2007'11.08 (Thu) 04:17
クラナドOPは、観る度に発見があって(というか、僕が一発で発見しきれないからなんだけど)、毎回あーだこーだと書いてきたわけですが、とりあえずここらで軽くまとめておきます。
まず最初の、「CLANNAD」のタイトル文字が出るまでの部分。
(水平線まで、こちらに書いたものの焼き直しになります:http://bdkiss.blog54.fc2.com/blog-entry-452.html)

上に上がっていくカメラの動きは、特に『空』を示す場合、その印象――ここからの脱却、閉塞や状況の打破、自身もしくはここからの成長・旅立ち、『空』という届かないものへの憧憬、また届かない故の儚さ――などを示しているというか想起させられるのですが。
幻想世界、雪の中で朽ちるかのように横たわる人形「ぼく」。(ガラクタ人形の名前が「ぼく」なのは、スタッフロールの表記からの解釈です)
そこからカメラは空――当然、雪が降っているのだからどんよりとした黒雲で遮られているであろう――にティルトする。それは天や太陽に届くことなく、中途半端な場所で一端途切れ、その後の密林で謎の生物を発見!的な描写の後で、丁度途切れたあたりの高度から、今度は青空となってティルト再開。
しかもその部分、おあつらえ向きなことに曲の歌詞が「このまま飛び立てばどこにだって行ける」。
雪の中、動かぬ体から見上げた空は、森の中の少女を経て、もしくはその幻視を経て、現実世界の青空の下、花畑を走り回るひとりの少女の元に。
「CLANNAD」のタイトル表記が、ゲームOPにおいては三行ほど前に書いた青空へとカメラが動いていくシーンと似たような部分にあり、歌詞の「このまま飛び立てば…」の内容に則っているかのように、交差しながら走り回るふたつの光が、空へと飛び立っていく。ゲームにおけるそれは、この描写からも「飛び立つ」ということ(それが出来るということ)を印象付ける、また(ゲーム内容からの推測ですが)飛び立つ先にあるものを象徴する地点にあったのに、アニメOPにおいては花畑で走り回る子の影を写した大地にて、タイトル表記がなされる。
ゲームでは「このまま飛び立てば何処にだっていける」で、飛び立っていくのに対し、アニメでは子供が走る影を地面に映す。
ただそれは、飛び立っていないのではなく、先にも書いたように、アニメ版ではこの場所(というか状況)は、飛び立った先の場所であり、かつ飛び立ったから来れた場所である、という理解がなされているのではと推測される(上記はここに出てくる子供ではない視点で書いていますが、この子供の視点で見れば、この子がこの歌詞の中走り回っているのは、この子は、飛ばなくて、走って何処にでもいける――未来がある、という表れなのかもしれない)。
(次の水平線まで、こちらに書いたものの焼き直し。http://bdkiss.blog54.fc2.com/blog-entry-455.html)
あの幻想世界は言うなれば、歌詞通りの「透き通る夢」「柔らかい永遠」。そこで、「高い空から僕を呼んでいる」「風のようなかすかな声が」聞こえる(のでしょう、のかも)。
カメラの上昇、高い空に向かってカメラが動き、そして幻想世界から離れ森の中。発見を匂わせる躍動的なカメラの動きの中で、横たわる一人の少女と、それを見つける一人の人物。ここの歌詞は、「このまま飛び立てば」。
そして花畑を走り回る子供にあわせて、「どこにだっていける」。
そもそも、「ぼく」が幻想世界に居たのは、本来この世界はただ通り過ぎるだけだったのに、少女を見てここに居たいと思い、少女もここに居て欲しいと願い、そして行動したから(ガラクタの体と、差し伸べる手ですね)。
ガラクタの人形の中に、ぼく自身は存在しているけど、そこから出られないとは限らない。そもそも、何も生まれず、何も死なない世界なのだから、この「ぼく」ですら生まれるはずがない。このガラクタの「ぼく」は、ここに生まれたのではなくここに宿っているに過ぎないのではないでしょうか。
生まれていない世界――生きていないのだから、それは『夢』と言ってしまってもいいのかもしれない。生まれて――生きて、実存して、触れているわけではない。ガラクタの体というインターフェイスを通じて、間接的に触れているだけ。これで感じる全ては、体感ではなく、言わば私たちが画面や主人公を通じてゲームに触れているそれに近い。
何も生まれず、何も死なないのならば、それは『永遠』と言ってもいいでしょう。始まらず、終わらず、ずっとこのまま。
『透き通る』『柔らかい』については、これからの物語で、ここで彼が得る(感じる)夢・永遠の中身でもあるでしょうから、置いておいて。
雪に埋もれる「ぼく」の場面。

