2007'09.18 (Tue) 20:00
アニメ『らき☆すた』内の1コーナー、『らっきー☆ちゃんねる』。
わざわざアニメ内にひとつのコーナーとして用意されたこれが、果たしてアニメ本編とどういう関係を持っていたのか。その辺、全24回の『らっきー☆ちゃんねる』を振り返り纏めつつ、考えてみたいと思います。
(アニメ版にしか触れていません。ラジオ版についてはノータッチです)
(前半部なんかは、23回終了後に上げたアニメ「らき☆すた」23話までの『らっきー☆ちゃんねる』を振り返ってみたの焼き直しだったりするので、そちらをご覧になられた方は(特に前半部は)適当に流してください)
■白石みのる
――――――――――――――――――――――――――――――――

「白石っす」
「あ、えーと、あきら様のアシスタントを勤めさせていただきます、白石みのるです。どうもっす」
「あれれ~。白石さん堅いですよ~。ほ~ら、折角テレビに出られたのだから、もっとはっちゃけたまえ!なんちって」
「すんません、慣れなくて」
『らき☆すた』本編終了後、唐突に始まったコーナー『らっきー☆ちゃんねる』。パーソナリティである『小神あきら』と、アシスタントである『白石みのる』の二人によって構成されています。
今見返してみると、この頃の白石みのるは、あきらが言っているように、堅く、緊張しながらも、真面目にアシスタントをこなしています(逆、真面目にアシスタントをこなそうとしているからこそ、堅く、緊張しているのかもしれません)。
もともと『らっきー☆ちゃんねる』はラジオ番組としてアニメ放送開始前から行われており、そのラジオ番組もアニメ版の『らっきー☆ちゃんねる』と関係性が深いものでありますが、大半の視聴者はこのアニメで『らっきー☆ちゃんねる』を初体験するであろうということを見越してか、ラジオ版『らっきー☆ちゃんねる』を聞いていなくても(存在すら知らなくても)十分に分かるように、疎外感を生じさせぬように作られています。
だからか、ここでの白石とあきらが、まだそんなに仲が深くない、知り合って間もない関係に見えるようになっています。
実際は、ラジオ版の方ではもう少し関係が深くなっていても、それをあまり表出させることなく、また、ラジオ版の話題をあまり出すことがない、また出たとしても、たとえそれを知らなくても、問題なく見れるようになっているように。ラジオ版『らっきー☆ちゃんねる』の出張版というより、このアニメ内でひとつのコンテンツとして(アニメのみを見るならば)かなり独立されている作りです。
それゆえに、『らき☆ちゃん』の序盤においては、白石の色々な意味での初々しさ――テレビ慣れ・番組慣れや、この仕事での役割への初々しさ――などが、よく表れている様な作りになっています。たとえば第1回なんかは、以下のように。
・ギャラの話を振られて、あきらの素が出て軽く黒くなり(今思うと、本当に軽い)、白石がそれを諌めようとおろおろする感じ。
・そして音楽が切り替わり、あきらが役のあきらに戻ると、白石が「フー」と胸をなでおろす。
『アシスタント』という自分本来の役割、あくまであきらを立てて支援する、そういった役回りを(あきらに振り回されながらも)こなしています。
第2回の『らき☆ちゃん』においても、白石が本編に出演していることに、あきらが執拗に絡んできますが、白石が反抗するといった感じはなく、あきらに従うというか付き合ってるような対応を見せています。
そう、この頃はまだ、白石もアシスタントとしての職務を彼なりにまっとうしており、あきら:メイン・白石:アシスタントという形の番組が成り立っていたのです。(まだあきらの白石に対する呼び名も「白石さん」でした)

それが徐々に崩れていきます。
第3回、みゆきさんの紹介の際に、一人饒舌に喋り続ける白石。
かがみツンデレ議論の時も、一人喋り続ける白石。
あきらの発言に被って入ったり(第4回)、あきらの寒いギャグに「さぶっ!」と反応してしまったり(第6回)。
第8回、フリップ逆さま"わざと"にツッコミを入れ、テロップ剥がれない(わざとじゃない?)にツッコミを入れなかったり。
あきらの振りに対し、話を膨らませる気がないかのような返答や、「ふんどし締めなおして」などの空気読めなさすぎの発言。
『アシスタント』として入った白石ですが、フォローする・盛り立てるといった役目から逸脱して、自分一人熱く喋り出したり、(あきらの)空気を読めてない行動をしたり、面白くも無い発言をしてしまったり。殆どロクに、フォロー・盛り立てるという役割を果たせていませんでした。
「いつもいつも僕が僕がって、そういうのを自意識過剰っていうのよすっこんでりゃいいのよ白石のクセにあぁクチが腐る」(第14回)
時には自分を押し殺し、時には意見を捻じ曲げてでもフォローに徹さなければならない――そういった、あきらが望むような『アシスタント』という職務に対して、真剣に、真摯に取り組むということが出来ていなかったのです。
19話にて「みのる大自然ツアー」が決定したのですが、それは幕が降りた後に「追い出す口実」といっていたように、正に白石を厄介払いにする為のものでした。
その直前の第18回。白石は番組そっちのけで、収録中に携帯メールを打ってました。
もちろん、その件だけが原因というわけではありません。ただ、白石のこういった『あきらが望んでいるアシスタント像との乖離』は、長いことやってても全然あきらと呼吸が合っていないところ、話を膨らませられないところ、空気読んでないこと言っちゃうところ、などに少しづつ表れているのではないでしょうか。
第6回。オタクの話題が出たときに、「何か言わなくちゃ俺」で適当に何か言っちゃう(ありえなく古いオタク像)白石。
「ちゃんと勉強してんの!?」と返すあきら。
こういったことの積み重ねが、あきらが望むアシスタントと白石が臨むアシスタントとのズレが、そこに対する不満や鬱憤が、『らっきー☆ちゃんねる』を崩していってしまったのです。
一言でいうと、白石が白石だったからこそ、崩壊した。
自分の好きに語っちゃったり。あきらの要求をイマイチ理解してなかったり。我慢してたけど結局キレちゃったり。努力はしたのだろうけど、それでもやっぱ、最終的には白石が白石だったからこその、破綻。
■小神あきら
――――――――――――――――――――――――――――――――


