であり統治者である存在はただただ漠然としていて、彼が下す命令もまたただただ漠然としている。「国を救う」。それは、どうしたら達成できるのだ?
幻といえば、そのまんま「幻」が現われてましたね。爆心地での、あのなんかよくわかんないやつ。滝沢がそいつらに発した言葉は「役立たずどもが!」。
ここでの爆心地というのは、ある種空虚な中心的――存在として”あえていうなら”中心となるくらいに中心的だけど、それがおおやけに何かを為すということもなく、そもそもこの「システム」(ここでの場合は、東京という街とその機能、滝沢や咲にとって、あるいは本作の物語において)自体からもなかば排除されている――でもあるんじゃないでしょうか。この集合のなかで一番出っ張ってる、目立つ部分ではあるけれど――そして敢えて言うならば、それは「中心」であるけれど――実際に中心と呼べるのか。それほどの機能を果たしていないし、システムに不可欠ながらも実体はそこに組み込まれていない。
存在はあり人々や街や物語に深い痕跡と何らかの意味を与えているだろうけど、それが定かではない、つかめない霧散するようなそれである爆心地。
ここまで物語駆動の中心(動機)になっており、そして存在は確かにあるはずなのに、まるで見えない、重要度すらもここにきてはまるで量れない(良い意味でも悪い意味でも)滝沢くんの記憶。
セレソンにおける重要項、ある種のアウトサイダーでありながら、存在しているのは恐らく確かなのだろうけど、まるで見えないサポーター。
全てが、何だか分からない。否、見えない。
重要というのは分かるけど、中心的な部分を担っているけど、物語の重要な駆動点・動機となっているけれど、「漠然としている」それら。そしてそれらを追いかけている、あるいは追い立てられているのが、彼ら。
迂闊な月曜日に対する咲の感想は何だったか。面接官は何と聞いたか(第5話)。わくわくする。歓迎ムード。”そこに何かがある”。正確には、いま、明らかになっている”そこ”には、いま明らかになっている分の何かしかない。正確には、その奥、裏。
いま明らかになっているその奥に、裏に、何があるのか。
その想いのことを、「幻想」という。
「幻想」を孕ませる余地が多大に支配的であり、また彼ら自身も幻想を追っているからこそ、わたしたちもそれを宿らすことができる。ふくらむ。その漠然を糧に。
「サポーターというのは……(中略)……システムのことです」と、ジュイスは説明していましたが、これはちょっと注目に値するかもしれない別にしないかも(どっち)。
「システムのこと」。人物のことでも、役割のことでもないんですよね。ある種の自動的な、何かであると考えられるくらい。それゆえに、よりつかめないのですが。
第5話。
「君は記憶を消してまで何かをしようとしたんだろ?」(第4話)
ミスター・アウトサイドへの滝沢くんの怒りというのは、つまりそういうことなのかもしれないっすね。旧滝沢くんがどこまで・どれまで頭脳明晰なのかは分からないですけど。考えていたのか分からないですけど。全てを計算した上で記憶を消したのならば、「記憶を失った自分がどういった行動をとるか」が、ある程度計算できる。
そうすると、知っていたらできないことも、知らないからできるようになりうる。
「社会へのコミット」という咲のひとつの問題は、ここにきて、それこそ「誰かが何とかする/しなければならない/してくれる」という、セレソンの国を救うというゲーム(閉塞からの脱却への期待)、迂闊な月曜日に対する人々の反応(閉塞からの脱却への期待)、そこと酷似している。
別のロジックへの迎合を見つけなければそこには入れない。たとえるなら、パンを陳列するセンスのような幻想のロジックを、「学生気分を置いてくるための旅行」みたいに捨ててこなければならず(逆にいえば、そのセリフがあるということは、咲の学生気分は脱色されていない)、そして、その会社・社会の、ひとつの幻想のロジック――共同体としてのそれに染まらなければならない。
そうしなければならない。
そうしなければならないという、閉塞。
泣き出した咲は滝沢に胸を借りようとしないし、滝沢も胸を貸そうとしない。けれど、キスをする。そのくらいには――それほどには、「何かをする」。彼は閉塞からの脱却を誘う。咲にとっての「誰かが何かをしてくれる」の「誰か」は、言うまでもなく「彼のこと」と、今まで散々示唆的でしたが、ここにきて、示唆をひとつ飛び越えた。
またひとつ、わたしたちにとっては『幻想』が生まれた。
幻想。新たなセレソンも、完全に謎ではなくて、ある程度のプロフィールは分かるように・匂わせるように描いている。少しの――多少の情報は開示されているのです。そのことにより、わたしたちは幻想を抱ける。そこに。
ということでねー、まあしかしお前はずっと『幻想幻想』とバカの一つ覚えだなって感じですけど、いやもう幻想に注目したいんですよ。そういう季節なんですよ、なう。意外とね、物語――つうか、物語っていうのはどうかと思うんだけど、まあいっか、物語、それを駆動するものとして幻想的なもの・それを作り出すモノがいい具合に機能的なんじゃないかなぁとかね。とかね。ね。
何このワクワク感?
何でこんなワクワクできんの?
それはねえ、『幻想』なのよ。
たぶんきっといやマジで。
マジか?
