2007'03.26 (Mon) 15:42
中身がない、中身がないと言われ続けている「ひだまりスケッチ」ですが、
本当はすっごく中身があるのです!
その辺を適度にご紹介していこうかと思います。
例えば第2話。


いつものように適当にダベリつつ、夜は夏祭りに行き花火を見た回。
周りのモブキャラが人生ゲームの『コマ』と化していたり、時間表示が人生ゲームのルーレットになっていたりする回なのですが、この演出にも勿論意味があるのです。
ゆのっち達4人が今過ごしている時間は、かけがえのないものだということ。
人生ゲームでは人間を適当なコマで表します。それと同じ様に、彼女達に関わりの無い通行人など適当な描写で構わない。僕らだって、実際に関わりの無い赤の他人なんて適当にすらも考えない。すなわち、人生ゲームのコマ。
人にとって赤の他人なんて、人生ゲームのコマのような存在でしかないのです。
そして時間表示のルーレット。時間の回り、運命の巡りなんてルーレットみたいなモノ、運や偶然の要素が強いです。今ここに自分が立っているのには幾通りもの分岐があって(つまり人生ゲームでいう『マス』みたいなものです)、そこに辿り着いたのは決して必然だけではなくルーレットのような偶然も絡んでいる。この4人がこの年代に生まれたのも、やまぶき高校に入学したのも、ひだまり荘に入居したのも、そしてお互い知り合って友達になれたのも。数限りない分岐を、数限りない選択と偶然で辿っていった果てでの出来事。それはまるでルーレットを回すかのような選択と偶然。
それだけに、この4人が出会えて、今ここにいて、お互いを人生ゲームのコマではなくちゃんとした人間として認識できるということ、そのことがとっても「かけがえのないもの」に思えてくるのです。一歩間違えれば、ルーレットの出目が一つ違っていれば、今のこの光景は存在していなかった。
だからこの、「悪いことがあった分の『いいこと』」としてかどうかは分かりませんが、こうやって4人で花火を見ているこの光景が、とっても素敵でかけがえのないものに思えるのです。
例えば8話。
時間軸的には最後のお話し。
いつも通り4人の仲が良い風景を写していますが、特にゆのっち×宮ちゃん、沙英×ヒロさんを分けて描写気味です。ゆの宮よりも一年間早く知り合い、その分仲が良い沙英ヒロ。その沙英ヒロの仲の良さをみて、それに憧れるゆのっち。

「ふぁ~。ヒロさんたちステキ~。お互いを分かってて、信頼し合ってて」
「私と宮ちゃんも、いつかあんな風になれるかな・・・?」
「う~ん。ふふっ」
と微笑みながら、無言でゆのっちを抱き寄せる宮ちゃん。
これだよ、この友情だよ!こんな事を口に出せるくらいに、宮ちゃんの事が好きなゆのっち。そのゆのっちの不安を、一瞬でかき消せる宮ちゃん。一年間の『ひだまり』の積み重ねが、この場所に彼女達を運んできたのです!
そしてそこからさらに一年の時間がかかれば、このゆのっち×宮ちゃんの二人も、彼女が憧れる沙英×ヒロさんの二人のようになれることでしょう。

ゆのっちが今回、課題として描いていた絵。ゆのが「宮ちゃんがいてくれたから描けた」と言った様に、宮子が手伝ってくれたから描けた絵でありました。そしてその絵は―――『ひだまり荘の絵』。
このゆのっちの言葉は、「今日」宮ちゃんが居てくれたからではなく、宮ちゃんとここで出会えたから、つまり宮ちゃんが「ずっと」居てくれたから描けた絵なのでしょう。『ひだまり荘』、そして『日溜り』―――暖かい場所―――を描いた絵。この一年間の積み重ねを示す、最後のエピソードに相応しい中身ではないでしょうか。
例えば9話。
9話は宝くじを拾うというサブエピソードを織り交ぜつつ、メインは夢のお話でした。

「あなたたちくらいの頃は、出会うもの全てがきっかけになりうると思うの」
夢が無い、分からないというゆのっちに対する岸さんのお言葉です。
この言葉を聞いて、『夢を持つ』ということを始めて意識したゆのっち。岸さんが言っていた「そのことに気付けば……」というのは、この『意識』を持つということでしょう。きっかけは何処にでも転がっているだろうけど、意識してそれを見なければ気付くことはできない。しかし意識さえしていれば、まるで落し物を拾うかのように簡単に見つかる。きっと宝くじを拾うような、そのくらい簡単で偶然なモノ。
その宝くじが当たりかどうかは分からないけれど。