「白石さんはどうですか?もう慣れました?」
「いやぁ…まだ、まぁ……すんません」
「うーん、なんかまだ白石さんがあきらに心を開いていない気がするんですよね。いつもより離れて座っている気がするし。これって心の距離なのかなって。くすん……」
「うわぁわぁ。そ、そんなことないですって」
白石近づく。あきら離れる。
(第3回)
先にも書いたように、最初期の白石とあきらの関係はまだそれなりに普通でした。あきらからすれば、コイツはどんなものかと探りを入れている状態、といえるでしょう。
ただ、白石が初っ端の第2話で本編に登場してしまったことにより、あきらの白石に対する印象に、早々に「嫉妬」「敵愾心」が入り込んでしまいました。
それにより、第2回での演技指導の名を借りたグチや、第3回でのイジリ(↑のもの)のように、白石に対する接し方の方向性がある程度決定付けられました。最初は「アシスタントのおにーさん」と言っていた白石へのあきらの態度は、こういった『イジリ』の方向に確定されてきたのです。
そしてそのイジリは、上記したように白石の空気読めなさ、あきらの要求の応えられなさによって、段々と『イビリ』に進化していってしまったのです。
勿論、そこにあるのは白石の非だけではありません。
あきらの異常なまでの本編進出への執念。
本編に出たいという意欲が強すぎ、それが次第に「自分を応援して」というダイレクトな欲求に転化ししかも行き過ぎてしまい(逆、自分を応援して欲しいから本編に出たい、なのかも)、自分は如何に素晴らしいか、自分を応援するべきなのだということを熱く力説してしまうあきら。この思いは次第に暴走していき、特に中盤以降は、なんとしても自分に応援のお便りを送れ!とか、自分のライブイベントはいつだ!?しか興味なくそれ以外の話は本気で無視したりとか、恐ろしいほどにやりたい放題。『番組する気ないだろ』と言いたくなるほどの熱の入りようでした。
先に、白石に対してあきらの要求するアシスタントからのズレを書きましたが、あきらのこの姿勢もまた、白石の望むようなメインパーソナリティとしてのそれとはズレていました。
番組に対して真剣に、真摯に取り組みことよりも。自分アピールを優先してしまう。時には自分を押し殺して、時には意見を捻じ曲げてでも番組を作り出さなくてはならないメインパーソナリティという役割なのに、そんなことは全然しない、むしろ逆。スタッフの制止も振り切り、思う存分に小神あきらのやりたいようにやってしまう。
もちろんこれは……あきらの立場からすれば、白石がフォローも話膨らませることも出来ず、それでいて自分が先んじて本編に出てしまうようなアシスタントだったから、あきらもこうなってしまった、とも言えて。
白石の立場からすれば、あきらが己のアピールばかりしまくっていて、自分に対するあきらの対応も日増しにキツク当るようになっていて、わがままばかりで盛り立てなくちゃいけないから、白石もこうなってしまった、とも言えます。
白石もそうだけど、あきらもまた、そう。
あきらがあきらだったからこそ、この『らっきー☆ちゃんねる』は、崩壊した。
好き勝手に暴走しちゃったり。白石の思いをまったく汲み取らなかったり。努力はしたのかもしれないけど、それでもやっぱ、最終的にはあきらがあきらだったからこその、破綻。
■『らっきー☆ちゃんねる』の崩壊と、もう一度だけ『らっきー☆ちゃんねる』
――――――――――――――――――――――――――――――――


