2007'09.10 (Mon) 01:46
「らき☆すた」22話のBパート、かなたの話には僕も泣いたクチですが、「かなた視点」という見方にさせられたのが、個人的には一番の要因だと思います。
■かなた視点
――――――――――――――――――――――――――――――――

「ねえ、お母さんはどうしてお父さんを選んだの」

(「世界中でかなたを一番愛してるってコトだよ」の直後)
当然ですけど、かなたに向けられている視線・言葉なんて、ここには存在しません。かなたの存在は見えないのだから、その見えない相手に視線や言葉を向けるなんて、ありえるわけがない。でもこの二つ、どちらも「かなたに向けられている(ような)」視線・言葉ですね。
かなたに向けられた目線で無いのだから、そう見えるわけが無いのに、かなた視点である筈がないのに、かなた視点であるように見えてしまう。
この「ここにある彼方」パート、その前のそうじろうとこなたの雑談から入るのですが、その入り口からして丁寧に作ってあるんですよね。
今はもう死んでしまった「かなた」の話をする。思い出話、かなたがどんな人だったのかという話から、「かなたがいなくて寂しくないか」という『かなたがいないイマ』に通じる話まで。
大げさに悲しむこともなく、無理に身構えることもなく、ほんのちょっとだけ普段よりしんみりしているくらいで、殆どいつも通りに会話して、その後、デジカメでの撮影という、この話題をちょっとは引きずっているのかもと邪推できるけど、もしそうだとしても本当に"ちょっと"くらいな、自然な形で、普段どおりの『日常』を送っている。
端的に言えば、かなたはこの『日常』を見物しにやってくるのですね。
そして当然、『日常』なのだから、既に亡くなっているかなたはそこに入ることは出来ない。せいぜい出来るのは『見る』『聞く』くらい。
この構図は、少し「視聴者とらき☆すた」に似ていると思えたのです。
視聴者はらき☆すたの日常というものを――てゆうからき☆すた≒日常でもあるんですが、それを幾度も幾度も見ているのですが、決してそこに立ち入ることは出来ません。たとえばかなたがこのエピソードで、「こなたはこんな感じに育っているのね」とか「みんな元気にやってるね、そうくんは相変らずだなぁ」と知るように、視聴者もらき☆すたの日常を見て「こなたはこういうキャラか、こういうヤツか」とか「みんな元気で相変らずな日常を送ってるなぁ」と知ることができる。ただ、どちらも、知ることはできても、そこに触れることはできない。『知る』以上のことは出来ず、かなたのように、見守ることくらいしかできない。
この「日常に参加出来ず、ただ見守るだけ感」は、かなたがお亡くなりになられている以上当然といえば当然なのですが、このエピソードに表れています。

「ここにある彼方」の前段階のエピソードは、こなたが(アニメにおいて)はじめて深く母親のことを言及するという内容で、こなたの感情がイマイチ掴めないような表現が非常に強調かつ多用され、基本全体を俯瞰しながらも、少しそうじろうよりのカメラワークから、視聴者の視点的にも、少しそうじろうよりの、全体を俯瞰する感じになり易いのではないかな、と思います。
一端視点をニュートラル(ちょっとそうじろう寄り)に戻した後にはじまる「ここにある彼方」エピソードは、かなたのモノローグからはじまり、それが「視聴者にだけは聞こえている」ように、またかなたが見る過去回想が「視聴者にだけは見えている」ように、視点的には少しかなた寄りです。デジカメ撮影という普段の日常的行事と、母の話という普段ではない日常的会話―――どちらにしろ、『日常』ではあるのですが、それを『かなたの視点』から、かなたと同じく、普段と同じく、接することの出来ない『日常』として見ている趣が強いでしょう。
それはもう、最後の、写真にすら写れないくらいに、接することの出来ない、届くことのない『日常』。

ですが、その日常は接することも出来ず届くことも出来ない日常ですが、だからといって、かなたとこの日常は繋がっていないわけではありません。
たとえば、前述したようにこなたやそうじろうが『かなたを視て』いるかのような視点がありますけど、これは決して、(霊体として)ここに居るかなたを見ているわけではありません。こなたの、かなたに掛けるべきような質問は、この視線は、「そうじろうの中のかなた」に投げ掛けられており、そうじろうの、かなたに言うべきような言葉は、この視線は、これもまた「そうじろうの中のかなた」に投げ掛けられている。
つまりそれこそが、『ここにある彼方』、でもあるのでしょう。