「風のようなかすかな声が 高い空から僕を呼んでいる」
高い空から、僕を呼んでいるのは誰か。この夢・永遠の世界には、もうひとり人物がいます。少女です。
けれども、あの少女は「ぼく」と同じこの幻想世界の人物であり、ここで言うような「風のようなかすかな声」――風のよう、一瞬で消え去りかねない儚さを有している、その上かすかである――はともかく、「高い空から」――少しネタバレになりますが、この少女は別に翼が生えて空を飛んだりはしません。飛行機で空飛んだりもしません。なので、「高い空から」は、この少女の声ではなく。
そしてまた、他に生きるもののいない、この世界(の中のなにか)からでもない。
しかし……直後の森の場面、幻想世界ではないあそこに少女がいることから、あの森にいる少女が呼びかけている、という類推もできる。先に、「幻想世界の空が森を経由して、花畑の空へと至る」みたいなコトを書きましたが(この要約だとムチャクチャですが)、ここの空自体が、ゲーム作中の現実世界に繋がっている、という考えはできる(詳しくは後述)。遠く離れた高い空から、離れているがゆえに風のようなかすかな声を届かせる。
「このまま飛び立てば」
そこで写されるのは森に居る、かの少女。幻想世界から飛び立った先。
後の「どこにだっていける」と併せて、飛び立った先の地点を示すもののようにも見えるし、高い空から声をかけているもの、にも見える。(先に、あの森(の少女)を経て(もしくはその幻視を経て)、かの花畑に――みたいなことを書いたし)
しかし。
「高い空から僕を呼んでいる」。
この幻想世界の空に、もしくはその果てに何があるのかというと、幻想世界ではない世界、この作品内での現実の世界がある……というか、この空の果て、少なくともそちらの方向にある。これは現実へと還らんとする光の玉(でいいんだよね、確か(うろ覚え))が空へと昇っていくことからも、恐らくそうでしょう。
この空は、(作中の)現実の世界に繋がっている。
だとすれば、僕を呼んでいる声は、少女に限らず、現実世界の誰かかもしれない。もしくは、空の向こうに至る前の光の玉(たち)からかもしれない。「どこにだっていける」の『何処』の地点、すなわちあの花畑で走り回る子供の地点、辿り着けなかったがゆえにここにいる「ぼく」(または、ここにいるからこそ辿り着けなかった「ぼく」)に対し、その未来の地点からの呼びかけなのかもしれない。
ひとつ留意しておくべきことなのは、
「このまま飛び立てば どこにだっていける」
と、『このまま』と歌詞にあるように、あの時点で既に飛び立ってあそこの場所にさえ行ける下地は出来上がっていること。「このまま」という言葉が適用されることからも、このような世界がわざわざ描写されることからも、ここで「ぼく」が得たもの、ここで描写されているこの地点で「ぼく」が得たものに、このまま飛び立って何処にだって行けるナニカが存在しているのでしょう。
第5回の本編で、光の玉(っぽいもの)が空へと昇っていきましたけど(先に話題にした、ゲームOPもそうですね。あれは終わったあと空へと還っていく誰かと誰かなのかもしれない)。先に書いたように、幻想の空が現実の空へ繋がっているだけじゃなく、現実の空も幻想の空へと繋がっているのかもしれない。
『空』を介して、幻想世界と現実世界とに繋がりがあると考えると、もういくらでも面白く読み取れます。



