2007'12.13 (Thu) 05:26
※追記
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://bdkiss.blog54.fc2.com/blog-entry-464.html
こちらのブクマコメントに対する反論……というか、正しくは「じゃあ原作読めばいい」というこの言葉自体に対する反論です。
http://d.hatena.ne.jp/n_euler666/20071210/1197282169
あと一応こちらも……。こちらを読む前に書き始めた記事なので、直接的に言及しようという意思はありませんが、書き終わる前に拝見した以上、一応、頭の片隅には入っていましたので。
『言葉』自体に対する反論なので、リンクも貼らなかったのですが、今から考えたら、何だか卑怯というか陰口みたいな感じですし、見てる方にも説明不足すぎですし、遅ればせながらリンクを貼らせていただきます。すみません、その点は少し謝ります。
「原作に忠実なら、原作読めばいい」
個人的な意見としては、もちろんアリです。
でも、それを、「そうするべきだ」、「それが正しい」、みたいに語られるのには、違和感を覚えます。
まず整理も兼ねて、前提を。
アニメでゲーム(もしくは漫画・小説など)が原作の作品において、原作と『まったく同じ』というものはありえません。これは当たり前ですね、媒体が違うんですから。
どれだけ物語を台詞をキャラクターを絵(構図含め)を、原作にならって作っても、漫画が原作ならばコマとコマの間を埋める創作を行わなくてはならないし、小説が原作なら文章で表現されていたものを絵と音に置きかえなければならないという、違う部分が生じてきます。ゲームだと、ジャンルによって色々異なりますが、ノベルゲーム(ここで話したいのはkey作品について)だったら、文章と僅かな絵と音で表現されているものを、絵と音に置きかえなければなりません。
それに加え、『時間』という要素も出てきます。
漫画や小説やノベルゲームでしたら、読む時間・ページをめくる速度・マウスをクリックするタイミング、これらは全て読み手側の統制化にありました。
アニメでも事細かに一時停止をすれば時間を統制できるとも言えそうですが、受けて側が積極的に行わなければそうならない、という点で大きく異なります。
ページを読み進めるという行動をかんたんに一旦止められる、すなわち『保留』が簡単にできる――むしろデフォルトとしては『保留』状態であり、受けて側の意思によって物語を進めていく漫画・小説・ノベルゲームに対し、
アニメではわざわざ一時停止や停止ボタンを押して進行を止めなくてはならない(そもそも、録画した状態でなければその様なこともできませんが)。デフォルトが進行状態なので、受けて側が意思を持って行動しなければ、その進行が止まることはありません。この形態は、漫画・小説・ノベルゲームとは、まったく異なるものです。
アニメにおいては、漫画や小説やノベルゲームと異なり、つねに、舞台の進行は進んでいきます。
このような点だけを見ても、
同じ題材を――どれだけ原作を忠実に模しても、『同じ』に作ることは不可能だと分かります。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
あまり広げすぎても収拾がつかなくなるので、京アニとkey作品の話に集約します。
京アニAIRと京アニKanon。
これが原作と同じかといえば、違います。少なくとも『同じ』ではありません。もちろん、どの程度まで厳密に見るか、つまり『同じ』という言葉の定義の広さによっても異なりますが。
『AIR』は私自身が長いこと触れてなく、語る言葉を持っていないので置いておかせていただきますが、少なくとも『Kanon』に関しては、キャラクターレベルでは『同じ』と言えても(というか京アニkeyモノはそこら辺はかなり丹念ですが)、ストーリーレベルではかなり違います。
一本道ではない原作を一本道に纏め上げ、そこに祐一自身を絡めて、原作には無い物語を作り出しています。
別れと現実の受け入れに至る道を、一本道という事をゆるやかに使いながら、彼の行動の証明として結実させる。(参考として、拙いものですが、京アニKanonを見てたとき自分が書いた雑感をあげときます:http://bdkiss.blog54.fc2.com/blog-entry-269.html)