かなたは亡くなったけども、そうじろうの中でしっかりと生き続けており、またこなたも、こうやって知っていくことにより、自分の中でかなたが構築されていく。
日常に触れることも届くことも出来なくても、確かにかなたはここに『ある』のです。
■かなた視点という「見方」
――――――――――――――――――――――――――――――――
ここのシーン、こなた・そうじろう・かなたの三人の中で、誰の視点が一番「泣ける」かというと、それは「かなた」でしょう。
そもそもこなた・そうじろうにはかなたは見えていないので、そして見えていないという前提での話なので、当然といえば当然なのですが。
日常に触れられず日常を見守るだけ、という視点。
この視点自体は視聴者と相似しています。
かなたは日常に触れられない。視聴者も日常に触れられない。
ただ、かなたに関しては、しっかりと彼らの中で生きており、そもそものこの日常だって、かなたが居たからこそあるもの。視聴者の視点と一番合致しているのは、当たり前ですけどかなたではなく、ここでのデジカメでしょう。日常を写し取ることができ、かなた(非日常)を可視することも出来る。視点、でいえば、かなたは「寄り」くらいで、一番近しいのはデジカメです。とはいえ、その日常に対して触れることが出来ないのは、かなたもデジカメも同じ。ただの「視点」ではなく、視点という「見方」から視るかなたには、その触れられない日常に対する答えがあるのではないでしょうか。

触れられない日常に対して、どう接していくか。かなたは、「私の中にそうくんたちがいるように、そうくんたちの中に私が生きてくれてるのなら、これからも見守りましょ」というような答えを出します。や、勿論、かなたでしたら、たとえそうじろうたちの中に自分が生きていなくても、見守っていったと思うのですが。とはいえ、自分の中に相手がいて、相手の中にも自分がいる、そのことはとても幸せなことだと思います。
相手の中に自分がいるというのは、どう足掻いても、視聴者に出来ることではありませんが、自分の中に相手がいる、というのは視聴者にもできる、つうか22回も「らき☆すた」を見ていれば、勝手に「なっている」のではないでしょうか。
例えば、かなたの「私の中にそうくんたちがいる」は、その言葉の、その態度の節々に見ることが出来るのですが、それが一番強く表れているのがこの「回想シーン」ではないでしょうか。

この回想シーン。これらは全て、かなたの記憶です。
色んなシーンが断片的に連なるこの回想シーンですが、本来、この回想に出てくるシーンは断片化されたそれではありませんでした。当たり前ですけど、ご飯食べたり、一緒に歩いたり、指輪はめてもらったり、海を見に行ったり、これらのシーンはそれぞれ一瞬の断片として出てきますが、これらはもともと、一瞬の断片ではありません。どのシーンにも、前と後に色々なやりとりや別のシーンがあって、それらを排除して、(たぶん)エッセンスだけを抽出して、これら「断片」として連なるシーンが出来上がる。
大切な時間を『切り取った』のではなく、『抽出して』構築されたこれらのシーン。
断絶的に、一部の部分だけ示されたかなた・そうじろうの過去ですけど、でも、これだけでも、非常に伝わってきたのではないでしょうか。
かなたの中に、そうじろうがいる、ということが。
大切な時間を『切り取った』のではなく、『抽出して』構築されたもの、というのは、この「らき☆すた」本編も同じです。
みんなで過ごす高校生活という、かけがえのない、二度と戻ってこない、大切な時間―――いや、もちろん、全ての時間はかけがえなく二度と戻ってくることはありません。全ての時間は、平等ではなく価値の大小はあるとしても、全て同じく、二度と戻る事のない、かけがえのない、大切な時間。
でも、だからこそ、『この』時間は大切なのです。
過去も未来も、『どの』時も等しく一度しかない時間だからこそ、それに今正に直面している、『この』時間が『この』時においては一番大切になる。
「高校生活だなんていう大切な時間を、無為にだらだら過ごしてる~」なんて趣旨じゃありません。「大切な時間を、あえて無為にだらだら過ごしているから~」なんて趣旨でもありません。ぶっちゃけ内容なんてどうでもいいんですよ。
ああ、そうです、今気付きました。別に内容なんてどうでもいいんです。ガリ勉してようが、スポーツに打ち込んでいようが、何していようが構わない。『この時間に何をしているか』が大切なのではなくて、『この時間』そのものが、大切なのです。中身関係なしに。全てはかけがえなく失われ二度と戻らない時間だからこそ、全ては大切なのです。かなたの記憶のように。学食での何気ない会話とか、二人並んで歩くこととか、トランペットに憧れる少年よろしくにフィギアに憧れるいい大人とか、街中を走って引っ張り回されたこととか……やってることは、何の気も無いことなのに。中身があるようなことでもない、強いて言えばただの『日常』なのに、そんなことですら、輝いてしまう。
