2007'05.15 (Tue) 20:36
「らき☆すた」と僕たちって、こなたとかがみたちに似ているけど、こなたとかがみたちのように果たしてなれるのでしょうか。
先週に書いたことと同じようなコトですが、今週の放送を見て余計そう思ってしまいました。
先週は、「ネトゲ」の話。
各所の感想を見ると、ネトゲの話わかんないって方が結構いらっしゃるようでした。
僕もさっぱりわかりません。
ネトゲの話を嬉々として語るこなたに対する、僕のようなネトゲさっぱりわからない視聴者の反応は、かがみのそれに対する反応と同じ。
かがみが「ネトゲの話わからなーい!」となってしまうように、僕らも「ネトゲの話わからなーい!」となってしまいます。
そして今週。
アニメや八墓村のネタなどがありましたが、今までのパロディネタに比べ、どちらかというとマイナーなものが元ネタでした。
僕には全然わからなかったです。
「ふんどしで水面」とか言われても全然わからないし、スイカをライフルで撃つのも、チョメチョメDも、見たことないのでなんとなくそうなのかなぁ程度にしかわかりません。
かがみが「また何かのアニメネタか?」と言っているように、僕も「また何かのアニメネタか?」という心境なのでした。
考えてみれば、そもそもパロディネタって、こういう性質を持っているものなのですね。
今までだってそうですね。たまたま僕が分かるネタだったから、そこに疑問を覚えなかっただけであって、アニメや漫画やゲームなどに明るくない人にとっては始めから、分からないことだらけだったかもしれません。逆に、前回も今回も、十分にネタ元が分かるという人にとっては、かつての僕のように、何とも思わないかもしれません。
ネタ元が分かれば、発言の意味がそのまま通じて、普通に面白い。
ネタ元が分からなければ、発言の意味が通じないのだけれど、そこに生まれる空気や雰囲気が楽しげなものだったりすれば、そこに面白さを見出せる。
(ネタの質は置いておいて)
分かれば、普通に楽しめるものなんだけど、
分からないと、そこの空気や雰囲気から想像して、楽しさを見い出す。
分からなければつまらない、というものではないです。
分からなければ分からないなりに、楽しさを見い出すことはできます。
でも。それでも。
分からないことだらけだと、辛いですよね。
かがみがしょっちゅう「その話は分からない」という態度を見せるように、分からない話ばかりだとちょっと参ってしまいます。寂しいです。こなたが喋っている内容の、真意が掴めないから。こなたとの会話に付いていって、話を膨らましてもっともっと楽しい会話にすることが出来ないから。
仕舞いには、時たま彼女が見せるように、青ざめた表情で「やれやれ…」という感じになってしまうかもしれません。
これは僕ら視聴者(というか、僕)と『らき☆すた』との間柄も同じです。
分からないパロディネタだと、イマイチ楽しめない。分かればもっと楽しめるはずなのに、分からないということで、楽しみが阻害されている。そのパロディをそこに持ってくるという、真意も掴めない。らき☆すたというものに対する理解が、阻害される。
仕舞いには、ネタにいいかげん飽き飽きして、青ざめた表情で「やれやれ…」という感じになってしまうかもしれません。
例えばかがみは、まだ、こなたの話に付いていける方です。
ゲームもやるし、ラノベは大好きだし、漫画だって多少なりとも読むでしょう。
オタクネタを出されても、そこそこは付いていけます。
でも、こなたの繰り出す会話はそれの遥か上を行ってしまっています。
つかさは全然です。
家にゲームがあるので多少はやるかもしれませんし、漫画も原作見た限りだとこなたから借りたりしているので多少は分かるのでしょうが、こなたのネタから見れば全然まだまだの領域です。
みゆきさんは言うに及ばず。
ゆいねえさんは、こなたの部屋で漫画読んでる描写が原作に結構あるので多少は分かるのでしょうが、それでも恐らくは厳しいでしょう。漫画でない、「テモテー」のようなネタなら分かったりしました。
先生は、実は一番分かるのかもしれません。ネトゲもやってて、kanonにもツッコミ入れられる人ですから。
こなたのネタに付いていけるかどうかは、各キャラクターの中でも色々と違います。ある程度付いていける人もいれば、全然付いていけない人もいます。
これは僕ら、視聴者も一緒。ある程度付いていける人もいれば、全然付いていけない人もいて、中には全部分かるぜって人もいるでしょう。
