2007'04.13 (Fri) 02:19
なぜかもう「らき☆すた」1話を6回くらい見てます。
こんだけ見てると、こなたやかがみが喋ってるだけで楽しくなってくるからヤバイ。
で、「らっきー☆ちゃんねる」。

「らっきー☆ちゃんねる」というのは、元々アニメに先行して今年一月から放送されているラジオ番組であり、それが今回このアニメ版に進出してきたという形になります。ラジオ番組をアニメに持ってきたのですね。
とはいえ、殆どの視聴者はラジオ版「らっきー☆ちゃんねる」を聞いたことがないであろう事から、「ラジオを聴いていなければ訳が分からない」作りにすることだけはない、と思いました。
が。
分からない。
別段ノリに付いていけないとか、さっぱり理解できないとかそんなこともなく普通に理解出来るのですが、それ故に分からない。この「らっきー☆ちゃんねる」の、存在意義が。
その辺を、「第一話だから俺だって分かんないよ」という状況にも関わらず、まだ誰も手を付けていない今がチャンスっぽいから無理からに考えてみようと思います。
まず今回の「らっきー☆ちゃんねる」の内容を見てみると……
○小神あきらと白石稔の登場

まず冒頭に、「TV進出」「TVで始めましての人こんにちは」と、このコーナーは元々TV外で存在していた企画だということを伝える。それにより、突拍子が無さ過ぎるこのコーナーの存在に対する視聴者の違和と不信を和らげる。
また視聴者から見れば「お前ら両方とも誰だよ」というシチュエーションにも関わらず、白石の登場にあきらが「誰?」と返す所なんかがこのコーナーを勢いづけていると思います。視聴者と同じく「誰?」という疑問を作中の(視聴者が「誰?」と思っている人物が)述べる、という構図はこのコーナーの存在を視聴者に対して(半ば無理矢理)『押し通す』勢いを生み出しています。
白石の「あきら様」という発言と、あきらの服装やキャラなどから、簡単にあきらが「アイドルキャラ」であることを自称だけでなく"裏付ける"、しかも"様"を付けてしまうほどだ、というのを表現出来ているのは非常に上手いですね。
○(架空の)視聴者からのハガキ

当然架空のお手紙だと思うのですが、一応ラジオもやってるので念のため括弧付きで。
ラジオ番組というのはリスナーからのお手紙やリクエストなどを募集している番組が多いですが、そうすると非常に現実味を帯びます。つまり、自分(もしくは他人)が本当に・リアルに書いた手紙が読まれる、この事実に電波の向こう側でやっている、本当に存在しているのかどうかが絶対的に不確かであるラジオ番組が、『本当に存在している』という現実味を与えるのです。そしてそれは同時に、ラジオのパーソナリティという人物がまた『存在している』という現実感を与えることになります。
つまり、ラジオから流れている『ラジオ番組』はフィクションでもあり、フィクションでは無いということ。
これはアニメも同じ。
アニメの内容自体は、実際にこなたやかがみは存在していないし、こういう会話や出来事も起こっていない訳だから、この番組はフィクションであります。
しかし、この番組が"存在している"というのはフィクションでも虚構でもない。現実に存在しているからこそ、テレビに写っているのです。番組の内容自体はフィクションの作り事ですが、番組の存在まではフィクションでも作り事でも無く、存在している。絵を描く人や話考える人や声を当てる人がいて、番組が作られて存在している訳です。
さて、前述のラジオとお便りと現実感の話。
電波の向こうのラジオ番組とか、ブラウン管の向こうのアニメ番組というのは、酷く現実感がないというか、もの凄くフィクションな感じです。実際には作っている人がいるし、聞ける・見れるのだから存在している筈なのに、それをリアルに感じる事は出来ない。フィクションだから。確認出来るモノではないから。台本や脚本があって、それに準じて創作されたお話が構築されている。台本や脚本があって、それに準じてキャラクターを作って喋られている。それがアニメやラジオ。それは決して現実ではない。作られているのだから、完全な『フィクション』だ。
けれどお便りを送り、それが読まれることによって、そのフィクション性は大なり小なり瓦解する。
今まで電波の向こう側―――存在しているのかしていないのかが確認取れなかった、不明瞭だった存在が明確になる。現実に存在するリスナーとの接点、双方向性が生まれることにより、表立っては前面に立ってこない製作側と、『フィクション』として前面に立っている作品側、その両者が一気にリスナーと同じ土俵―――つまり現実に立つ訳です。
要するに、この時初めて、この電波の向こう側の人間の存在を"確信"することが出来るのです。
受け手から送り手に対してアクションを起こし、それが反応されるということは、このような効果があります。
それを踏まえた上で。
この『視聴者からの葉書を読む』という行為は、前述の『現実感』を強く印象付ける作りであります。例え葉書を送ったのが自分で無くても、誰かしらの視聴者からの葉書が読まれている、その事実に、その番組を作っている人間の『存在』を現実感を持って感じ取ることが出来るのです。確認不可能である向こう側の人間を、こっちと同じ土俵、つまり現実へと降ろす―――そういった意味が、このお便りによる反応、コミュニケーションには存在しているのです。
勿論、この「らっきー☆ちゃんねる」におけるソレは、誰もが嘘お便り、自作自演のネタだと思っているでしょうから、真に同じ土俵と思っている人はいないでしょうが―――それでも、嘘でもこういうことを行なうと、擬似的にこの番組ひいては製作側に対して『現実感』を感じ取る(今風に言うと「リアルになる」)ことが出来るのです。
まあその内、本当に視聴者からの手紙とか読み出したらマジ神なんですが。
○ギャラの話