第21回。
水を汲んで樹海から戻ってきた、満身創痍の白石。彼が差し出した水を飲んだあきらは、一口して「こんなもんヌルイもの飲めるかぁ!コンビニで買った方がマシだ!」と盛大に吐き出す。その応答を見た白石は、本気でキレる。
自分が、あきらの要求に応じ、ボロボロになるまで苦労し、身も心も傷つけながら、なんとかして汲んできたソレを。あきらが、マズイ、いらない、コンビニの方がマシだとその水を捨て去った事、自分の苦労も自分の我慢も自分の想いも、一顧だにせず切り捨てたことに、本気でキレてしまう。
ここに来て、あきらと白石の間に生じているズレが、決定的なものとして、表出してしまう。
や、勿論ズレは今までもあったのです。先ほども書いたように、どちらも、お互いが望んでいる姿や要求からは程遠い実像をしている。どちらも、我がすぎる。どちらも、番組の為に身を粉にする真剣さが少し足りない。
しかしそのズレは、お互いに不穏な、噛み合わない対応を生じさせながらも番組自体は存続するというズレであり、番組自体が存続できなくなるようなズレではなかったのです。今までは。逆に言えば、今までがそうだったから、今まで溜め込んできてしまったからこそ、ここで爆発してしまったといえるでしょう。
「あなたは見切られたんですよ。プロデューサーとディレクターに」
この言葉どおり。また第20回での「追い出す口実」発言のように。
この白石の樹海への旅は、一言でいえば厄介払いでした。
しかし、それと知らず行ってしまい、それと知らず苦労して、それと知らず水を汲んできて、それと知らず帰ってきてしまう白石。
ここで。もしも、あきらが白石に「クビだ」ということを、先に伝えていたのならどうでしょう。どうせクビなんだから、そんなマジになって苦労してまでやるようなことじゃないよ、ということを伝えていたのなら、どうでしょう。
多分、そういう問題なんじゃないでしょうか。
『らっきー☆ちゃんねる』。
白石はあきらに不満があり、あきらは白石に不満がある。番組は"どちらにも"思ったように動かず、どちらもがどちらとも、十分に楽しめない。
でも、そのことを、ダイレクトには伝えない。
腹を割っては話さない。もっと全力で取り組めとか、こういう風にフォロー入れろとか、本編出たいばかり言うなとか、そういう、お互いの不満点、お互いの欠点を伝えないから、こうなった。伝えてないから、白石は何度でもフォロー出来ず空気読めないし、あきらは何度でも暴走する。お互いに、自分のどこが欠点かを知らないから。
相手のことを伝えず、自分のことを知らず。
自分のことを伝えず、相手のことを知らず。
それでも今までの『らっきー☆ちゃんねる』という日常は回りました。
相手の要求やそれに自分が応えられていないことなんか知らなくても、日常が回ることは回ります。『本編』の方も同じですね。自分のことも相手のことも、存分に知らなくても。自分が相手の要求に応えられていないことも、相手の要求が何なのか不明なことも、相手の嫌なトコも相手のムカツクところも、相手が自分に対してどこをイヤと思っているのかも、相手が自分のどこにムカついているのかも、そのどれも知らなくても、日常という生活は送っていける。

でも、それではいつか、崩れてしまう、こともある。
相手が自分のどこをイヤに思っているかを知らないまま、それを変えずに、自分が自分としてあり続ければ。
その軋轢が決定的なものとなって、現実に襲ってくる。日常を破壊してしまう。
白石が白石であり、あきらがあきらであり続けたからこそ、変わることなく、自分で居続けたからこその、崩壊。
でも。ここまで続いていた『らっきー☆ちゃんねる』、その中身は。
白石が白石であり、あきらがあきらであり続けたこその、"この"中身。
初々しくもテレビ出演に緊張していたあの時も。黒くなったメインパーソナリティにハラハラしていたあの時も。執拗に絡まれたあの時も。叩かれたり脅されたりしたことも。自分が本編に出れない悔しさをブチまけたあの時も。ツインドリルという振りを作ったのにまったくアシスタントが突っ込んでくれなかったあの時も。ファンレターがアシスタントにばかり届く屈辱を味わったあの時も。風邪でゴホゴホとしか発音できないあきらの言葉の意味を、白石が読み取ってくれた時も。ふたりでバイニーと手を振った時も。
全ては、白石もあきらも、"このような"人物だったから、在ったこと。
そして、二人とも、"このような"人物だったからこそ、終わってしまった。
このような歪さの上で、このような二人だったからこそ成り立っていたこのような『日常』は、このような二人だったからこそ、こうして崩れてしまう。
そして、第23回。

「どんな経緯があったにしてもさぁ?ふたりでさぁ?あれよ?杯交わして一からこのコーナー作ってきたんじゃないの?」
「それがよ?こんな終盤で何もかもブチ壊しってのは無いんじゃない?」

「じゃあさ」
「ここらで手打ちにしようよ」
「残り一本、初心に帰って『らっきー☆ちゃんねる』やり遂げてみようよ」
「ねぇ、どうなの?」
自分のことも相手のことも十分に知らなくても、自分にイヤなところがあったり、相手に治してもらいたいところがあっても、そこをそのまま残していても、『日常』が続いている『本編』。
自分のことも相手のことも十分に知らなくても、自分にイヤなところがあったり、相手に治してもらいたいところがあっても、そこをそのまま残してしまい、『日常』が崩壊してしまった『らっきー☆ちゃんねる』。
伝えなかった事、知らなかった事、話さなかった事……そういった諸所の積み重ねが、そして、白石みのるが「白石みのる」であり、小神あきらが「小神あきら」であること、それ自体が崩壊へと導いてしまった『らっきー☆ちゃんねる』と。
ディスコミュニケーションも、自分が自分であることも、日常を崩壊させるには至らなかった『本編』。
続く日常という『本編』との対比のように、崩壊する日常を見せた『らっきー☆ちゃんねる』。
崩壊した理由は、白石・あきら、彼らが『彼らだった』から。
白石は白石として、フォローしなかったり鬱憤溜まったりして。
あきらはあきらとして、自分勝手振舞ったり鬱憤溜まったりして。
■日常の価値
――――――――――――――――――――――――――――――――
そんな二人が、説得された上であっても、もう一度だけ見せる第24話内での『らっきー☆ちゃんねる』。

