2007'04.21 (Sat) 01:45


Time waits for no one.
劇場では見たことありません。
原作も昔の映画なども知りません。
ネット上なんかでの評判は基本的に良いけど、むしろ「思ったよりイマイチ、思ったより普通」なんて声の方が大きく感じます。
原作とか青春とかいうキーワードに、色んな意味で拒否反応起こしていた面がありました。だから全然期待も、むしろ興味すらなかったです。
まったく期待してなかった、てゆうかFate買いに行った時たまたま隣に売ってるの見つけてなんとなく買っただけなのですが。
すごく良かった。
パッケージ裏に
「エンディングで涙が止まらなかった」
「見終わって劇場を出た後に見る青空が爽快」
なんて書いてありまして、見る前は「この文、胡散臭えな~(笑)」くらいに思っていたのですが、見て納得。
涙は出るし、青空はきっと爽快。
<以下ネタバレ注意>
【More】
【恐るべし映像力】
この「時かけ」は、とにかく映像力が素晴らしいです。
同じ様なシチュエーションとシーンを、違う時間と違う人物感情の中で幾度か使用する。よく歩くモブキャラクター。よく動く背景の車。
流転。
パンもズームも大いに多用。画面もキャラクター(モブ含め)も、とにかく動く。「時をかける」のタイトル通り、画面やキャラクター自体がまるで「時をかけたがっている」かのように動きまくります。時間の流れは常に一定であり、この映像自体も必ずやそのルールに則っているのでありますが、その時間の『枠』すらも狭っこい自らを閉じ込める檻であるかのように、つまりこの映像自体がまるでその『時』のルールから出たがっているかのように思わせるほどの、大きく動きのある映像。
それでいながら、主人公真琴とその世界からフォーカスが一点もはみ出さない。
あらゆる映像が、真琴と、彼女を(が)形成する世界にのみ向けられているのです。
真琴が知りえないこと、真琴の、彼女が認識している世界とは関係ないことはほぼ写さない。真琴が知りえない千昭や、真琴が知りえない功介は写されていない。真琴が見たことのない景色や、真琴の行ったことのない場所は存在しない。つまりこの映像から視聴者が見れるのは、文字通り『真琴の世界』なのです。真琴の世界を、画面上に再現しているのです。
だからあれだけタイムリープを多用し、時間と場面との関係性が視聴者にも正確に認識出来ないほどになっていても、何の問題もなくこの「時をかける少女」の世界―――つまり真琴の世界に入り込めるのです。
真琴の世界のみを写すこの映像で、僕たちは真琴の全てを『知る』ことができるのです。
【『いま』をかける少女】
映像がそうであるならば、当然ストーリーも『真琴の世界』です。
真琴が見たり聞いたり体感したりしたモノ、ほぼそれらのみで構成されたストーリー。

「まさかとは思うけど……死ぬんだ」
「こんなことになるんなら―――」
ふとしたきっかけで、時をかける能力―――タイムリープを手に入れた真琴は、それを使って日常のちょっとしたことを、ちょっとだけ楽しくしようとしたり、ちょっとしたムカツキを無かったことにしようとします。
カラオケを歌うために時間移動したり。
プリンを食うために時間移動したり。
夕食の献立に不満を感じて一昨日の夕飯時に時間移動したり(笑)。
時間を戻すという能力を得ているのに、こんなことに使ってしまうところが、真琴が真琴たるゆえんでしょう(笑)。
さて。
そんな風に、適当な自己満足の為にタイムリープを使っていた彼女でしたが、そこには軋轢が存在しました。彼女がトラブルを避けた所為で、代わりにそのトラブルを被った人がいたり、彼女が時間を飛び越えてまでしたお節介が、却って逆効果になったり、人の『想い』を無視したり。
時間を自由に移動する彼女には、他の時間を移動できない人とは決定的に違いが生まれます。あらゆるものを、無かったことに出来る、ということ。人も、物も、想いも。とっても大切なモノの筈なのに、いくらでも取り戻せるしやり直せる彼女には、全く持ってありふれたモノになってしまう。千昭も、功介も、真琴にとっては、そしてこの作品世界においてはあまねく偏在している。少し時間を遡ればいくらでもいる。たった一人、たった一つしかないモノは、真琴自身しかいない。
この時間を超越することによって、つまり他者と真摯に触れ合えないことによって生じる孤独感を、今作は上手く描いています。
想いを加味しないから生まれる孤独感。『真琴の世界』のみを映し出す世界なのですから、当然と言えば当然ですが。
しかしその孤独感は、真琴と『視聴者』のみに勝手に出来上がっているモノで、他のキャラクターは(作品と真琴の世界以外では)たったひとりしか存在していない為、そんなものを感じてはいません。だからこそ、より強くなる孤独感。
楽しさをもっと享受しようとしたり、嫌なことを無かったことにしようとしたりする『タイムリープ』―――その無意味さに、真琴が気付くのは案外早かったです。

「最低だあたし。
人が大事な事を話してるのに、それを無かった事にしちゃったの。
なんでちゃんと聞いてあげなかったのかな……」
真に大事なのは、気持ちとか想いです。
怪我をしたのなら、時間を戻して治せばいい。
快楽を得たいのなら、時間を戻して何度でも行なえばいい。
けれど想いとか気持ちは。
時間を戻せたからって、得られるモノではない。時間を戻したからって、同じ様に感じられるモノではない。
人も物も時間と共に移り変わっていきますが、想いや気持ちだけは、その『瞬間』にしか存在していないのです。タイムリープを幾度繰り返しても、決して辿り着けない場所に存在しているのです。