誰か「物語の面白さにおける幻想」みたいなことを語った人はいないのだろうか。参考にしたい。むしろ引用してしゅぱっと終わらせたい。
物語の面白さというのは『幻想』に非常に強く担保される。いや、引き出される。最近そんなことばっか書いてますけど、本気でそんなこと思っています。うーんこれ、マジでそうなんじゃねえかな、てゆうか本当なんじゃねえかな、とかね、けっこう本気で思ってます。
幻想。見えているもの・知っているもの・分かっているものの【奥(裏)】側、というものへの想いです。それは「未来」ということも含めます。いま見えている・知っている・分かっているものは、「深層」から描写により表に滲み出た「表層」ではないだろうか。いま見えている・知っている・分かっているものを生み出すほどの<何か>が、その奥(裏)には”まだあるんじゃないか”、
という幻想。横軸(共時的)にはそれで、縦軸(通時的)には、描写されていない過去や未来に対するものとなります。
それはともかく、3話、あと2話のだいいちいんしょう。別の場所に書いたものの完全なるコピペ。
「東のエデン」第2話見た。
空港で一回別れて、(豊洲がわかんなくて)トイレに駆けつけて再会して、港で別れそうになりながらも『無言で』手を差し出して別れなかったり。細かい点だけど、出会いや別れには、いつもこう、「偶然的なもの」が添付されている……というか、されていてもおかしくない、シチュエーションである。そんな感じがしますねー。
そして第3話も見た。
上手いねー煽るねーという印象。「見た目」というのは、その文字通りですね、「奥」というのを想起させます。たとえば冒頭、豊洲の街の街灯の異様なくらいの赤さとその統一性は、それゆえに不吉なものを想起させたのではないでしょうか。
常に「見た目」には、その「奥」を想像させる余地が生まれる。とはいっても、それはあくまで想像の「奥」。もし本当に「奥」があったとしても、それは想像した「奥」とはまったく別物かもしれません。わんちゃんの影がまるで怪物だった箇所など、象徴的でしょう。見た目(影)は怪物に見える、だからその奥(影を生んだ生き物)もきっと怪物、そこにはどんな恐ろしい化物がいることか……しかし実際のところ、居たのは化物とは似ても似つかないカワイイわんちゃん。影として表れた見た目から想像できる姿(奥)とは似ても似つかない存在が、その奥には居たわけです。
記憶喪失だし、わけわかんないところいっぱいあるし、お金持ってるっぽいし……森美咲の滝沢くんに対する印象・心象は、はたしてどうか。謎とか不思議とか、またカッコイイとかちょっとイイかも、などなど思っているでしょうが、しかしまさか(恐らくですが)本当にテロリストで、ニート二万人誘拐してぶっ殺しちゃった(ぶっ殺そうとしちゃった)、などとは思っていないでしょう。ノブレスケータイに関してもそう。ショッピングモールが住みかなのは変だけど、まさかそれが出所も分からない超うさんくさいお金に拠るものだと、思ってもいないのではないでしょうか。森美咲は。その、見た目の滝沢くんの「裏」、色々想像しているだろうけど、まさかテロリスト、まさか人殺し(多分)、まさか救世主とは考えていない、恐らく。ならばこそ、疑念が生まれるわけですね。その「裏」を見て、森美咲は、それでも滝沢に興味・好意が持てるのだろうか。喪っている状態の記憶は、どんな想像でも受け入れる、崇高な対象だけれども、もし記憶が還ってくれば、その瞬間それは毒となるアガルマなんじゃないだろうか。
ふと横を見れば「証拠」に行き当たってしまう可能性もあるこのショッピングセンターで。


しかしこの、今僕が書いた滝沢くんに関すること(現在の情報からの推測)もまた、「見た目」でもあるわけです。見えてることから想像する。不安も、恐怖も。はたは希望も、期待も。わんちゃんの「影絵の怪物」が、やはり象徴的でしょう。それはひとつの定式を教えてくれるわけです。「怪物は常に影である――恐怖は常に影である」。怪物は喋ってはいけない。正体不明――イマジネールに作用するものが、はじめて、怪物となりうる。想像・幻想が、恐怖・怪物を生み出す。すべての幻想は、すべてそこにしかないわけで、見えてないからこそ幻想が介在できるのです。
それは小出しにされる、各々の情報に関してもそうでして、だからこそ上手いし煽られてるわけですよ。日本も、ミサイルも、セレソン・ノブレスケータイ、こいつらは何なのか、滝沢、さらに森美咲……見た目レベルで留めているのみならず、「奥」をまるで”魅力的なもの”として隠している。崇高が連ねるように構成されているわけです。
あー、上のは、それ放送直後に記したやつなんで、現時点の情報からすると何かアレじゃね?って箇所があるけれどみなさんには華麗にスルーなさることを期待しています。
で、第4話。
漠然。そして漠然は幻想を生む。
「ミスター・アウトサイド」「国を救う」。
この(ゲーム)の提案者であり支配者であり統治者である存在はただただ漠然としていて、彼が下す命令もまたただただ漠然としている。「国を救う」。それは、どうしたら達成できるのだ?