これもまた前項と同じく、現実感を作り出す効果が出ています―――というか、よりこの「らっきー☆ちゃんねる」ひいては「らき☆すた」本編の立ち位置がわからなくなる要因なのですが。
ギャラの事を聞かれたあきらは、顔も声も変わるわ、胸をポリポリ掻き出すわと、思いっきり豹変しています。端的に言うと、テレビ用の作ったキャラクターのあきらではなく、『素』のあきらが出てしまった感じ。
『素』のあきら、家庭環境の告白、「このテレビのギャラ?」という発言が、『あきら』というキャラクターをリアルに印象付ける効果をある程度持っています。とはいえ前者二点、キャラの豹変と家庭環境というのはベタすぎるので、却ってリアル感を喪失させるものでもありますが。
ポイントは最後一点、「このテレビのギャラ?」発言でして。
この発言から、あきらの存在がこのテレビ外にいる、ということを印象付けています。元々ラジオのキャラクターなら当然と言えば当然なのですが、それでも、『アニメに出ている』キャラクターが『アニメ外の存在である』というのは、なかなか斬新です。
○本編に出る白石くん
これと前述「ギャラの話」。これで「らっきー☆ちゃんねる」の立ち位置が分かりづらくなります。
まず当たり前ですが、この「らっきー☆ちゃんねる」と本編の「らき☆すた」は別物だということ。そしてこなたやかがみ達がダベってるあっちが、「本編」だということ。ではこの「らっきー☆ちゃんねる」というのは何なのか。そもそも、本編って何なのか。らき☆すたって何なのか。何が「らき☆すた」で、何処までが「らき☆すた」なのか。
これについては中々難しいところで、ヒントは三点、冒頭に記される「美水かがみ劇場」と、途中差し込まれる「らき☆すた」のアイキャッチ、そして最後に起きる「テレビを消した時のような演出」。
まず一番初めに「美水かがみ劇場」と写し、バックで「始まるザマスよ」とか声が入っています。このことから、これから始まるのは「美水かがみ劇場」だということが分かります(美水かがみは原作者さんです)。
「らき☆すた」のアイキャッチは作中で二回登場。普通に考えて、「らき☆すた」と言ってるんだから、これが登場している部分は「らき☆すた」なんだろうと考えられる。(これ猫みたいな生き物が出てるのですが、サブタイ表示時は元気で、最初のアイキャッチの時はあくびしてて、ラストは寝ちゃってるのが笑える。もしもこれが、「深夜だから気を抜くと寝ちゃうくらいゆるい内容だ」とか思っている視聴者のことを意識しているのならば―――京アニ、恐ろしい子っ!)
ラスト、(ED以外)全てが終わった後の「テレビを消した時のような演出」。これはそのまんま、テレビを消した、というのを演出しているのでしょう。
この「テレビを消した」が、「らき☆すた」本編もしくは全編にかかるのか、それとも「らっきー☆ちゃんねる」にかかってくるのか。
『本編』という言葉が出てくる以上、「らっきー☆ちゃんねる」がこなたとかかがみとかがいる「らき☆すた」世界で流れているテレビ番組、謂わば番組内番組だというオチはないでしょう。そして「本編にも出る」という発言から、両者が完全に独立分離した存在でもないことも明らか。(ただし、本編から☆ちゃんねるの方が認識出来るのかは不明)
何処から何処までが「らき☆すた」なのかというのは、公式サイト見たらあっさり解決しました。
http://www.lucky-ch.com/
「らき☆すた」オフィシャルサイト/「らっきー☆ちゃんねるWEB」/「らき☆すた」公式サイト
驚くべき事に、「らっきー☆ちゃんねる」が「らき☆すた」と並列に(寧ろ先に)並んでいます。
つまりもう、完全に完膚なきまで、不可分で『らき☆すた』は「らっきー☆ちゃんねる」を含んでいる。ということは、恐らく作者の美水かがみさんが絡んでいないであろう「らっきー☆ちゃんねる」は除外して、本編だけが「美水かがみ劇場」なのではないでしょうか。本編(=美水かがみ劇場)+らっきー☆ちゃんねる=『らき☆すた』。
ということは恐らく、あの「テレビを消す」演出は、美水かがみ劇場もらっきー☆ちゃんねるも含めた『らき☆すた』自体にかかっているのでしょう。テレビ番組『らき☆すた』が終わったから、テレビを消した。(テレビを消した後に流れるエンディングなのですが、何故エンディングがテレビ消した演出の後なのか、は分からない。誰か答え教えてプリーズ)