険悪な状態のままの二人で送る、その中身は……。

「こらテメェちゃんと歌わせろやっ!!」
「だからテストだって言ったでしょーっ!時間無いんっすよー!!」
「んなこと知るかぶっ殺すぞテメェこの野郎っ!!」
「あーあームズカシイニホンゴワカラナイネーー!」
あっはっは、素晴らしい!
あんだけ、自分を自分であるままにわがまま言い続けて、それが原因で『らっきー☆ちゃんねる』が崩れたのに。
あんだけ、要求に付き合わず比較的マイペースで歩んで、それが原因で『らっきー☆ちゃんねる』が崩れたのに。
このふたり、なんにも変わってない。むしろ、以前よりさらに自分を強く出している!
個人同士の相性とか、ディスコミュニケーションとか、そういうのが白石・あきらとその関係に内包されていて、それゆえに『らっきー☆ちゃんねる』が崩壊したのに、そんなの全然変わってない、むしろ強くなっている!
これが本当素晴らしい、てゆうかすごい好き。
彼らは、上記のソレだったがゆえに『らっきー☆ちゃんねる』が終わってしまったのですが、ですが今までやっていた『らっきー☆ちゃんねる』は、上記のソレだったがゆえに、こういう内容だったのです。
そこに破滅が孕まれていても、彼らが歩んできた『らっきー☆ちゃんねる』という日常は、彼らが彼らだったからこそ、こういう内容だった。
そして今回、なんとかして復活した『らっきー☆ちゃんねる』でも、彼らは変わらずに、いや今まで以上に「彼ら」だったのです。
今まで以上に崩壊の因子が強くなっているのだから、この『らっきー☆ちゃんねる』はきっと崩壊するでしょう。なのに……今まで以上に、その崩壊の因子――つまり彼らが今までやってきた『らっきー☆ちゃんねる』、今までの日常を"こういう形で"構成してきた要因となる「彼ら自身」がとても強く、強く出ているから……そこが、凄くいい!
つまり、これが『らっきー☆ちゃんねる』。
白石が白石として、あきらがあきらとして、自分であり続け自分を貫いて、結果崩壊してしまうかもしれないけれど……でもそれが、彼らの『日常』。
本編のように、自分が自分であり続けて、それでいて上手くいく関係ではないけれど……でも、だからって、日常の中で描かれた時間は。あきらが暴走した瞬間も、みのるがブチ切れた瞬間も、カラオケボックスで歌うたったことも、最初の頃の白石が緊張してそれにあきらがやんわりフォローを入れていたことも。どの瞬間も、彼らが"この"彼らだからこそ生まれたもので、それは決して本編の様々な瞬間にも、見劣りしない。
15話本編でつかさが言っていたセリフ。