そして「らき☆すた」本編も。
何の変哲も無い日常を―――全ての事柄は、全ての時間において同一ではないのですけど、その中でもっとも可変性が高く可視率も高い「人間関係」、つまりはこの「みんな」の時間をメインに―――抽出している。
「らき☆すた」の個々のエピソードはそれそのもので存在しているのではなく、当たり前ですけど画面に映っていないところでは、どうでもいい会話とかくだらないシーンが存在していると思われます。でも、そんなところは『あえて』映さない。
もち、仮説ではありますけど。
「らき☆すた」って基本的に各々のシーンが断片的ではないですか。シーン間の繋がりがなかったり、いきなり別の場所、いきなり次の日に飛んだり(しかもそれが、短いスパンで頻出したり)。
勿論、繋がってたり飛ばない場面もありますが、メインとなる「まったりエピソード」なんかは、こういう趣が強いです。強いです、というか強すぎます。前後の繋がりのぶった切り、場面の跳躍、音楽が止まって・またはオチの部分で変わってエピソード終了というパターンの多さ。ここまであからさまだと、個々のエピソードは見たとおり『断片』である、ということを表したいのではないでしょうか。
そして、これは「切り取った」断片ではなく、「抽出された」断片だと思います。何の根拠もないんですけどね。ただ、僕には、そう思えるくらいに、抽出と思えてしまうくらいに、この「らき☆すた」、22回に渡る断片を見てきて、自分の中に確かに、キャラクターたちやそれを取り巻く環境……つまりは「らき☆すた」そのものが、確かに、自分の中に『ある』と感じえてしまったのです。
見えないところ――つまり放送されてないところは、分からない(あるのかないのか、考えられているのかいないのか、すら)。
それはかなたの記憶にしたって同じ。それを見る視聴者は、そこに表される以外の部分のことは、決して分かりません。
でも、他は分からないけど、分かる部分だけでも確かに『ある』と分かってしまう。
かなたの中にそうじろうたちが居ると(視聴者が)分かるように。
かなたが、この僅かな、日常の断片でしかないこの一方的な邂逅の中だけで、自分がそうじろうたちの中に居ると分かるように。
「らき☆すた」を、断片的な「らき☆すた」を見ている受け取り手も。かなたと同じ様な視点で、かなたと同じ様な受け取り方で、自然と、「らき☆すた」が自分の中に『ある』と、分かるのではないでしょうか。
「らき☆すた」5巻が発売されましたね。

なんというか、最後の方、おまけで載っている宣伝漫画を見て、「宣伝」という縛りの中でも普段と変わらずにいるキャラクターのあまりの立ちっぷり、場所も話題も関係なく普段どおりなことにビックリした、というかメチャクチャ関心してしまったのですが(って、考えたら、今までの巻にも宣伝漫画(みたいなの?)載ってて、そこでもキャラは普段どおりだったのですが)、それは置いといて。
この「らき☆すた」5巻には、アニメ22話Bパートのかなたが出てくる話、「ここにある彼方」が収録されています。
アニメ版と原作、話の本筋自体は殆ど同じで、というか過去回想があるかどうか以外は大体全部同じなのですが、受ける印象はちょっと違うかもと思います。てゆうか僕はちょっと異なった(アニメ版を先に観ているからというのも当然あるのでしょうけど)。
あくまで僕が感じたことなのですけど、その一番の違いが、この「視点」のことかなー、とか思った次第です。で、書いてみました。(大元は、こなたの「何でお母さんは…」の台詞にめちゃくちゃドキリとさせられたことなんですが)
終わりが明確にあり、原作より断片性が強い(アニメって1話内では連続しているから)、というアニメと原作の違いからしても、この「かなたの視点」(というより、「かなた寄り視点」くらいの方が正確でしょうか)というのは、正しい・正しくないはともかくとして、一つの見方として、存在してもよいのではないでしょうか。
■かなた視点
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「ねえ、お母さんはどうしてお父さんを選んだの」

(「世界中でかなたを一番愛してるってコトだよ」の直後)
【More】