『らき☆すた』内のキャラクター達は、会話に付いていけなくても、普通にこなたと友達でいます。そこには「やれやれ…」や「キョトン」や「苦笑い」が存在したりしていますが、その程度。愛想を尽かすこともないし、嫌いになることもありません。いくらこなたが分からない話を振ってきても、今までどおりの友達でいます。
現実ではこうはいかないかもしれませんね。分からない話を嬉々として語る人との付き合いは、難しいかもしれません。実際こなたも、彼女達以外には殆ど友達はいないようです。じゃあなんで、かがみたちはこなたと友達でいれるのでしょう?そこにはきっと、この程度の欠点を何とも思わないくらいの、こなたのいいところが、魅力が、かがみたちの中には存在しているからでしょう。少しくらいの欠点とか、少しくらいの合わない所とか飛び越えたナニカがあって、それがあるからこそ、彼女達はこなたを好きでいるのでしょう。
僕たちも、『らき☆すた』の話に付いていけなかったりします。ネタが分かんなかったりします。つまらない場合もあるでしょう。展開や演出が肌に合わない時もあるでしょう。
それでももし、楽しんで見ていられるならば。『らき☆すた』を好きだと言えるのならば。きっとそういう、少しくらいの欠点や、少しくらいの合わない所を飛び越えたナニカが、存在しているのでしょう。こなたに対するかがみやつかさやみゆきさんのように。ネタとか会話とか、そういうものだけでなく。それ以前の、いやそれすらも含めた『こなた自身』を、彼女達が好ましく思っているように。ネタとかストーリーとか、そういうものだけでなく。それ以前の、いやそれすらも含めた、つまらないところも合わないところも含めた、『らき☆すた』自身、その全てを好ましく思えるような。
そこには、分からないことも合わないこともつまらないことも沢山ある。
でも、それを含めてこなたであるんだから、そこだけを切り捨ててこなたを好きになるなんてことは出来ない。だから、かがみ達はこなたの全てを認めてしまう。
それと同じように。僕らは、『らき☆すた』の全てを認めることは出来るんでしょうか。
考えてみれば、『らき☆すた』は、ずっとこなたと他者との分断を描いてきていました。
そもそも最初の「チョココロネ」の話。あの延々と自分と他者との価値観を比べる話からして、そうでした。他の食べ物の話からしても人には色々な考えがある、ネギタン塩だって、こなたが『正しい』と思ってる食べ方が正しいとは、おいしいとは限らない。チョココロネの『どっちが頭か』は、最終的にかがみと一致したのですが、それでも『頭』だけ。食べ方はまた別でした。
一緒になる、同じになるということはないのです。
その後は、前述のパロディネタだったり。理解されないクオカードへの熱い思いだったり。他のキャラには分からないみゆきさんの萌え要素だったり。そのみゆきさんへ、絶対に伝わらない「グッジョブ」だったり。
こなたのネタや考えは、伝わらなかったり理解されなかったりしました。
かがみたちからすれば意味わかんないことでも、こなたからすれば届いてないことになってしまうのです。
それでも、こなたはネタや考えを繰り返し披露するのです。
そしてかがみたちは、こなたの求めているような反応を殆ど返せません。

「これだ!あたしの欲しかった反応はこれなんだ!」
ここや、第一話の

考えが繋がった時の、瞬間。
このような場面は、殆どありません。
それでも、こなたはネタや考えを披露するのです。
何故か。
もちろんこなたが、「欲しかった反応」を得るためにやっていることでもありますが、それだけじゃありません。これが「こなた」だからです。分からなかろうがネタを言うのがこなた。理解されなかろうが考えを言うのがこなた。
分からなかったり理解できなかったりすることを偶に(というか、結構)言うけれど、そういうのも含めて、かがみたちはこなたを認めて、好きでいるのです。
この『らき☆すた』も、分からないネタや繋がらない物語などを幾度でも繰り出してきて、それはまるで、視聴者と作品が分断されているかのようでもあります。果たして、『らき☆すた』のネタの全てを分かる人はいるのか。果たして、『らき☆すた』の全ての回に、ならびに全ての回を通した『らき☆すた』に、物語を見い出せる人はいるのか。
分からなかったり理解できなかったり、求めているような反応は出来ないかもしれないけれど、それでも、僕たち視聴者は「らき☆すた」を、かがみたちがこなたと接するように、認めて、好きになることができるのでしょうか。
