2007'09.06 (Thu) 05:02
『ここにある』。
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今、ここは。この泉家は。
かなたが死んで、そうじろうとこなた、ふたりっきり。
かなたが死んだから、そうじろうとこなた、ふたりっきり。
ずっとそうでした。ゆたかという同居人が来てから、三人になってはいるけど。お母さんはいない。かなたはいない。
でも、逆に言うと、「かなたがいないから」この状況、この状態。
「いま」かなたがいたら、この状況にはならなかった。
もちろん、あくまでも、「いま」。
もしはじめからかなたがいなかったら、この状況にすらならなかった。
かなたが居て、そうじろうが居て、こなたが生まれて、かなたが死んで、そうじろうとこなたが二人で生きてきて、それで、「いま」の「この」状況、この状態になった。
これは勿論、かなたの存在を否定しているわけでも、かなたの死を肯定しているわけでもありません。
でも、「この」泉家、この状況・状態に至るには、幾つもの分岐と選択があって、沢山の可能性の中にある何処かの世界には、もしかしたらかなたが生きていた道もあったかもしれないわけで、それを考えると……逆から言うと、かなたが居たら「ここ」には至ってなかったかもしれなかったのです。
どうなるか分からないわけでして、例えば、本当に例えばですが、かなたが教育ママになってそうじろうの教育方針に反対しまくって夫婦喧嘩とか、そういうのも、これも当然可能性の話ですが、あるかもといえばあるかもでして。
現実のこなたとそうじろうと、幻のかなたが、泉家の居間という、一つの場所で笑いあっているけれど。もしもかなたが生きてたら、この風景はなかったかもしれない。もっと良い風景だったかもしれないし、もっと悪い風景だったかもしれない。少なくとも『いま』の『これ』では、無い。
かなたが生きていたら、こなたの、そしてそうじろうの性格も、変わっていたかもしれません。
「どのような人に育てられるか」が人格形成に非常に大きな影響を与えますし、「母親がいない」という事実も、それに大きな影響を与えます。
最愛の妻の死、それを乗り越えることも、人格や性格の形成に大きな影響を与えますね。例えば、そうじろうが泣きながらこなたに「死なないでくれよ」というシーンが幾度かありましたが、かなたの話で感傷に浸ってしまったから・危険を煽る医療番組を見て危機感を抱いたからといったことだけで、少し過剰とも思える反応を示す姿なんかは、「妻の死」の影響でもあるのではないでしょうか。男手一つで子供一人を育て上げることも、また「いまの」彼を形成するのに、大きな影響を与えているでしょう。
「いま」、「ここに」、こういう泉そうじろうが居て、こういう泉こなたが居て、こういう関係を築いている。
それは、当たり前ですけど、ここに至る道――つまり今までの道、その全てがあったからこそ、在る「いま」で「ここ」なのです。
要するに、何が言いたいのかというと、
かなたは死んでしまったけど、かなたが居たから、今がある、ということ。
確かに、「かなたは死んだ」のだけれども。
それは"元からいなかった"でも"意味が無かった"でもなくて。
いま、この瞬間、ここで、このような人間になって、このような関係を築けているのは。
それがあったから。かなたが居たから。
かなたはいないけど、だからって、かなたの話をしない訳じゃない。
かなたはいないけど、だからって、かなたが元々いなかった訳じゃない。
かなたが言っていた、「そうくん達の中に、私が生きてる」というのは、つまりそういうこと。
生きてると言ったって、「俺の脳内じゃ生きてるぜー」とか、「俺的にはまだ死んでない」とか、そんなんじゃない。
かなたが『居た』ってことを忘れないこと。かなたが『居た』ってことを受け止めること。
かなたが『居た』から『この』『いま』が『ある』。
それこそが、『(他人の中に)生きている』ということ。
そうじろうもこなたも、いま、こういう人間で、こういう関係を築けているのは。かなたが居たから。
彼らがこうなったのは、かなたが居たから。
彼らがこういう関係を築けたのは、かなたが居たから。
もちろん、それが全てではないけれど……。
彼らの形成に、この関係の形成に、かなたが居たということが、大きな意義を持っている。大きな理由を持っている。
つまり。
ここに至るのは、かなたがいなければ、決して不可能だった。
こなたとそうじろう。彼らというこの人間も、彼らが作り出すこの関係も、この空間も。かなたがいなければ、決して辿り着けないもの。
そしてそれが、今もなお継続的に進行している……今もなお、かなたの死は無駄ではなく、かなたの生も無駄ではなく、かなたが居たからこそ、この二人、この関係が『ここにある』。
だから、サブタイトルが『ここに"いる"かなた』ではなくて、『ここに"ある"かなた』、なんです。