幻といえば、そのまんま「幻」が現われてましたね。爆心地での、あのなんかよくわかんないやつ。滝沢がそいつらに発した言葉は「役立たずどもが!」。
ここでの爆心地というのは、ある種空虚な中心的――存在として”あえていうなら”中心となるくらいに中心的だけど、それがおおやけに何かを為すということもなく、そもそもこの「システム」(ここでの場合は、東京という街とその機能、滝沢や咲にとって、あるいは本作の物語において)自体からもなかば排除されている――でもあるんじゃないでしょうか。この集合のなかで一番出っ張ってる、目立つ部分ではあるけれど――そして敢えて言うならば、それは「中心」であるけれど――実際に中心と呼べるのか。それほどの機能を果たしていないし、システムに不可欠ながらも実体はそこに組み込まれていない。
存在はあり人々や街や物語に深い痕跡と何らかの意味を与えているだろうけど、それが定かではない、つかめない霧散するようなそれである爆心地。
ここまで物語駆動の中心(動機)になっており、そして存在は確かにあるはずなのに、まるで見えない、重要度すらもここにきてはまるで量れない(良い意味でも悪い意味でも)滝沢くんの記憶。
セレソンにおける重要項、ある種のアウトサイダーでありながら、存在しているのは恐らく確かなのだろうけど、まるで見えないサポーター。
全てが、何だか分からない。否、見えない。
重要というのは分かるけど、中心的な部分を担っているけど、物語の重要な駆動点・動機となっているけれど、「漠然としている」それら。そしてそれらを追いかけている、あるいは追い立てられているのが、彼ら。
迂闊な月曜日に対する咲の感想は何だったか。面接官は何と聞いたか(第5話)。わくわくする。歓迎ムード。”そこに何かがある”。正確には、いま、明らかになっている”そこ”には、いま明らかになっている分の何かしかない。正確には、その奥、裏。
いま明らかになっているその奥に、裏に、何があるのか。
その想いのことを、「幻想」という。
「幻想」を孕ませる余地が多大に支配的であり、また彼ら自身も幻想を追っているからこそ、わたしたちもそれを宿らすことができる。ふくらむ。その漠然を糧に。
「サポーターというのは……(中略)……システムのことです」と、ジュイスは説明していましたが、これはちょっと注目に値するかもしれない別にしないかも(どっち)。
「システムのこと」。人物のことでも、役割のことでもないんですよね。ある種の自動的な、何かであると考えられるくらい。それゆえに、よりつかめないのですが。
第5話。
「君は記憶を消してまで何かをしようとしたんだろ?」(第4話)
ミスター・アウトサイドへの滝沢くんの怒りというのは、つまりそういうことなのかもしれないっすね。旧滝沢くんがどこまで・どれまで頭脳明晰なのかは分からないですけど。考えていたのか分からないですけど。全てを計算した上で記憶を消したのならば、「記憶を失った自分がどういった行動をとるか」が、ある程度計算できる。
そうすると、知っていたらできないことも、知らないからできるようになりうる。
「社会へのコミット」という咲のひとつの問題は、ここにきて、それこそ「誰かが何とかする/しなければならない/してくれる」という、セレソンの国を救うというゲーム(閉塞からの脱却への期待)、迂闊な月曜日に対する人々の反応(閉塞からの脱却への期待)、そこと酷似している。
別のロジックへの迎合を見つけなければそこには入れない。たとえるなら、パンを陳列するセンスのような幻想のロジックを、「学生気分を置いてくるための旅行」みたいに捨ててこなければならず(逆にいえば、そのセリフがあるということは、咲の学生気分は脱色されていない)、そして、その会社・社会の、ひとつの幻想のロジック――共同体としてのそれに染まらなければならない。
そうしなければならない。
そうしなければならないという、閉塞。
泣き出した咲は滝沢に胸を借りようとしないし、滝沢も胸を貸そうとしない。けれど、キスをする。そのくらいには――それほどには、「何かをする」。彼は閉塞からの脱却を誘う。咲にとっての「誰かが何かをしてくれる」の「誰か」は、言うまでもなく「彼のこと」と、今まで散々示唆的でしたが、ここにきて、示唆をひとつ飛び越えた。
またひとつ、わたしたちにとっては『幻想』が生まれた。
幻想。新たなセレソンも、完全に謎ではなくて、ある程度のプロフィールは分かるように・匂わせるように描いている。少しの――多少の情報は開示されているのです。そのことにより、わたしたちは幻想を抱ける。そこに。
ということでねー、まあしかしお前はずっと『幻想幻想』とバカの一つ覚えだなって感じですけど、いやもう幻想に注目したいんですよ。そういう季節なんですよ、なう。意外とね、物語――つうか、物語っていうのはどうかと思うんだけど、まあいっか、物語、それを駆動するものとして幻想的なもの・それを作り出すモノがいい具合に機能的なんじゃないかなぁとかね。とかね。ね。
2009'05.07 (Thu) 02:30
恥ずかしながら帰ってきた!