かがみたちがこなたの中に見つけた、少しくらいの欠点や、少しくらいの合わない所を飛び越える『ナニカ』。それがきっと、僕らの『らき☆すた』に対する、少しくらいの欠点や、少しくらいの合わない所を飛び越える『ナニカ』に繋がると思うのです。
多分ソレは、大それたものではなくて、「可愛い」とか、「声がいい」とか、「音楽がいい」とか「雰囲気がいい」とか「キャラがいい」とか、そういう、ちょっとした所なのかもしれません。
そのちょっとしたところを突き詰めていけば、全ては作品という一つの輪で繋がって、つまり作品の全てに繋がっていく。そんな感じがします。いや、そんな風に感じることが、きっと出来ます。
好きなところを見付けて、深めて広げて、長所も短所も欠点も全てまとめて認めて、好きになれるくらいまでいけたなら。それはきっと、こなたとかがみたちの関係のような、素敵なものなのでしょう。
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先週に書いたことと同じようなコトですが、今週の放送を見て余計そう思ってしまいました。
【More】
先週は、「ネトゲ」の話。
各所の感想を見ると、ネトゲの話わかんないって方が結構いらっしゃるようでした。
僕もさっぱりわかりません。
ネトゲの話を嬉々として語るこなたに対する、僕のようなネトゲさっぱりわからない視聴者の反応は、かがみのそれに対する反応と同じ。
かがみが「ネトゲの話わからなーい!」となってしまうように、僕らも「ネトゲの話わからなーい!」となってしまいます。
そして今週。
アニメや八墓村のネタなどがありましたが、今までのパロディネタに比べ、どちらかというとマイナーなものが元ネタでした。
僕には全然わからなかったです。
「ふんどしで水面」とか言われても全然わからないし、スイカをライフルで撃つのも、チョメチョメDも、見たことないのでなんとなくそうなのかなぁ程度にしかわかりません。
かがみが「また何かのアニメネタか?」と言っているように、僕も「また何かのアニメネタか?」という心境なのでした。
考えてみれば、そもそもパロディネタって、こういう性質を持っているものなのですね。
今までだってそうですね。たまたま僕が分かるネタだったから、そこに疑問を覚えなかっただけであって、アニメや漫画やゲームなどに明るくない人にとっては始めから、分からないことだらけだったかもしれません。逆に、前回も今回も、十分にネタ元が分かるという人にとっては、かつての僕のように、何とも思わないかもしれません。
ネタ元が分かれば、発言の意味がそのまま通じて、普通に面白い。
ネタ元が分からなければ、発言の意味が通じないのだけれど、そこに生まれる空気や雰囲気が楽しげなものだったりすれば、そこに面白さを見出せる。
(ネタの質は置いておいて)
分かれば、普通に楽しめるものなんだけど、
分からないと、そこの空気や雰囲気から想像して、楽しさを見い出す。
分からなければつまらない、というものではないです。
分からなければ分からないなりに、楽しさを見い出すことはできます。
でも。それでも。
分からないことだらけだと、辛いですよね。
かがみがしょっちゅう「その話は分からない」という態度を見せるように、分からない話ばかりだとちょっと参ってしまいます。寂しいです。こなたが喋っている内容の、真意が掴めないから。こなたとの会話に付いていって、話を膨らましてもっともっと楽しい会話にすることが出来ないから。
仕舞いには、時たま彼女が見せるように、青ざめた表情で「やれやれ…」という感じになってしまうかもしれません。
これは僕ら視聴者(というか、僕)と『らき☆すた』との間柄も同じです。
分からないパロディネタだと、イマイチ楽しめない。分かればもっと楽しめるはずなのに、分からないということで、楽しみが阻害されている。そのパロディをそこに持ってくるという、真意も掴めない。らき☆すたというものに対する理解が、阻害される。
仕舞いには、ネタにいいかげん飽き飽きして、青ざめた表情で「やれやれ…」という感じになってしまうかもしれません。
例えばかがみは、まだ、こなたの話に付いていける方です。
ゲームもやるし、ラノベは大好きだし、漫画だって多少なりとも読むでしょう。
オタクネタを出されても、そこそこは付いていけます。
でも、こなたの繰り出す会話はそれの遥か上を行ってしまっています。
つかさは全然です。
家にゲームがあるので多少はやるかもしれませんし、漫画も原作見た限りだとこなたから借りたりしているので多少は分かるのでしょうが、こなたのネタから見れば全然まだまだの領域です。