雪の大地から徐々に視線を上げていくカットからはじまり。
雪の中で、似たような状況での重要な場面というのが、このCLANNADには三箇所あります。その内の一つが、幻想世界のこの場面。(残り二つ、原作ネタバレ反転:幼少の渚が死にかける場面と、アフター一周目の、汐が死にかける場面。これら全て、死にかける(さらにその人物が、全て関連している人物である)という点で相似しています(しかも、その内ふたつは、朋也と「ぼく」がそこにいますしね)。)
それを起因に想起すると……要するに、幻想世界のこの描写が、他の二つの出来事に対しても暗喩的であると考えると、なかなかに面白いです。
雪の中、絶望的な状況や心境の中、ふと空を見上げる。その先には、辿り着けなかった未来が存在している。
ここらへんの場面は、ガラクタ人形の存在から、幻想世界の風景と思われますけど、そうだと確定できるとは限りません。てゆうか、ガラクタ人形「ぼく」以外に、幻想世界だと決められる要因がありません。雪は現実だって降るし。空を映しているカットだったら、どっちなのか判別できないし。
と、そんなこと書きながらも、実際にこのカット内に幻想ではない現実世界が混じりこんでいることは無いだろうなー、と思っているのですが。そうだとしても、つじつまが合うくらいには、状況・心情的に相似している。こういうことを気付かせてくれる・理解を深まらせてくれるから、面白く見れるなー、と思うのです。
さて、「CLANNAD」のタイトルが出たあとの部分について。こっから先は、「中間ご報告」と題したとおり、あんま考えてないので、ちょっと適当です(苦笑)。

渚、杏、智代、ことみ、風子のメインヒロイン5人は、ゲームのOPによくあるように、ダイジェストというか名場面集的な映像で紹介されています。これ、ここの部分の歌詞にあってるといえばあってるんですね。
今はまだそこまでは至っていない、朋也と彼女らとの「小さな未来」であり、なおかつ、そこを過ぎてしまえば、未来も過去となり、言葉・想いも記憶に変わっていく。
後から振り返る過去というものは、「光の中揺らめいた」という比喩を使ってもいいくらい曖昧なものだったりします。学校を卒業し社会に出て、数年経った後にその学生生活を振り返った時、その記憶は鮮明であるかどうか。光の中揺らめいているようなおぼろげさがあるのではないか。ましてや学生生活。後に振り返ればより、光のように輝いて見えるかもしれない。この場面、様々なキャラクターが出てきますが、登場するのが・活躍するのが主に(原作ネタバレ反転)学園編の人物は、必ずズームイン・ズームアウトを使っています(ちなみに、本編でも結構使ってきます。少なくとも、「Kanon」とは比べ物にならないくらいには)。時間・状態による違い――いわゆる学園編とアフターとの異なり、アフターにおいては学園編が過去になること――を表しているものでもあり、絵面通り「揺らめいている」ものでもあります。学生時代の感性と、後の感性との違いでもあるかもしれません。
「遥かな君まで 残さず伝えて きっと」
「きっと」の直前で、一度音楽がクライマックスを迎えますが、そこに映されているのは、花畑の道の真ん中で佇む、タイトルロゴが出てくる場面で走り回っていた子供。
「きっと」の場面では、渚。

道の途中で後を向き、ひとり佇む少女の姿は、どことなく坂の途中で後を向き、ひとり立ち止まっていた渚を連想させます(ちょうど緩やかな坂道に差し掛かりそうだし)。

そして「きっと」の場面での渚。アップからぐるっと回っていくカメラアングルは、本編第1回の最初の坂の出会い、あのモノクロからカラーになったところと同じ構図です。(原作ネタバレ反転)本編第1回の出会いのシーンと、恐らく原作の別れるかどうかの岐路の場面であるあのシーンであろうこのOPの1カットは、同じ様な構図になっているのです。出会いと別れが表裏だということ、朋也が第1回で言っていた「次の楽しいことや…」にも繋がってくる見せ方ですね。
両者における渚の表情の違いが、色々なものを語っているのですが。
さて、この二つは、たとえばガラクタ人形の「ぼく」から見れば、どちらも「遥かな君」でもあります。遠い存在。学園編の朋也から見ても、未来の場所、遥かな君です。片一方だけ取っても、その時々の朋也にとっては、遥かな存在でもあります。
まだ見ぬ未来。未来も過ぎ去れば過去になる。そして、言葉も想いも全部、遥かな君へと、残さず伝えて。

