天元突破グレンラガンの映像力、髪の揺れと感情表現。
2007-06-18
昨日と今日で(途中までだけど)グレンラガン一気見。本当やばいくらい良いなぁ……。10話までしか見てないけど書く。
まず9話。ニアとの出会い。
始まりの出会い―――ラガンとの出会いは、ドリルの鍵。
そしてこのニアとの出会いも、ドリルの鍵。
ニアと出会った瞬間、雨があがり晴れ間がどんどん差していく。
グレンラガンの何が凄いって、映像が凄い。
ラガンが搭乗者の精神状態に影響される、という設定があるけれど、それがまるで映像にも反映されているみたい。映像がキャラクターの精神状態に影響されてるみたいに見える。
天元を突破せんと足掻いていたカミナがいた時代(7話とか8話とか)は、映像自体も天元突破すんじゃね?って勢いでメチャクチャに動いていた。よく動いていたとかじゃなくて、もうハチャメチャな勢い。
だって遠近感とか距離とかサイズとか全部無視したかの如く動きまくるんだよこれ。絵のタッチとかもいきなり変わりまくるし。構図もへったくれもあったものじゃないぐらい。
なんてゆうか、本当に凄かった。
カミナがやってたことは、自分の限界を突破しようとすること(諦めようとする自分の心を突破することでもある)なんだけど、それに合わせるかのように、映像自体もなんかの壁を突破しちゃう勢い。キャラクターに同調して映像も激しく描かれているように見えてしまう。
そのカミナを失った9話なんかは、逆に暗く沈みまくった映像。
カミナに後を振り返らせる5話なんかも同じ。暗い。雨とか地下とかいう舞台設定がそもそも暗いんだけど、キャラクターの心情が暗くなっているからこそ、映像も暗いんだと言ってもいいくらい。
そんなこんなで、カミナを失った後、シモンの心情に合わせるようにずっと暗かったグレンラガンなんだけど、ニアの登場で一気に明るさを手に入れた。

ニア登場で光が差すシーンなんて、ベタっちゃベタベタなんだけど、心情を映像に載せるということを一貫して行ってきたグレンラガンだからこそ、ベタさを感じない、というかそのベタさを肯定できるし、
その映像のお陰でシモンの心情を嫌になるくらい知っている視聴者としては、そのベタさを歓迎できる(ちなみに、シモン自体の心情の移り変わりでもあるけど、ニアの心情の移り変わりでもありうるですね)。
で、10話。
そのニアにより、心が動き出し始めるということと、同時にニアの心も動き出し始めるという回でした。たぶん。

「揺れる髪が心情の移り変わりや揺れ動きを表す演出」というのが僕の中であります(特に風に揺れる髪)。世間的にそんなものが存在してるのかはわかんないけど。これは読んで字の如く、揺れる髪の毛がその人の心情の移り変わりや揺れ動きを表すという意味です。
これは実写では辿り着けない、アニメの本領発揮演出ですね(実写じゃ揺れ動き方と揺れ動かすタイミングの調節が難しいから)。
最近では「ヒロイック・エイジ」の10話なんかで凄く効果的に使われてました。


上の画像のディアネイラの髪の揺れは、風が吹いたことによるもの。
この時はエイジがアルゴノート(ディアネイラの艦)に行くのか、それとも別の艦に行くのか、という場面であり、それに対してディアネイラが「自分は何とも思っていない」という態度を取っている状況(正確には「エイジに居て欲しい」という願いを持っているかもしれないけれど、それをおくびにも出さない(自分にも、他人にも)という状況)。
自分はエイジに対してどう思っているのか、自分の願望は何なのか、といった自分の心の揺れ動きを『風を受けて揺れる髪』が表現している訳です。
下の画像のユティの髪の揺れは、自分が走ったから揺れたものです。
ユティたち銀の種族は、感情を下賎なもの、下等なものと判断しており、感情を持ったらそれを捨てなくてはなりません。(忘れるとかじゃなくて、物理的に捨てます。そういう超能力みたいのがあって、しかも(恐らく)強制で受けなくちゃならない)
そのユティが、エイジとの戦いで傷つき死にかけたカルキノスに対して見せた「心配する」という感情。銀の種族にとって「感情」とは、先にも書いたとおり下賎なものであり、持っても意味のないものです。
自分の心の中に芽生えた「感情」、それを下賎だからと、どうせ捨てなくてはならない(つまり認識してしまうと、捨てる時により辛くなるのです)という思いから、その感情を認めるわけにはいかないという、ユティの心の揺れ。それをこの『揺れる髪』が表現しているのです。
で、ここまで書けば分かるように、この両者の違いは『風を受けて揺れる髪』が外部から心情への影響であり、『(自分で)揺らした髪』は(自分の)内部からの心情への影響であることです。
見たとおりでもありますね。『風』は自分が起こしたものではなく、外部から勝手に起きてきたもの。それによって心情に動きが生じるということは、外部からの影響で動きが生じるということ。自分で走って・動いてというのは、自分の中で始めたこと。(きっかけや要因に外部はあるとしても)主軸となるものは、自分の中。
で、グレンラガンの話に戻って。

