2007'10.17 (Wed) 04:37
http://d.hatena.ne.jp/cloverleaf24/20071013/p1(Primulaさん)
朋也が祐一のように浮気者に見えてしまう可能性。
たしかに、ここから先の構成を「Kanon」の時と同じ様に進める(全ヒロインルートを辿る)としたら、その可能性は非常に高いですね。


京アニKanonの祐一が(特に中盤において)、女の子と会いまくっていたことによって、ジゴロ・たらしと見えてしまうのが、京アニCLANNADの朋也にも当て嵌まってしまうかどうか。
【More】
京アニKanonの(中盤くらいの)祐一のたらし・ジゴロっぷり、異常性は、女の子にたくさん会っているからでもあるのですが、より正確に表現すると、女の子にたくさん会うために(走ったり焦ったり時間を捻出したりと)努力しているからこそ異常さが際立っている、のだと思う。特に昼休みなんかはキツキツのスケジュールで、栞と裏庭で会ったあと速攻で舞・佐祐里さんと昼食しに踊り場へ向かう(しかもその前後に名雪との会話が挿入される場合も)という、正直、見ているこちらとしては「何がこいつをそこまでさせているんだ?」と疑問に思わせるほどの勢いでございました。そう、つまり動機が不明瞭なのです。
名雪やクラスメイトがいるのに舞たちとお昼を食べて、その上、時間を捻出して栞とも会っている。こんな、大変な上に、友達関係でもちょっと不実っぽいこれらの行動をするための動機が、あまり示されていない。ここまでするだけの理由も義理も因果も、十分には示されていないため、祐一が何故ここまでしているのかが分からなくなってしまう。
原作のエピソードを拾うためではあるのですけど、そこのトコ置いておいて見ると、"動機が不明瞭のまま複数の女の子に会うために努力している"、ここにこそ異常さ――並びそこから始まる感情移入の阻害、があるのではないでしょうか。
で、京アニCLANNAD。取り敢えず今の所は、女の子たくさん出てますけど、そういった異常さは見当たりません。何故かというと、朋也が女の子に会うことの因果がはっきりしているから。杏はむこうから勝手に来るし、智代は春原の付き合いだし、風子・ことみは今の所偶然の出会い(つか出会ったばっか)だし。唯一自分から率先して関わっているのは渚のみで、渚に率先して関わる動機は、今の所(1話でも話題に出てましたが)ぼかされているのですが、この辺はおいおい、それなりに分かるようには明かされるでしょう。現時点ではぼかしているのですが、逆にぼかしている(わざわざ話題にあげている)ということで、そのことを作っている側は視野に入れているかとも思われますし。
自分から動いているのではなく、相手から来ている、不可抗力の成り行きで会っている、偶然である、自分から動く相手に対しても動機はある、といった点から、現時点ではそこら辺は問題ない。 のだけれども。
当たり前ですが、自分から動いていない、誰かの付き添いで会っているという作りでは、恋愛関係はもとより、仲の良さ、絆の深さ、必要としている・必要とされている関係、の表現として不十分でしょう。また『偶然会う』は全てを解決する魔法の方策でもありますが、そんな立て続けに偶然が起こっていたらそれこそ物語としてのリアリティが失われてしまいます(現に第2話、風子・ことみの二人と偶然出会うというだけでも、少し都合が良いなと思えてしまったり)。
ここまでは、これまでのお話し。で、ここからは、これからのお話し。
女の子と会う形をどうするかは、シナリオをどう転がすかで全く変わってくるので流動的でもあって、一番大きな違いをもたらしそうなのは(いちおう原作ネタバレ反転)渚と付き合ってから他キャラのシナリオを進めるのかどうか。