「夢はね、『やーめた』って言わない限り、ずっと……」
「ここにあるんだよ」
「きっとゆのっちの夢は、何処かで見つけてもらうのを、ず~と待ってるよ」
例えば、見つけた夢を宝くじに例えて。 それが当たりかどうかは分からない。もしかすると外れるかもしれない。外れ、すなわち夢が叶わない事。
でも外れたら、そこで終わるということではなくて。
何回でもやり直せばいい。また新しい宝くじを見つければいい。自分で「もうやめた」と言わない限り、夢はどこまでだって続いていくのです。
そして10話。
止め絵放送事故、ヤベエこれと話題の10話ですが、これにも深い意味があるのです。

ゆのっちの『未完成の絵』。ゆのっちは「未完成だどうしよう~」と狼狽しておりましたが、宮ちゃんや吉野屋先生は「完成したら準備じゃない」からこそ、その未完成の部分、下の所の空白が素晴らしいと褒めておりました。
空白。
文化祭の準備。
これがキーポイントです。
主にこの絵を見るのはやまぶき高校の生徒です。彼らにとってはこの空白が重要。何も書かれていない所、そこを彼・彼女らがどう想像してどう埋めるか、それによって彼ら・彼女ら自身の文化祭の準備が想起されて、見た人にとっての『文化祭の準備』という絵が出来上がるのです。
何を空白に置くか、によって、彼・彼女らにとっての『文化祭の準備』という絵が大きく変わっていく。
敢えて書かないことによって、その空白を見た人それぞれが想像で補っていく。これは実は『ひだまりスケッチ』全体に通じることなのですが、これを如実に顕現させたのがこの第10話なのです。

「ゆのっちの知らないところで、ゆのっちを見守る会が結成されていたのだよ」
ゆのっちの知らないところでも、世界は廻っている。特に今回ゆのっち視点でのお話しだったので余計、そこが強く出ていました。
敢えて見せない文化祭の出し物も。なぜか見せない周りの景色も。飛び飛びの場面も。
視聴者の知らないところで、このひだまりの世界も廻っている。だから文化祭も見せないし、全体像も見せないし、なんかとにかく見せてくれない。そう、今回色んな面で「とにかく見せてくれない」理由はこんなところにあるのです。廻っている世界、でも自分が見ていない部分。この空白の部分をどう補うのか。
そこをどう補うのかによって、見た人それぞれの『ひだまりスケッチ』という作品が完成するのです。
それの些事加減一つで、この作品は如何様にも変わっていきます。面白くなるのか、つまらなくなるのか。意味があると深読みするのも良し、しないも良し。この作品は楽しませてもらうものではなく、自分から楽しむもの。空白を大きくした今回をどう楽しむか、それはこの『ひだまりスケッチ』をどう楽しむかに通じるものがあるのです。
このように、『ひだまりスケッチ』はサブエピソードも絡めながら、メインにしっかりとした中身を持っています。
ただ、そこをどう読むか、どう認識するかは人によって大きく違います。
こうやって訳分からん妄想して捏造こねくり回すも良し、放送事故だー言っちゃうのも良し、嫌いでも好きでもなんでも良いのです。
『この作品の空白をどう埋めるか』―――言い変えると、『どうスケッチするか』。それぞれの視聴者の、それぞれのスケッチの数の分だけ『ひだまりスケッチ』は生まれるのです。
OP曲「スケッチスイッチ」は、僕たちがこれからこの作品をスケッチするぞという「スイッチ」を押す曲であって、ED曲「芽生えドライブ」で、この作品で自分の心に「芽生えた」感情・感動をドライブさせるのです。そして自分の中に出来上がる絵が、『ひだまりスケッチ』という作品。
空白を埋めた分だけ『ひだまりスケッチ』という作品が存在する。人によって『ひだまりスケッチ』という作品が数限りなく存在する。そんな作品なのです。(そして10話で見せられたゆのっちの優しい視点を借りると、みんなと僕とのスケッチの齟齬すらも愛したくなってしまう、そんな作品。)
このように、『ひだまりスケッチ』という作品は妄想と想像と捏造と妄言を駆使すればとっても中身のある作品なのです。(本当は全話の中身をスケッチしようと思ったのだけど、妄想想像捏造妄言使ってもムリだったー)
これ書いてる時点では、残す所はあと一話。その最後の一回、あなたは、どんな『ひだまりスケッチ』を心のキャンバスにスケッチしますか?
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本当はすっごく中身があるのです!
その辺を適度にご紹介していこうかと思います。
例えば第2話。