物語は、見る者によって形を変えるものなので、誰にでもそうだとは言えませんが。
原作には無かったもの。
それを原作以上に目立たせて、そこに全てを集約させる!などという大胆なものではありませんでしたが、たしかに、そこには、原作にないものが存在していました。
ですが、あくまで僕の場合ですが、そういものもあるにはあって、「原作と違う」と感じたのですが、「原作と同じ」とも感じたのです。
先に書いた京アニKanonの変更点。これらは原作で明示的に語られたことではありませんが、原作に『なかったこと』でもないでしょう。むしろ原作のテーマに沿っている、原作のテーマを京アニなりに噛み砕いて表現している、と思わせるくらい。
『違う』のに、『同じ』と感じることもある。
http://d.hatena.ne.jp/lapis/20071211/p1
こちらの記事が、上手い具合に纏まっていると思うのでリンク貼らせていただきます。
キャラクターの立ち振る舞い。オリジナルのテイスト、シーン。キャラクターデザイン。
原作から遠く離れてもいないが、同じでもないストーリー。
媒体の違いで、『同じ』に作ることは不可能。
どんな作品でも、原作と『同じ』ではなく、大なり小なり異なってはいる。
しかし、視聴者に『同じ』に感じさせることはできる。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
原作とまったく同じは不可能でも、かなり『同じ』に近いんじゃないか、と思わせる作品はあります。
たとえば「ギャグマンガ日和」のアニメは、もの凄く原作に近いです。尺の関係などで少し削っている部分はありますが、それ以外は殆ど同じ。真偽のほどは分かりませんが、原作のコミックスがそのまま台本として使われているそうです(Wikipedia参照)。そのくらい原作に忠実。『原作と一緒』と言っても問題ないかもしれないほどです。
でも……原作と一緒に近いからといって、それを視聴して、必ずしも原作と同じ感情を受けて側が得るとは、いえません。僕個人の感想ですと、殆どにおいては原作と同じに感じましたが、原作の方がアニメより毒っぽいというか皮肉っぽいというか、批評的に感じ取れました。
「ギャグマンガ日和」ほど同じでも、やはり多少の違いは生じます。
どんな作品でも、少なくとも、何から何まで同じにしても、『時間の統制』をアニメ製作者側で行わなければならない以上、そこに製作者さんの解釈や理解が入り込んできて、原作との違いが生じる――つまり、原作を読んだ際の自分の時間の統制と、アニメ製作者さん(が原作を読んだ際の、またアニメにしやすいと思われる・アニメにすると映える・表現したい)の時間の運用に差異が生じる、というのはほぼ確実にあるでしょう。
最終的には、人それぞれ感想・感情・認識が違う、ということがいえるのではないでしょうか。
先に「僕個人の感想」とギャグマンガ日和の原作とアニメの違いについて記しましたが、あれは結局「僕個人の感想」であって、他の人もそう思うとは限らない。それと同じ様に、僕らが原作を読んだ時に感じたことと、アニメ製作者さんが原作を読んだ時に感じたことが同じだとは限らない。(そもそも原作者さんの考えと、読者が感じ取ったものが同じだとは限らないですが)
だから、そこまで忠実でも差異は生じるのでしょう。
どこを重視して、何を表現するか。
わたしたちと作者さんは違う人間だから、異なる認識があり、違った感想・感情があり、『原作と違う』作品が出来上がる。
そもそも僕たちが原作に触れたときに抱いた感想・感情、それ自体が人それぞれで異なるものなのだし、さらに『同じ』『違う』という言葉の定義からして皆同じではないのですから、極論、どんな作品にしたって、誰かは「原作と同じ」と述べ、誰かは「原作と違う」と述べるでしょう。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
さて、あくまでも個人的体験ですが、一応二つほど例をあげました。
原作に忠実ではあるが、多少なりとも異なっている。しかし、感じるものは原作と同じに近かった『京アニKanon』。
原作と恐ろしいほど同じあるが、だからこそ異なる点が目に付いた『ギャグマンガ日和』。
一般論の皮を被った話にはしたくないので、もう一度書きますが、あくまで僕個人の感想です。
原作とほぼ同じに作っても、原作と違う感想や感情が得られ、
原作と少しだけ変えて作っても、原作と同じ(に近い)感想や感情が得られる。