のかどうかわかんないすけど、ちょっとね、あっちに書く気湧かないのでこっちに書こうと。すみません、このとおりわたしはいいかげんな人間なのです。逃げ癖つきまくり。
や、なんつうか。不特定多数に見られるのはいいんですけど、特定多数に見られるのはツライつうか。二桁……10台後半くらいに達すると、その視線の交錯にどう耐えていいか・応えていいかわからんつうか。
逃げ癖つきまくり。
つか、ごめん、逃げんの大好きなんだわ、きっと。最悪。
どうするかわかんないですけど、とりあえずラノベ感想をここに書いてくつもり。いま自分のなかで空前のラノベブームが来ています。あとアニメの感想とかも気が向いたら書いてくかも。
それはともかく、「けいおん!」です。
継続は力~じゃないですけど、何かしら書いとかないと、何かぼろぼろ消えていってしまいそうなので。
今回は今までとがらっと趣が変わったような印象でしたね。キャラクターにデフォルメ描写などで手を加えることは以前からありましたが、世界自体にここまで手を加えてきたのははじめてです。



この辺とか超印象的じゃないでしょうか。
この「光(陰影)」が、その雰囲気、心象を表すような感じですけど、注目したいのは2枚目にキャプったところで、ここでは律だけがその色を携えているんですよね。んで、3枚目のものでは、澪がまた違う色(暗黒の炎的な)を携えている。
これは、「実際にその世界がこういう色・光に満ちていた」わけではないでしょうし、「作中の誰かの目にはこう見えた」わけでもないでしょう。しかし、彼女たちの心象を表しているし、また言うなれば、作中の誰かではない、全てを見通せる神のような眼からすればこのように見えた、ともいえるんじゃないでしょうか。
だから何? といわれると困るんですがw、この感じがなんか今回の通奏低音になっていたような気がするかなぁと。
つまり、「そのものを見ている」のではなくて、「何かを通して見てる」という感じ。
これはムギの妄想(幻想といったほうがいいのかも)にも通じるところがあって、ムギのあれって一体何かというと、要するにこれなんですよ。

本を丸めて双眼鏡にしてそれを通して見ているのですが、それと同じ。
つまり、そのままを見ているのではなく、何かを介して見ている。
ムギの妄想・幻想は、その発生過程(見た目の美醜ですよね)から、常に起こるものでも、常にそういった感情を抱いてるわけでもなくて、そういう妄想・幻想が抱けるような「見た目」のものに触れてはじめてそういう妄想・幻想が作動するといったものでしょう。そこに(見えたものに)妄想・幻想を抱いてるわけです。つまり、その妄想・幻想は、「そのまんま」を見ているのではなく、「それ以外」を見ようとしてはじめて生じる・見ようとした結果がそれである。
本を丸めて双眼鏡といえば、もう一箇所(さわこ先生の嘘解説)ありましたが、そこもまた同じと述べることもできそうです。むしろ、そこで「嘘」が示唆されていると申し上げれそうなくらい。双眼鏡を介すというのは、ある意味では「嘘」――正しくは、「そのまんまではない何か」――を見ているということ。さわこ先生の解説の部分は、そのことに自覚的で利用的だったといえるでしょう。原作に良い色を付けています。
そして。
つか、つまり。
それと同じ様に、今回の様々な世界の変化は、本が丸まった双眼鏡のようなものが介在しているといいたいのです。
だから何? といわれると困るんですがw
や、なんだろうね? なんの意味があるんだろうねw?
彼女らを纏め上げる存在が不在だった――権力者、審級足りえるもの、父的なものが不在だったのですが――唯ムギは論外、律はムラッ気、澪は機能不全に陥りまくり――そして不在だったが故に、「軽音部=部活」という纏まりだけが、ゆるく彼女たちを繋ぎ止めていた。
なぜ追試の勉強に直前まで手を貸さなかったのか?そもそも試験勉強を一緒にやるということがないのは?てゆうか部活動絡み以外での(律・澪という元もとの友人関係を除いた)彼女たちの時間・接点が殆どないのは? という疑問が、見事に解き明かされる。彼女たちを繋ぎ止める、まとめるのは、「部活動」という共通のシステムしかないのです。
のですが、いやまあ部活動絡みであって、それは何よりも過去を超克できなかったさわこ先生――走ってアルバムの写真奪取という箇所によく現れているでしょう。高速で走り、障害物を跳ぶ・くぐる・(真ん中を)突き抜けると、全ての手段でクリアして、全ての障害をクリアしているにも関わらず、それでも尚、敗れる。呪縛から解き放たれない――つまり、未だ「部活動の中の存在」であり、外側の超越性は持たざるのですが、それでも、権力者、審級足りえるもの、父的なもの――怒ったり奪ったり指針を決めたり指示したり禁止したりできるということ――となるさわこ先生がそこに登場します。
この変化が、今話の大幅な変化になんか絡むんじゃないかなー、とか思うんだけどどうだろう。
えっと、おわり、以上!(ちょう中途半端!)