いつものように適当にダベリつつ、夜は夏祭りに行き花火を見た回。
周りのモブキャラが人生ゲームの『コマ』と化していたり、時間表示が人生ゲームのルーレットになっていたりする回なのですが、この演出にも勿論意味があるのです。
ゆのっち達4人が今過ごしている時間は、かけがえのないものだということ。
人生ゲームでは人間を適当なコマで表します。それと同じ様に、彼女達に関わりの無い通行人など適当な描写で構わない。僕らだって、実際に関わりの無い赤の他人なんて適当にすらも考えない。すなわち、人生ゲームのコマ。
人にとって赤の他人なんて、人生ゲームのコマのような存在でしかないのです。
そして時間表示のルーレット。時間の回り、運命の巡りなんてルーレットみたいなモノ、運や偶然の要素が強いです。今ここに自分が立っているのには幾通りもの分岐があって(つまり人生ゲームでいう『マス』みたいなものです)、そこに辿り着いたのは決して必然だけではなくルーレットのような偶然も絡んでいる。この4人がこの年代に生まれたのも、やまぶき高校に入学したのも、ひだまり荘に入居したのも、そしてお互い知り合って友達になれたのも。数限りない分岐を、数限りない選択と偶然で辿っていった果てでの出来事。それはまるでルーレットを回すかのような選択と偶然。
それだけに、この4人が出会えて、今ここにいて、お互いを人生ゲームのコマではなくちゃんとした人間として認識できるということ、そのことがとっても「かけがえのないもの」に思えてくるのです。一歩間違えれば、ルーレットの出目が一つ違っていれば、今のこの光景は存在していなかった。
だからこの、「悪いことがあった分の『いいこと』」としてかどうかは分かりませんが、こうやって4人で花火を見ているこの光景が、とっても素敵でかけがえのないものに思えるのです。
【More】
例えば8話。
時間軸的には最後のお話し。
いつも通り4人の仲が良い風景を写していますが、特にゆのっち×宮ちゃん、沙英×ヒロさんを分けて描写気味です。ゆの宮よりも一年間早く知り合い、その分仲が良い沙英ヒロ。その沙英ヒロの仲の良さをみて、それに憧れるゆのっち。

「ふぁ~。ヒロさんたちステキ~。お互いを分かってて、信頼し合ってて」
「私と宮ちゃんも、いつかあんな風になれるかな・・・?」
「う~ん。ふふっ」
と微笑みながら、無言でゆのっちを抱き寄せる宮ちゃん。
これだよ、この友情だよ!こんな事を口に出せるくらいに、宮ちゃんの事が好きなゆのっち。そのゆのっちの不安を、一瞬でかき消せる宮ちゃん。一年間の『ひだまり』の積み重ねが、この場所に彼女達を運んできたのです!
そしてそこからさらに一年の時間がかかれば、このゆのっち×宮ちゃんの二人も、彼女が憧れる沙英×ヒロさんの二人のようになれることでしょう。

ゆのっちが今回、課題として描いていた絵。ゆのが「宮ちゃんがいてくれたから描けた」と言った様に、宮子が手伝ってくれたから描けた絵でありました。そしてその絵は―――『ひだまり荘の絵』。
このゆのっちの言葉は、「今日」宮ちゃんが居てくれたからではなく、宮ちゃんとここで出会えたから、つまり宮ちゃんが「ずっと」居てくれたから描けた絵なのでしょう。『ひだまり荘』、そして『日溜り』―――暖かい場所―――を描いた絵。この一年間の積み重ねを示す、最後のエピソードに相応しい中身ではないでしょうか。
例えば9話。
9話は宝くじを拾うというサブエピソードを織り交ぜつつ、メインは夢のお話でした。

「あなたたちくらいの頃は、出会うもの全てがきっかけになりうると思うの」
夢が無い、分からないというゆのっちに対する岸さんのお言葉です。
この言葉を聞いて、『夢を持つ』ということを始めて意識したゆのっち。岸さんが言っていた「そのことに気付けば……」というのは、この『意識』を持つということでしょう。きっかけは何処にでも転がっているだろうけど、意識してそれを見なければ気付くことはできない。しかし意識さえしていれば、まるで落し物を拾うかのように簡単に見つかる。きっと宝くじを拾うような、そのくらい簡単で偶然なモノ。
その宝くじが当たりかどうかは分からないけれど。

