らき☆すた 繋がりから広げていく意義と、らっきー☆ちゃんねるの意義なんかを無理矢理と

 2007-07-31
え〜と、16話を中軸に置いた話。



もっと前に書くつもりだったんですけど、「keyの新作ゲーム」とか「麻枝センセの引退作らしいもの」とか「リトルバスターズ!」とか「Little Busters」とか「リトバス」とかプレイしていたもので、すっかり書くのを忘れてました。……そして何を書くつもりだったのかも忘れてしまいました。








さて、もう一週間前の話なんで、誰も覚えていないかもしれませんが、16話の感想にて僕は彼女たちの世界を「閉じた輪」みたいに書きました。


学校の中の4人という「輪」、柊家という「輪」、高良家という「輪」、こなたのバイト先という「輪」……



人と人とで構成される「輪」―――いうなればその世界は、その「輪」で完結しているものですけど、「輪」の構成要素や構成要員が他の「輪」にも被ることで、その繋がりをもってして、断片的に他の「輪」のことを知ることができる……何より、その他の「輪」で、彼が彼女がどうしているのかを知ることができる。たとえばかがみがその円環の中に入っていない「輪」―――こなたのバイト先のこと、ならびにその輪の中でのこなたのことなんか、本来外の人間であるかがみには分かるはずもないのに(だからこそ、ここでのかがみは不安で不穏な様子だったのですが)、両方の輪にリンクする『こなた』という人間をもってして、その「輪」のことも、その「輪」の中での「こなた」のことも、断片的ながらも知ることができた、そしてその「こなた」が、自分の「輪」の中のこなたと同じだった、同じに笑えていた(だからこそ、ここでのかがみはこなたの笑顔を見て、安心したのです)。






かがみ

「輪」自体は閉じてしまっているけど、断片的な繋がりから別の「輪」のことも知ることができる、というお話し。










リングのリンクというのは、別に「知る」ということだけではありません。

「輪」と「輪」同士でも、繋がり―――リンクする部分があれば、そこを起点にその断絶された「輪」同士が結び付くこともあります。
ここでいえば、「涼宮ハルヒ」ネタの部分のように。

当然ですが、「涼宮ハルヒの憂鬱」と「らき☆すた」はまったくの別作品です。
ですが。
京アニ・角川だからこのネタが出来たというリンク、ハルヒとこなたの声優が平野綾であるというリンク、もし現実世界と同じくらき☆すた世界でもハルヒが流行していたら……というリンク。



本来ありえないくらいの距離がある断絶。
それでも、僅かばかりの繋がりで、そこを起点に、跳躍する。






こなた

……思い出してみれば、「らき☆すた」でハルヒネタというのは何回もやっているんですが、(明確に分かる)中の人繋がりネタというのは珍しくて。


当たり前ですけど、「中の人」が強く前面に出てしまうと、キャラクターのリアリティが無くなるのです。このキャラは○○さんの演技で作られているキャラだ、という観点を作品側から示してしまうと―――なにしろ『演技』ですから―――とたんリアリティーがなくなる。これは声優に限らず、映画やドラマなんかの俳優や女優でもそうです。あからさまにパロディ全開、リアリティ必要なしの作品というならともかく、少なくともただのお遊び作品にしていない作品において、そういう『演技』ということを"製作側から"伝えてきてしまうようなことは、あまりよろしくないのです。

受け取り手はもちろん、フィクションをフィクションとして受け取っていますが、決してフィクションをフィクションとして唾棄しているのではなく、(作品から提示される要素(律)に従って)フィクションをフィクションとしつつも頭の中で再構成できるように物語を、登場人物を、要素要因を、つまり製作側を『信頼』して受け取っているわけですから。そのようなことを製作側から明示されることは、視聴者個々人の中で形成される作品世界を壊す行為でもあるわけです。