みゆきさんは言うに及ばず。
ゆいねえさんは、こなたの部屋で漫画読んでる描写が原作に結構あるので多少は分かるのでしょうが、それでも恐らくは厳しいでしょう。漫画でない、「テモテー」のようなネタなら分かったりしました。
先生は、実は一番分かるのかもしれません。ネトゲもやってて、kanonにもツッコミ入れられる人ですから。
こなたのネタに付いていけるかどうかは、各キャラクターの中でも色々と違います。ある程度付いていける人もいれば、全然付いていけない人もいます。
これは僕ら、視聴者も一緒。ある程度付いていける人もいれば、全然付いていけない人もいて、中には全部分かるぜって人もいるでしょう。
『らき☆すた』内のキャラクター達は、会話に付いていけなくても、普通にこなたと友達でいます。そこには「やれやれ…」や「キョトン」や「苦笑い」が存在したりしていますが、その程度。愛想を尽かすこともないし、嫌いになることもありません。いくらこなたが分からない話を振ってきても、今までどおりの友達でいます。
現実ではこうはいかないかもしれませんね。分からない話を嬉々として語る人との付き合いは、難しいかもしれません。実際こなたも、彼女達以外には殆ど友達はいないようです。じゃあなんで、かがみたちはこなたと友達でいれるのでしょう?そこにはきっと、この程度の欠点を何とも思わないくらいの、こなたのいいところが、魅力が、かがみたちの中には存在しているからでしょう。少しくらいの欠点とか、少しくらいの合わない所とか飛び越えたナニカがあって、それがあるからこそ、彼女達はこなたを好きでいるのでしょう。
僕たちも、『らき☆すた』の話に付いていけなかったりします。ネタが分かんなかったりします。つまらない場合もあるでしょう。展開や演出が肌に合わない時もあるでしょう。
それでももし、楽しんで見ていられるならば。『らき☆すた』を好きだと言えるのならば。きっとそういう、少しくらいの欠点や、少しくらいの合わない所を飛び越えたナニカが、存在しているのでしょう。こなたに対するかがみやつかさやみゆきさんのように。ネタとか会話とか、そういうものだけでなく。それ以前の、いやそれすらも含めた『こなた自身』を、彼女達が好ましく思っているように。ネタとかストーリーとか、そういうものだけでなく。それ以前の、いやそれすらも含めた、つまらないところも合わないところも含めた、『らき☆すた』自身、その全てを好ましく思えるような。
そこには、分からないことも合わないこともつまらないことも沢山ある。
でも、それを含めてこなたであるんだから、そこだけを切り捨ててこなたを好きになるなんてことは出来ない。だから、かがみ達はこなたの全てを認めてしまう。
それと同じように。僕らは、『らき☆すた』の全てを認めることは出来るんでしょうか。
考えてみれば、『らき☆すた』は、ずっとこなたと他者との分断を描いてきていました。
そもそも最初の「チョココロネ」の話。あの延々と自分と他者との価値観を比べる話からして、そうでした。他の食べ物の話からしても人には色々な考えがある、ネギタン塩だって、こなたが『正しい』と思ってる食べ方が正しいとは、おいしいとは限らない。チョココロネの『どっちが頭か』は、最終的にかがみと一致したのですが、それでも『頭』だけ。食べ方はまた別でした。
一緒になる、同じになるということはないのです。
その後は、前述のパロディネタだったり。理解されないクオカードへの熱い思いだったり。他のキャラには分からないみゆきさんの萌え要素だったり。そのみゆきさんへ、絶対に伝わらない「グッジョブ」だったり。
こなたのネタや考えは、伝わらなかったり理解されなかったりしました。
かがみたちからすれば意味わかんないことでも、こなたからすれば届いてないことになってしまうのです。
それでも、こなたはネタや考えを繰り返し披露するのです。
そしてかがみたちは、こなたの求めているような反応を殆ど返せません。

「これだ!あたしの欲しかった反応はこれなんだ!」
ここや、第一話の

考えが繋がった時の、瞬間。
このような場面は、殆どありません。
それでも、こなたはネタや考えを披露するのです。
何故か。
もちろんこなたが、「欲しかった反応」を得るためにやっていることでもありますが、それだけじゃありません。これが「こなた」だからです。分からなかろうがネタを言うのがこなた。理解されなかろうが考えを言うのがこなた。
