2008'02.03 (Sun) 05:26
さて。凄い今さらながら、アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」の感想と考察を始めたのですが。(ホント遅い)
そちらをご覧頂く前に、ひとつ、自分の視座を表明しておきたいと思います。
なお、原作は「消失」だけ既読、「分裂」もちょっとだけ読みましたが、「憂鬱」~「消失」間、「消失」~「分裂」間のエピソードは(両作品内の記述で分かる範囲以外には)何一つ知らない、アニメ版ハルヒ視聴は1年半ぶりくらい、現状第1話だけ見直した、
という状態でこの記事を書いています。
(当然ながら、言及対象はアニメ版だけになります)
上記は、去年の年末に1年以上ハルヒを見ていない僕がうろ覚えで書いたハルヒ印象なのですが、この辺が今回、ひとつの視座になっております。
つまり、この涼宮ハルヒの憂鬱を、『ハルヒの自己肯定の話』という視座から見ていこうかな、と。
そもそもハルヒの不思議探し・不思議好き、つまり「特別」を志向する思考は行き過ぎていて、自分を否定してしまってる節があります。だって興味あるのは「宇宙人、もしくはそれに準じるナニカ」で、「ただの人間には興味ありません」ならば、ハルヒって自分自身にも興味ないわけじゃないですか。(自分の能力は自覚してないから、自分から見れば「ただの人間」は脱していないわけですし)
特別じゃなければ価値は無い、と断じる。だがその実、自分自身は特別ではない。だから探す。「特別」を。自分自身に価値を見い出せるような特別を――価値を見い出せるような出会いを。
けれど結局は、「興味ありません」と言っていた、ハルヒから見ればただの人間であるキョンに興味を持ち、みくる・長門・古泉(ハルヒから見れば普通人)にも多少なりとも興味を持つ――しかも、「こんなことしている暇は無い」と断じた、ただの人間と過ごす時間を自分から作り出している――という変化。
自分の肯定と他者の肯定。
無価値が有価値へとシフトする心境の変化。
「白雪姫」「眠れる森の美女」――それは両方とも眠っているお姫様を起こすための口づけ。眠っている。何に眠っている?何を目を瞑って見ないようにしている?
考察をするためには、ある程度視座を限定することが重要になるんじゃないかと考えています。なので今回は、その辺を気にしていきたいと思っています。
あとそれ以外にも……第1話感想・考察にも書いたように、ハルヒはキョンをどう見ているのかということや、キョンの心情――特にこの
この辺は、視聴するたびに重視したり軽視したりと変化するかもしれませんが。
そんな感じで、「涼宮ハルヒの憂鬱」を『自己肯定(ならびに他者肯定、世界の肯定)』の話である可能性、という視座から考えていき、また全話視聴後には、当記事に対するアンサー記事も記したいと思っています。
なんか風呂敷広げすぎで怖いんですけどw、以上です。
そちらをご覧頂く前に、ひとつ、自分の視座を表明しておきたいと思います。
なお、原作は「消失」だけ既読、「分裂」もちょっとだけ読みましたが、「憂鬱」~「消失」間、「消失」~「分裂」間のエピソードは(両作品内の記述で分かる範囲以外には)何一つ知らない、アニメ版ハルヒ視聴は1年半ぶりくらい、現状第1話だけ見直した、
という状態でこの記事を書いています。
(当然ながら、言及対象はアニメ版だけになります)
『キョンはハルヒが望んだから現われた人物ではないのではないか』
細かいところとか思考過程とか飛ばして結論から言うと。
最終回のアレを見ても分かるように、キョンはハルヒを認めたというか受け入れた、と"ハルヒは思っている"のですよ。この自分を認め、受け入れてくれていると。子供の頃野球場に行って、自分が何処にでもいるちっぽけな存在であるということが明らかになった彼女のことを、"何処にでもいるちっぽけな存在では『ない』"として認め受け入れた人がいる、それがキョンだと。
でもそれはハルヒが望んだことなのかーというと、違うんじゃないかなー、と思う。
あそこから始まる願望は、誰か一人の特別を望むベクトルではなく、皆に対する……いや、これはちょっと違うかな。皆からじゃなくて(もしくはそれを踏まえた上で)、『自分が自分を特別と思うこと』というベクトルの願望じゃないかな、と思った。
誰か一人が自分の事を"何処にでもいるちっぽけな存在では『ない』"と認め受け入れるのではなく、自分が自分のことを"何処にでもいるちっぽけな存在では『ない』"と認め受け入れること。それが望みのベクトルではないかと。
そして、その実現として、宇宙人や未来人や超能力者や異世界人といった、"特別"なモノとコンタクトを取ることにより、自分自身も特別になる――自分がそこに"特別"という価値を見い出すのではないのかな、と(この辺は少し精査が必要)。