中の人が前面に出るといえば、言うまでも無くあれがありますね。「らっきー☆ちゃんねる」

あれは元々非常に中の人が前面に出ていたコンテンツでした。当て役を通り越してまんま過ぎる「白石みのる」は元より、「小神あきら」についても、中の人を匂わせる……どころか、バリバリ中の人じゃん!みたいな場面が幾ばくか見受けられました……というか、フツーにらき☆ちゃん内で、「それって中の人のこと」とか「中の人のマネージャー」とか、中の人を話題に出しまくりでした。


つまり、『演技』だということを、至って普通に、前面に押し出していました。
や、そういう構造以前に、小神あきらのキャラクターからして『演技』丸出しのキャラなんですが(だから相乗効果なんですが)。


さらに、前回までの「白石ED」、ついで今回の「演歌ED」という『らき☆すた(らっきー☆ちゃんねる)』と『現実』という断絶されている「輪」同士を、声優という細い繋がりでリンクさせてしまったことで、より強く演技・作り物だということを示してました。







らっきーちゃんねる



「らっきー☆ちゃんねる」は、そこに登場してくるキャラクターたちは演技で作られたキャラクターである、というのが明確に示されているモノであるのですが……はたして本編の方はどうなのでしょうか。



ここでの「ハルヒネタ」のように。中の人を意識させる場面がある。脚本や演技を意識させる場面がある。
所々のまるで宣伝かのようなパロディネタのように。「らき☆すた」以外のものを意識させる場面もある。


それははたしてこの物語の世界を壊すもので、それははたして頭の内で描かれたキャラクターたちを壊すもので、それははたして自分の意識を作品以外のものに向けさせてしまうものであるけれど、
そもそも「らき☆すた」って(古の設定を紐解くと)『作中作』ではないですか。「らき☆すた」のキャラクターって、『演技』しているっていう設定ではないですか。


世界・キャラクター……信頼が崩壊ものを織り込んでいても、最初っから『ソレ』と知らされていたのです。このキャラクターたちは演技でこれこれこういう風になっておりまして、この台詞それぞれにも台本がございまして、このような話の流れにも脚本が存在しておりますと、最初に提示されていました。


前面に押し出されてはいなかったけど。


ソレが前面に押し出されていたのは「らっきー☆ちゃんねる」の方。
中の人ネタを使い、そもそも白石みのるなんて当て役つうかまんまだし、小神あきらも演技しまくりだし、内輪会話も行いまくり。
実は作りモノだ……というのが当たり前のように出ていた「らっきー☆ちゃんねる」。
実は作りモノだ……というのが前提にあったのに表出はさせなかったのが「本編」。


なぜ「らっきー☆ちゃんねる」が存在しているのか。それってこういうことかもしれません。作りモノである「らっきー☆ちゃんねる」を作りモノは作りモノとして楽しめているのなら、本編も楽しめる。本編を作りモノとして楽しめているのなら、「らっきー☆ちゃんねる」も楽しめる。

らき☆ちゃんと本編という別々の輪を、作りモノだという一要素でリンクしてしまった考えだけど。本編のリンクのように、僅かな断片からの跳躍でここにある「輪」が楽しくなるのなら……そしてむこうにある「輪」も楽しくなるのなら、何かしらの感慨を抱けるようになるのなら……繋がりから輪を広げて、輪から繋がりを広げていく行為も悪くはないんじゃないかな、と思えるのです(本編の輪に対する思いでもあります)。






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ごめん、途中から話が超逸れた。多分、もともと何書くつもりだったか忘れちゃったからだと思う。

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  • [アニメ][感想]16話の『らき☆すた』のパロディはアリだろ【ガッツがたりない日々の戯言】
    いやー、俺ってば『らき☆すた』を観てても「面白いっちゃ面白いけど、なんか退屈だな」とか思っちゃったり、ここ三週間続いていた白石稔の実写EDを観て「今年のワーストアニメは『らき☆すた』に決まり」とか思ったりしてたわけですよ。 でもね、今週の『らき☆すた』は
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