のかどうかわかんないすけど、ちょっとね、あっちに書く気湧かないのでこっちに書こうと。すみません、このとおりわたしはいいかげんな人間なのです。逃げ癖つきまくり。
や、なんつうか。不特定多数に見られるのはいいんですけど、特定多数に見られるのはツライつうか。二桁……10台後半くらいに達すると、その視線の交錯にどう耐えていいか・応えていいかわからんつうか。
逃げ癖つきまくり。
つか、ごめん、逃げんの大好きなんだわ、きっと。最悪。
どうするかわかんないですけど、とりあえずラノベ感想をここに書いてくつもり。いま自分のなかで空前のラノベブームが来ています。あとアニメの感想とかも気が向いたら書いてくかも。
それはともかく、「けいおん!」です。
継続は力~じゃないですけど、何かしら書いとかないと、何かぼろぼろ消えていってしまいそうなので。
今回は今までとがらっと趣が変わったような印象でしたね。キャラクターにデフォルメ描写などで手を加えることは以前からありましたが、世界自体にここまで手を加えてきたのははじめてです。



この辺とか超印象的じゃないでしょうか。
弱小部を廃部に追い込むための
生徒会の
陰謀っ!!
この「光(陰影)」が、その雰囲気、心象を表すような感じですけど、注目したいのは2枚目にキャプったところで、ここでは律だけがその色を携えているんですよね。んで、3枚目のものでは、澪がまた違う色(暗黒の炎的な)を携えている。
これは、「実際にその世界がこういう色・光に満ちていた」わけではないでしょうし、「作中の誰かの目にはこう見えた」わけでもないでしょう。しかし、彼女たちの心象を表しているし、また言うなれば、作中の誰かではない、全てを見通せる神のような眼からすればこのように見えた、ともいえるんじゃないでしょうか。
だから何? といわれると困るんですがw、この感じがなんか今回の通奏低音になっていたような気がするかなぁと。
つまり、「そのものを見ている」のではなくて、「何かを通して見てる」という感じ。
これはムギの妄想(幻想といったほうがいいのかも)にも通じるところがあって、ムギのあれって一体何かというと、要するにこれなんですよ。

本を丸めて双眼鏡にしてそれを通して見ているのですが、それと同じ。
つまり、そのままを見ているのではなく、何かを介して見ている。
ムギの妄想・幻想は、その発生過程(見た目の美醜ですよね)から、常に起こるものでも、常にそういった感情を抱いてるわけでもなくて、そういう妄想・幻想が抱けるような「見た目」のものに触れてはじめてそういう妄想・幻想が作動するといったものでしょう。そこに(見えたものに)妄想・幻想を抱いてるわけです。つまり、その妄想・幻想は、「そのまんま」を見ているのではなく、「それ以外」を見ようとしてはじめて生じる・見ようとした結果がそれである。
本を丸めて双眼鏡といえば、もう一箇所(さわこ先生の嘘解説)ありましたが、そこもまた同じと述べることもできそうです。むしろ、そこで「嘘」が示唆されていると申し上げれそうなくらい。双眼鏡を介すというのは、ある意味では「嘘」――正しくは、「そのまんまではない何か」――を見ているということ。さわこ先生の解説の部分は、そのことに自覚的で利用的だったといえるでしょう。原作に良い色を付けています。
そして。
つか、つまり。
それと同じ様に、今回の様々な世界の変化は、本が丸まった双眼鏡のようなものが介在しているといいたいのです。
だから何? といわれると困るんですがw
や、なんだろうね? なんの意味があるんだろうねw?
彼女らを纏め上げる存在が不在だった――権力者、審級足りえるもの、父的なものが不在だったのですが――唯ムギは論外、律はムラッ気、澪は機能不全に陥りまくり――そして不在だったが故に、「軽音部=部活」という纏まりだけが、ゆるく彼女たちを繋ぎ止めていた。
なぜ追試の勉強に直前まで手を貸さなかったのか?そもそも試験勉強を一緒にやるということがないのは?てゆうか部活動絡み以外での(律・澪という元もとの友人関係を除いた)彼女たちの時間・接点が殆どないのは? という疑問が、見事に解き明かされる。彼女たちを繋ぎ止める、まとめるのは、「部活動」という共通のシステムしかないのです。
のですが、いやまあ部活動絡みであって、それは何よりも過去を超克できなかったさわこ先生――走ってアルバムの写真奪取という箇所によく現れているでしょう。高速で走り、障害物を跳ぶ・くぐる・(真ん中を)突き抜けると、全ての手段でクリアして、全ての障害をクリアしているにも関わらず、それでも尚、敗れる。呪縛から解き放たれない――つまり、未だ「部活動の中の存在」であり、外側の超越性は持たざるのですが、それでも、権力者、審級足りえるもの、父的なもの――怒ったり奪ったり指針を決めたり指示したり禁止したりできるということ――となるさわこ先生がそこに登場します。
この変化が、今話の大幅な変化になんか絡むんじゃないかなー、とか思うんだけどどうだろう。
えっと、おわり、以上!(ちょう中途半端!)