原作でも上記の状態で勧められたシナリオはありましたが(風子シナリオとか)、他のキャラも大体は、その状態でも何とかなると思う(杏に関してだけは大幅な改変が必要になるけど)。
この状態ならば、京アニKanonの時には不明瞭のまま進めた「女の子に会うための動機・原因」をはっきりしなければならず、そこに、現状(2話時点)朋也に見られる『妙に優しい人・面倒見が良い人補正』を鑑みると、その優しさ・面倒見の良さを動機として、他のキャラに絡んでいくのかも、と思える。他のキャラに絡む理由がこれであるというのは、クラナドを表現するのに決して悪手とは言えないですし。
なんにしろ、会うための動機さえはっきりさせておけば、京アニKanonと同じ轍は踏まないと思われます。その為の朋也優しい人補正でもあるのかなぁと。


渚に自己紹介するシーンの変更なんかが印象的で、原作では廃部になっていた演劇部室の前での自己紹介だったのだけれど、あれは、自己紹介という「渚に関わるという選択肢」を、「渚を助けたい」「渚を助けることが出来る」「渚を助ける」という筋道の上で決定したというカタチ、つまり、苦難に直面している渚の前にいるからこそ、渚に関わろうという選択を選んだのですが、その渚に関わるという選択に至るハードルが、京アニ版では非常に低くなっている。つまり、朋也やさしい人補正でもあるなぁ、と。
上に書いたのは仮定のひとつであって、現時点で結論なんかは出ませんが、というかあと数話待てばどうなのかはっきりしてきますが、取り敢えず、どういった構成でどういった手法を取るのであれ、たくさんの女の子にしょっちゅう会うのはしょうがないので、その中で、どれだけ会う為の動機や原因を示せるかが肝要かな、と思います。
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たしかにkanonは酷かった
作画も京アニにしては‥だったし
栞の”お兄ちゃん”発言で自分の中の京アニkanonは死んだ
クラナドも、正直‥恐怖の方が大きい
その展開のスピードに、クラナドをプレイしていない、新規の人はついてはいけないだろうし
※春原で無駄な尺をつかうなら、渚との出会いを完璧な台詞にしてほしかった
『そんな裏設定は隠されていません』もほしかった
作画も京アニにしては‥だったし
栞の”お兄ちゃん”発言で自分の中の京アニkanonは死んだ
クラナドも、正直‥恐怖の方が大きい
その展開のスピードに、クラナドをプレイしていない、新規の人はついてはいけないだろうし
※春原で無駄な尺をつかうなら、渚との出会いを完璧な台詞にしてほしかった
『そんな裏設定は隠されていません』もほしかった
1 | 2007年10月18日(木) 07:47 | URL | コメント編集
朋也が女たらしであると感じるかどうかはかなり重要ですよね。マルチエンディングのギャルゲアニメ化における弊害だとは思いますけど。
CLANNADは恋愛ルートではなく、渚以外の各キャラは家族愛を中心としたテーマでルートを回収してくれることを個人的には期待してます。
そうすれば、朋也が女たらし扱いもなさそう。
智代:桜並木と弟、風子:姉の結婚式、ことみ:両親の手紙、藤林姉妹:??
渚アフターは確定だから、こんな感じで各キャラのストーリーを締めてもらえたら個人的には満足です。
CLANNADは恋愛ルートではなく、渚以外の各キャラは家族愛を中心としたテーマでルートを回収してくれることを個人的には期待してます。
そうすれば、朋也が女たらし扱いもなさそう。
智代:桜並木と弟、風子:姉の結婚式、ことみ:両親の手紙、藤林姉妹:??