「考えてみたら、こなちゃんやゆきちゃんとこの学校で出会って仲良くなったのも奇跡かもー」
こうならない可能性もあった、いやこうならない可能性の方が高かったのです。学校なんて沢山あって、生徒だって沢山いるんだから。ある特定の誰かと出会って、仲良くなる。そして、このセリフを言う、今がある。何処の分岐の先でもいえる言葉であるけれど、何処の分岐の先でもいえる言葉であるからこそ、これに『奇跡』といえてしまう。
白石とあきらは、出会ったけど、仲良くなった、といえる関係かは微妙です。でも、彼らのこの出会い、仲良くなれなかったこの日常だって、そうならない可能性から考えれば、十分に『奇跡』なんじゃないでしょうか。
日常が続いて仲良くなれていることも奇跡だけど。
日常が終わってしまっても、その日常が確かに『あった』ということも、奇跡と呼べる。崩壊する日常も、崩壊しない日常も、その点の価値は同じ。
日常というのは、簡単に終わってしまいかねない。いや、簡単に終わらない日常にだって、いつか終わりは来る。白石とあきらのそれのように簡単に終わるものもあれば、つかさたちのそれのように簡単には終わらないものもある。でも、そのどちらも、"そこに至ってしまった"ということでは、奇跡のように輝いているのではないでしょうか。
日常の時間は、終わってから、それが大切だったり輝いて見えたりします。
なんでそう見えるのかというと、それはきっと、この『らっきー☆ちゃんねる』という日常のように……。「終わってしまうから」大切で輝いているんじゃなくて、「終わってしまうのに」、それが『あった』から、きっと大切だったり、輝いて見えたりするのでしょう。
さて、『らっきー☆ちゃんねる』は、実はもうちょっとだけ続きます。ラジオの『らっきー☆ちゃんねる』です。
今回のアニメ24話内での『らき☆ちゃん』は、陵桜学園祭での公開録音という設定で、さらにその後にもう一回分、放送があります。
http://lantis-net.com/rakisuta/
今回の記事では、アニメ版のことについてしか触れていませんが、果たして白石やあきらがどうなったか、というかどうするのか、気になる方はラジオ版を聞いて楽しまれてもよいかもしれません。
WEB拍手を送る
わざわざアニメ内にひとつのコーナーとして用意されたこれが、果たしてアニメ本編とどういう関係を持っていたのか。その辺、全24回の『らっきー☆ちゃんねる』を振り返り纏めつつ、考えてみたいと思います。
(アニメ版にしか触れていません。ラジオ版についてはノータッチです)
(前半部なんかは、23回終了後に上げたアニメ「らき☆すた」23話までの『らっきー☆ちゃんねる』を振り返ってみたの焼き直しだったりするので、そちらをご覧になられた方は(特に前半部は)適当に流してください)
【More】
■白石みのる
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「白石っす」
「あ、えーと、あきら様のアシスタントを勤めさせていただきます、白石みのるです。どうもっす」
「あれれ~。白石さん堅いですよ~。ほ~ら、折角テレビに出られたのだから、もっとはっちゃけたまえ!なんちって」
「すんません、慣れなくて」
『らき☆すた』本編終了後、唐突に始まったコーナー『らっきー☆ちゃんねる』。パーソナリティである『小神あきら』と、アシスタントである『白石みのる』の二人によって構成されています。
今見返してみると、この頃の白石みのるは、あきらが言っているように、堅く、緊張しながらも、真面目にアシスタントをこなしています(逆、真面目にアシスタントをこなそうとしているからこそ、堅く、緊張しているのかもしれません)。
もともと『らっきー☆ちゃんねる』はラジオ番組としてアニメ放送開始前から行われており、そのラジオ番組もアニメ版の『らっきー☆ちゃんねる』と関係性が深いものでありますが、大半の視聴者はこのアニメで『らっきー☆ちゃんねる』を初体験するであろうということを見越してか、ラジオ版『らっきー☆ちゃんねる』を聞いていなくても(存在すら知らなくても)十分に分かるように、疎外感を生じさせぬように作られています。
だからか、ここでの白石とあきらが、まだそんなに仲が深くない、知り合って間もない関係に見えるようになっています。
実際は、ラジオ版の方ではもう少し関係が深くなっていても、それをあまり表出させることなく、また、ラジオ版の話題をあまり出すことがない、また出たとしても、たとえそれを知らなくても、問題なく見れるようになっているように。ラジオ版『らっきー☆ちゃんねる』の出張版というより、このアニメ内でひとつのコンテンツとして(アニメのみを見るならば)かなり独立されている作りです。
それゆえに、『らき☆ちゃん』の序盤においては、白石の色々な意味での初々しさ――テレビ慣れ・番組慣れや、この仕事での役割への初々しさ――などが、よく表れている様な作りになっています。たとえば第1回なんかは、以下のように。
・ギャラの話を振られて、あきらの素が出て軽く黒くなり(今思うと、本当に軽い)、白石がそれを諌めようとおろおろする感じ。
・そして音楽が切り替わり、あきらが役のあきらに戻ると、白石が「フー」と胸をなでおろす。
『アシスタント』という自分本来の役割、あくまであきらを立てて支援する、そういった役回りを(あきらに振り回されながらも)こなしています。
第2回の『らき☆ちゃん』においても、白石が本編に出演していることに、あきらが執拗に絡んできますが、白石が反抗するといった感じはなく、あきらに従うというか付き合ってるような対応を見せています。
そう、この頃はまだ、白石もアシスタントとしての職務を彼なりにまっとうしており、あきら:メイン・白石:アシスタントという形の番組が成り立っていたのです。(まだあきらの白石に対する呼び名も「白石さん」でした)