2009'05.07 (Thu) 00:28
![]() | 星図詠のリーナ (一迅社文庫) (2009/04/20) 川口 士 商品詳細を見る |
正統派ファンタジー……? いや、僕はファンタジーってのがよく分からないので、何ともいえないところなんですが。
聡明でお優しく芯の強い美丈夫的な王女様が地図を作るぜ~超作るぜ~とはりきる物語。決してつまらなくはないけど(てゆうか僕は、つまらなかったものの感想は書きません(そもそも読了に至りません))、うーん、世間の評判がいくらなんでも高すぎる気がする。
世界観の説明を語句(説明台詞)だけで済ませるのではなく、さりげなく普通にあたかも当り前のように「犬の魔物」とか出して「そういうのがいる世界なんですよここは」と説明している点は秀逸な丁寧さですね。「ここは魔物がいる世界」などと書かないで、ただ作中にぽんと魔物が存在する。「ここは魔物がいる世界」なんて書くと、”ここ”以外――つまり読者たるわたしたちの世界が、それと相対化され、顕在化し、つまり意識されてしまいますが、そういうのを、説明ではなく「当然」として書くことによって回避しています。乖離的な世界ではなく、少なくとも本の中には実存的な世界が、そうすることによってここに出来上がっているわけです。
この丁寧さは素晴らしいです。全編通してこう丁寧なんですが、これが「地図を描く」という目的(欲望)と相克している。作り手の恣意性が排除された、実存的世界像が示されているからこそ、「地図を描く」という行為が、”意義のあるもの”としてわたしたちに受け止められるわけです。
2009'05.06 (Wed) 01:44
![]() | タイム・スコップ! (一迅社文庫 す 2-1) (2009/03/19) 菅沼誠也 商品詳細を見る |
ある日突然空から降ってきた少女にぶつかってヒトラーが死ぬところからはじまる歴史改変。
いやもう、どー考えても。本年度のあらすじ大賞、つかみはおっけー大賞は確定でしょう。
以上。感想は行間を読んでくれ(ぉ
2009'05.05 (Tue) 00:30
![]() | 青年のための読書クラブ (2007/06) 桜庭一樹 商品詳細を見る |
【★★】
恋は、人の容姿にするものか? それとも、詩情にするものなのか?
人間関係は心の内側に定めた彼と私の位置によって決まる。「自分のことを王だと信じている王は、自分のことを王だと信じている乞食と同じくらい狂っている」。元は誰の言葉だっけ、結構有名なフレーズですよね。ある者が王である理由は、彼が生まれつき王であるからではなく――彼の本質に「王」というものが、資格が、理由が宿っているからでなく――、彼が単純に王という地位についているからである。つまり、周りの人間が彼を王として扱っているからはじめて彼は王たりえる。血も権力も付随物・副産物でしかない。それがあるから彼は王なのではなく、王という地位が社会的に存在し、人間関係の中で存続しているから彼は王になりえるのだ。
世界はまだ空っぽかい?
人々は関係のなかで関係を作り出しているのではない。結果論的にはそうだが、因果論的には、ひとつその前がある。人は、自身の象徴的位置を定めて、はじめて社会関係の中に参与できる。わたしたちの繋がりというのは象徴的な位置の連なりだ。あの人はわたしの中でこうであり、この人はわたしの中でそうである、その理由は、彼の社会的地位や、彼と私のとあるエピソードや、彼の性格や、彼の容姿や、彼の詩情により構築される。わたしの中に、人々が<いる>。象徴的な地位、象徴的な位置というのは、そのこと。
わたしは世界自体を見ているのではない。誰も世界自体など見られない。わたしが、わたしたちが見れる世界は、<わたし(たち)が見た世界>、のみだ。そこはありとあらゆるものが、見える要素と見えない要素、見える関係と見えない関係を保持し繋ぎ合せ構築する象徴的な世界だ。象徴的。わたしのなかにしかない世界。
それは、空っぽかい?
その、わたし(たち)のなかにだけあるそれは、そうだからこそ、中身のない空っぽと同じじゃないかい? 存在論的な根拠に乏しく、空想や妄想との差異はどこまでも恣意的なんじゃないかい? しかもその中には、「わたし自身」も参入しているのだ。
精神のもつある種の自由
しかしそれは、本当に空っぽなのか? 象徴的なもの、想像的なもの。シンボリックなもの、イマジネールなもの。それは、言葉を換えれば、主体を変えれば、支配・利用したと錯覚すれば、「精神のもつある種の自由」なのではないか?
格好の良い女性を男としてみてキャーキャー騒ぐ。
男から女に(あるいは、女から男に)わたし自身を変貌させる。
象徴的行為になり下げ果てた扇子ふるいをやめる。
「あいつはとても難しいやつだ」の、その内実、己の多義性を乗りこなし一番星を輝かす。
だから。
彼女は男性化する必要があったし、彼は女装する必要があったし、彼女は扇子を振るい続け彼女は扇子を捨てる必要があったし、一番星は歌を唄う必要があったし、ブーゲンビリアは永遠に失われる必要があった。空っぽの世界では、その象徴的行為の形式性を「意味性」に高めるイマジネールが彼と彼女には必要で、それが逆に、世界の空っぽを埋めた。
埋めれられた。
世界はまだ空っぽかい?