当然ですけど、かなたに向けられている視線・言葉なんて、ここには存在しません。かなたの存在は見えないのだから、その見えない相手に視線や言葉を向けるなんて、ありえるわけがない。でもこの二つ、どちらも「かなたに向けられている(ような)」視線・言葉ですね。
かなたに向けられた目線で無いのだから、そう見えるわけが無いのに、かなた視点である筈がないのに、かなた視点であるように見えてしまう。
この「ここにある彼方」パート、その前のそうじろうとこなたの雑談から入るのですが、その入り口からして丁寧に作ってあるんですよね。
今はもう死んでしまった「かなた」の話をする。思い出話、かなたがどんな人だったのかという話から、「かなたがいなくて寂しくないか」という『かなたがいないイマ』に通じる話まで。
大げさに悲しむこともなく、無理に身構えることもなく、ほんのちょっとだけ普段よりしんみりしているくらいで、殆どいつも通りに会話して、その後、デジカメでの撮影という、この話題をちょっとは引きずっているのかもと邪推できるけど、もしそうだとしても本当に"ちょっと"くらいな、自然な形で、普段どおりの『日常』を送っている。
端的に言えば、かなたはこの『日常』を見物しにやってくるのですね。
そして当然、『日常』なのだから、既に亡くなっているかなたはそこに入ることは出来ない。せいぜい出来るのは『見る』『聞く』くらい。
この構図は、少し「視聴者とらき☆すた」に似ていると思えたのです。
視聴者はらき☆すたの日常というものを――てゆうからき☆すた≒日常でもあるんですが、それを幾度も幾度も見ているのですが、決してそこに立ち入ることは出来ません。たとえばかなたがこのエピソードで、「こなたはこんな感じに育っているのね」とか「みんな元気にやってるね、そうくんは相変らずだなぁ」と知るように、視聴者もらき☆すたの日常を見て「こなたはこういうキャラか、こういうヤツか」とか「みんな元気で相変らずな日常を送ってるなぁ」と知ることができる。ただ、どちらも、知ることはできても、そこに触れることはできない。『知る』以上のことは出来ず、かなたのように、見守ることくらいしかできない。
この「日常に参加出来ず、ただ見守るだけ感」は、かなたがお亡くなりになられている以上当然といえば当然なのですが、このエピソードに表れています。

「ここにある彼方」の前段階のエピソードは、こなたが(アニメにおいて)はじめて深く母親のことを言及するという内容で、こなたの感情がイマイチ掴めないような表現が非常に強調かつ多用され、基本全体を俯瞰しながらも、少しそうじろうよりのカメラワークから、視聴者の視点的にも、少しそうじろうよりの、全体を俯瞰する感じになり易いのではないかな、と思います。
一端視点をニュートラル(ちょっとそうじろう寄り)に戻した後にはじまる「ここにある彼方」エピソードは、かなたのモノローグからはじまり、それが「視聴者にだけは聞こえている」ように、またかなたが見る過去回想が「視聴者にだけは見えている」ように、視点的には少しかなた寄りです。デジカメ撮影という普段の日常的行事と、母の話という普段ではない日常的会話―――どちらにしろ、『日常』ではあるのですが、それを『かなたの視点』から、かなたと同じく、普段と同じく、接することの出来ない『日常』として見ている趣が強いでしょう。
それはもう、最後の、写真にすら写れないくらいに、接することの出来ない、届くことのない『日常』。

ですが、その日常は接することも出来ず届くことも出来ない日常ですが、だからといって、かなたとこの日常は繋がっていないわけではありません。
たとえば、前述したようにこなたやそうじろうが『かなたを視て』いるかのような視点がありますけど、これは決して、(霊体として)ここに居るかなたを見ているわけではありません。こなたの、かなたに掛けるべきような質問は、この視線は、「そうじろうの中のかなた」に投げ掛けられており、そうじろうの、かなたに言うべきような言葉は、この視線は、これもまた「そうじろうの中のかなた」に投げ掛けられている。
つまりそれこそが、『ここにある彼方』、でもあるのでしょう。
かなたは亡くなったけども、そうじろうの中でしっかりと生き続けており、またこなたも、こうやって知っていくことにより、自分の中でかなたが構築されていく。
日常に触れることも届くことも出来なくても、確かにかなたはここに『ある』のです。
■かなた視点という「見方」
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ここのシーン、こなた・そうじろう・かなたの三人の中で、誰の視点が一番「泣ける」かというと、それは「かなた」でしょう。