先日、昔のゲーム雑誌を読んでいたら、スーパーマリオなどを作った任天堂の宮本茂さんがとても良いことを仰っていた文章を見つけたので、引用させていただきます。
誤解を招かないように記しておくと、これはあくまでゲームについての話であって、文脈的には、映像重視のパワーゲームの市場に、DSが風穴を開けてきている、それはWiiにも繋がる、という流れで出てきた言葉でした(ファミ通の2006年1月20日号のインタビュー)。
ただこれは、アニメにもいえる言葉であると思います。
表現とは、"どういう絵を描くか"ではなく、"視聴者にどういう気持ちを抱かせるか"。
「カッコイイ構図」を描けば格好いいと思えるのか。「カワイイ女の子」を描けば萌えるのか。
けしてそうだとは限らないでしょう。たとえ作り手側が「これは絶対格好いい」「これ超萌える」と思いながら描いても、受けて側が同じ反応を示すとは限らない。いやむしろ、作り手と受け手の趣味だとかの、単純に感性の問題になってしまう。
"どういう気持ちを抱かせるか"。
誰かに何かの感情を抱かせるのならば、それを意識して――これを見た人は、これこれという感情を抱くだろうか――ということを意識して描かなければ、その感情を抱かせることは難しい。表現というよりも自己満足に近いのかもしれません。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「原作に忠実なら、原作読めばいい」
個人的な意見としては、もちろんアリです。
しかしそれを、「そうするべきだ」、「それが正しい」、みたいに語られるのには、違和感を覚えますってゆうか正直、怒りを覚えます。
『原作に忠実』に作られている作品の向こう側には、原作者だけではなくアニメの製作者も存在しています。彼らの解釈が、彼らの脚本が、彼らの演出が、彼らの作画が、その他もろもろがあって初めてその『原作に忠実』のその作品が出来上がる。
自分とも原作者とも違う他人が、原作と異なる媒体で作るものだから存在する、『原作』とも、『自分の頭の中の原作』とも違うもの。
そこには自分と違う理解が存在し、原作に見ていない表現も存在して、原作を見た時には抱かなかった感情を得られるかもしれない。
たしかに、原作を知っていて、原作に忠実に作られている作品を見ることに、『退屈』が存在しないかと言えば、そうではありません。どういうお話か、どういうキャラクターかを知っていれば、それだけ新しい発見に伴う面白さは薄れてしまうでしょう。
まして、京アニのkey作品などは、『表現』――"どういう気持ちを抱かせるか"という点においても、なるべく、"原作を見たときと同じ気持ちを抱かせようとしている"のではないかな、と思えます(「原作をやった時の印象と同じ様にしたい」などと、インタビューで語られています(その考えがどの程度まで働いているのかは不明な文脈でしたが))。キャラクターにも、物語にも、台詞にも、そういったことは多少なりとも表れてはいるでしょう。つまりそういう所も原作に忠実にしているからこそ、原作をやった時と同じ様な気持ちを抱かせる。
それは、原作には無いものです。
原作と違うフォーマットで原作をやった時と同じ様な気持ちを抱かせるその奥には、物語にも、キャラクターにも、展開にも、演出にも、作品の全てに、アニメ製作者のさまざまな表現が込められている。もちろん、原作をやった時と異なる気持ちも抱きます。そこにもまた、自分と違う人間であるアニメ製作者の表現が込められています。そして、自分自身の原作に対する理解も、再度、見つめなおすことができる。
そこにある『表現』を切り捨てて、原作をやればいいで済ませてしまうのは、もったいないと思う。そうするべきだ、正しいことだというように語られると、表現に対する侮辱だとも思ってしまう。
原作には原作(者)の表現があって、アニメにはアニメ(製作者)の表現があるんだから。
原作こそが唯一の聖典で、俺の原作理解こそが唯一の真理だーなんて考えなら、何も言う事はありませんけど。
京アニCLANNADにだって、原作に無い台詞もあるし、エピソードが無くなってたり順序が変わっていたりするし、描写されてない動きを描写しているし、原作に無い場面もあるし、原作と異なる見せ方をしているし、原作と違う表現をしていて、原作と必ずしも同じではない気持ちを、見ている者に抱かせたりもします。
表情ひとつ、動きひとつ取っても。
多くの納得と少しの違和感が折り重なり、彼らの『表現』をそこに見ることができます。
