2007'08.06 (Mon) 01:37
![]() | サイコロジカル〈上〉兎吊木垓輔の戯言殺し/西尾 維新 |
![]() | サイコロジカル〈下〉曳かれ者の小唄/西尾 維新 |
文章や中身が冗長とかいう噂を聞いたけど、「狂った論理」が前提にある中で、ゴールを目指してサイコロを振ってたら、さっさと6とか出してゴールに進めばいいのにやけに1とか2とか、果てはマイナスまで出まくって、結局ゴールに辿り着かなくても時間切れでそれでも前提的にゴールになってんじゃん、つまり狂ってるじゃん?みたいな話。
「クビキリサイクル」「クビシメロマンチスト」「クビツリハイスクール」、そして「サイコロジカル」。相変らずタイトルと構造が一致してます。(「ハイスクール」はちょっと頑張らないとこじつけ辛いけど)
以下ちょいネタバレ。
【More】
はてさて、サイコロジカル―――狂った論理、とか言うけれど。
「その論理」は狂っている。驚天動地、阿鼻叫喚、人道無視のお約束破壊。そんな論理は狂っているとしかいえない。
けど。それ以前に、考えたら、そもそもの「論理」とかいうヤツ自体が狂っているんじゃないでしょうか。
だって論理って、なんだよそれ。正しい論理ってあるのか?もし正しいというならば、誰が「正しい」と判断するんだ?誰の判断なら、「正しい」という意味に至れるんだ?
その論理が狂っているのか。それとも論理なんてモノ自体が狂っているのか。
作中の言葉で例を出すなら……そう、確か兎吊木あたりがいーくんに「君は自分を信じられない」とか言っていたと思う。や、兎吊木じゃなくて心視先生あたりだったか。まあどっちでもいいや。
とにかく、そのような人間はどこかしらには必ず沢山いるんでしょうが、その『自分を信じられない』という人間は、大抵この二つのどちらかに分けられます。
ひとつ、「自分だけは信じられない」。
他人を信じることはできる。相手を知り信用し信頼し、そして唯一無二の『信』を相手に置くことができる人間はいる。いや、そんな大それたことじゃなくても、ちょっとしたお金のやり取りとか、他愛無い口約束とか、その程度の『信じる』で構わない。他人を信じるということは、できる。
それでも、そうやって他人を信じられても、自分だけは信じられないという人はいる。
他人のことは解らないのに、自分のことは解ってしまうから。だから信じられない。裏切られない、期待に応える――『信じる』という幻想を、解るという自分には向けられない。
他人のことは解らなくてもしょうがないと割り切れるのに、自分のことは解らなくてしょうがないとは割り切れない。なぜ自分のことなのに解らないのか。なぜ自分自身が解らないのか。裏切れらない、期待に応える―――『信じる』という甘えを、割り切れる他人には向けられても、割り切れない自分には向けられない。
他人のことを解っていても解っていなくてもどうでもいい。自分のことを解っていても解っていなくてもどうでもいい。裏切られるのも、期待に応えられないのも慣れている。ただ、それが。
裏切ってくる相手が、失望させる相手が他人ならばどうでもいい話、割り切れる話だけれども。裏切ってくる相手が、失望させてくる相手が自分自身だと、どうでもよくないし割り切れない。『信じる』という肯定を、どうでもいい他人には向けられても、どうでもよくない自分には向けられない。
もうひとつ。「自分も他人も信じられない」。
これこそ究極。他人のことはこれこれこういう理由で信じられるけど、自分のことはそれそれそういう理由で信じられません、などというレベルではなく。他人だろうが、自分だろうが、『信じる』、ということができない。
何でも不信に陥るという信じるという機能が欠けているのからなのか、自分が思う信じるという言葉の意味に自分の中での他人や自身に対する「信じる」が達していないから認められないのからなのか。
とにかく全てを信じられない。
はてさて、この論理はどうでしょう。狂っているのか、正しいのか。
ある一点から見れば正しいでしょう。正しいと思える人には明らかに圧倒的に正しい。
しかし別の点から見ると正しくない、狂っている。狂っていると思える人には明らかに圧倒的に狂っている。
結局はそんなところです。いーくんが、自身を『狂っている』と「ときたま」思うように。それでいて、自身が『狂っている』という「結論」には至らないように。ある点から見れば正しくて、ある点から見ると狂っている。いーくんはある点から見ると狂っているし、ある点から見ると正しい。世界はある点から見ると狂っていて、ある点から見ると正しい。論理はある点から見ると狂っていて、ある点から見ると正しい。
その違いは。
観測者の違い、観測者の気持ちの違い、観測者の環境の違い、観測者の立場の違い。
そんなものは、『真実正しい』にはほど遠くて。サイコロを転がして出た出目で語るようなサイコロジカルでしかなくて。つまり偶然、無然、必然。サイコロ級にどうでもいいくらいに真実から遠い主観の先のロジカルにしか過ぎないというわけです。というのが、この「サイコロジカル」とそこに住まう戯言遣いさんのお話しでした。
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