「夢はね、『やーめた』って言わない限り、ずっと……」
「ここにあるんだよ」
「きっとゆのっちの夢は、何処かで見つけてもらうのを、ず~と待ってるよ」
例えば、見つけた夢を宝くじに例えて。 それが当たりかどうかは分からない。もしかすると外れるかもしれない。外れ、すなわち夢が叶わない事。
でも外れたら、そこで終わるということではなくて。
何回でもやり直せばいい。また新しい宝くじを見つければいい。自分で「もうやめた」と言わない限り、夢はどこまでだって続いていくのです。
そして10話。
止め絵放送事故、ヤベエこれと話題の10話ですが、これにも深い意味があるのです。

ゆのっちの『未完成の絵』。ゆのっちは「未完成だどうしよう~」と狼狽しておりましたが、宮ちゃんや吉野屋先生は「完成したら準備じゃない」からこそ、その未完成の部分、下の所の空白が素晴らしいと褒めておりました。
空白。
文化祭の準備。
これがキーポイントです。
主にこの絵を見るのはやまぶき高校の生徒です。彼らにとってはこの空白が重要。何も書かれていない所、そこを彼・彼女らがどう想像してどう埋めるか、それによって彼ら・彼女ら自身の文化祭の準備が想起されて、見た人にとっての『文化祭の準備』という絵が出来上がるのです。
何を空白に置くか、によって、彼・彼女らにとっての『文化祭の準備』という絵が大きく変わっていく。
敢えて書かないことによって、その空白を見た人それぞれが想像で補っていく。これは実は『ひだまりスケッチ』全体に通じることなのですが、これを如実に顕現させたのがこの第10話なのです。

「ゆのっちの知らないところで、ゆのっちを見守る会が結成されていたのだよ」
ゆのっちの知らないところでも、世界は廻っている。特に今回ゆのっち視点でのお話しだったので余計、そこが強く出ていました。
敢えて見せない文化祭の出し物も。なぜか見せない周りの景色も。飛び飛びの場面も。
視聴者の知らないところで、このひだまりの世界も廻っている。だから文化祭も見せないし、全体像も見せないし、なんかとにかく見せてくれない。そう、今回色んな面で「とにかく見せてくれない」理由はこんなところにあるのです。廻っている世界、でも自分が見ていない部分。この空白の部分をどう補うのか。
そこをどう補うのかによって、見た人それぞれの『ひだまりスケッチ』という作品が完成するのです。
それの些事加減一つで、この作品は如何様にも変わっていきます。面白くなるのか、つまらなくなるのか。意味があると深読みするのも良し、しないも良し。この作品は楽しませてもらうものではなく、自分から楽しむもの。空白を大きくした今回をどう楽しむか、それはこの『ひだまりスケッチ』をどう楽しむかに通じるものがあるのです。
このように、『ひだまりスケッチ』はサブエピソードも絡めながら、メインにしっかりとした中身を持っています。
ただ、そこをどう読むか、どう認識するかは人によって大きく違います。
こうやって訳分からん妄想して捏造こねくり回すも良し、放送事故だー言っちゃうのも良し、嫌いでも好きでもなんでも良いのです。
『この作品の空白をどう埋めるか』―――言い変えると、『どうスケッチするか』。それぞれの視聴者の、それぞれのスケッチの数の分だけ『ひだまりスケッチ』は生まれるのです。
OP曲「スケッチスイッチ」は、僕たちがこれからこの作品をスケッチするぞという「スイッチ」を押す曲であって、ED曲「芽生えドライブ」で、この作品で自分の心に「芽生えた」感情・感動をドライブさせるのです。そして自分の中に出来上がる絵が、『ひだまりスケッチ』という作品。
空白を埋めた分だけ『ひだまりスケッチ』という作品が存在する。人によって『ひだまりスケッチ』という作品が数限りなく存在する。そんな作品なのです。(そして10話で見せられたゆのっちの優しい視点を借りると、みんなと僕とのスケッチの齟齬すらも愛したくなってしまう、そんな作品。)
このように、『ひだまりスケッチ』という作品は
これ書いてる時点では、残す所はあと一話。その最後の一回、あなたは、どんな『ひだまりスケッチ』を心のキャンバスにスケッチしますか?
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