そもそもこなた・そうじろうにはかなたは見えていないので、そして見えていないという前提での話なので、当然といえば当然なのですが。
日常に触れられず日常を見守るだけ、という視点。
この視点自体は視聴者と相似しています。
かなたは日常に触れられない。視聴者も日常に触れられない。
ただ、かなたに関しては、しっかりと彼らの中で生きており、そもそものこの日常だって、かなたが居たからこそあるもの。視聴者の視点と一番合致しているのは、当たり前ですけどかなたではなく、ここでのデジカメでしょう。日常を写し取ることができ、かなた(非日常)を可視することも出来る。視点、でいえば、かなたは「寄り」くらいで、一番近しいのはデジカメです。とはいえ、その日常に対して触れることが出来ないのは、かなたもデジカメも同じ。ただの「視点」ではなく、視点という「見方」から視るかなたには、その触れられない日常に対する答えがあるのではないでしょうか。

触れられない日常に対して、どう接していくか。かなたは、「私の中にそうくんたちがいるように、そうくんたちの中に私が生きてくれてるのなら、これからも見守りましょ」というような答えを出します。や、勿論、かなたでしたら、たとえそうじろうたちの中に自分が生きていなくても、見守っていったと思うのですが。とはいえ、自分の中に相手がいて、相手の中にも自分がいる、そのことはとても幸せなことだと思います。
相手の中に自分がいるというのは、どう足掻いても、視聴者に出来ることではありませんが、自分の中に相手がいる、というのは視聴者にもできる、つうか22回も「らき☆すた」を見ていれば、勝手に「なっている」のではないでしょうか。
例えば、かなたの「私の中にそうくんたちがいる」は、その言葉の、その態度の節々に見ることが出来るのですが、それが一番強く表れているのがこの「回想シーン」ではないでしょうか。

この回想シーン。これらは全て、かなたの記憶です。
色んなシーンが断片的に連なるこの回想シーンですが、本来、この回想に出てくるシーンは断片化されたそれではありませんでした。当たり前ですけど、ご飯食べたり、一緒に歩いたり、指輪はめてもらったり、海を見に行ったり、これらのシーンはそれぞれ一瞬の断片として出てきますが、これらはもともと、一瞬の断片ではありません。どのシーンにも、前と後に色々なやりとりや別のシーンがあって、それらを排除して、(たぶん)エッセンスだけを抽出して、これら「断片」として連なるシーンが出来上がる。
大切な時間を『切り取った』のではなく、『抽出して』構築されたこれらのシーン。
断絶的に、一部の部分だけ示されたかなた・そうじろうの過去ですけど、でも、これだけでも、非常に伝わってきたのではないでしょうか。
かなたの中に、そうじろうがいる、ということが。
大切な時間を『切り取った』のではなく、『抽出して』構築されたもの、というのは、この「らき☆すた」本編も同じです。
みんなで過ごす高校生活という、かけがえのない、二度と戻ってこない、大切な時間―――いや、もちろん、全ての時間はかけがえなく二度と戻ってくることはありません。全ての時間は、平等ではなく価値の大小はあるとしても、全て同じく、二度と戻る事のない、かけがえのない、大切な時間。
でも、だからこそ、『この』時間は大切なのです。
過去も未来も、『どの』時も等しく一度しかない時間だからこそ、それに今正に直面している、『この』時間が『この』時においては一番大切になる。
「高校生活だなんていう大切な時間を、無為にだらだら過ごしてる~」なんて趣旨じゃありません。「大切な時間を、あえて無為にだらだら過ごしているから~」なんて趣旨でもありません。ぶっちゃけ内容なんてどうでもいいんですよ。
ああ、そうです、今気付きました。別に内容なんてどうでもいいんです。ガリ勉してようが、スポーツに打ち込んでいようが、何していようが構わない。『この時間に何をしているか』が大切なのではなくて、『この時間』そのものが、大切なのです。中身関係なしに。全てはかけがえなく失われ二度と戻らない時間だからこそ、全ては大切なのです。かなたの記憶のように。学食での何気ない会話とか、二人並んで歩くこととか、トランペットに憧れる少年よろしくにフィギアに憧れるいい大人とか、街中を走って引っ張り回されたこととか……やってることは、何の気も無いことなのに。中身があるようなことでもない、強いて言えばただの『日常』なのに、そんなことですら、輝いてしまう。
そして「らき☆すた」本編も。
何の変哲も無い日常を―――全ての事柄は、全ての時間において同一ではないのですけど、その中でもっとも可変性が高く可視率も高い「人間関係」、つまりはこの「みんな」の時間をメインに―――抽出している。