『ここに"いる"』ではなくて、『ここに"ある"』。

かなたは死んでいて、勿論いない。
この親子三人が居る風景は幻。ここにかなたが、"いる"ことはない。いや、もしも霊魂やら何やらが"いる"としても。こなたやそうじろうにとって、それを認識できなければいないと同然。当たり前ですが、たとえそこに、何かしらが存在しているとしても、認識できなければ存在していないことと同じです。例えば、僕なんかはじいちゃんがとっくに死んでいるのですけど、もしかしたら、そのじいちゃんとか、今僕の後に立っているのかもしれない。他にも、身近な人で死んだ人とかいますけど、そういった人が、たまには僕の近くに来たりしてるのかもしれない。でも、彼らが"いる"かどうかなんて、認識できないんですよ。霊能力でもある人ならいざ知らず。普通の人には、喩え"いる"としても、そのことを認識できない。それは結局は、「認識できていない」のだから「いない」のと同然です。
そう、たとえ『ここにいる』としても、『ここにいる』と認識できないのならば、『ここにいない』と同意。
(だから、かなたの姿や声がこなた・そうじろうに届くことはなく、かなたが写真に写ることすらない)
かなたはここにはいない。少なくとも、こなたやそうじろうには、見えない。聞こえない。感じられない。
でも、ここにいないけれど、『ここに"ある"』。
このこなたになったのも、このそうじろうになったのも、この二人がこういう関係を築けていることも、この二人が、今この時ここで、こういう空間を築いていることも。
かなたがいたから・そして今はいないから。
だから、『ここ』がある。
それが全てではないけれど。
けれど、それは。
かなたが『ここ』に『ある』ということ。
かなたが"いた"という事実は、今もそうじろう・こなた・そして二人が作り出す泉家の空間――『ここ』に、存在している。彼らの内に、確かに『ある』。彼らの内にあるかなたは、例えばこなたがかなたをよく知らないように、例えばそうじろうのかなたへの視点が、かなたの自身への視点と重なりきらないように、本当のかなた自身ではなくて……それは、認識という齟齬が存在している以上、当然のことなのだけれど……だから、だからこそ、彼女の中で、彼の中で、自身が認識しているかなたではないかなたが"いる"からこそ、その生者に対する認識と同じく流動性のある・可動性のあるその認識こそが、かなたが「終わっていない」、つまり確定しきっていないということを何よりも表しており、それこそが、まさにかなたが彼女・彼の中で「生きている」――そこに『ある』ということ。
他人の形成に自分が大きな意義を成している。
そしてそれが、今もなお継続的に続いている。
『そこ』に居なくても、他人にナニカを与えられるということ。
それはすなわち、自分が他人の中に生きている、心の中に生きている、言うなれば自分の胸を叩きながら『ここにある』というようなモノでしょう。
例えば「影響」。
人はみんな、何かから影響を受けていますよね。
誰かに何かを教わる、誰かから何かを薦められる。誰かに憧れる、誰かを反面教師にする。誰かを好きになる、誰かを憎む。
他人と接して得た情報が、自分の中の好奇心や感情を引き起こして、それによって自分が変わっていく。少し大仰に言うと、その「他人」に影響を受ける前の「自分」とは、別物になっていく。
その自分を変えていく影響というのは、その影響を与えてくれた人が、自分の中に『いる』ということと同じではないでしょうか。
あ、そんなに大げさなものではありません。
ちょっとしたことでいいのです。趣味のこととか、好き嫌いのこととか、ちょっとした癖とか。
誰かの影響を受けて何かを始めたとか、誰かの影響であれが好きになった・嫌いになったとか、誰かの影響で妙な癖がついたとか。例えば、友達に薦められて何かの作品にハマッたとか、好きな人が○○を好きだから、どうもその○○に良い印象を抱いてしまうとか、ホントちょっとしたことです。
でも、そんなちょっとしたことでも、その人がいなければ、そうはなってなかったかもしれないですよね。
その「影響」の繋がりで、その人が「いた」ということが、確実に自分の中で「生きている」。誰かの影響があって今の自分があって、そしてその影響、その自分の内の誰かは―――それはきっかけで、方向付ける役割だったとしても―――それは今もなお、自分自身を変えていっている。
それこそが、『ここにある』ということだと思うのです。
それはもう、「らき☆すた」のキャラ達も同じ。
みんな、ちょっとした影響をお互い与えあっている。
そしてその影響は、その人がいたからこそのこと。
たとえば、ゆいねえさんはこなたから借りた漫画の影響で車を買っちゃったり、「寝る子は育つ」説を聞いたみなみはさっさと寝ちゃったり。
誰かの影響が、自分の中にあるということ。それは、自分自身の中に誰かがいるということ、『ここにある』ということではないでしょうか。