その後は、空へと還っていく光の玉(しかも、これら全てが(もしくはラストの渚が)ひとつの光の玉の中にあるモノのような描かれ方をされてる!)。そして映される、幻想世界の空。
色々なことを経験して得た、色々な言葉も想いも、全て纏めて光の玉となり、幻想世界へと還っていき、それすらも、現実世界へと繋がっていく。
つまりは、この記事の最初の所に戻って。
朋也(たち)の言葉も想いも、幻想世界に至り、そしてそれも、現実世界に還り、そしてそこから、遥かな君へ――遥かという言葉通りの遠い場所、かつて届かなかった場所へと向かっていく。きっと。
うーん、取り敢えずはそういうことじゃないでしょうか、と中間ながら書き上げておきます。
本編の描写を見ることによって印象が変わってくるでしょうし、またこの後、色々と考えが増えたり変わったりするっぽいですけども。
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まず最初の、「CLANNAD」のタイトル文字が出るまでの部分。
(水平線まで、こちらに書いたものの焼き直しになります:http://bdkiss.blog54.fc2.com/blog-entry-452.html)

上に上がっていくカメラの動きは、特に『空』を示す場合、その印象――ここからの脱却、閉塞や状況の打破、自身もしくはここからの成長・旅立ち、『空』という届かないものへの憧憬、また届かない故の儚さ――などを示しているというか想起させられるのですが。
幻想世界、雪の中で朽ちるかのように横たわる人形「ぼく」。(ガラクタ人形の名前が「ぼく」なのは、スタッフロールの表記からの解釈です)
そこからカメラは空――当然、雪が降っているのだからどんよりとした黒雲で遮られているであろう――にティルトする。それは天や太陽に届くことなく、中途半端な場所で一端途切れ、その後の密林で謎の生物を発見!的な描写の後で、丁度途切れたあたりの高度から、今度は青空となってティルト再開。
しかもその部分、おあつらえ向きなことに曲の歌詞が「このまま飛び立てばどこにだって行ける」。
雪の中、動かぬ体から見上げた空は、森の中の少女を経て、もしくはその幻視を経て、現実世界の青空の下、花畑を走り回るひとりの少女の元に。
「CLANNAD」のタイトル表記が、ゲームOPにおいては三行ほど前に書いた青空へとカメラが動いていくシーンと似たような部分にあり、歌詞の「このまま飛び立てば…」の内容に則っているかのように、交差しながら走り回るふたつの光が、空へと飛び立っていく。ゲームにおけるそれは、この描写からも「飛び立つ」ということ(それが出来るということ)を印象付ける、また(ゲーム内容からの推測ですが)飛び立つ先にあるものを象徴する地点にあったのに、アニメOPにおいては花畑で走り回る子の影を写した大地にて、タイトル表記がなされる。
ゲームでは「このまま飛び立てば何処にだっていける」で、飛び立っていくのに対し、アニメでは子供が走る影を地面に映す。
ただそれは、飛び立っていないのではなく、先にも書いたように、アニメ版ではこの場所(というか状況)は、飛び立った先の場所であり、かつ飛び立ったから来れた場所である、という理解がなされているのではと推測される(上記はここに出てくる子供ではない視点で書いていますが、この子供の視点で見れば、この子がこの歌詞の中走り回っているのは、この子は、飛ばなくて、走って何処にでもいける――未来がある、という表れなのかもしれない)。
【More】
(次の水平線まで、こちらに書いたものの焼き直し。http://bdkiss.blog54.fc2.com/blog-entry-455.html)
あの幻想世界は言うなれば、歌詞通りの「透き通る夢」「柔らかい永遠」。そこで、「高い空から僕を呼んでいる」「風のようなかすかな声が」聞こえる(のでしょう、のかも)。
カメラの上昇、高い空に向かってカメラが動き、そして幻想世界から離れ森の中。発見を匂わせる躍動的なカメラの動きの中で、横たわる一人の少女と、それを見つける一人の人物。ここの歌詞は、「このまま飛び立てば」。
そして花畑を走り回る子供にあわせて、「どこにだっていける」。
そもそも、「ぼく」が幻想世界に居たのは、本来この世界はただ通り過ぎるだけだったのに、少女を見てここに居たいと思い、少女もここに居て欲しいと願い、そして行動したから(ガラクタの体と、差し伸べる手ですね)。
ガラクタの人形の中に、ぼく自身は存在しているけど、そこから出られないとは限らない。そもそも、何も生まれず、何も死なない世界なのだから、この「ぼく」ですら生まれるはずがない。このガラクタの「ぼく」は、ここに生まれたのではなくここに宿っているに過ぎないのではないでしょうか。
生まれていない世界――生きていないのだから、それは『夢』と言ってしまってもいいのかもしれない。生まれて――生きて、実存して、触れているわけではない。ガラクタの体というインターフェイスを通じて、間接的に触れているだけ。これで感じる全ては、体感ではなく、言わば私たちが画面や主人公を通じてゲームに触れているそれに近い。
何も生まれず、何も死なないのならば、それは『永遠』と言ってもいいでしょう。始まらず、終わらず、ずっとこのまま。
『透き通る』『柔らかい』については、これからの物語で、ここで彼が得る(感じる)夢・永遠の中身でもあるでしょうから、置いておいて。
雪に埋もれる「ぼく」の場面。