そこに楽しさを見い出せるか、そこを面白いと思えるかは、人によりけりでしょう。そのことは間違っても否定しません。でも、それを原作の表現と比べて意味がないかのように切り捨ててしまうことほど失礼なことはないと、僕は思うのです。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://bdkiss.blog54.fc2.com/blog-entry-464.html
こちらのブクマコメントに対する反論……というか、正しくは「じゃあ原作読めばいい」というこの言葉自体に対する反論です。
http://d.hatena.ne.jp/n_euler666/20071210/1197282169
あと一応こちらも……。こちらを読む前に書き始めた記事なので、直接的に言及しようという意思はありませんが、書き終わる前に拝見した以上、一応、頭の片隅には入っていましたので。
『言葉』自体に対する反論なので、リンクも貼らなかったのですが、今から考えたら、何だか卑怯というか陰口みたいな感じですし、見てる方にも説明不足すぎですし、遅ればせながらリンクを貼らせていただきます。すみません、その点は少し謝ります。
「原作に忠実なら、原作読めばいい」
個人的な意見としては、もちろんアリです。
でも、それを、「そうするべきだ」、「それが正しい」、みたいに語られるのには、違和感を覚えます。
【More】
原作に忠実。まず整理も兼ねて、前提を。
アニメでゲーム(もしくは漫画・小説など)が原作の作品において、原作と『まったく同じ』というものはありえません。これは当たり前ですね、媒体が違うんですから。
どれだけ物語を台詞をキャラクターを絵(構図含め)を、原作にならって作っても、漫画が原作ならばコマとコマの間を埋める創作を行わなくてはならないし、小説が原作なら文章で表現されていたものを絵と音に置きかえなければならないという、違う部分が生じてきます。ゲームだと、ジャンルによって色々異なりますが、ノベルゲーム(ここで話したいのはkey作品について)だったら、文章と僅かな絵と音で表現されているものを、絵と音に置きかえなければなりません。
それに加え、『時間』という要素も出てきます。
漫画や小説やノベルゲームでしたら、読む時間・ページをめくる速度・マウスをクリックするタイミング、これらは全て読み手側の統制化にありました。
アニメでも事細かに一時停止をすれば時間を統制できるとも言えそうですが、受けて側が積極的に行わなければそうならない、という点で大きく異なります。
ページを読み進めるという行動をかんたんに一旦止められる、すなわち『保留』が簡単にできる――むしろデフォルトとしては『保留』状態であり、受けて側の意思によって物語を進めていく漫画・小説・ノベルゲームに対し、
アニメではわざわざ一時停止や停止ボタンを押して進行を止めなくてはならない(そもそも、録画した状態でなければその様なこともできませんが)。デフォルトが進行状態なので、受けて側が意思を持って行動しなければ、その進行が止まることはありません。この形態は、漫画・小説・ノベルゲームとは、まったく異なるものです。
アニメにおいては、漫画や小説やノベルゲームと異なり、つねに、舞台の進行は進んでいきます。
このような点だけを見ても、
同じ題材を――どれだけ原作を忠実に模しても、『同じ』に作ることは不可能だと分かります。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
あまり広げすぎても収拾がつかなくなるので、京アニとkey作品の話に集約します。
京アニAIRと京アニKanon。
これが原作と同じかといえば、違います。少なくとも『同じ』ではありません。もちろん、どの程度まで厳密に見るか、つまり『同じ』という言葉の定義の広さによっても異なりますが。
『AIR』は私自身が長いこと触れてなく、語る言葉を持っていないので置いておかせていただきますが、少なくとも『Kanon』に関しては、キャラクターレベルでは『同じ』と言えても(というか京アニkeyモノはそこら辺はかなり丹念ですが)、ストーリーレベルではかなり違います。
一本道ではない原作を一本道に纏め上げ、そこに祐一自身を絡めて、原作には無い物語を作り出しています。