なんにしろ、自分を認めてくれる誰かを望んではいなかったんじゃないかなー、と思うんですよ。大体、そんな望みだったら中学時代に叶えてろっつー話で。あー、古泉とか長門とかみくるが『今になって』登場してきたのは、「高校に入ればなんかいるかも(あるかも)」的な願望をハルヒが軽く口に出していたことから察するに、願望の実現の方向転換が図られたのかな、と少し思う。つまり、中学までは『いる確率が低いと自認しながらも探す』という方向が、高校では、そこに抱いていた期待から『いる確率が多少はあると思いながら探す』へと変化したんじゃないかなぁと。だから見つかった。いる(というか、出会える)と思って探しているから。
で、キョン。
キョンが異世界人ならともかく、普通の人間だとして。
彼の事は、別に探してはいません。つうか望んでも欲してもいません。自分の事を"何処にでもいるちっぽけな存在では『ない』"と思ってくれる人なんか望んでいなくて、ハルヒが望んでいたのは、自分自身が自分自身のことを"何処にでもいるちっぽけな存在では『ない』"と思える何か、だったからです。
……まあ上記ふたつ、字面だけならどっちも同じというか、似た感じなんですけど、一つ目の方にはワンステップ入るのですよ。ハルヒ自身の感情。誰かが自分を認めてくれることから、自分自身を認める、という感情が生まれる。
誰かが自分を特別に思ってくれることが、自分で自分を特別に思えることになる、だなんて、ハルヒは恐らく想定していなかったと思うんです。あー、もちろん相手がキョンであることも重要で、ハルヒはキョンのことを『同類』に近いように思っているんじゃないかなー、と思うんです。この辺は今度、時間でもあったら何とかかんとかします。
想定していなかったんだから、望むべくもないかな、と。
望んでいなかったものを手に入れたのに、それが望みを叶えることになる。思っていたのとは違う形だけど、十分、自分にとって心地よい形で。そういうことはよくあることじゃないかな、と思います。
上記は、去年の年末に1年以上ハルヒを見ていない僕がうろ覚えで書いたハルヒ印象なのですが、この辺が今回、ひとつの視座になっております。
つまり、この涼宮ハルヒの憂鬱を、『ハルヒの自己肯定の話』という視座から見ていこうかな、と。
そもそもハルヒの不思議探し・不思議好き、つまり「特別」を志向する思考は行き過ぎていて、自分を否定してしまってる節があります。だって興味あるのは「宇宙人、もしくはそれに準じるナニカ」で、「ただの人間には興味ありません」ならば、ハルヒって自分自身にも興味ないわけじゃないですか。(自分の能力は自覚してないから、自分から見れば「ただの人間」は脱していないわけですし)
特別じゃなければ価値は無い、と断じる。だがその実、自分自身は特別ではない。だから探す。「特別」を。自分自身に価値を見い出せるような特別を――価値を見い出せるような出会いを。
けれど結局は、「興味ありません」と言っていた、ハルヒから見ればただの人間であるキョンに興味を持ち、みくる・長門・古泉(ハルヒから見れば普通人)にも多少なりとも興味を持つ――しかも、「こんなことしている暇は無い」と断じた、ただの人間と過ごす時間を自分から作り出している――という変化。
自分の肯定と他者の肯定。
無価値が有価値へとシフトする心境の変化。
「白雪姫」「眠れる森の美女」――それは両方とも眠っているお姫様を起こすための口づけ。眠っている。何に眠っている?何を目を瞑って見ないようにしている?
考察をするためには、ある程度視座を限定することが重要になるんじゃないかと考えています。なので今回は、その辺を気にしていきたいと思っています。
あとそれ以外にも……第1話感想・考察にも書いたように、ハルヒはキョンをどう見ているのかということや、キョンの心情――特にこの
「こうして俺達は出会っちまったぁ。しみじみ思う、偶然だと信じたいと」の真意とかを探りたいなぁと。
この辺は、視聴するたびに重視したり軽視したりと変化するかもしれませんが。
そんな感じで、「涼宮ハルヒの憂鬱」を『自己肯定(ならびに他者肯定、世界の肯定)』の話である可能性、という視座から考えていき、また全話視聴後には、当記事に対するアンサー記事も記したいと思っています。
なんか風呂敷広げすぎで怖いんですけどw、以上です。
スポンサーサイト
テーマ : 涼宮ハルヒの憂鬱関連 - ジャンル : アニメ・コミック
この記事のトラックバックURL
→http://bdkiss.blog54.fc2.com/tb.php/477-17564fc6
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
| BLOGTOP |