「風のようなかすかな声が 高い空から僕を呼んでいる」
高い空から、僕を呼んでいるのは誰か。この夢・永遠の世界には、もうひとり人物がいます。少女です。
けれども、あの少女は「ぼく」と同じこの幻想世界の人物であり、ここで言うような「風のようなかすかな声」――風のよう、一瞬で消え去りかねない儚さを有している、その上かすかである――はともかく、「高い空から」――少しネタバレになりますが、この少女は別に翼が生えて空を飛んだりはしません。飛行機で空飛んだりもしません。なので、「高い空から」は、この少女の声ではなく。
そしてまた、他に生きるもののいない、この世界(の中のなにか)からでもない。
しかし……直後の森の場面、幻想世界ではないあそこに少女がいることから、あの森にいる少女が呼びかけている、という類推もできる。先に、「幻想世界の空が森を経由して、花畑の空へと至る」みたいなコトを書きましたが(この要約だとムチャクチャですが)、ここの空自体が、ゲーム作中の現実世界に繋がっている、という考えはできる(詳しくは後述)。遠く離れた高い空から、離れているがゆえに風のようなかすかな声を届かせる。
「このまま飛び立てば」
そこで写されるのは森に居る、かの少女。幻想世界から飛び立った先。
後の「どこにだっていける」と併せて、飛び立った先の地点を示すもののようにも見えるし、高い空から声をかけているもの、にも見える。(先に、あの森(の少女)を経て(もしくはその幻視を経て)、かの花畑に――みたいなことを書いたし)
しかし。
「高い空から僕を呼んでいる」。
この幻想世界の空に、もしくはその果てに何があるのかというと、幻想世界ではない世界、この作品内での現実の世界がある……というか、この空の果て、少なくともそちらの方向にある。これは現実へと還らんとする光の玉(でいいんだよね、確か(うろ覚え))が空へと昇っていくことからも、恐らくそうでしょう。
この空は、(作中の)現実の世界に繋がっている。
だとすれば、僕を呼んでいる声は、少女に限らず、現実世界の誰かかもしれない。もしくは、空の向こうに至る前の光の玉(たち)からかもしれない。「どこにだっていける」の『何処』の地点、すなわちあの花畑で走り回る子供の地点、辿り着けなかったがゆえにここにいる「ぼく」(または、ここにいるからこそ辿り着けなかった「ぼく」)に対し、その未来の地点からの呼びかけなのかもしれない。
ひとつ留意しておくべきことなのは、
「このまま飛び立てば どこにだっていける」
と、『このまま』と歌詞にあるように、あの時点で既に飛び立ってあそこの場所にさえ行ける下地は出来上がっていること。「このまま」という言葉が適用されることからも、このような世界がわざわざ描写されることからも、ここで「ぼく」が得たもの、ここで描写されているこの地点で「ぼく」が得たものに、このまま飛び立って何処にだって行けるナニカが存在しているのでしょう。
第5回の本編で、光の玉(っぽいもの)が空へと昇っていきましたけど(先に話題にした、ゲームOPもそうですね。あれは終わったあと空へと還っていく誰かと誰かなのかもしれない)。先に書いたように、幻想の空が現実の空へ繋がっているだけじゃなく、現実の空も幻想の空へと繋がっているのかもしれない。
『空』を介して、幻想世界と現実世界とに繋がりがあると考えると、もういくらでも面白く読み取れます。