渚アフターは確定だから、こんな感じで各キャラのストーリーを締めてもらえたら個人的には満足です。
hiro | 2007年10月18日(木) 14:32 | URL | コメント編集
そもそも、KANONの原作が持つ構造問題を無視して語るべき
ことじゃないでしょう。
原作は、一人のヒロインの話の流れに乗ると、他のヒロインは
ほぼ放置、そのヒロイン一人に焦点を絞った展開になる。
結果として、一人のヒロインのハッピーエンドの裏で、他の
ヒロインの心の傷は癒されないまま終わる、ある意味シビアな
物語です。
アニメでは全ヒロイン救済+あゆエンディングに辿り着く事を
前提にしたために、あゆ以外のヒロインに恋愛感情を持たない
「(誰にでも)優しい祐一」という、原作の一途な祐一とは
違うキャラクターが必要であり、物語が目指す場所もゲーム版
とは異なるものだったからこそ、アニメ版のあのエンディング
だったと高く評価しています。原作ですら成しえなかった、
全員救済ハッピーエンドは賛否両論かもですが、アニメとして
よくやった、と高く評価したいですね。私も原作厨ですが。
ことじゃないでしょう。
原作は、一人のヒロインの話の流れに乗ると、他のヒロインは
ほぼ放置、そのヒロイン一人に焦点を絞った展開になる。
結果として、一人のヒロインのハッピーエンドの裏で、他の
ヒロインの心の傷は癒されないまま終わる、ある意味シビアな
物語です。
アニメでは全ヒロイン救済+あゆエンディングに辿り着く事を
前提にしたために、あゆ以外のヒロインに恋愛感情を持たない
「(誰にでも)優しい祐一」という、原作の一途な祐一とは
違うキャラクターが必要であり、物語が目指す場所もゲーム版
とは異なるものだったからこそ、アニメ版のあのエンディング
だったと高く評価しています。原作ですら成しえなかった、
全員救済ハッピーエンドは賛否両論かもですが、アニメとして
よくやった、と高く評価したいですね。私も原作厨ですが。
鍵っ子原理主義者 | 2007年10月18日(木) 17:54 | URL | コメント編集
自分が言葉足らずだった所為で勘違いなされる恐れがありますので、先に書いておきます。
祐一がジゴロだのというのは、5話~8話くらいの(まだ誰のルートにも入る前の時点での)お話しです。この頃の自分のKanon感想でもそんなことを書いていましたし、トラバ先のご感想でも結構、そういった思いは見受けられました。
各ヒロインルートに入った後の祐一を、そのような視線で見たことは全くといっていいほどございませんし、実際誰と付き合っているわけでも誰が好きだと言っているわけでもないので、そのような視線で見てもあまり意味が無いでしょう。
この辺は、明らかに誤解を招きかねない書き方をしていた僕が悪いです。申し訳ないです。
もう一つ。これは作品に対する評価軸の話ではなく、どちらかというと物語認識の話です。この辺も書いておくべきであって、全体的な言葉足らずは謝罪いたします。
「物語」と一言でいいましても、(KanonやCLANNADに限らず、基本的に)作品内で示されているのは「物語」ではなく「出来事」であり、その出来事の紡ぎ合わせにより、「物語」は(認識者の中では)生まれると思うのですが、その出来事の紡ぎ合わせは、因果関係を論理的に構築することによって成されます。
http://72.14.235.104/search?q=cache:VZIi9-OBpF8J:www-kasm.nii.ac.jp/jsai2003/programs/PDF/000002.PDF+%E7%89%A9%E8%AA%9E%E6%A7%8B%E9%80%A0&hl=ja&ct=clnk&cd=1
このページの、最初の方に書かれているようなことです。物事は全て因があるから果があるものであって、また人はそのことを考え、論理的に繋ぎ合わせることができます(「同じ失敗を二度と繰り返さない」なんていうのは、その失敗という『果』に至った『因』を分析し、『果』に至った過程を論理的に繋ぎ合わせることにより、それ自体を学習することです。つまり、目に見えない、過去のものである『果』に至った『因』を認識しているわけです)。
いわゆるご都合主義や超展開というのは、この『因』が欠けている・十分ではない状態であると言えます。こうなるほどの因を示していないのにこうなってしまうのは都合がいいのではないか、因を無視したというか超越したこの展開はおかしく過ぎなくはないか、といった認識に見合った言葉だと思います。
要すると状況分析・状況認識でありますね。人間の危機回避機能として備わっているものでもあるのかな、と思いますが、その辺の知識は無いのでわからないです。