別れと現実の受け入れに至る道を、一本道という事をゆるやかに使いながら、彼の行動の証明として結実させる。(参考として、拙いものですが、京アニKanonを見てたとき自分が書いた雑感をあげときます:http://bdkiss.blog54.fc2.com/blog-entry-269.html)
物語は、見る者によって形を変えるものなので、誰にでもそうだとは言えませんが。
原作には無かったもの。
それを原作以上に目立たせて、そこに全てを集約させる!などという大胆なものではありませんでしたが、たしかに、そこには、原作にないものが存在していました。
ですが、あくまで僕の場合ですが、そういものもあるにはあって、「原作と違う」と感じたのですが、「原作と同じ」とも感じたのです。
先に書いた京アニKanonの変更点。これらは原作で明示的に語られたことではありませんが、原作に『なかったこと』でもないでしょう。むしろ原作のテーマに沿っている、原作のテーマを京アニなりに噛み砕いて表現している、と思わせるくらい。
『違う』のに、『同じ』と感じることもある。
http://d.hatena.ne.jp/lapis/20071211/p1
こちらの記事が、上手い具合に纏まっていると思うのでリンク貼らせていただきます。
キャラクターの立ち振る舞い。オリジナルのテイスト、シーン。キャラクターデザイン。
原作から遠く離れてもいないが、同じでもないストーリー。
媒体の違いで、『同じ』に作ることは不可能。
どんな作品でも、原作と『同じ』ではなく、大なり小なり異なってはいる。
しかし、視聴者に『同じ』に感じさせることはできる。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
原作とまったく同じは不可能でも、かなり『同じ』に近いんじゃないか、と思わせる作品はあります。
たとえば「ギャグマンガ日和」のアニメは、もの凄く原作に近いです。尺の関係などで少し削っている部分はありますが、それ以外は殆ど同じ。真偽のほどは分かりませんが、原作のコミックスがそのまま台本として使われているそうです(Wikipedia参照)。そのくらい原作に忠実。『原作と一緒』と言っても問題ないかもしれないほどです。
でも……原作と一緒に近いからといって、それを視聴して、必ずしも原作と同じ感情を受けて側が得るとは、いえません。僕個人の感想ですと、殆どにおいては原作と同じに感じましたが、原作の方がアニメより毒っぽいというか皮肉っぽいというか、批評的に感じ取れました。
「ギャグマンガ日和」ほど同じでも、やはり多少の違いは生じます。
どんな作品でも、少なくとも、何から何まで同じにしても、『時間の統制』をアニメ製作者側で行わなければならない以上、そこに製作者さんの解釈や理解が入り込んできて、原作との違いが生じる――つまり、原作を読んだ際の自分の時間の統制と、アニメ製作者さん(が原作を読んだ際の、またアニメにしやすいと思われる・アニメにすると映える・表現したい)の時間の運用に差異が生じる、というのはほぼ確実にあるでしょう。
最終的には、人それぞれ感想・感情・認識が違う、ということがいえるのではないでしょうか。
先に「僕個人の感想」とギャグマンガ日和の原作とアニメの違いについて記しましたが、あれは結局「僕個人の感想」であって、他の人もそう思うとは限らない。それと同じ様に、僕らが原作を読んだ時に感じたことと、アニメ製作者さんが原作を読んだ時に感じたことが同じだとは限らない。(そもそも原作者さんの考えと、読者が感じ取ったものが同じだとは限らないですが)
だから、そこまで忠実でも差異は生じるのでしょう。
どこを重視して、何を表現するか。
わたしたちと作者さんは違う人間だから、異なる認識があり、違った感想・感情があり、『原作と違う』作品が出来上がる。
そもそも僕たちが原作に触れたときに抱いた感想・感情、それ自体が人それぞれで異なるものなのだし、さらに『同じ』『違う』という言葉の定義からして皆同じではないのですから、極論、どんな作品にしたって、誰かは「原作と同じ」と述べ、誰かは「原作と違う」と述べるでしょう。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
さて、あくまでも個人的体験ですが、一応二つほど例をあげました。
原作に忠実ではあるが、多少なりとも異なっている。しかし、感じるものは原作と同じに近かった『京アニKanon』。
原作と恐ろしいほど同じあるが、だからこそ異なる点が目に付いた『ギャグマンガ日和』。