雪の大地から徐々に視線を上げていくカットからはじまり。
雪の中で、似たような状況での重要な場面というのが、このCLANNADには三箇所あります。その内の一つが、幻想世界のこの場面。(残り二つ、原作ネタバレ反転:幼少の渚が死にかける場面と、アフター一周目の、汐が死にかける場面。これら全て、死にかける(さらにその人物が、全て関連している人物である)という点で相似しています(しかも、その内ふたつは、朋也と「ぼく」がそこにいますしね)。)
それを起因に想起すると……要するに、幻想世界のこの描写が、他の二つの出来事に対しても暗喩的であると考えると、なかなかに面白いです。
雪の中、絶望的な状況や心境の中、ふと空を見上げる。その先には、辿り着けなかった未来が存在している。
ここらへんの場面は、ガラクタ人形の存在から、幻想世界の風景と思われますけど、そうだと確定できるとは限りません。てゆうか、ガラクタ人形「ぼく」以外に、幻想世界だと決められる要因がありません。雪は現実だって降るし。空を映しているカットだったら、どっちなのか判別できないし。
と、そんなこと書きながらも、実際にこのカット内に幻想ではない現実世界が混じりこんでいることは無いだろうなー、と思っているのですが。そうだとしても、つじつまが合うくらいには、状況・心情的に相似している。こういうことを気付かせてくれる・理解を深まらせてくれるから、面白く見れるなー、と思うのです。
さて、「CLANNAD」のタイトルが出たあとの部分について。こっから先は、「中間ご報告」と題したとおり、あんま考えてないので、ちょっと適当です(苦笑)。

渚、杏、智代、ことみ、風子のメインヒロイン5人は、ゲームのOPによくあるように、ダイジェストというか名場面集的な映像で紹介されています。これ、ここの部分の歌詞にあってるといえばあってるんですね。
今はまだそこまでは至っていない、朋也と彼女らとの「小さな未来」であり、なおかつ、そこを過ぎてしまえば、未来も過去となり、言葉・想いも記憶に変わっていく。
後から振り返る過去というものは、「光の中揺らめいた」という比喩を使ってもいいくらい曖昧なものだったりします。学校を卒業し社会に出て、数年経った後にその学生生活を振り返った時、その記憶は鮮明であるかどうか。光の中揺らめいているようなおぼろげさがあるのではないか。ましてや学生生活。後に振り返ればより、光のように輝いて見えるかもしれない。この場面、様々なキャラクターが出てきますが、登場するのが・活躍するのが主に(原作ネタバレ反転)学園編の人物は、必ずズームイン・ズームアウトを使っています(ちなみに、本編でも結構使ってきます。少なくとも、「Kanon」とは比べ物にならないくらいには)。時間・状態による違い――いわゆる学園編とアフターとの異なり、アフターにおいては学園編が過去になること――を表しているものでもあり、絵面通り「揺らめいている」ものでもあります。学生時代の感性と、後の感性との違いでもあるかもしれません。
「遥かな君まで 残さず伝えて きっと」
「きっと」の直前で、一度音楽がクライマックスを迎えますが、そこに映されているのは、花畑の道の真ん中で佇む、タイトルロゴが出てくる場面で走り回っていた子供。
「きっと」の場面では、渚。