分からなかったり理解できなかったりすることを偶に(というか、結構)言うけれど、そういうのも含めて、かがみたちはこなたを認めて、好きでいるのです。
この『らき☆すた』も、分からないネタや繋がらない物語などを幾度でも繰り出してきて、それはまるで、視聴者と作品が分断されているかのようでもあります。果たして、『らき☆すた』のネタの全てを分かる人はいるのか。果たして、『らき☆すた』の全ての回に、ならびに全ての回を通した『らき☆すた』に、物語を見い出せる人はいるのか。
分からなかったり理解できなかったり、求めているような反応は出来ないかもしれないけれど、それでも、僕たち視聴者は「らき☆すた」を、かがみたちがこなたと接するように、認めて、好きになることができるのでしょうか。
かがみたちがこなたの中に見つけた、少しくらいの欠点や、少しくらいの合わない所を飛び越える『ナニカ』。それがきっと、僕らの『らき☆すた』に対する、少しくらいの欠点や、少しくらいの合わない所を飛び越える『ナニカ』に繋がると思うのです。
多分ソレは、大それたものではなくて、「可愛い」とか、「声がいい」とか、「音楽がいい」とか「雰囲気がいい」とか「キャラがいい」とか、そういう、ちょっとした所なのかもしれません。
そのちょっとしたところを突き詰めていけば、全ては作品という一つの輪で繋がって、つまり作品の全てに繋がっていく。そんな感じがします。いや、そんな風に感じることが、きっと出来ます。
好きなところを見付けて、深めて広げて、長所も短所も欠点も全てまとめて認めて、好きになれるくらいまでいけたなら。それはきっと、こなたとかがみたちの関係のような、素敵なものなのでしょう。
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こんにちは。
「欠点がある事をも含めて、“それ”を好きになる」
人でも作品でも。
いえ、そもそもそれを“欠点”ではなく“個性”と捉えて
生暖かい苦笑いwと共に、受け入れて行く。
でも最近の一部ネットなどではそういう態度を
「信者」と読んで揶揄する傾向も見られるようですw
人がみな小さな批評家となる時代。
大きな共感よりも、小さな欠点が気になる空気。
「出る杭は打たれる」「減点主義」「異物は排除」
「少しでも気に入らないものは見たくない」
………みんな、余裕が無いのかもしれません。
勿論、その欠点が余りに大きなものだったり
目にあまる物だったりすればまた別ですが………
こなたは中身は重度オタクですが、よくオタクの欠点とされる
「延々と身勝手な話だけを繰り返す」みたいなタイプではないですね。
つかさやかがみ達と、食べ物や季節の話題といった普通の日常会話も
キチンと楽しめる「良く訓練されたヲタク」wのようです。
(まぁ時折、話がだんだんヲタ方面に暴走する事は見受けられますがw)
自分にも中学からの古い付き合いの友人がいますが
趣味趣向は全然合わないのになぜかそいつとは延々長い付き合いですw
そいつはヲタク的性向は全然ないけれども、
漫画(非ヲタ系)や絵を描いたりアートに興味があったり
面白い事や悪い冗談が大好きwとかいったりする
基本的な部分での精神の方向性、“ノリ”が似ている部分が
あるから、友人でいられるんでしょうね。
その上で互いの“個性”に対しては「生暖かい敬意」wを払い合ってます。
こなた達も、そんな感じなんでしょう。
学生時代だからこそ生まれた“ゆるゆる”な「縛り」による人との絆。
個性を越えた「まったり」関係。
「作品と視聴者」も、そんな居心地のいい関係が
築けたら楽しいかなと思います。
「欠点がある事をも含めて、“それ”を好きになる」
人でも作品でも。
いえ、そもそもそれを“欠点”ではなく“個性”と捉えて
生暖かい苦笑いwと共に、受け入れて行く。
でも最近の一部ネットなどではそういう態度を
「信者」と読んで揶揄する傾向も見られるようですw
人がみな小さな批評家となる時代。
大きな共感よりも、小さな欠点が気になる空気。
「出る杭は打たれる」「減点主義」「異物は排除」
「少しでも気に入らないものは見たくない」
………みんな、余裕が無いのかもしれません。
勿論、その欠点が余りに大きなものだったり
目にあまる物だったりすればまた別ですが………
こなたは中身は重度オタクですが、よくオタクの欠点とされる
「延々と身勝手な話だけを繰り返す」みたいなタイプではないですね。
つかさやかがみ達と、食べ物や季節の話題といった普通の日常会話も
キチンと楽しめる「良く訓練されたヲタク」wのようです。