一般論の皮を被った話にはしたくないので、もう一度書きますが、あくまで僕個人の感想です。
原作とほぼ同じに作っても、原作と違う感想や感情が得られ、
原作と少しだけ変えて作っても、原作と同じ(に近い)感想や感情が得られる。
先日、昔のゲーム雑誌を読んでいたら、スーパーマリオなどを作った任天堂の宮本茂さんがとても良いことを仰っていた文章を見つけたので、引用させていただきます。
"表現"って、"どういう絵を描くか"じゃなくて、"使い手にどういう気持ちを抱かせるか"でしょ。
誤解を招かないように記しておくと、これはあくまでゲームについての話であって、文脈的には、映像重視のパワーゲームの市場に、DSが風穴を開けてきている、それはWiiにも繋がる、という流れで出てきた言葉でした(ファミ通の2006年1月20日号のインタビュー)。
ただこれは、アニメにもいえる言葉であると思います。
表現とは、"どういう絵を描くか"ではなく、"視聴者にどういう気持ちを抱かせるか"。
「カッコイイ構図」を描けば格好いいと思えるのか。「カワイイ女の子」を描けば萌えるのか。
けしてそうだとは限らないでしょう。たとえ作り手側が「これは絶対格好いい」「これ超萌える」と思いながら描いても、受けて側が同じ反応を示すとは限らない。いやむしろ、作り手と受け手の趣味だとかの、単純に感性の問題になってしまう。
"どういう気持ちを抱かせるか"。
誰かに何かの感情を抱かせるのならば、それを意識して――これを見た人は、これこれという感情を抱くだろうか――ということを意識して描かなければ、その感情を抱かせることは難しい。表現というよりも自己満足に近いのかもしれません。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「原作に忠実なら、原作読めばいい」
個人的な意見としては、もちろんアリです。
しかしそれを、「そうするべきだ」、「それが正しい」、みたいに語られるのには、違和感を覚えますってゆうか正直、怒りを覚えます。
『原作に忠実』に作られている作品の向こう側には、原作者だけではなくアニメの製作者も存在しています。彼らの解釈が、彼らの脚本が、彼らの演出が、彼らの作画が、その他もろもろがあって初めてその『原作に忠実』のその作品が出来上がる。
自分とも原作者とも違う他人が、原作と異なる媒体で作るものだから存在する、『原作』とも、『自分の頭の中の原作』とも違うもの。
そこには自分と違う理解が存在し、原作に見ていない表現も存在して、原作を見た時には抱かなかった感情を得られるかもしれない。
たしかに、原作を知っていて、原作に忠実に作られている作品を見ることに、『退屈』が存在しないかと言えば、そうではありません。どういうお話か、どういうキャラクターかを知っていれば、それだけ新しい発見に伴う面白さは薄れてしまうでしょう。
まして、京アニのkey作品などは、『表現』――"どういう気持ちを抱かせるか"という点においても、なるべく、"原作を見たときと同じ気持ちを抱かせようとしている"のではないかな、と思えます(「原作をやった時の印象と同じ様にしたい」などと、インタビューで語られています(その考えがどの程度まで働いているのかは不明な文脈でしたが))。キャラクターにも、物語にも、台詞にも、そういったことは多少なりとも表れてはいるでしょう。つまりそういう所も原作に忠実にしているからこそ、原作をやった時と同じ様な気持ちを抱かせる。
それは、原作には無いものです。
原作と違うフォーマットで原作をやった時と同じ様な気持ちを抱かせるその奥には、物語にも、キャラクターにも、展開にも、演出にも、作品の全てに、アニメ製作者のさまざまな表現が込められている。もちろん、原作をやった時と異なる気持ちも抱きます。そこにもまた、自分と違う人間であるアニメ製作者の表現が込められています。そして、自分自身の原作に対する理解も、再度、見つめなおすことができる。
そこにある『表現』を切り捨てて、原作をやればいいで済ませてしまうのは、もったいないと思う。そうするべきだ、正しいことだというように語られると、表現に対する侮辱だとも思ってしまう。
原作には原作(者)の表現があって、アニメにはアニメ(製作者)の表現があるんだから。
原作こそが唯一の聖典で、俺の原作理解こそが唯一の真理だーなんて考えなら、何も言う事はありませんけど。