「らっきー☆ちゃんねる」は、あくまでも現状では"おまけコーナー"のような立ち位置に属しています。
しかしそこには、第一話からして意外な程に仕掛けや仕込みがあり、しかも本編にまで絡もうとしている―――まだ第一話なのに。
ただのおまけコーナーかと思ったら意外と大間違い、想像以上に重要な意味を持つコーナーに成り得るかもしれません。なにせ公式じゃ本編と同列に並べられてるくらいなのだし。
ゆるい、まったり過ぎと言われるこの「らき☆すた」。そこに京アニらしい『大仕掛け』をかけてくる鍵は、案外この「らっきー☆ちゃんねる」かもしれません。
WEB拍手を送る
(個人的には、半ばくらいに書いた『フィクションと現実』に絡めたナニカを仕掛けてくれるんじゃないかなぁ~とか思ったり)
こんだけ見てると、こなたやかがみが喋ってるだけで楽しくなってくるからヤバイ。
で、「らっきー☆ちゃんねる」。

「らっきー☆ちゃんねる」というのは、元々アニメに先行して今年一月から放送されているラジオ番組であり、それが今回このアニメ版に進出してきたという形になります。ラジオ番組をアニメに持ってきたのですね。
とはいえ、殆どの視聴者はラジオ版「らっきー☆ちゃんねる」を聞いたことがないであろう事から、「ラジオを聴いていなければ訳が分からない」作りにすることだけはない、と思いました。
が。
分からない。
別段ノリに付いていけないとか、さっぱり理解できないとかそんなこともなく普通に理解出来るのですが、それ故に分からない。この「らっきー☆ちゃんねる」の、存在意義が。
その辺を、「第一話だから俺だって分かんないよ」という状況にも関わらず、まだ誰も手を付けていない今がチャンスっぽいから無理からに考えてみようと思います。
【More】
まず今回の「らっきー☆ちゃんねる」の内容を見てみると……
○小神あきらと白石稔の登場

まず冒頭に、「TV進出」「TVで始めましての人こんにちは」と、このコーナーは元々TV外で存在していた企画だということを伝える。それにより、突拍子が無さ過ぎるこのコーナーの存在に対する視聴者の違和と不信を和らげる。
また視聴者から見れば「お前ら両方とも誰だよ」というシチュエーションにも関わらず、白石の登場にあきらが「誰?」と返す所なんかがこのコーナーを勢いづけていると思います。視聴者と同じく「誰?」という疑問を作中の(視聴者が「誰?」と思っている人物が)述べる、という構図はこのコーナーの存在を視聴者に対して(半ば無理矢理)『押し通す』勢いを生み出しています。
白石の「あきら様」という発言と、あきらの服装やキャラなどから、簡単にあきらが「アイドルキャラ」であることを自称だけでなく"裏付ける"、しかも"様"を付けてしまうほどだ、というのを表現出来ているのは非常に上手いですね。
○(架空の)視聴者からのハガキ