「らき☆すた」の個々のエピソードはそれそのもので存在しているのではなく、当たり前ですけど画面に映っていないところでは、どうでもいい会話とかくだらないシーンが存在していると思われます。でも、そんなところは『あえて』映さない。
もち、仮説ではありますけど。
「らき☆すた」って基本的に各々のシーンが断片的ではないですか。シーン間の繋がりがなかったり、いきなり別の場所、いきなり次の日に飛んだり(しかもそれが、短いスパンで頻出したり)。
勿論、繋がってたり飛ばない場面もありますが、メインとなる「まったりエピソード」なんかは、こういう趣が強いです。強いです、というか強すぎます。前後の繋がりのぶった切り、場面の跳躍、音楽が止まって・またはオチの部分で変わってエピソード終了というパターンの多さ。ここまであからさまだと、個々のエピソードは見たとおり『断片』である、ということを表したいのではないでしょうか。
そして、これは「切り取った」断片ではなく、「抽出された」断片だと思います。何の根拠もないんですけどね。ただ、僕には、そう思えるくらいに、抽出と思えてしまうくらいに、この「らき☆すた」、22回に渡る断片を見てきて、自分の中に確かに、キャラクターたちやそれを取り巻く環境……つまりは「らき☆すた」そのものが、確かに、自分の中に『ある』と感じえてしまったのです。
見えないところ――つまり放送されてないところは、分からない(あるのかないのか、考えられているのかいないのか、すら)。
それはかなたの記憶にしたって同じ。それを見る視聴者は、そこに表される以外の部分のことは、決して分かりません。
でも、他は分からないけど、分かる部分だけでも確かに『ある』と分かってしまう。
かなたの中にそうじろうたちが居ると(視聴者が)分かるように。
かなたが、この僅かな、日常の断片でしかないこの一方的な邂逅の中だけで、自分がそうじろうたちの中に居ると分かるように。
「らき☆すた」を、断片的な「らき☆すた」を見ている受け取り手も。かなたと同じ様な視点で、かなたと同じ様な受け取り方で、自然と、「らき☆すた」が自分の中に『ある』と、分かるのではないでしょうか。
「らき☆すた」5巻が発売されましたね。

なんというか、最後の方、おまけで載っている宣伝漫画を見て、「宣伝」という縛りの中でも普段と変わらずにいるキャラクターのあまりの立ちっぷり、場所も話題も関係なく普段どおりなことにビックリした、というかメチャクチャ関心してしまったのですが(って、考えたら、今までの巻にも宣伝漫画(みたいなの?)載ってて、そこでもキャラは普段どおりだったのですが)、それは置いといて。
この「らき☆すた」5巻には、アニメ22話Bパートのかなたが出てくる話、「ここにある彼方」が収録されています。
アニメ版と原作、話の本筋自体は殆ど同じで、というか過去回想があるかどうか以外は大体全部同じなのですが、受ける印象はちょっと違うかもと思います。てゆうか僕はちょっと異なった(アニメ版を先に観ているからというのも当然あるのでしょうけど)。
あくまで僕が感じたことなのですけど、その一番の違いが、この「視点」のことかなー、とか思った次第です。で、書いてみました。(大元は、こなたの「何でお母さんは…」の台詞にめちゃくちゃドキリとさせられたことなんですが)
終わりが明確にあり、原作より断片性が強い(アニメって1話内では連続しているから)、というアニメと原作の違いからしても、この「かなたの視点」(というより、「かなた寄り視点」くらいの方が正確でしょうか)というのは、正しい・正しくないはともかくとして、一つの見方として、存在してもよいのではないでしょうか。
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こんばんは、yukitaです。
22話は、いつも通りの展開で進んでいって、こなたがかなたの話題をした時も『いつも通り』だったのに、かなたのエピソードが始まってから、急に雰囲気が変わりました。
視聴後、何とも言えない気持ちになって、更に2回本編を観た時、涙が零れました。
その時の気持ちを何とか「第一稿」に書きましたが、原作の5巻を読んで再度観た時、色々と書きたくなって「完全版」を書きました。(かなり遅くなりましたが。)
そうじろうが、「俺が世界で一番、かなたを愛している。」と言ったシーンは、本当に感動しました。
そうじろうのかなたへの愛が、今も変わらず続いていて、それがこなたにも通じているから、そうじろうが『危険発言』をした時「お母さんの苦労が、偲ばれるよ…。」と、自然と口にしたのではないでしょうか?