(例えば、いつか、こなたとかがみが離れ離れになる日が来たとしても……きっと、かがみは「フルメタ」のアニメを見る度に、何度小説をオススメしても全然読まないくせにアニメの方はしっかり見ている友達のことを、思い出したりするのではないでしょうか)
とはいえ、その『自分の中の他人』、それはその『他人の中の自分』と一致するものではありません。感覚器官による情報と、情報を処理する脳内と、記憶を整理する心と、心を作り出す過去。自分のそれと他人のそれが違う以上、たとえ同じものを見ていても、自分が見ているソレと、他人が見ているソレが、お互いの中で完璧に『同じになる』なんてことは殆どありません。ああ、でも、余談ですが、『同じにする』というのなら、可能なのかもしれません。普通、自分の「悪い部分」って、自分で嫌っている自分自身の部分じゃないですか。変えたいとか、治したいとか、開き直りでもしてない限り、少なくともあんまり良い感情は抱いていない部分でしょう。でも、このかなた・そうじろうのように、相手の「いい部分も悪い部分も認めて」くれて、自分の「悪い部分」を自分自身が認められるようになれば、自分で自分の悪い部分を、相手が思うそれと同じく、自分でも好きになれれば・認めれば、相手の中の『自分』と、自分が認識する『自分』が、かなり近づくんじゃないかな、とか思う。
と、それはさておき。
自分の中の他人というのは、その他人が思う・また他の誰かが思う「他人」とは、程度差こそあれ乖離しているものであって、また時には、ラストの百合ネタ妄想が暴走するひよりのように、わけわかんない一人歩きをしてしまうものでもあります。

そりゃ乖離しているから、ゆたかたちも「?」で首かしげますよ。ひよりの中のゆたか・みなみなんて、当の本人達に分かるわけがないから、そりゃ首かしげますよ。
でも、ひよりがこういう妄想を出来るということは、そしてそれを「イカンイカン」と自戒できるということは、それはもう彼女たちがひよりの中に『ある』からなんですね。本来の彼女達からはかけ離れた存在であったとしても、確かにゆたかやみなみたちはひよりの中に生きている。そこにある。
それを育んだのは、今までの触れ合い。
はじめは怖い人だとしか思っていなかったみなみも、幾度も喋り、何度も接していくうちに、ひよりの中のみなみに対する「怖い人だ」という認識は薄れていった。自分から「みなみん」と愛称で呼ぶくらいに近づいているし、垣根を自分から払いにいっている。百合妄想で友達を消費してしまうことに対する自責の念も、時間が経つごとに強くなっていってる。
同じ時間を過ごしてきたからこそ、相手を知ることができ、相手のことがわかり、そして、その相手が、自分の中で形成されていく。
それこそが、『ここにある彼方』、でしょう。
人と人というのは、遠く隔たれたものです。肉体という壁がある。心は通じ合わない。意思は正確には伝わらない。認識はそれぞれ異なり、同じものを見ていても、他人と同じく見えるとは限らない。誰かが見ている自分が、自分が見ている自分と同じとは限らない。いや、同じである確率は、限りなく低い。
その隔たり、その距離は。『彼方』といえるくらい、遥か遠くにいるもの。
でも、そんな遥かな距離を孕む他人と他人同士でも。過去に影響を与え、今に感銘を与えて、他人が自分の中に『ある』ことができる。
知らない人は知らない。分からない人は分からない。
たとえば、作中に出てくるモブキャラのことなんて、こなたもかがみも他のみんなも、きっと全然知らないし分からないでしょう。それはひよりとみなみの、最初の接触と同じ。でも、そんな知らない人同士でも、幾度か接触を重ね、同じ時を過ごす内に、その人が自分の中で確固として『ある』ものになってくる。たとえどんな小さな影響でも、その人に出会わなければ、その人と同じ時を過ごさなければ、「いま」の「この」自分は、これと一分として違わぬ自分は、確実に「いま」「ここ」には存在していなかった。もしもみなみ・ゆたかと仲良くなっていなければ、みなみ・ゆたかを見て妄想することはあっても、みなみ・ゆたかを見て妄想した自分に対して嫌悪感を覚える、ということは無かったでしょう。
<彼方>遠くにある他人が、<此方>自分自身の中に、<ある>たとえ分からないままでも、たとえ完璧な理解でなくても、生きている。
最後にひよりのエピソードを挟んだのは、そういうことでしょう。
同じ様な日々、日常を描く「らき☆すた」だからこそ、その繰り返しの様な日々の中で育まれていることを描く。
何の変哲もない、変わり映えのしない日々の積み重ねが、当事者である彼女たちにとって、どれほどの意味を持っていたのか。自分の中に他人があること、他人の中に自分がいることが、当事者達にとって、どれほど深い意味を持つことなのか。そういったことが存分に含まれている、とても素晴らしいエピソードでした。
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