京アニCLANNADにだって、原作に無い台詞もあるし、エピソードが無くなってたり順序が変わっていたりするし、描写されてない動きを描写しているし、原作に無い場面もあるし、原作と異なる見せ方をしているし、原作と違う表現をしていて、原作と必ずしも同じではない気持ちを、見ている者に抱かせたりもします。
表情ひとつ、動きひとつ取っても。
多くの納得と少しの違和感が折り重なり、彼らの『表現』をそこに見ることができます。
そこに楽しさを見い出せるか、そこを面白いと思えるかは、人によりけりでしょう。そのことは間違っても否定しません。でも、それを原作の表現と比べて意味がないかのように切り捨ててしまうことほど失礼なことはないと、僕は思うのです。
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なしおさんこんばんは。
クラナド第11話も、原作に無い数々の演出がありましたね。
京アニの作るアニメは、他の会社よりも確かに原作に忠実だと思いますが
それでも確かに原作とは違うアニメならではの演出や解釈が多分に存在してますね。
「原作は越えられない壁」ってゆう人の言いたい事も多少理解しますが
アニメの作り手側が、原作をよく理解し愛情を持って作った作品は、原作には忠実ながらも
アニメでしか見られない演出や映像表現は、多々あり、原作の楽しさを増幅させてくれるものだと
個人的には思います。
クラナド第11話も、原作に無い数々の演出がありましたね。
京アニの作るアニメは、他の会社よりも確かに原作に忠実だと思いますが
それでも確かに原作とは違うアニメならではの演出や解釈が多分に存在してますね。
「原作は越えられない壁」ってゆう人の言いたい事も多少理解しますが
アニメの作り手側が、原作をよく理解し愛情を持って作った作品は、原作には忠実ながらも
アニメでしか見られない演出や映像表現は、多々あり、原作の楽しさを増幅させてくれるものだと
個人的には思います。
しーたろ | 2007年12月14日(金) 18:56 | URL | コメント編集
こんばんわ、いつもお世話になっております。
本件、大元の記事を最初に読んだ時にはスルーしちゃおうかなと思っていたのですが、なしおさんのこちらの記事を読ませていただくうち、的確な表現と込められた真摯な思いに感じ入りまして、自分でも別な観点から拙文を一本起こしてしまいました。敬意を込めて、トラックバックさせていただきます。
最後の一文、
>原作の表現と比べて意味がないかのように切り捨ててしまうことほど失礼なことはない
という部分は、全くもってその通り、と膝をパンパン叩きながら読ませていただきました。ですよね。
本件が原作準拠派VSオリジナリティ炸裂派の問題、みたいな低いレベルの話に終始しないことを願いつつ。
本件、大元の記事を最初に読んだ時にはスルーしちゃおうかなと思っていたのですが、なしおさんのこちらの記事を読ませていただくうち、的確な表現と込められた真摯な思いに感じ入りまして、自分でも別な観点から拙文を一本起こしてしまいました。敬意を込めて、トラックバックさせていただきます。
最後の一文、
>原作の表現と比べて意味がないかのように切り捨ててしまうことほど失礼なことはない
という部分は、全くもってその通り、と膝をパンパン叩きながら読ませていただきました。ですよね。
本件が原作準拠派VSオリジナリティ炸裂派の問題、みたいな低いレベルの話に終始しないことを願いつつ。
>しーたろさん
こんばんは。コメントいただきありがとうございます。
しーたろさんのご意見に、全く同意と言いますか。「アニメ」の表現が「原作」をより楽しくさせる。面白く見せる。深い理解に役立つ。『原作をよく理解し愛情を持って作った作品』は、本当にそういう側面があると思います。
「他人の解釈を見る」に、少し近いかなと思えるのです。
もちろん、この作品には石原監督やら志茂さん(脚本の人)やらの解釈が前面に押し出されているわけでは無くて、原作を大事にしてご自身の理解や解釈を抑え目に(ウザがられない程度に)されているとは思うのですが。
それでも、「このキャラはこういう動きをするか!ああ、たしかにしそう!」「ここを印象付けるようにするか!」「このシーンはこういう解釈か!」と、色々と発見があったりして、それが「他人の解釈を見る」っぽいかなぁと(そこに「アニメ」という媒体の違いも加わっていますが)。
他人の解釈を知ることは、理解や楽しむことに、意味があるんじゃないかなと思います。原作者の解釈だけが正しいのだとしたら、自分自身の解釈すら無価値になってしまいますから。