それが徐々に崩れていきます。
第3回、みゆきさんの紹介の際に、一人饒舌に喋り続ける白石。
かがみツンデレ議論の時も、一人喋り続ける白石。
あきらの発言に被って入ったり(第4回)、あきらの寒いギャグに「さぶっ!」と反応してしまったり(第6回)。
第8回、フリップ逆さま"わざと"にツッコミを入れ、テロップ剥がれない(わざとじゃない?)にツッコミを入れなかったり。
あきらの振りに対し、話を膨らませる気がないかのような返答や、「ふんどし締めなおして」などの空気読めなさすぎの発言。
『アシスタント』として入った白石ですが、フォローする・盛り立てるといった役目から逸脱して、自分一人熱く喋り出したり、(あきらの)空気を読めてない行動をしたり、面白くも無い発言をしてしまったり。殆どロクに、フォロー・盛り立てるという役割を果たせていませんでした。
「いつもいつも僕が僕がって、そういうのを自意識過剰っていうのよすっこんでりゃいいのよ白石のクセにあぁクチが腐る」(第14回)
時には自分を押し殺し、時には意見を捻じ曲げてでもフォローに徹さなければならない――そういった、あきらが望むような『アシスタント』という職務に対して、真剣に、真摯に取り組むということが出来ていなかったのです。
19話にて「みのる大自然ツアー」が決定したのですが、それは幕が降りた後に「追い出す口実」といっていたように、正に白石を厄介払いにする為のものでした。
その直前の第18回。白石は番組そっちのけで、収録中に携帯メールを打ってました。
もちろん、その件だけが原因というわけではありません。ただ、白石のこういった『あきらが望んでいるアシスタント像との乖離』は、長いことやってても全然あきらと呼吸が合っていないところ、話を膨らませられないところ、空気読んでないこと言っちゃうところ、などに少しづつ表れているのではないでしょうか。
第6回。オタクの話題が出たときに、「何か言わなくちゃ俺」で適当に何か言っちゃう(ありえなく古いオタク像)白石。
「ちゃんと勉強してんの!?」と返すあきら。
こういったことの積み重ねが、あきらが望むアシスタントと白石が臨むアシスタントとのズレが、そこに対する不満や鬱憤が、『らっきー☆ちゃんねる』を崩していってしまったのです。
一言でいうと、白石が白石だったからこそ、崩壊した。
自分の好きに語っちゃったり。あきらの要求をイマイチ理解してなかったり。我慢してたけど結局キレちゃったり。努力はしたのだろうけど、それでもやっぱ、最終的には白石が白石だったからこその、破綻。
■小神あきら
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「白石さんはどうですか?もう慣れました?」
「いやぁ…まだ、まぁ……すんません」
「うーん、なんかまだ白石さんがあきらに心を開いていない気がするんですよね。いつもより離れて座っている気がするし。これって心の距離なのかなって。くすん……」
「うわぁわぁ。そ、そんなことないですって」
白石近づく。あきら離れる。
(第3回)
先にも書いたように、最初期の白石とあきらの関係はまだそれなりに普通でした。あきらからすれば、コイツはどんなものかと探りを入れている状態、といえるでしょう。
ただ、白石が初っ端の第2話で本編に登場してしまったことにより、あきらの白石に対する印象に、早々に「嫉妬」「敵愾心」が入り込んでしまいました。
それにより、第2回での演技指導の名を借りたグチや、第3回でのイジリ(↑のもの)のように、白石に対する接し方の方向性がある程度決定付けられました。最初は「アシスタントのおにーさん」と言っていた白石へのあきらの態度は、こういった『イジリ』の方向に確定されてきたのです。
そしてそのイジリは、上記したように白石の空気読めなさ、あきらの要求の応えられなさによって、段々と『イビリ』に進化していってしまったのです。
勿論、そこにあるのは白石の非だけではありません。
あきらの異常なまでの本編進出への執念。
本編に出たいという意欲が強すぎ、それが次第に「自分を応援して」というダイレクトな欲求に転化ししかも行き過ぎてしまい(逆、自分を応援して欲しいから本編に出たい、なのかも)、自分は如何に素晴らしいか、自分を応援するべきなのだということを熱く力説してしまうあきら。この思いは次第に暴走していき、特に中盤以降は、なんとしても自分に応援のお便りを送れ!とか、自分のライブイベントはいつだ!?しか興味なくそれ以外の話は本気で無視したりとか、恐ろしいほどにやりたい放題。『番組する気ないだろ』と言いたくなるほどの熱の入りようでした。
先に、白石に対してあきらの要求するアシスタントからのズレを書きましたが、あきらのこの姿勢もまた、白石の望むようなメインパーソナリティとしてのそれとはズレていました。
番組に対して真剣に、真摯に取り組みことよりも。自分アピールを優先してしまう。時には自分を押し殺して、時には意見を捻じ曲げてでも番組を作り出さなくてはならないメインパーソナリティという役割なのに、そんなことは全然しない、むしろ逆。スタッフの制止も振り切り、思う存分に小神あきらのやりたいようにやってしまう。
もちろんこれは……あきらの立場からすれば、白石がフォローも話膨らませることも出来ず、それでいて自分が先んじて本編に出てしまうようなアシスタントだったから、あきらもこうなってしまった、とも言えて。
白石の立場からすれば、あきらが己のアピールばかりしまくっていて、自分に対するあきらの対応も日増しにキツク当るようになっていて、わがままばかりで盛り立てなくちゃいけないから、白石もこうなってしまった、とも言えます。
白石もそうだけど、あきらもまた、そう。
あきらがあきらだったからこそ、この『らっきー☆ちゃんねる』は、崩壊した。
好き勝手に暴走しちゃったり。白石の思いをまったく汲み取らなかったり。努力はしたのかもしれないけど、それでもやっぱ、最終的にはあきらがあきらだったからこその、破綻。
■『らっきー☆ちゃんねる』の崩壊と、もう一度だけ『らっきー☆ちゃんねる』
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第21回。
水を汲んで樹海から戻ってきた、満身創痍の白石。彼が差し出した水を飲んだあきらは、一口して「こんなもんヌルイもの飲めるかぁ!コンビニで買った方がマシだ!」と盛大に吐き出す。その応答を見た白石は、本気でキレる。
自分が、あきらの要求に応じ、ボロボロになるまで苦労し、身も心も傷つけながら、なんとかして汲んできたソレを。あきらが、マズイ、いらない、コンビニの方がマシだとその水を捨て去った事、自分の苦労も自分の我慢も自分の想いも、一顧だにせず切り捨てたことに、本気でキレてしまう。
ここに来て、あきらと白石の間に生じているズレが、決定的なものとして、表出してしまう。
や、勿論ズレは今までもあったのです。先ほども書いたように、どちらも、お互いが望んでいる姿や要求からは程遠い実像をしている。どちらも、我がすぎる。どちらも、番組の為に身を粉にする真剣さが少し足りない。
しかしそのズレは、お互いに不穏な、噛み合わない対応を生じさせながらも番組自体は存続するというズレであり、番組自体が存続できなくなるようなズレではなかったのです。今までは。逆に言えば、今までがそうだったから、今まで溜め込んできてしまったからこそ、ここで爆発してしまったといえるでしょう。
「あなたは見切られたんですよ。プロデューサーとディレクターに」
この言葉どおり。また第20回での「追い出す口実」発言のように。
この白石の樹海への旅は、一言でいえば厄介払いでした。
しかし、それと知らず行ってしまい、それと知らず苦労して、それと知らず水を汲んできて、それと知らず帰ってきてしまう白石。
ここで。もしも、あきらが白石に「クビだ」ということを、先に伝えていたのならどうでしょう。どうせクビなんだから、そんなマジになって苦労してまでやるようなことじゃないよ、ということを伝えていたのなら、どうでしょう。
多分、そういう問題なんじゃないでしょうか。
『らっきー☆ちゃんねる』。
白石はあきらに不満があり、あきらは白石に不満がある。番組は"どちらにも"思ったように動かず、どちらもがどちらとも、十分に楽しめない。
でも、そのことを、ダイレクトには伝えない。
腹を割っては話さない。もっと全力で取り組めとか、こういう風にフォロー入れろとか、本編出たいばかり言うなとか、そういう、お互いの不満点、お互いの欠点を伝えないから、こうなった。伝えてないから、白石は何度でもフォロー出来ず空気読めないし、あきらは何度でも暴走する。お互いに、自分のどこが欠点かを知らないから。
相手のことを伝えず、自分のことを知らず。
自分のことを伝えず、相手のことを知らず。
それでも今までの『らっきー☆ちゃんねる』という日常は回りました。
相手の要求やそれに自分が応えられていないことなんか知らなくても、日常が回ることは回ります。『本編』の方も同じですね。自分のことも相手のことも、存分に知らなくても。自分が相手の要求に応えられていないことも、相手の要求が何なのか不明なことも、相手の嫌なトコも相手のムカツクところも、相手が自分に対してどこをイヤと思っているのかも、相手が自分のどこにムカついているのかも、そのどれも知らなくても、日常という生活は送っていける。

