2007'08.22 (Wed) 04:24

かがみんが糸目(線目?)になる機会が非常に増えたよね。
笑ってる・苦笑いしている・微笑んでいる時なんかに糸目(線目)になるのは当然だけど、こうやって、「あきれてる」の表現に糸目になる機会が、以前からもあったけどここ最近は非常に増えてるよね。
数えてみたら、この20話でかがみが(笑顔系以外で)糸目になってるカットが11回もあったよ。内あきれてるツッコミ系の糸目が10回。
これは結構独自のものでね、他のキャラが笑顔系以外で糸目になるカットなんて、各々1回あるかどうかってところだったんだ。
さて、「らき☆すた」における糸目といえば、あの放送事故級のCMで糸目を披露してくれたことでも御馴染みのこなたさん。この第20話では、笑顔系以外の糸目を、なんと約45回も披露して下さいました。
他のキャラなんて1回あるかどうかなのに、こなたさんはブッチギリでその45倍。まあこなたさんの場合はデフォルトが糸目みたいなものなんだけどね。
こなたの糸目は、基本的に「まったり」している感じを示す、みたいな感じかな~と思われます。糸目になって、なんかまったりのほほんとくつろいでいるような感じ。デフォが糸目なんで判別付けづらいんだけど、これがメインで、あと、自分の趣味とかを熱く語るとき、なんか陶酔的になってる・以前を思い出している時の糸目、みたいなのもありますね。
糸目で、まったりと、オタク話をするこなたに。
糸目で、あきれたように、ツッコミを入れるかがみ。

かがみの、こなたへの対応の変化だね。
糸目であきれたツッコミって、最初の頃は今に比べて全然無かったんだよね。多分この辺は、仲良くなったから、空気(二人の間の)読めるから、本当にあきれてきたから、なんて理由があるのかな。
糸目であきれるなんて、そんなに親しくない人にやると失礼。でも今の二人は親しいつうか超親しいから、出来る。
相手が本気で言ってきてたら、糸目であきれるなんて超失礼。でも今は、こなたはマターリと意気込むことなく喋ってると分かるから、出来る。
毎度毎度こんなことに付き合っていたらさすがに飽きるし疲れるしと、いい加減「あきれてきた」かがみん。その辺は原作の方がよく出ていますね。4巻の時のツッコミなんて1巻の時に比べると、こなたの扱いなんか超ヒドイ(笑)。「理解させる気ないだろ」「あんたと話してると疲れる」とか、かがみん、あきれまくり。
あきれても大丈夫、あきれても相手が怒らない、あきれているという本心を見せても関係が壊れない、そういう間柄になっているからこそ、かがみんは自由にこなたの前で糸目であきれることが出来るんだね。
だからこの「かがみの目」は、こなたとの関係から生じたものでもあるんです。まあこなたと会わなくても使っていた可能性はありますけど、やっぱ誰に対して使うかというとこなたに対してが殆どでして(こなた系統である、日下部にもそこそこ使っている)。
会話が中心の「らき☆すた」、そのさらに中心にいるこなたに対する、かがみのあきれ糸目。
この糸目、かがみ、ひいては彼女たちの関係の今までを示すモノであり、関係の今を彩るモノのひとつでもあると思うんだ。
【More】

そんなわけで、かがみはこなたとの関係にて、「あきれ糸目」というひとつの表情を手に入れたのですが、かがみの妹にあたるつかさも、彼女たちとの関係にて、「点になる目」というモノを手に入れました。
序盤は…殆ど無かったのですが、最近は結構な頻度で出てきます。
「点になる目」。
こなたのオタク話、そこにかがみのようなツッコミを入れることが出来ない、が、『そこに居る』―――こなたとかがみの会話の場に居て、突っ込むことも出来ず、稀に相槌を打つくらいしか出来ないつかさが手に入れてしまった目。場の空気を壊すことなく、場の誰にも、自分に気を遣わさせないようにするための方法。
会話に参加しているのかしていないのか。点になり、ただその場に存在しているという――そしてだからこそ、大きな影響を与えずに済むという、彼女なりの処世術。
こなたとの双方向な会話で手に入れたかがみの目に比べ、つかさの目は、全く持って双方向ではない。ただひとり。会話に参加出来ず、会話に参加しないからこそ、その会話を邪魔しないために。会話に参加出来ず、会話に参加しないのに、そこに存在しててもおかしくないように。
この目なら、会話をしないのに、ここに居てもおかしくない。
この目なら、会話をしないのに、ここに居ても他人に気を遣わせない。
双方向ではないからこそ、手に入れてしまったものなのです。
しかも、この目が、つかさの性格「マイペース」な所を、より強調してしまっている。いや、むしろこの目から発せられる記号には、軽く(あくまでも軽く)「可哀相な子」や「不思議ちゃん」の要素まで入ってきている。
いきなり発せられる「バルサミコス」や「おもち、うにょーん」のような、突拍子もない言葉。こなたやかがみとの、趣味や好みの乖離。
つかさが「この」つかさであることに、一役かっている。
つかさがつかさであるからこそ手に入れたこの目が、より、つかさが「今のつかさ」であることを加速させてしまっているのです。
もちろん、こんな「目」は、つかさが考えつかさが生み出したのではなく、作る側が考え作る側が生み出したものである。しかし、だからこそ、この可能性の無さ、つかさというキャラクターが決定付けられていることには、悲哀を感じずにはいられない。
物語開始時には無限の可能性を見せた人物が、性格やキャラクターを得て、そしてそれがどんどん固まっていき、固有の性格が、固有の特徴が出来上がり、そしてその性格・特徴こそが、彼女たちの『この』彼女たちであるということを確固としたものにして、さらに『この』から繋がるベクトルに、彼女たちを加速させていくのです。
つまり「どんなキャラになってもおかしくない」可能性が狭まり、「このキャラである」決定性がさらに加速していくのです。
特徴を持つが故に特徴に縛られるのです、その特徴が良きにせよ悪きにせよ。別に点目が悪いとは言わない。糸目が良いとも言わない。ただ、キャラクターというものが、ひとつの方向へと、沢山の描写の積み重ねで決定付けられている。そしてそれに、本来そのキャラクターが持つモノ以上の勢いがあるかのように感じられてしまう。当初の、キャラクター付けが薄かった時代は、ここまででは無かった故に。だから――さらに加速していったときに、「キャラクター」の為に付けられたその諸々の記号・要素は。そのキャラクターを追い抜いていってしまう勢いに、なってしまうのではないだろうか。……いや、それは考えすぎにしても。どちらにしろ、キャラクターに決定権は無い。キャラクターは自分で自分を作りだしてもいるが、それすらも『作品(物語)の中』で。結局、キャラクターはキャラクターであり、自分で自分を決定することは出来ない。究極的に受身なのだ。何処に悲哀があるかというと、それにこそ、悲哀が存在しているのだ。
WEB拍手を送る
スポンサーサイト
この記事のトラックバックURL
→http://bdkiss.blog54.fc2.com/tb.php/414-edfca7a4
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
| BLOGTOP |