ここにはいくらでもできる、何でも見れる。
イデアは現存しない。幻のブーゲンビリアが票を集め、永遠の青年像を完遂させたように、それは「幻」だからこそ可能であって、現存するものには不可能である。しかしだからこそ、だからこそ、何でも見れる。何でも見れる。精神のある種の自由(想像界)が、内的世界(象徴界)のある種の空っぽを、圧倒的に凌駕出来る――ただし、しかし、ここが最も重要なところですが。ただし、しかし、それは、この学園の最中のみ。この通り過ぎる僅かな「季節」にだけ、それは存在できて、存在している。モラトリアムでもなく、隙間でもない。幻想を孕ませ、現実を凌駕できる「季節」が、その学園という空間と、学生というこの時期に、ただただ存在している。
2009'05.04 (Mon) 00:29
![]() | 零崎軋識の人間ノック (講談社ノベルス) (2006/11/08) 西尾維新 商品詳細を見る |
【★★★】
やはり、西尾維新は最高だーー!!
僕は常々言ってますが、物語の面白さというのは「幻想」です。幻想が作り出します。幻想が担保します。もちろんそれ以外も多々ありますが、「幻想」が面白さを創出する部分は、非常に重要なのではないかと思っています。いや、まじで。
「幻想」。ここでいう幻想とは、”見えてる・知ってる・分かってることの「奥」”のこと。未来も含めますし、設定や世界観や過去も含めます。
わたしたちが見えてる限りの描写から想像できる幻想、わたしたちが知ってる限りの情報から想像できる幻想、わたしたちが分かっている事柄から想像できる幻想。
たとえば、この人物の底の知れなさとか。たとえば、この人物とあの人物の戦いや共闘に抱くわくわく感。たとえば、世界観の奥深さ。まだ見ぬもの。まだ知らぬもの。そこに馳せる想像の量。
描かれていることが全てではないのです。描かれていることの奥に想像できる、「描かれていること以上のもの」こそが、面白さを作り出す「幻想」として機能するのです。
いや、まじで。
見えてるものや知ってるものや描かれてるものから想像される、その奥、”それ以上のもの”――そこにこそ、面白さは宿る。知ってることや分かってることが大事なのではない、知ってることや分かっていることが何故そうなのか、それ以上はその奥にあるのではないか――つまり、知ってることや分かっていることは「深層」から描写により表に滲み出た「表層」ではないか。
その「幻想」こそが、面白さを作り出す。
まじで。
西尾維新さんはそのへん上手いんですよ。激うま。いつもそうですけど、今回もそうですよね。正面から全てが全ての面で十全な全力を出し切ることはありえない。その時、その状況下でのベストというのはあっても、十全なベストはありえない。戦闘シーンなどまさにそうでしょう、軋識は実力の全てを出せず、双識は正面から戦わず底を見せず、人識はそもそも手負いじゃん、と。お互いがベストで十全の戦闘能力発揮状態なら、人識VS出夢とか少年漫画顔負けの凄さじゃん。でもやらない。そうはならない(そして「そうなった」後日談はダイジェストでしか見せてくれないし、しかも戦闘として不完全(心理的にノンベスト))。正面衝突ではない、目的の為の自制された戦闘でしかない、制約された全力でしかない。そこは十全ではないのですディアフレンド。
だからこそ、そこには「幻想」が宿りうるのです。
もっと。もっと。もっと。
もっと凄いのではないか。もっと強いのではないか。もっと激しいのではないか。もっと格好良いのではないか。もっと底が知れないのではないか。もっと何かあるのではないか。もっと何か出来るのではないか。もっと凄いのではないか。描かれていることより、もっとが、彼らの中に内在しているのではないか。もっと。もっと。もっと。
だからもう、楽しくって仕方ない。戯言シリーズはやはり神だなと(笑)。幻想を自由自在に作り出す。幻想にわれわれは導かれ続ける。
しかーし、一人だけ、幻想ではない、全力十全完全少女がここにいます。そう、この時点では少女……いや、「少」でいいのか? まあいいや。請負人。人類最強。赤き征伐。
この人だけは全く持って十全。いえ、十全に見える。たとえ真実は十全でなくとも、わたしたちが見る・知る・分かる限りでは、十全に見える。
そう、哀川潤さんには幻想などいらないのです。なぜなら既にして最強だからー。「奥」など必要なく、その行動原理に「奥」など組み込まれていない。
「嫌なことは嫌々やれ。好きなことは好きにやれ」
「好きなことは好きにやればいいのさ。好きな道を選べばいい。好きな色を選べばいいんだよ」
最高です、赤い人。幻想を軽々とノック・アウトして、全てを喰らい尽くす。
2009'05.03 (Sun) 00:23
![]() | やってきたよ、ドルイドさん! (MF文庫J) (2008/10) 志瑞祐 商品詳細を見る |
【★】
文章もキャラ作りもとにかく上手いけど話が微妙すぎる! というのが、まあ正直なところです。おいおい今の世に謎の美少女転校生と婚約者のちょーどーでもいいーバトルとかねーだろ、と思わざるをえない。新人賞選考で清水マリコさんが 「あ、『やってきたよ、ドルイドさん!』は……なんだろうちょっと懐かしの癒し系?(笑)」 と仰ってますが、そんな感じではありますね。ゆるく、お話は舞台装置と同等に後景化していている。「懐かしの」「(笑)」と付かざるを得ない感じはある。ただ忘れちゃいけないのは、その前の「なんだろう」という部分。