でも、それではいつか、崩れてしまう、こともある。
相手が自分のどこをイヤに思っているかを知らないまま、それを変えずに、自分が自分としてあり続ければ。
その軋轢が決定的なものとなって、現実に襲ってくる。日常を破壊してしまう。
白石が白石であり、あきらがあきらであり続けたからこそ、変わることなく、自分で居続けたからこその、崩壊。
でも。ここまで続いていた『らっきー☆ちゃんねる』、その中身は。
白石が白石であり、あきらがあきらであり続けたこその、"この"中身。
初々しくもテレビ出演に緊張していたあの時も。黒くなったメインパーソナリティにハラハラしていたあの時も。執拗に絡まれたあの時も。叩かれたり脅されたりしたことも。自分が本編に出れない悔しさをブチまけたあの時も。ツインドリルという振りを作ったのにまったくアシスタントが突っ込んでくれなかったあの時も。ファンレターがアシスタントにばかり届く屈辱を味わったあの時も。風邪でゴホゴホとしか発音できないあきらの言葉の意味を、白石が読み取ってくれた時も。ふたりでバイニーと手を振った時も。
全ては、白石もあきらも、"このような"人物だったから、在ったこと。
そして、二人とも、"このような"人物だったからこそ、終わってしまった。
このような歪さの上で、このような二人だったからこそ成り立っていたこのような『日常』は、このような二人だったからこそ、こうして崩れてしまう。
そして、第23回。

「どんな経緯があったにしてもさぁ?ふたりでさぁ?あれよ?杯交わして一からこのコーナー作ってきたんじゃないの?」
「それがよ?こんな終盤で何もかもブチ壊しってのは無いんじゃない?」

「じゃあさ」
「ここらで手打ちにしようよ」
「残り一本、初心に帰って『らっきー☆ちゃんねる』やり遂げてみようよ」
「ねぇ、どうなの?」
自分のことも相手のことも十分に知らなくても、自分にイヤなところがあったり、相手に治してもらいたいところがあっても、そこをそのまま残していても、『日常』が続いている『本編』。
自分のことも相手のことも十分に知らなくても、自分にイヤなところがあったり、相手に治してもらいたいところがあっても、そこをそのまま残してしまい、『日常』が崩壊してしまった『らっきー☆ちゃんねる』。
伝えなかった事、知らなかった事、話さなかった事……そういった諸所の積み重ねが、そして、白石みのるが「白石みのる」であり、小神あきらが「小神あきら」であること、それ自体が崩壊へと導いてしまった『らっきー☆ちゃんねる』と。
ディスコミュニケーションも、自分が自分であることも、日常を崩壊させるには至らなかった『本編』。
続く日常という『本編』との対比のように、崩壊する日常を見せた『らっきー☆ちゃんねる』。
崩壊した理由は、白石・あきら、彼らが『彼らだった』から。
白石は白石として、フォローしなかったり鬱憤溜まったりして。
あきらはあきらとして、自分勝手振舞ったり鬱憤溜まったりして。
■日常の価値
――――――――――――――――――――――――――――――――
そんな二人が、説得された上であっても、もう一度だけ見せる第24話内での『らっきー☆ちゃんねる』。