さて、かように、物語の認識には、その出来事の『因』が何なのか、というのは重要になってくるのですが、「Kanon」の上記のような場面、名雪も居るのに、栞と会って間髪入れず舞たちと会う。どれもこれも優しいし面倒見が良い。
この行動に対し、何故祐一が「ここまでするのか」という因が、あまり語られていませんでした。そんな義理も道理も因縁もないし、そこまでの性格でもないだろう、じゃあなんでやっているんだ?と。
その語られていない因を、取り敢えず埋めるため、ジゴロだのたらしだのといった印象が生まれるのです。因が全く埋まらなければ、それは超展開やご都合主義ですが、流石にそこまでのモノではない。会っているのは、その前に出会い自体があって、そこで約束したからだし、それに祐一が原作よりも面倒見が良くなっているみたいだし……と、それなりに因が埋まりますが、残る一歩、祐一自体の感情の『因』が、今一つ分からない。そこに、当然本気では思っていないですが、仮定的に、ジゴロだのたらしだのという因を、取り敢えず当て嵌めているわけです。
勿論これは、本来の因が不明で物語認識に障壁ができるからこそ生じた仮定的なものであり、さすがに本気でこうだとは誰も思っていないでしょう(むしろいたら、何処を見てるんだと言いいたいくらい)。
ただ、問題となるのは、作品自体が因を示さなかったから、このような仮定の因が生じてしまうということです。一番最初の引用の文章のように、「浮気者に『見えてしまう』」。実際に浮気者だとは思ってなくても、認識上とりあえずそのように仮定する。
そこが問題といえば問題であり、だからこそ、動機や原因を示すことが肝要になってくると思います。
長くなりましたが、ということで、
>1さん
すみませんが、これは評価での話じゃないです……というか鍵信者で京アニ厨の僕は否定なんてできないししないし考えない(ひどいw)
春原とのどうでもいい会話は、アフターに出てこないキャラとの会話や出会いもそうですけど、先々を考えると、『変化』していくこと――楽しいことや嬉しいことがどんどん無くなり変わっていくこと――の表現にも繋がるんじゃないかな、とも思っています(逆に、おっさん・早苗さんがずっと変わらないことで、変化しないこともあるのを示していたり。かも)。
>hiroさん
藤林姉妹(杏)をどうするのかは、本当想像できない(笑)。
クラナドは極論、渚以外はスルーしても何とかなる作品ではあるので、打つ手はどうにでもありそうでは、ありますね。
>鍵っ子原理主義者さん
仰るとおり、KanonとCLANNADでは全く違います。原作準拠にする以上、そこに歪みが生じるのは致し方ないところ。キャラ同士の横の絡みも、KanonはCLANNADと比較して全然ありませんし。
ただ祐一の取られ方においては、上記の様に祐一自身の行動の『因』を十分に示せなかった部分に問題があると思います。そこらへんを上手く示していけば、あのような取られ方もされなかったのではないか、と思ったものでして。
あと、京アニkanonは僕もめちゃくちゃ高く評価させていただいておりますよ。もちろん纏め方も、話も。祐一に関しても、ジゴロやたらし以外の答えを、自分なりに出したりもしました。もしよろしかったら、過去ログを読んでいただけると嬉しいです。
祐一がジゴロだのというのは、5話~8話くらいの(まだ誰のルートにも入る前の時点での)お話しです。この頃の自分のKanon感想でもそんなことを書いていましたし、トラバ先のご感想でも結構、そういった思いは見受けられました。
各ヒロインルートに入った後の祐一を、そのような視線で見たことは全くといっていいほどございませんし、実際誰と付き合っているわけでも誰が好きだと言っているわけでもないので、そのような視線で見てもあまり意味が無いでしょう。
この辺は、明らかに誤解を招きかねない書き方をしていた僕が悪いです。申し訳ないです。
もう一つ。これは作品に対する評価軸の話ではなく、どちらかというと物語認識の話です。この辺も書いておくべきであって、全体的な言葉足らずは謝罪いたします。
「物語」と一言でいいましても、(KanonやCLANNADに限らず、基本的に)作品内で示されているのは「物語」ではなく「出来事」であり、その出来事の紡ぎ合わせにより、「物語」は(認識者の中では)生まれると思うのですが、その出来事の紡ぎ合わせは、因果関係を論理的に構築することによって成されます。