(まぁ時折、話がだんだんヲタ方面に暴走する事は見受けられますがw)
自分にも中学からの古い付き合いの友人がいますが
趣味趣向は全然合わないのになぜかそいつとは延々長い付き合いですw
そいつはヲタク的性向は全然ないけれども、
漫画(非ヲタ系)や絵を描いたりアートに興味があったり
面白い事や悪い冗談が大好きwとかいったりする
基本的な部分での精神の方向性、“ノリ”が似ている部分が
あるから、友人でいられるんでしょうね。
その上で互いの“個性”に対しては「生暖かい敬意」wを払い合ってます。
こなた達も、そんな感じなんでしょう。
学生時代だからこそ生まれた“ゆるゆる”な「縛り」による人との絆。
個性を越えた「まったり」関係。
「作品と視聴者」も、そんな居心地のいい関係が
築けたら楽しいかなと思います。
ひふみー | 2007年05月17日(木) 19:43 | URL | コメント編集
>ひふみーさん
どうもこんにちは。またまた、素晴らしいコメントをありがとうございます(お世辞抜きですw)。
いやなんというか……コメント返ししようがない、完璧な内容だったので、返事が遅れてしまいました(笑)。
本文自体も、ちょっと暴走気味な感がありました。こなたと誰も彼もが友達になれている訳じゃないように、らき☆すたと視聴者も、誰も彼もが良い関係を築ける訳ではないですね。こなたの欠点が気に入らなくて、友達になれない人がいるように、らき☆すたの欠点が気に入らなくて、視聴しない(もしくは、しても文句ばっか)の人もいる。
それはそれで良い事なんでしょうね。無理に合わせる必要もないし、自分の考えや思いを曲げる必要もない。合わない、つまらない、というのはしょうがない。視聴者の中に、らき☆すたが「合わない、つまらない」と言う人がいるように、らき☆すた作品内でも、こなたのことを「合わない、つまらない」と言う人も多分いるでしょう。
実際の、現実の人間関係だって、自分が「合わない、つまらない」と思う(思ってしまう)人間と、自分の友達が友達だったりするし、同じ様に、自分の友達と、別の友達との仲が良くなかったりもします。
つまり、合う合わないは本当人それぞれで、それは強制しちゃいけないことで、言ってみればそこは"個性"みたいなもので、でも、だからこそ、その中で"合う"人間と出会えたことが本当素晴らしいことで、らっきーなことなんじゃないかな、とか。
そういう思いを、この『らき☆すた』で僕はしたかったのに、その自信が揺らいでいたから、きっとこんな文章を書いたんだと。ひふみーさんのコメント読んで、そう思いました。
どうもこんにちは。またまた、素晴らしいコメントをありがとうございます(お世辞抜きですw)。
いやなんというか……コメント返ししようがない、完璧な内容だったので、返事が遅れてしまいました(笑)。
本文自体も、ちょっと暴走気味な感がありました。こなたと誰も彼もが友達になれている訳じゃないように、らき☆すたと視聴者も、誰も彼もが良い関係を築ける訳ではないですね。こなたの欠点が気に入らなくて、友達になれない人がいるように、らき☆すたの欠点が気に入らなくて、視聴しない(もしくは、しても文句ばっか)の人もいる。
それはそれで良い事なんでしょうね。無理に合わせる必要もないし、自分の考えや思いを曲げる必要もない。合わない、つまらない、というのはしょうがない。視聴者の中に、らき☆すたが「合わない、つまらない」と言う人がいるように、らき☆すた作品内でも、こなたのことを「合わない、つまらない」と言う人も多分いるでしょう。
実際の、現実の人間関係だって、自分が「合わない、つまらない」と思う(思ってしまう)人間と、自分の友達が友達だったりするし、同じ様に、自分の友達と、別の友達との仲が良くなかったりもします。
つまり、合う合わないは本当人それぞれで、それは強制しちゃいけないことで、言ってみればそこは"個性"みたいなもので、でも、だからこそ、その中で"合う"人間と出会えたことが本当素晴らしいことで、らっきーなことなんじゃないかな、とか。
そういう思いを、この『らき☆すた』で僕はしたかったのに、その自信が揺らいでいたから、きっとこんな文章を書いたんだと。ひふみーさんのコメント読んで、そう思いました。
こなた
すきですか
すきですか
| 2007年07月27日(金) 20:25 | URL | コメント編集
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