2007'08.18 (Sat) 06:22
自分というものは自分だけで分かるものなんでしょうか。
「自分」というのは、それを見る「誰か」がいることではじめて分かることでもあります。
「自分は本当は○○なヒトなんだ!」とか思っていても、実際にそうかは分からないんです。○○を目指していたところで、○○に憧れていたところで、本当にそうなれているかは分からない。自分では○○になれていると・なりたいと思っていても、実際のところどうなのかは分かりません。

たとえば先生。
授業後に、生徒が授業内容について質問してくる、というシチュは、先生の腕の見せ所でもあります。理解できなかった生徒に理解できるよう教える、さらに知りたい生徒にさらに詳しく教える。授業内容に関する質問を受けるというのは、自分の腕の見せ所でもあり、同時に、自分への生徒の(勉学に対する)信頼を見れる場面でもあるのです。
だから、先生としては、みゆきさんに聞きに行くのではなく、自分のところに、聞きに来て欲しかったのですしょうが……。
勉強については、聞きに来てくれませんでした。
こなたが聞きに来てくれたのは、ゲームの話題。
自分が理想とする自分、自分がなりたい自分。
でも、それは。自分が理想とする自分、自分がなりたい自分なだけであって。自分の『本質』ではない。

たとえばこなた。
「分からないことがあっても、近くに聞ける先輩がいる、私たちってラッキーだね」と言い、こなたに分からない所を聞きに来てしまうゆたか。おお、なんということだ!勉強に関してはこなたにはわからんのですよ。
なんでゆたかが勉強聞きにきたか。それはもう、こなたのことを信頼しているからです。料理ができる、ゲームとか上手い、交友関係が広い――ゆたかの見る、こなたの優れたところ、さらに今までのこなたのゆたかへの対応を加えて、ゆたかの『こなたへの信頼』が出来上がっている。勉強も教えてくれる、頼れるお姉ちゃんだと、思っている。
でも、実際には、こなたに勉強を教えることはできません。
でも、実際に、ゆたかはこなたに勉強を教わりにきました。
『こなた』に対する認識の違い。自分では「そこまで頼れるヤツじゃないよ~」と思っていても、相手の方は「そこまで頼れる人だ!」と思っている。
この、違い。
先生の、自分が望む自分と他人が見る自分が違う、という違い。
こなたの、自分が思う自分と他人が思う自分が違う、という違い。
たとえばつかさが「違うよゆきちゃん~」と言った様に。自分では本当は○○じゃないと思っているのに、他人から見れば○○に見えてしまうということ。
たとえばひよりが、みなみ×ゆたかであらぬ妄想をしてしまうように。実際には存在しない物事を、存在している(存在できる)ように想像してしまえること。
自分が思う自分というのと、他人が思う自分というのは違うものです。
自分が思う自分というのは、どうしても正しい認識から少しずれてしまいます。願望とか目標とか、失意とか落胆とか。過大評価と過小評価。あえて目を背けることも沢山あるし、妙に良く見えてしまうことも沢山ある。
もちろん、他人が思う自分というものも、正しい認識からずれてしまいます。その人に対する好意とか信頼とか、敵意とか失意とか。過大評価と過小評価。あえて目を背けることも沢山あるし、妙に良く見えてしまうことも沢山ある。
自分ひとりで見る『自分』、他人ひとりから見られる『自分』。そのどちらも、その人の『本質』を十分には示していません。
でも、それらをひっくるめて、『二次的』なもので見れば、多少なりとも『本質』が見えてくるのではないでしょうか。

例えば先生なら。
生徒に頼られたい、『先生』という職業。
「睡眠時間優先なんて、年取ったかな」という言葉どおり、学生時代とは違い、年を取り社会人となった彼女が、多少なりとも望む「年を取った」「社会人」という今の自分に見合った質。それは自分が望む自分ではあるのだけれど、しかし実際のところ、そういう自分にはなれていない。
今はまだ。先生である自分より生徒であるみゆきさんの方が頼られてしまう自分。こなたがゲームの質問を聞きに来るような自分。
もちろん、先生にだって授業の質問をしてくる生徒はいるだろうけど――でも、まだ、睡眠時間を削って趣味に打ち込んでいた学生時代よろしくに、生徒は、趣味の質問をしてくる。