真琴の最後の跳躍。
闇を越え、街を跳び越し、世界を可逆し、時間を移動する。
タイムリープの能力を失った真琴は、全力疾走で千昭の元へと走ります。時をかける能力を失った彼女は、「今をかける」少女なのです。
想いや気持ちは、その瞬間にしか存在していないモノ。
かって(未来なのですが)は真琴に告白した千昭ですが、今の彼の想いや気持ちはソレではない。真琴はそんな気持ちでも、今の彼の想いや気持ちを分かっているから、そんなことは言わない。
いや。
想いや気持ちはいつでも真剣ガチ勝負。その瞬間にしか存在していなくて、その瞬間以外は存在していない。
この時代の人間じゃない千昭。未だ時を越える能力を有する千昭。彼に対して、彼女が想いや気持ちを『いま』伝えるのは違っている。なぜなら、想いや気持ちは叶えることや叶わせることが目的なんじゃなくて、伝えることや伝わることが意義なんじゃなくて、それが『いま』存在していることに意味があるんだから。『いま』千昭が好きだという、その瞬間の想い・気持ち。それは何処までも真摯なものだから、この時代の人間ではないと知ってしまっている千昭に対しては放てないのです。だから、千昭からの告白を待ったのです。
そして、自分の場所、『未来』に帰って行く千昭。
こうして、彼女の初恋は終わりました……かのように見えたのですが、

「未来で待ってる」
この一言、この一言で、彼女の初恋はここでは終わらなくなったのです。
想いや気持ちは、その瞬間にしか存在していないモノ。千昭が好きだという想いや気持ちはその瞬間にだけ存在して、それはいつしか消えてしまう。
けれども。
その想いや気持ちが存在した『瞬間』、それを延々と繰り返していけば、想いや気持ちは何処までも、未来にだって届くじゃないですか!
跳躍ではなく、地続きで。
やり直しももう一回もなく。
ただただこの『いま』、その瞬間を繰り返して。
想いを、気持ちを、そして自分を。
未来へと、繋げていくのです。
『いま』を、かけるのです。
【Time waits for no one.← ( ゚Д゚) ハァ?】
真琴の物語を見ている僕らは、ある意味真琴以上に真琴を知ることが出来ます。
作中で言われていたように、真琴は注意力がない―――自分に向けられた感情に鈍感です。そして自分の感情にも、鈍感。
彼女にとっては理解の外の言葉や感情も、彼女以上に理解できる視聴者は、真琴のことを真琴以上に知っているのです(前述、真琴の世界も併せると、真琴の既知も未知も知っているということになります)(もちろん程度はあるけれど)。

「Time waits for no one.」
時間は誰にも平等です。そこに留まることはできない。過去に戻ることもできない。いまこの瞬間は『いま』しかなくて、時間は止まることも、止めることもできないのです。
それが世界の仕組み。時間のルール。
そこを超越することは、何者にも出来ない。
けれども。

「あなたは、私みたいなタイプじゃないでしょ?
待ち合わせに遅れてきた人がいたら、走って迎えに行くのがあなたでしょ?」
この「Time waits for no one.」に書かれた「↑ ( ゚Д゚) ハァ?」の文字。ただ現代風に見せるための演出かと思ってましたが、それだけではありませんでした。
昔タイムリープをした魔女おばさんは、結局待つことを選択し、それだけしか出来ませんでした。
しかし、真琴は。
待つだけではなく、走って迎えに行く。待ち合わせに遅れてきた人がいたら、走って迎えに行く。たとえそれが未来でも。
過去には戻れない、留まることも出来ない、そんな時間の流れのルール―――「Time waits for no one.」に対して、「ならばその未来に走っていく!」と言うことが出来るのです。時間のルールに対して「↑ ( ゚Д゚) ハァ?」を書き込むことが出来るのです。
待ってられない未来がある(パッケージより)。
待ってられない未来があるから、その未来に走っていくから。「Time waits for no one.」なんて知ったことじゃない。真琴は、『いま』をかけて、未来へと走っていくのです。
あなたには、待ってられない未来があるでしょうか?
『いま』をかけてでも、辿り着きたい未来があるでしょうか?
真琴の世界を、真琴以上に真琴の視線で見て、真琴以上に真琴を知った僕らに、行きたい未来はありますか?
もしも真琴がそうであったように、想いの行先に涙したならば。
もしも真琴がそうであったように、青空を爽快に感じたのならば。
きっとそれはあるはずです。
『いま』をかけて、『未来』へと辿り着く―――そんなともすると当たり前のことを、ここまで真摯に描いているからこそ、この「時をかける少女」に涙し、真琴が見たのと同じように、青空に未来を視るのです。
きっと誰にでも、辿り着きたい未来はあって、そこに辿り着くには待つよりも、『いまをかける』方が、きっとあの時の真琴みたいに、爽快で気持ちがいいのです。
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青空に、未来を地続きに見て、瞬間を繰り返して、いまをかけていく少女に想いをはせて―――。
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『時をかける少女』(ときをかけるしょうじょ)は、2006年7月15日に角川ヘラルド映画から公開された日本のアニメ映画と『時をかける少女』(ときをかけるしょうじょ)1983年の大林宣彦監督、原田知世初主演の日本映画。筒井康隆のジュブナイルSF小説『時をかける少女』の最.
2007/07/20(金) 00:00:51 | 映画村
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