当然架空のお手紙だと思うのですが、一応ラジオもやってるので念のため括弧付きで。
ラジオ番組というのはリスナーからのお手紙やリクエストなどを募集している番組が多いですが、そうすると非常に現実味を帯びます。つまり、自分(もしくは他人)が本当に・リアルに書いた手紙が読まれる、この事実に電波の向こう側でやっている、本当に存在しているのかどうかが絶対的に不確かであるラジオ番組が、『本当に存在している』という現実味を与えるのです。そしてそれは同時に、ラジオのパーソナリティという人物がまた『存在している』という現実感を与えることになります。
つまり、ラジオから流れている『ラジオ番組』はフィクションでもあり、フィクションでは無いということ。
これはアニメも同じ。
アニメの内容自体は、実際にこなたやかがみは存在していないし、こういう会話や出来事も起こっていない訳だから、この番組はフィクションであります。
しかし、この番組が"存在している"というのはフィクションでも虚構でもない。現実に存在しているからこそ、テレビに写っているのです。番組の内容自体はフィクションの作り事ですが、番組の存在まではフィクションでも作り事でも無く、存在している。絵を描く人や話考える人や声を当てる人がいて、番組が作られて存在している訳です。
さて、前述のラジオとお便りと現実感の話。
電波の向こうのラジオ番組とか、ブラウン管の向こうのアニメ番組というのは、酷く現実感がないというか、もの凄くフィクションな感じです。実際には作っている人がいるし、聞ける・見れるのだから存在している筈なのに、それをリアルに感じる事は出来ない。フィクションだから。確認出来るモノではないから。台本や脚本があって、それに準じて創作されたお話が構築されている。台本や脚本があって、それに準じてキャラクターを作って喋られている。それがアニメやラジオ。それは決して現実ではない。作られているのだから、完全な『フィクション』だ。
けれどお便りを送り、それが読まれることによって、そのフィクション性は大なり小なり瓦解する。
今まで電波の向こう側―――存在しているのかしていないのかが確認取れなかった、不明瞭だった存在が明確になる。現実に存在するリスナーとの接点、双方向性が生まれることにより、表立っては前面に立ってこない製作側と、『フィクション』として前面に立っている作品側、その両者が一気にリスナーと同じ土俵―――つまり現実に立つ訳です。
要するに、この時初めて、この電波の向こう側の人間の存在を"確信"することが出来るのです。
受け手から送り手に対してアクションを起こし、それが反応されるということは、このような効果があります。
それを踏まえた上で。
この『視聴者からの葉書を読む』という行為は、前述の『現実感』を強く印象付ける作りであります。例え葉書を送ったのが自分で無くても、誰かしらの視聴者からの葉書が読まれている、その事実に、その番組を作っている人間の『存在』を現実感を持って感じ取ることが出来るのです。確認不可能である向こう側の人間を、こっちと同じ土俵、つまり現実へと降ろす―――そういった意味が、このお便りによる反応、コミュニケーションには存在しているのです。
勿論、この「らっきー☆ちゃんねる」におけるソレは、誰もが嘘お便り、自作自演のネタだと思っているでしょうから、真に同じ土俵と思っている人はいないでしょうが―――それでも、嘘でもこういうことを行なうと、擬似的にこの番組ひいては製作側に対して『現実感』を感じ取る(今風に言うと「リアルになる」)ことが出来るのです。
まあその内、本当に視聴者からの手紙とか読み出したらマジ神なんですが。
○ギャラの話