険悪な状態のままの二人で送る、その中身は……。

「こらテメェちゃんと歌わせろやっ!!」
「だからテストだって言ったでしょーっ!時間無いんっすよー!!」
「んなこと知るかぶっ殺すぞテメェこの野郎っ!!」
「あーあームズカシイニホンゴワカラナイネーー!」
あっはっは、素晴らしい!
あんだけ、自分を自分であるままにわがまま言い続けて、それが原因で『らっきー☆ちゃんねる』が崩れたのに。
あんだけ、要求に付き合わず比較的マイペースで歩んで、それが原因で『らっきー☆ちゃんねる』が崩れたのに。
このふたり、なんにも変わってない。むしろ、以前よりさらに自分を強く出している!
個人同士の相性とか、ディスコミュニケーションとか、そういうのが白石・あきらとその関係に内包されていて、それゆえに『らっきー☆ちゃんねる』が崩壊したのに、そんなの全然変わってない、むしろ強くなっている!
これが本当素晴らしい、てゆうかすごい好き。
彼らは、上記のソレだったがゆえに『らっきー☆ちゃんねる』が終わってしまったのですが、ですが今までやっていた『らっきー☆ちゃんねる』は、上記のソレだったがゆえに、こういう内容だったのです。
そこに破滅が孕まれていても、彼らが歩んできた『らっきー☆ちゃんねる』という日常は、彼らが彼らだったからこそ、こういう内容だった。
そして今回、なんとかして復活した『らっきー☆ちゃんねる』でも、彼らは変わらずに、いや今まで以上に「彼ら」だったのです。
今まで以上に崩壊の因子が強くなっているのだから、この『らっきー☆ちゃんねる』はきっと崩壊するでしょう。なのに……今まで以上に、その崩壊の因子――つまり彼らが今までやってきた『らっきー☆ちゃんねる』、今までの日常を"こういう形で"構成してきた要因となる「彼ら自身」がとても強く、強く出ているから……そこが、凄くいい!
つまり、これが『らっきー☆ちゃんねる』。
白石が白石として、あきらがあきらとして、自分であり続け自分を貫いて、結果崩壊してしまうかもしれないけれど……でもそれが、彼らの『日常』。
本編のように、自分が自分であり続けて、それでいて上手くいく関係ではないけれど……でも、だからって、日常の中で描かれた時間は。あきらが暴走した瞬間も、みのるがブチ切れた瞬間も、カラオケボックスで歌うたったことも、最初の頃の白石が緊張してそれにあきらがやんわりフォローを入れていたことも。どの瞬間も、彼らが"この"彼らだからこそ生まれたもので、それは決して本編の様々な瞬間にも、見劣りしない。
15話本編でつかさが言っていたセリフ。

「考えてみたら、こなちゃんやゆきちゃんとこの学校で出会って仲良くなったのも奇跡かもー」
こうならない可能性もあった、いやこうならない可能性の方が高かったのです。学校なんて沢山あって、生徒だって沢山いるんだから。ある特定の誰かと出会って、仲良くなる。そして、このセリフを言う、今がある。何処の分岐の先でもいえる言葉であるけれど、何処の分岐の先でもいえる言葉であるからこそ、これに『奇跡』といえてしまう。
白石とあきらは、出会ったけど、仲良くなった、といえる関係かは微妙です。でも、彼らのこの出会い、仲良くなれなかったこの日常だって、そうならない可能性から考えれば、十分に『奇跡』なんじゃないでしょうか。
日常が続いて仲良くなれていることも奇跡だけど。
日常が終わってしまっても、その日常が確かに『あった』ということも、奇跡と呼べる。崩壊する日常も、崩壊しない日常も、その点の価値は同じ。
日常というのは、簡単に終わってしまいかねない。いや、簡単に終わらない日常にだって、いつか終わりは来る。白石とあきらのそれのように簡単に終わるものもあれば、つかさたちのそれのように簡単には終わらないものもある。でも、そのどちらも、"そこに至ってしまった"ということでは、奇跡のように輝いているのではないでしょうか。
日常の時間は、終わってから、それが大切だったり輝いて見えたりします。
なんでそう見えるのかというと、それはきっと、この『らっきー☆ちゃんねる』という日常のように……。「終わってしまうから」大切で輝いているんじゃなくて、「終わってしまうのに」、それが『あった』から、きっと大切だったり、輝いて見えたりするのでしょう。
さて、『らっきー☆ちゃんねる』は、実はもうちょっとだけ続きます。ラジオの『らっきー☆ちゃんねる』です。
今回のアニメ24話内での『らき☆ちゃん』は、陵桜学園祭での公開録音という設定で、さらにその後にもう一回分、放送があります。
http://lantis-net.com/rakisuta/
今回の記事では、アニメ版のことについてしか触れていませんが、果たして白石やあきらがどうなったか、というかどうするのか、気になる方はラジオ版を聞いて楽しまれてもよいかもしれません。
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当初から蛇足だのつまらんだの市ねだの辛辣コメントでオタクでも敬遠してるのは分かるけど、らっきーちゃんねるを見てる俺から見て破綻とは?と考えている。明らかに最初から浮いてて苛立ちが摩擦したのが一気に爆発して最後までグダグダでこの様。キャラ紹介という名の「難ありヒーローとヒロインのぶつかり合いショー」に見えたね。表がありゃ裏がある。そんな物を見せられた気がしたんだ。今回北米版BD&DVDボックスを買ってやはり値段よりも内容について書きたく投稿。話せばきりがない。ほのぼの日常プラスダークサイドの雑談つきという訳だがどの人にこの作品の良さが当てはまるのだろう?
えいぷん | 2022年01月26日(水) 16:44 | URL | コメント編集
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