自分が原作を読んだときには気付かなかったこと。見えなかったこと。わからなかったこと。そういうのを、視聴することが出来る。
そういう側面もあるかな、って思います。
こんばんは。コメントいただきありがとうございます。
しーたろさんのご意見に、全く同意と言いますか。「アニメ」の表現が「原作」をより楽しくさせる。面白く見せる。深い理解に役立つ。『原作をよく理解し愛情を持って作った作品』は、本当にそういう側面があると思います。
「他人の解釈を見る」に、少し近いかなと思えるのです。
もちろん、この作品には石原監督やら志茂さん(脚本の人)やらの解釈が前面に押し出されているわけでは無くて、原作を大事にしてご自身の理解や解釈を抑え目に(ウザがられない程度に)されているとは思うのですが。
それでも、「このキャラはこういう動きをするか!ああ、たしかにしそう!」「ここを印象付けるようにするか!」「このシーンはこういう解釈か!」と、色々と発見があったりして、それが「他人の解釈を見る」っぽいかなぁと(そこに「アニメ」という媒体の違いも加わっていますが)。
他人の解釈を知ることは、理解や楽しむことに、意味があるんじゃないかなと思います。原作者の解釈だけが正しいのだとしたら、自分自身の解釈すら無価値になってしまいますから。
自分が原作を読んだときには気付かなかったこと。見えなかったこと。わからなかったこと。そういうのを、視聴することが出来る。
そういう側面もあるかな、って思います。
>てりぃさん
こんばんは。こちらこそお世話になっております。
>大元の記事
や、リンクも貼ってないんで、この文章、その記事の存在を知らない人には「なんのことやら」と思えるような内容かもしれませんが、これ書いたのにはもう一つありまして。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://bdkiss.blog54.fc2.com/blog-entry-464.html
ここのブクマコメが起因でして。該当記事も一応頭の隅には入れながら、何よりもこのコメントの、この『言葉』自体に、これを発した人に対してどうこうという思いは無しに、単純にこの言葉自体に憤りを感じまして書き上げた次第なんですが……。
『言葉』自体に対する反論なので、リンクも貼らなかったのですが、今から考えたら、何だか卑怯というか陰口みたいな感じですし、見てる方にも説明不足すぎですし、リンクを貼っておきます(言葉自体にとか言いながら、結局はあの記事に対する反論みたいにもなってしますし)。
>本件が原作準拠派VSオリジナリティ炸裂派の問題、みたいな低いレベルの話に終始しないことを願いつつ。
まったくもって、です。
ただまあ、大抵の人はてりぃさんの仰る「全部楽しめる」人だと思いますよ。少なくとも、見る前は「楽しもう」と思っているんじゃないかなぁ、と思います。や、むしろそう信じたいです。
こんばんは。こちらこそお世話になっております。
>大元の記事
や、リンクも貼ってないんで、この文章、その記事の存在を知らない人には「なんのことやら」と思えるような内容かもしれませんが、これ書いたのにはもう一つありまして。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://bdkiss.blog54.fc2.com/blog-entry-464.html
ここのブクマコメが起因でして。該当記事も一応頭の隅には入れながら、何よりもこのコメントの、この『言葉』自体に、これを発した人に対してどうこうという思いは無しに、単純にこの言葉自体に憤りを感じまして書き上げた次第なんですが……。
『言葉』自体に対する反論なので、リンクも貼らなかったのですが、今から考えたら、何だか卑怯というか陰口みたいな感じですし、見てる方にも説明不足すぎですし、リンクを貼っておきます(言葉自体にとか言いながら、結局はあの記事に対する反論みたいにもなってしますし)。
>本件が原作準拠派VSオリジナリティ炸裂派の問題、みたいな低いレベルの話に終始しないことを願いつつ。
まったくもって、です。
ただまあ、大抵の人はてりぃさんの仰る「全部楽しめる」人だと思いますよ。少なくとも、見る前は「楽しもう」と思っているんじゃないかなぁ、と思います。や、むしろそう信じたいです。
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