そうじろうはきっと、頻繁にかなたとの想い出話を、こなたに聞かせていたと思います。
こなたにとって、かなたの想い出は、そうじろうを通じてのものが大半だと思います。それでも、こなたの中には、かなたが居て、そうじろうの中にも、かなたが息づいている。
かなたの声や姿は、こなた達に感じる事は出来ないけど、二人の中で生き続けていて、これからもずっと、傍にいる。
これが『ここにある彼方』のタイトルの意味なのかなぁと、思いました。
かなたがそうじろうとの想い出を脳裏に浮かべたシーンは、それだけで短編映画になるのでは?と思う程、感動したのですが、一番胸を打たれたのは、親子3人で夕焼けの海を眺めていたシーンです。
僕は、あのシーンは朝からずっと、景色を眺めていたのではないかと思いました。
『かなたの好きな景色を、3人でずっと眺めていたい』
そんな気持ちで眺めていたのかなぁと、思いました。
そして、今も家に飾られている親子3人の写真は、こなた達の絆を永遠に留めている様で、輝いて見えました。
話は前後しますが、「焼き芋の美味しい季節になったわよねー。」と言っていたかがみと、こなたの遣り取りは、微笑ましいものがありました。
一連の遣り取りは、かがみとこなたの二人だからこそのモノだと思いました。
『噛み合わない様で、どこか通じている』『噛み合わなくても、一緒にいられる』――そんな感じがしました。
この二人の遣り取りこそ、『らき☆すた』なのかなぁ、と思いました。
22話の感想をなしおさんが書かれていた時、『幸せを感じた』と書かれた一文を読みました。僕も今、それを感じています。
もうすぐ、『らき☆すた』の放送は終わります。その事自体は凄く寂しいけど、この作品がくれた『らっきー☆すたー』は、僕達の中に残ると思います。
今回も、長文失礼しました。
いつもお世話になっているのに、最近はコメント出来なくて済みません。
いつも、楽しく読ませて頂いています。
僕も何とか、月曜日に23話の感想を完成させ、24話を存分に楽しめるようにしたいです。
きっと、『お祭り騒ぎ』になると期待しています。
22話は、いつも通りの展開で進んでいって、こなたがかなたの話題をした時も『いつも通り』だったのに、かなたのエピソードが始まってから、急に雰囲気が変わりました。
視聴後、何とも言えない気持ちになって、更に2回本編を観た時、涙が零れました。
その時の気持ちを何とか「第一稿」に書きましたが、原作の5巻を読んで再度観た時、色々と書きたくなって「完全版」を書きました。(かなり遅くなりましたが。)
そうじろうが、「俺が世界で一番、かなたを愛している。」と言ったシーンは、本当に感動しました。
そうじろうのかなたへの愛が、今も変わらず続いていて、それがこなたにも通じているから、そうじろうが『危険発言』をした時「お母さんの苦労が、偲ばれるよ…。」と、自然と口にしたのではないでしょうか?
そうじろうはきっと、頻繁にかなたとの想い出話を、こなたに聞かせていたと思います。
こなたにとって、かなたの想い出は、そうじろうを通じてのものが大半だと思います。それでも、こなたの中には、かなたが居て、そうじろうの中にも、かなたが息づいている。
かなたの声や姿は、こなた達に感じる事は出来ないけど、二人の中で生き続けていて、これからもずっと、傍にいる。
これが『ここにある彼方』のタイトルの意味なのかなぁと、思いました。
かなたがそうじろうとの想い出を脳裏に浮かべたシーンは、それだけで短編映画になるのでは?と思う程、感動したのですが、一番胸を打たれたのは、親子3人で夕焼けの海を眺めていたシーンです。
僕は、あのシーンは朝からずっと、景色を眺めていたのではないかと思いました。
『かなたの好きな景色を、3人でずっと眺めていたい』
そんな気持ちで眺めていたのかなぁと、思いました。
そして、今も家に飾られている親子3人の写真は、こなた達の絆を永遠に留めている様で、輝いて見えました。
話は前後しますが、「焼き芋の美味しい季節になったわよねー。」と言っていたかがみと、こなたの遣り取りは、微笑ましいものがありました。
一連の遣り取りは、かがみとこなたの二人だからこそのモノだと思いました。
『噛み合わない様で、どこか通じている』『噛み合わなくても、一緒にいられる』――そんな感じがしました。
この二人の遣り取りこそ、『らき☆すた』なのかなぁ、と思いました。
22話の感想をなしおさんが書かれていた時、『幸せを感じた』と書かれた一文を読みました。僕も今、それを感じています。
もうすぐ、『らき☆すた』の放送は終わります。その事自体は凄く寂しいけど、この作品がくれた『らっきー☆すたー』は、僕達の中に残ると思います。
今回も、長文失礼しました。
いつもお世話になっているのに、最近はコメント出来なくて済みません。
いつも、楽しく読ませて頂いています。
僕も何とか、月曜日に23話の感想を完成させ、24話を存分に楽しめるようにしたいです。
きっと、『お祭り騒ぎ』になると期待しています。
yukita | 2007年09月17日(月) 01:36 | URL | コメント編集
>yukitaさん
こんばんは。コメントして頂いて、ありがとうございます。長文で頂けるコメントは、「僕のとこのコメント欄にこんなにエネルギーを割いてくれるの!?」という嬉しさがあって、単純にありがたいです(笑)。や、ホントありがとうございます。