文章とキャラ作りが単純に上手いのですが、そこに自己言及性が客観的に存在していて――その、たとえばお話や中身のなさなどの、微妙なところや古臭いところを、その客観的な自己言及性が脱臼しているのです。これが一つはずした、「なんだろう」に当て嵌まるような独特さを導き出しているでしょう。先が分かって分からずに、自分を分かって分からずに、どうでもよくてどうでもよくない。
この文章は、正直、化けるんじゃないすかね。どうでもよいのにどうでもよくなく、どうでもよくないのにどうでもよく、そんな感じで書かれてますよね殆ど。
なんつうか、一人称だけど三人称の論理で書かれてますよね。感情の処理、描写の処理、記述の処理、それらが、一人称の論理に流されることなく、三人称の論理でコントロールされている。微妙に間主観的。逆間接話法的?とでもいうべきでしょうか。この辺はそのうち深く考えたい。
それが、ベタな話を、「ただのベタ」ではなく、ひとつ脱臼させて、一段上からみて「べタ」だというレベルに打ち据えている。つまり話のどうでもよさが保留的に(評価においても)どうでもよくなれる――儀礼的なものとなる――わけです。
キャラ立ても上手いわ文章も上手い。今回はぶっちゃけ、装丁に救われてる(最初のカラーページの絵の部分とか凄くない?完璧に100点あげれるくらいじゃない?この作品がいかなるものかという空気・雰囲気を、文章以前に完全に植えつけちゃってるじゃないすか(しかもいい方に)。また表紙もいいですよね。舞城(スクアタやディスコ探偵の)みたいなタイトルフォントの、「装飾としてだけの硬質さ」が、形式として作品に力を与えている)(表紙買いor最初のカラーページ買いして間違いない作品)感はありますけど、この作者さんはそのうち化けるんじゃないでしょうか。
2009'05.02 (Sat) 00:22
![]() | planetarian―ちいさなほしのゆめ (VA文庫) (2008/11) 涼元悠一 商品詳細を見る |
ゲームのノベライズかと思ったら、完全にオリジナルでした。というか、短編4つからなるのですが、うち3つは世界観が同じと言うだけで直截な繋がりは感じられないもの。
星空、言葉、神様、ロボット。4つの主題からなる小作品集。4つの話からなるひとつの星座。
涼元さんの、微妙に客観的というか、一人称なのに微妙に(本当に微妙に)間主観的な描写、というか描写の内容が、触れ得ないイミテーションの星空を「真なる」心で受け止めるその感性と相まって、独特のプラネタリウムを創りだしているでしょう。とかいってみちゃったりする。
プラネタリウムはいかかがでしょう?どんな時も決して消えることのない、美しい無窮のきらめき、満天の星々がみなさまをお待ちしています。
2009'05.01 (Fri) 00:15
![]() | PSYCHE (プシュケ) (スクウェア・エニックス・ノベルズ) (2008/07/26) 唐辺葉介 商品詳細を見る |
【★★】
「オチ」や「意味」は、常に問題と”されない”。なぜならばそれは既に「決定」しているから。
というのは、瀬戸口廉也さん(と唐辺葉介が同一人物という前提でお話しますが)のひとつの特徴でもあるんじゃないだろうかもしかすると……キラ☆キラしかやったことないすけど。本作とキラ☆キラの主人公、両方に通じるのはそれで、重要なのはですね、彼が彼であることに(で)既に常にが決定している。
それはもはや設定ではなく道理に近い。人物が(主人公が)こうしてああしてそこに至る「道理」が、所謂「設定」などと呼ばれる彼自身の諸所に(もはやこの段においては大仰ですが人生の歩みなどと申し上げた方がよろしいでしょうか)決定されている。『運命は性格の中にある』。芥川龍之介だったでしょうか。わたしたちが何を選ぶか、何をするかは、その「性格」に大きな部分を左右され、またその選択や行動の結果が、「性格」に還元され、そして再帰的に、性格が己の運命といえる人生を創りだしている。
それを逆からいえば、彼に纏わる全てが、「いまの彼」に繋がっているということです。物語が綴られる前段階からある、細かい設定やらなにやらも、そう。そして彼に纏わる描写の全てが、「ラストの(最終的な)彼」に繋がっている。一部の無駄も無い。キラ☆キラでいえば、「僕」「俺」の弁別も、パンクロックすることも、女装も、旅に出ることも、どれも最終においてまったく無駄ではない・どれか欠けていたら成立しなかった――そういった点です。
そしてそれは、それゆえに、圧倒的な重みを産む。なにせ全てが”等しく”無駄じゃないんですからね、「彼」にとっては。わたしたちにとってはどうでもいいところも、そうじゃないところも、「いまの」「そこの」「最後の」『彼』にとっては、欠かすべからぬ意味のあるものとなっている。
この圧倒性。それが作品を包摂している。作中の言葉を借りるなら、「きみの内臓のなかにいるみたい」だ。全てが「彼」を作り出し、全ては「彼」が創りだしている。そう、瀬戸なんとかさんの「重み」はそこ(と、僕程度が言うのはあれなんですが)。ありとあらゆる点があり今がある――そして、ありとあらゆる点があり今があるという点があってはじめて今より先という点がある。その当たり前にして、何より圧倒的な重さが、内臓のような重さが、描かれている。
以下ネタバレ。
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