道の途中で後を向き、ひとり佇む少女の姿は、どことなく坂の途中で後を向き、ひとり立ち止まっていた渚を連想させます(ちょうど緩やかな坂道に差し掛かりそうだし)。

そして「きっと」の場面での渚。アップからぐるっと回っていくカメラアングルは、本編第1回の最初の坂の出会い、あのモノクロからカラーになったところと同じ構図です。(原作ネタバレ反転)本編第1回の出会いのシーンと、恐らく原作の別れるかどうかの岐路の場面であるあのシーンであろうこのOPの1カットは、同じ様な構図になっているのです。出会いと別れが表裏だということ、朋也が第1回で言っていた「次の楽しいことや…」にも繋がってくる見せ方ですね。
両者における渚の表情の違いが、色々なものを語っているのですが。
さて、この二つは、たとえばガラクタ人形の「ぼく」から見れば、どちらも「遥かな君」でもあります。遠い存在。学園編の朋也から見ても、未来の場所、遥かな君です。片一方だけ取っても、その時々の朋也にとっては、遥かな存在でもあります。
まだ見ぬ未来。未来も過ぎ去れば過去になる。そして、言葉も想いも全部、遥かな君へと、残さず伝えて。

その後は、空へと還っていく光の玉(しかも、これら全てが(もしくはラストの渚が)ひとつの光の玉の中にあるモノのような描かれ方をされてる!)。そして映される、幻想世界の空。
色々なことを経験して得た、色々な言葉も想いも、全て纏めて光の玉となり、幻想世界へと還っていき、それすらも、現実世界へと繋がっていく。
つまりは、この記事の最初の所に戻って。
朋也(たち)の言葉も想いも、幻想世界に至り、そしてそれも、現実世界に還り、そしてそこから、遥かな君へ――遥かという言葉通りの遠い場所、かつて届かなかった場所へと向かっていく。きっと。
うーん、取り敢えずはそういうことじゃないでしょうか、と中間ながら書き上げておきます。
本編の描写を見ることによって印象が変わってくるでしょうし、またこの後、色々と考えが増えたり変わったりするっぽいですけども。
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たしかに見るたび発見があるOPですよねぇ
というより、毎回見るOP、EDは人生はじめて(他アニメは1回きりで早送り)
ほんと京アニ版クラナド…飛ばしますねぇ。
2クールで”総て”終わらす気なんでしょうか?
麻枝氏独特の間…といいますか?それとはかけ離れていく気もします(ギャクとかも)
でも愛があるだけに、楽しいんですが。
【涼が物凄く可愛い予感・動くアニメを創れる会社だけに】
>>道の途中で後を向き、ひとり佇む少女の姿は…
これ婆ちゃんかと思ってました。
というより、毎回見るOP、EDは人生はじめて(他アニメは1回きりで早送り)
ほんと京アニ版クラナド…飛ばしますねぇ。
2クールで”総て”終わらす気なんでしょうか?
麻枝氏独特の間…といいますか?それとはかけ離れていく気もします(ギャクとかも)
でも愛があるだけに、楽しいんですが。
【涼が物凄く可愛い予感・動くアニメを創れる会社だけに】
>>道の途中で後を向き、ひとり佇む少女の姿は…
これ婆ちゃんかと思ってました。
1 | 2007年11月09日(金) 07:37 | URL | コメント編集
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| 2007年11月09日(金) 15:54 | URL | コメント編集
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