http://72.14.235.104/search?q=cache:VZIi9-OBpF8J:www-kasm.nii.ac.jp/jsai2003/programs/PDF/000002.PDF+%E7%89%A9%E8%AA%9E%E6%A7%8B%E9%80%A0&hl=ja&ct=clnk&cd=1
このページの、最初の方に書かれているようなことです。物事は全て因があるから果があるものであって、また人はそのことを考え、論理的に繋ぎ合わせることができます(「同じ失敗を二度と繰り返さない」なんていうのは、その失敗という『果』に至った『因』を分析し、『果』に至った過程を論理的に繋ぎ合わせることにより、それ自体を学習することです。つまり、目に見えない、過去のものである『果』に至った『因』を認識しているわけです)。
いわゆるご都合主義や超展開というのは、この『因』が欠けている・十分ではない状態であると言えます。こうなるほどの因を示していないのにこうなってしまうのは都合がいいのではないか、因を無視したというか超越したこの展開はおかしく過ぎなくはないか、といった認識に見合った言葉だと思います。
要すると状況分析・状況認識でありますね。人間の危機回避機能として備わっているものでもあるのかな、と思いますが、その辺の知識は無いのでわからないです。
さて、かように、物語の認識には、その出来事の『因』が何なのか、というのは重要になってくるのですが、「Kanon」の上記のような場面、名雪も居るのに、栞と会って間髪入れず舞たちと会う。どれもこれも優しいし面倒見が良い。
この行動に対し、何故祐一が「ここまでするのか」という因が、あまり語られていませんでした。そんな義理も道理も因縁もないし、そこまでの性格でもないだろう、じゃあなんでやっているんだ?と。
その語られていない因を、取り敢えず埋めるため、ジゴロだのたらしだのといった印象が生まれるのです。因が全く埋まらなければ、それは超展開やご都合主義ですが、流石にそこまでのモノではない。会っているのは、その前に出会い自体があって、そこで約束したからだし、それに祐一が原作よりも面倒見が良くなっているみたいだし……と、それなりに因が埋まりますが、残る一歩、祐一自体の感情の『因』が、今一つ分からない。そこに、当然本気では思っていないですが、仮定的に、ジゴロだのたらしだのという因を、取り敢えず当て嵌めているわけです。
勿論これは、本来の因が不明で物語認識に障壁ができるからこそ生じた仮定的なものであり、さすがに本気でこうだとは誰も思っていないでしょう(むしろいたら、何処を見てるんだと言いいたいくらい)。
ただ、問題となるのは、作品自体が因を示さなかったから、このような仮定の因が生じてしまうということです。一番最初の引用の文章のように、「浮気者に『見えてしまう』」。実際に浮気者だとは思ってなくても、認識上とりあえずそのように仮定する。
そこが問題といえば問題であり、だからこそ、動機や原因を示すことが肝要になってくると思います。
長くなりましたが、ということで、
>1さん
すみませんが、これは評価での話じゃないです……というか鍵信者で京アニ厨の僕は否定なんてできないししないし考えない(ひどいw)
春原とのどうでもいい会話は、アフターに出てこないキャラとの会話や出会いもそうですけど、先々を考えると、『変化』していくこと――楽しいことや嬉しいことがどんどん無くなり変わっていくこと――の表現にも繋がるんじゃないかな、とも思っています(逆に、おっさん・早苗さんがずっと変わらないことで、変化しないこともあるのを示していたり。かも)。
>hiroさん
藤林姉妹(杏)をどうするのかは、本当想像できない(笑)。
クラナドは極論、渚以外はスルーしても何とかなる作品ではあるので、打つ手はどうにでもありそうでは、ありますね。
>鍵っ子原理主義者さん
仰るとおり、KanonとCLANNADでは全く違います。原作準拠にする以上、そこに歪みが生じるのは致し方ないところ。キャラ同士の横の絡みも、KanonはCLANNADと比較して全然ありませんし。
ただ祐一の取られ方においては、上記の様に祐一自身の行動の『因』を十分に示せなかった部分に問題があると思います。そこらへんを上手く示していけば、あのような取られ方もされなかったのではないか、と思ったものでして。
あと、京アニkanonは僕もめちゃくちゃ高く評価させていただいておりますよ。もちろん纏め方も、話も。祐一に関しても、ジゴロやたらし以外の答えを、自分なりに出したりもしました。もしよろしかったら、過去ログを読んでいただけると嬉しいです。
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