これもまた前項と同じく、現実感を作り出す効果が出ています―――というか、よりこの「らっきー☆ちゃんねる」ひいては「らき☆すた」本編の立ち位置がわからなくなる要因なのですが。
ギャラの事を聞かれたあきらは、顔も声も変わるわ、胸をポリポリ掻き出すわと、思いっきり豹変しています。端的に言うと、テレビ用の作ったキャラクターのあきらではなく、『素』のあきらが出てしまった感じ。
『素』のあきら、家庭環境の告白、「このテレビのギャラ?」という発言が、『あきら』というキャラクターをリアルに印象付ける効果をある程度持っています。とはいえ前者二点、キャラの豹変と家庭環境というのはベタすぎるので、却ってリアル感を喪失させるものでもありますが。
ポイントは最後一点、「このテレビのギャラ?」発言でして。
この発言から、あきらの存在がこのテレビ外にいる、ということを印象付けています。元々ラジオのキャラクターなら当然と言えば当然なのですが、それでも、『アニメに出ている』キャラクターが『アニメ外の存在である』というのは、なかなか斬新です。
○本編に出る白石くん
これと前述「ギャラの話」。これで「らっきー☆ちゃんねる」の立ち位置が分かりづらくなります。
まず当たり前ですが、この「らっきー☆ちゃんねる」と本編の「らき☆すた」は別物だということ。そしてこなたやかがみ達がダベってるあっちが、「本編」だということ。ではこの「らっきー☆ちゃんねる」というのは何なのか。そもそも、本編って何なのか。らき☆すたって何なのか。何が「らき☆すた」で、何処までが「らき☆すた」なのか。
これについては中々難しいところで、ヒントは三点、冒頭に記される「美水かがみ劇場」と、途中差し込まれる「らき☆すた」のアイキャッチ、そして最後に起きる「テレビを消した時のような演出」。
まず一番初めに「美水かがみ劇場」と写し、バックで「始まるザマスよ」とか声が入っています。このことから、これから始まるのは「美水かがみ劇場」だということが分かります(美水かがみは原作者さんです)。
「らき☆すた」のアイキャッチは作中で二回登場。普通に考えて、「らき☆すた」と言ってるんだから、これが登場している部分は「らき☆すた」なんだろうと考えられる。(これ猫みたいな生き物が出てるのですが、サブタイ表示時は元気で、最初のアイキャッチの時はあくびしてて、ラストは寝ちゃってるのが笑える。もしもこれが、「深夜だから気を抜くと寝ちゃうくらいゆるい内容だ」とか思っている視聴者のことを意識しているのならば―――京アニ、恐ろしい子っ!)
ラスト、(ED以外)全てが終わった後の「テレビを消した時のような演出」。これはそのまんま、テレビを消した、というのを演出しているのでしょう。
この「テレビを消した」が、「らき☆すた」本編もしくは全編にかかるのか、それとも「らっきー☆ちゃんねる」にかかってくるのか。
『本編』という言葉が出てくる以上、「らっきー☆ちゃんねる」がこなたとかかがみとかがいる「らき☆すた」世界で流れているテレビ番組、謂わば番組内番組だというオチはないでしょう。そして「本編にも出る」という発言から、両者が完全に独立分離した存在でもないことも明らか。(ただし、本編から☆ちゃんねるの方が認識出来るのかは不明)
何処から何処までが「らき☆すた」なのかというのは、公式サイト見たらあっさり解決しました。
http://www.lucky-ch.com/
「らき☆すた」オフィシャルサイト/「らっきー☆ちゃんねるWEB」/「らき☆すた」公式サイト
驚くべき事に、「らっきー☆ちゃんねる」が「らき☆すた」と並列に(寧ろ先に)並んでいます。
つまりもう、完全に完膚なきまで、不可分で『らき☆すた』は「らっきー☆ちゃんねる」を含んでいる。ということは、恐らく作者の美水かがみさんが絡んでいないであろう「らっきー☆ちゃんねる」は除外して、本編だけが「美水かがみ劇場」なのではないでしょうか。本編(=美水かがみ劇場)+らっきー☆ちゃんねる=『らき☆すた』。
ということは恐らく、あの「テレビを消す」演出は、美水かがみ劇場もらっきー☆ちゃんねるも含めた『らき☆すた』自体にかかっているのでしょう。テレビ番組『らき☆すた』が終わったから、テレビを消した。(テレビを消した後に流れるエンディングなのですが、何故エンディングがテレビ消した演出の後なのか、は分からない。誰か答え教えてプリーズ)

「らっきー☆ちゃんねる」は、あくまでも現状では"おまけコーナー"のような立ち位置に属しています。
しかしそこには、第一話からして意外な程に仕掛けや仕込みがあり、しかも本編にまで絡もうとしている―――まだ第一話なのに。
ただのおまけコーナーかと思ったら意外と大間違い、想像以上に重要な意味を持つコーナーに成り得るかもしれません。なにせ公式じゃ本編と同列に並べられてるくらいなのだし。
ゆるい、まったり過ぎと言われるこの「らき☆すた」。そこに京アニらしい『大仕掛け』をかけてくる鍵は、案外この「らっきー☆ちゃんねる」かもしれません。
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(個人的には、半ばくらいに書いた『フィクションと現実』に絡めたナニカを仕掛けてくれるんじゃないかなぁ~とか思ったり)
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こんばんは、たこーすけです。さて、先週より始まりました「らき☆すた」。どうにも感想を書きづらい作品であります。ありがたくもトラックバックを送って頂いた方々のところを拝見してみても、どうやら多くの方がそのように感じているようです。あと数時間で第2話の週がス
2007/04/15(日) 23:22:20 | たこーすけの、ちょろっと感想
【感想】『らっきー☆ちゃんねる』クロスメディアエンタテインメントへの誘い
クロスメディアエンタテインメントとして、『らっきー☆ちゃんねる』と『らき☆すた』のことをタイプしてみました。 宜しくお願いします。
2007/05/07(月) 00:47:59 | 『遍在 -omnipresence-』
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