今回に関しては、ブログでyukitaさんがご自身のことについて想起してしまったように書かれておりますように、この作品を見ることで、それぞれの人の中で、それぞれの思いが、それぞれに生まれる、そしてその思いこそが、それぞれの人の中で唯一の真実というか、一番大切なものなんじゃないかな、と思いましたので、非常に書くのすら惑ってしまう内容であったのですが……少なくとも、yukitaさんには嫌がられてないようで、嬉しい限りです(笑)。
>22話の感想をなしおさんが書かれていた時、『幸せを感じた』と書かれた一文を読みました。僕も今、それを感じています。
>もうすぐ、『らき☆すた』の放送は終わります。
>その事自体は凄く寂しいけど、この作品がくれた『らっきー☆すたー』は、僕達の中に残ると思います。
や、僕が幸せに思ってしまったのは正にこの辺のことと言いますか。
そうじろうの中にかなたがいるように、僕らの中にも、今まで出会ってきた人とか離れ離れになってしまった人とかが、確実に存在していまして。
それと同じ様に、この「らき☆すた」も自分の中に「ある」なと思えてしまったのです。
遠い所にいる誰かが、自分の中にあると感じられることは、凄い幸せなことで。それと同じ様に、遠い所にいる作品が、自分の中に確かにあると感じられるこの気持ち、これも凄い幸せなことなんじゃないかなと思えたのです。自分の中に、出会ってきた何かがしっかりと残っているというこの気持ち。こんな気持ち、どうやっても伝えようが無いので、ちょっと困りました(苦笑)。
ホントに……この作品は、どんなカタチであれ、自分の中に在り続けるのでしょうね。
>24話を存分に楽しめるようにしたいです。
もうご覧になられたでしょうか?存分に楽しんで頂けたなら、(別に僕が作ったわけでも何でもないんだけどw)凄く嬉しいです。いや、「らき☆すた」を楽しんで見てくれる人がいると、なんかそれだけで嬉しくて。なんなんだろう、この気持ち……(笑)。
こんばんは。コメントして頂いて、ありがとうございます。長文で頂けるコメントは、「僕のとこのコメント欄にこんなにエネルギーを割いてくれるの!?」という嬉しさがあって、単純にありがたいです(笑)。や、ホントありがとうございます。
今回に関しては、ブログでyukitaさんがご自身のことについて想起してしまったように書かれておりますように、この作品を見ることで、それぞれの人の中で、それぞれの思いが、それぞれに生まれる、そしてその思いこそが、それぞれの人の中で唯一の真実というか、一番大切なものなんじゃないかな、と思いましたので、非常に書くのすら惑ってしまう内容であったのですが……少なくとも、yukitaさんには嫌がられてないようで、嬉しい限りです(笑)。
>22話の感想をなしおさんが書かれていた時、『幸せを感じた』と書かれた一文を読みました。僕も今、それを感じています。
>もうすぐ、『らき☆すた』の放送は終わります。
>その事自体は凄く寂しいけど、この作品がくれた『らっきー☆すたー』は、僕達の中に残ると思います。
や、僕が幸せに思ってしまったのは正にこの辺のことと言いますか。
そうじろうの中にかなたがいるように、僕らの中にも、今まで出会ってきた人とか離れ離れになってしまった人とかが、確実に存在していまして。
それと同じ様に、この「らき☆すた」も自分の中に「ある」なと思えてしまったのです。
遠い所にいる誰かが、自分の中にあると感じられることは、凄い幸せなことで。それと同じ様に、遠い所にいる作品が、自分の中に確かにあると感じられるこの気持ち、これも凄い幸せなことなんじゃないかなと思えたのです。自分の中に、出会ってきた何かがしっかりと残っているというこの気持ち。こんな気持ち、どうやっても伝えようが無いので、ちょっと困りました(苦笑)。
ホントに……この作品は、どんなカタチであれ、自分の中に在り続けるのでしょうね。
>24話を存分に楽しめるようにしたいです。
もうご覧になられたでしょうか?存分に楽しんで頂けたなら、(別に僕が作ったわけでも何でもないんだけどw)凄く嬉しいです。いや、「らき☆すた」を楽しんで見てくれる人がいると、なんかそれだけで嬉しくて。なんなんだろう、この気持ち……(笑)。
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らき☆すた 3 限定版車の中、「今日からガソリン代が2円も上がった」と嘆くゆい。それを見て、「お金におおらかな人でもガレソリン代になると一円単位で拘るのはなんでだろう?」とこなたは首を傾げるのだった・・・。
2007/09/10(月) 16:29:24 | ゲームやアニメについてぼそぼそと語る人
母と娘に感じた違和感 (「らき☆すた」第22話感想・その2)
こんばんは。たこーすけです。以下、ちょーネタバレです。というか、引用しまくり。久しぶりに台詞を書き取った気がする。第22話を未見の方は、ご注意!
2007/09/11(火) 03:09:13 | たこーすけの、ちょろっと感想
こんばんは、yukitaです。さて、22話の感想(完全版)。何とか〆切に間に合うか…!?(色々書いていたら、遅れました。)かなたのエピソードについては、なしおさんの感想がオススメです。(それ以外も、オス
2007/09/15(土) 20:22:39 | yukitaの想い出日誌
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