例えばこなたなら。
勉強ができない自分。そこまで頼れる人間ではない自分。それなのに、ゆたかは自分に勉強について質問してくる。
どちらも。
自分が思う自分と他人が思う自分との差異でもあるのですが。
こうなっているのは、自分が『それ』を示しているからでもあります。
つまりなぜ相手が自分に対して『そういうことを』聞きにきたのか、ということ。
何故こなたが先生にこういうことを聞くかというと、先生とゲームの話題を今まで散々してきたから。今まで、ゲームでわからなかったことを聞いてきたから。
何故ゆたかがこなたにこういうことを聞くかというと、ゆたかがここまで信頼するほどに、こなたがゆたかの「頼れる存在」であったから。色んな面で自分のゆたかより凄いところを見せて、色んな所でゆたかをフォローしてきたから。
例えばつかさなら。多少なりとも自主的にホラー映画を見ている至極マイペースな彼女は、はたしてどっちなのか。
例えばみなみ×ゆたかならば。いくらなんでも邪激しい妄想ではあるのでけれど、この違いすぎるちょっとしたアウトサイダー同士の友情は、それを思わせるくらいの重い友情ではないのだろうか。
今までの積み重ね。
自分自身で『そういうこと』を聞かれてショックを受けるくらいに、衝撃を受けるくらいに、今までの自分が『そういうこと』を聞かれてしまうような言動をしていたということに、今までの自分が自覚していなかったのです。
……自覚していなかったというより、正確には、『自然に』このようになっていた、というべきでしょう。
別に先生は趣味に対する入れ込みを隠していたわけでもないし。別にこなたは狙ってゆたかに気を遣っていたわけでもない。あくまでも自然。そして『自然』だからこそ、その人たちの『本質』が表れてもいるのです。
自分一人では分からない自分自身。これもまた、ひとつの『本質』でもあるのです。
そしてまた、逆――つまり相手の方に注視すれば、これもまた、彼女たちのひとつの『本質』を表しているといえるでしょう。
いくら先生がゲームの話題が出来るからといい、果たしてこなたではない生徒がどれだけ、先生にゲームの話題を振ってくるのか。
いくらこなたが頼れるところを見せていたからといい、果たしてその相手がゆたかでなかったのならば、これだけの信頼を得られたのか。
ゲームが好き、そして気を許した相手には気楽に話題を振るこなた。
相手のことをここまで信頼してしまえるゆたか。
相手の性格とよくあるパターンからつかさのことを分析するみゆき。
自分の趣味趣向と妄想力にここまで走れるひより。
自分というものは自分だけでは、充分に分かるものではありません。
「自分」というものには、それを見る「誰か」がいることではじめて分かることが・気付くことが沢山あります。
そして「誰かを見る自分」ということから、分かる「自分」も沢山あります。
自分と相手、相手と自分という二次的な繋がりの中で生じる。
狙ってでもなく、意図的でもない、自然な思いから出てきたその視線には。その視線の先には。その人の『本質』、その一つは、あるのだと思います。
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「自分」というのは、それを見る「誰か」がいることではじめて分かることでもあります。
「自分は本当は○○なヒトなんだ!」とか思っていても、実際にそうかは分からないんです。○○を目指していたところで、○○に憧れていたところで、本当にそうなれているかは分からない。自分では○○になれていると・なりたいと思っていても、実際のところどうなのかは分かりません。

たとえば先生。
授業後に、生徒が授業内容について質問してくる、というシチュは、先生の腕の見せ所でもあります。理解できなかった生徒に理解できるよう教える、さらに知りたい生徒にさらに詳しく教える。授業内容に関する質問を受けるというのは、自分の腕の見せ所でもあり、同時に、自分への生徒の(勉学に対する)信頼を見れる場面でもあるのです。
だから、先生としては、みゆきさんに聞きに行くのではなく、自分のところに、聞きに来て欲しかったのですしょうが……。
勉強については、聞きに来てくれませんでした。
こなたが聞きに来てくれたのは、ゲームの話題。
自分が理想とする自分、自分がなりたい自分。
でも、それは。自分が理想とする自分、自分がなりたい自分なだけであって。自分の『本質』ではない。
【More】