「私は、貴方がたのこともっと知りたい」
というニアのセリフ通り、ここでの髪の揺れはニアの心の動きの表現であった訳です。なぜヨーコは泣いていたのか。いなくなった人にこだわる彼女の心とはいったい何なのか。
そしてこのニアの心の動き、興味・関心の動きがあったからこそ、10話後半、彼女が「人が死ぬことの悲しみ」を理解することが出来たわけです。
そしてもう一つ。グレンラガン10話には「髪の毛が揺れる」シーンがありました。

「アニキっていったい誰ですか?」
とニアが言うシーン。
ここから先は、こじつけと言われれば「はいそうです」としか答えようがないのですが、でもね、こんな風に見えちゃったのですよ。
ここ最近青空が差し込むこともなくて、心地よい風が吹く事もなくて、やせ我慢ではない笑顔もなくて。そんな状態でのこの青空と、風と、一点の曇りもない笑顔でのこのセリフには。「さよならアニキ」という言葉が見えてしまったのです。
アニキ―――つまりカミナというのは、シモンにとって途轍もなく大きな存在でした。ヨーコにとってもそう。大グレン団にとってもそう。
みんなカミナに引っ張られてここまで来た、というか来れた。
特に主人公であるシモンにとって、それは一入です。アニキがいるからここまで来れた、アニキが信じてくれたから自分を信じれた、奮い立たせられた。だから、この先に進もうというならば、自分が(自分にとっての)アニキにならなくちゃいけない―――つまり、アニキというのはシモンにとって「世界の全て」だった(というか、なった)わけです。
それはある意味、このグレンラガンという作品においても同じ。
何処に行くのか、何と戦うのか、どう戦うのか。みんなカミナが決めてきた。カミナの行く道がこれからのグレンラガンで、カミナの歩んだ道がこれまでのグレンラガンだった。カミナを中心とするキャラクターの心情に呼応するかのような映像も、カミナの言葉であるサブタイトルも、みんなそう。
カミナはグレンラガンという世界の中心だった。
だからニアの登場まで、ずっとキャラクターの心情は臥せていて、映像も暗いままだったのです。シモンやヨーコにとっても、作品にとっても、カミナはとても大きな存在で、世界の中心だった(シモンにとっては、今や「全て」になってしまっている)。
そこに現れたのが、ニア。
ニアにとって、カミナは世界の中心ではありません。というかカミナは、彼女の世界の端っこにもいません。つうか世界の中にいません。彼女にとって、カミナは「誰それ?」であり、存在していない人間であったのです。
そしてそれを表明するこの一言。
「アニキっていったい誰ですか?」
「グレンラガン」という世界は、カミナが(死んでからも)中心であった世界。そこに入ってきた、カミナを知らない異世界の人物ニア。その彼女が放つ一言「アニキっていったい誰ですか?」。
カミナが世界の中心のように見えて、そのカミナを知らない人は沢山いる。本当はカミナは世界の中心でも何でもない。死んでいる人を中心に世界を動かすことなんて、出来ない。心の中にでっかくカミナが鎮座していても、それはただ「いる」だけであって、その死んだ人がさらに先に運んでいってくれることなんて、ないんだ。先に進むのはいつも自分の足。前を見るのはいつも自分の目。それを誰かに頼ることはできる。かつてカミナにそれを頼ってみたいに。でも、死んでいる人にそれを頼ることはできない。だから―――だから、カミナはもう世界の中心ではない。
つまり、カミナが中心であったこのグレンラガンの世界に、そのカミナを知らない世界から来た「ニア」の放ったこの一言は、「グレンラガン」という世界そのものを揺れ動かしたのです。先に書いたとおり、グレンラガンの映像はまるでキャラクターの心情を映し出したようなもの。この『風』は、「カミナを世界の中心にしていた」人たち、ならびにグレンラガンの世界の移り変わりを示した『風』であったのです。
……いやまあこじつけっぽくはあるけど、素でそう見えちゃったんで仕方ないじゃん、とかとか。
WEB拍手を送る