たとえばこなた。
「分からないことがあっても、近くに聞ける先輩がいる、私たちってラッキーだね」と言い、こなたに分からない所を聞きに来てしまうゆたか。おお、なんということだ!勉強に関してはこなたにはわからんのですよ。
なんでゆたかが勉強聞きにきたか。それはもう、こなたのことを信頼しているからです。料理ができる、ゲームとか上手い、交友関係が広い――ゆたかの見る、こなたの優れたところ、さらに今までのこなたのゆたかへの対応を加えて、ゆたかの『こなたへの信頼』が出来上がっている。勉強も教えてくれる、頼れるお姉ちゃんだと、思っている。
でも、実際には、こなたに勉強を教えることはできません。
でも、実際に、ゆたかはこなたに勉強を教わりにきました。
『こなた』に対する認識の違い。自分では「そこまで頼れるヤツじゃないよ~」と思っていても、相手の方は「そこまで頼れる人だ!」と思っている。
この、違い。
先生の、自分が望む自分と他人が見る自分が違う、という違い。
こなたの、自分が思う自分と他人が思う自分が違う、という違い。
たとえばつかさが「違うよゆきちゃん~」と言った様に。自分では本当は○○じゃないと思っているのに、他人から見れば○○に見えてしまうということ。
たとえばひよりが、みなみ×ゆたかであらぬ妄想をしてしまうように。実際には存在しない物事を、存在している(存在できる)ように想像してしまえること。
自分が思う自分というのと、他人が思う自分というのは違うものです。
自分が思う自分というのは、どうしても正しい認識から少しずれてしまいます。願望とか目標とか、失意とか落胆とか。過大評価と過小評価。あえて目を背けることも沢山あるし、妙に良く見えてしまうことも沢山ある。
もちろん、他人が思う自分というものも、正しい認識からずれてしまいます。その人に対する好意とか信頼とか、敵意とか失意とか。過大評価と過小評価。あえて目を背けることも沢山あるし、妙に良く見えてしまうことも沢山ある。
自分ひとりで見る『自分』、他人ひとりから見られる『自分』。そのどちらも、その人の『本質』を十分には示していません。
でも、それらをひっくるめて、『二次的』なもので見れば、多少なりとも『本質』が見えてくるのではないでしょうか。

例えば先生なら。
生徒に頼られたい、『先生』という職業。
「睡眠時間優先なんて、年取ったかな」という言葉どおり、学生時代とは違い、年を取り社会人となった彼女が、多少なりとも望む「年を取った」「社会人」という今の自分に見合った質。それは自分が望む自分ではあるのだけれど、しかし実際のところ、そういう自分にはなれていない。
今はまだ。先生である自分より生徒であるみゆきさんの方が頼られてしまう自分。こなたがゲームの質問を聞きに来るような自分。
もちろん、先生にだって授業の質問をしてくる生徒はいるだろうけど――でも、まだ、睡眠時間を削って趣味に打ち込んでいた学生時代よろしくに、生徒は、趣味の質問をしてくる。

例えばこなたなら。
勉強ができない自分。そこまで頼れる人間ではない自分。それなのに、ゆたかは自分に勉強について質問してくる。
どちらも。
自分が思う自分と他人が思う自分との差異でもあるのですが。
こうなっているのは、自分が『それ』を示しているからでもあります。
つまりなぜ相手が自分に対して『そういうことを』聞きにきたのか、ということ。
何故こなたが先生にこういうことを聞くかというと、先生とゲームの話題を今まで散々してきたから。今まで、ゲームでわからなかったことを聞いてきたから。
何故ゆたかがこなたにこういうことを聞くかというと、ゆたかがここまで信頼するほどに、こなたがゆたかの「頼れる存在」であったから。色んな面で自分のゆたかより凄いところを見せて、色んな所でゆたかをフォローしてきたから。
例えばつかさなら。多少なりとも自主的にホラー映画を見ている至極マイペースな彼女は、はたしてどっちなのか。
例えばみなみ×ゆたかならば。いくらなんでも邪激しい妄想ではあるのでけれど、この違いすぎるちょっとしたアウトサイダー同士の友情は、それを思わせるくらいの重い友情ではないのだろうか。
今までの積み重ね。
自分自身で『そういうこと』を聞かれてショックを受けるくらいに、衝撃を受けるくらいに、今までの自分が『そういうこと』を聞かれてしまうような言動をしていたということに、今までの自分が自覚していなかったのです。
……自覚していなかったというより、正確には、『自然に』このようになっていた、というべきでしょう。
別に先生は趣味に対する入れ込みを隠していたわけでもないし。別にこなたは狙ってゆたかに気を遣っていたわけでもない。あくまでも自然。そして『自然』だからこそ、その人たちの『本質』が表れてもいるのです。
自分一人では分からない自分自身。これもまた、ひとつの『本質』でもあるのです。
そしてまた、逆――つまり相手の方に注視すれば、これもまた、彼女たちのひとつの『本質』を表しているといえるでしょう。
いくら先生がゲームの話題が出来るからといい、果たしてこなたではない生徒がどれだけ、先生にゲームの話題を振ってくるのか。
いくらこなたが頼れるところを見せていたからといい、果たしてその相手がゆたかでなかったのならば、これだけの信頼を得られたのか。
ゲームが好き、そして気を許した相手には気楽に話題を振るこなた。
相手のことをここまで信頼してしまえるゆたか。
相手の性格とよくあるパターンからつかさのことを分析するみゆき。
自分の趣味趣向と妄想力にここまで走れるひより。
自分というものは自分だけでは、充分に分かるものではありません。
「自分」というものには、それを見る「誰か」がいることではじめて分かることが・気付くことが沢山あります。
そして「誰かを見る自分」ということから、分かる「自分」も沢山あります。
自分と相手、相手と自分という二次的な繋がりの中で生じる。
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