2008'02.23 (Sat) 16:14
WEB拍手コメントの返信を半年以上していない僕ですが、いつもありがたく読ませていただいております。
とはいえ、返事をしたくない、というワケではございませんでして、もっとこう、質問だったり、雑談だったり、気になるようなことであれば、積極的に返していきたいなと思っております。たぶん(あいまい)。
と、そんな前置きをしつつ。先日頂いたWEB拍手のコメントで、
前提としてひとつ記しておきたいのは。そう思うのは悪いとか良くないとか読みが足らないとか、そういうのではありません。どう思うか、どう感じるかなんて人それぞれですし、読みにも感情にも正解なんてあるわけない、視座によっていくらでも流動するものですし、そこを変えろとか言われてもお互いマジ無理ですし。顕示欲の足しにしかならない議論をしても、不毛過ぎます。
それだけだとこれ以上書いてもムダなんですけど、何気にこの京アニCLANNAD、そこのところも見越して作られている節が見受けられますので、その辺を記していきます。いきたいです。
ひとまず、僕個人の意見ですと、えー、合唱部に対しては、全然まったく少しもムカつきませんでした。
取りあえず僕が、何でそう思ったのかについて。一応記しておくと、杉坂や合唱部の弁護をしたいというわけでは間違ってもありません。念のため。
話を順に追っていくと、まず最初に、音楽室に居る仁科・杉坂・原田の合唱部の面々に対し、渚が演劇部と顧問の事情についてを話をしにいく場面――。
原田「どうするの、りえちゃん」
杉坂「先に幸村先生に話を持っていったのはコッチなんだから、遠慮することないよ」
仁科「でも……、幸村先生はもともと演劇部の顧問だし、先輩方は、今年一年しか活動できる時間が無いし……」
杉坂「……いいのっ!?合唱部、できなくなっちゃうかもしれないんだよ!りえちゃんは合唱、諦めちゃ駄目なんだよっ!」
仁科「だからね、みんなが上手くいくには、どうしたらいいか考えてみよう。ね」
(※原田はショートカットの子)


表情と台詞に注目です。
まず最初に杉坂は、「遠慮することない」と述べるように、仁科さんに対しかなり強い思いで、合唱部を続けて欲しいと思っています。……いや、かなり強い思いというか、コレ、強迫的な勢いで、合唱部を続けて欲しいと思っているのではないでしょうか。
どうするのかを問われた仁科さんは、演劇部に「折れる」ような思考を口にします。
それに対し杉坂は、顔を赤らめ激昂して、「りえちゃんは合唱、諦めちゃ駄目なんだよっ!」と口にします。
正直、めちゃくちゃ言ってます、この子。
先刻までは冷静に聞いていたんですよ。そりゃもちろん、仁科さんの意思がもっとも重要でもありますから。でも、仁科さんの話を聞いて、仁科さんが合唱部に折れそうな感じなのを見たら、顔を赤らめて激論。この時の台詞が、「りえちゃんは合唱、諦めちゃ駄目なんだよっ!」。
諦めちゃ駄目なんだよ、って、理屈としておかしいです。だって合唱以外の道も、無くはないワケじゃないですか、可能性として。それに目が行かないが如くの一言。なんとしてもコレ(合唱)を固持しようという一言。正直、少しおかしいくらいに固執していると思えるのですが、これは前述した『ハンデ』の部分に繋がっていきます。
夢・目標・打ち込めるもの。そういったものを、不意の事故で取り上げられる。その先に待っているのは失意や寂しさ。
でも、ここで新しい夢や目標や打ち込めるものが出来た。それが合唱部。
合唱を諦めるということ。それは、バイオリンを失くしたのに続き、また、夢や目標や打ち込めるものを失くすことに繋がる。だから強迫的なほどの「諦めちゃ駄目」。
バイオリンを失った後の仁科さんが、どんな風に過ごしてきたのかは分かりません。でも、杉坂さんのこの激昂と、盲目的なほどの固執を見ると、ある程度想像できます。どれだけ失意の日々を過ごしてきたのか。どれだけ悔し涙を流してきたのか。どれだけ寂しい思いをしてきたのかを。
そこから立ち直る合唱部。それを失うってしまうと、また、あの頃の仁科さんに戻ってしまうかもしれない。だからこそ、杉坂はここまで強迫的に思う。
(※補足として、恐らくの推論ですが、この二人の付き合いの長さから、この状態の仁科さんは放っておけば折れてしまう、つまり「放っておけばりえちゃんは顧問を譲りかねない」と、杉坂は思ったのではないでしょうか。相手に対する理解もまた、この言葉を発させる因になっているのかも)
その後は、杉坂が一人で書いて一人で出した脅迫状。「演劇部を諦めろ。さもないと痛い目に遭うぞ」。何故これを書いて出したのかは、先のやり取りから推察できますね。「折れる」に傾いている仁科さん。あくまで仁科さんに折れてほしくない杉坂さん。「だからね、みんなが上手くいくには、どうしたらいいか考えてみよう。ね」の台詞の後の「考え」で、やはり『折れる』の方向、何かしら妥協する方向の考えに至ったのではないかと推測できます。
杉坂としては折れてほしくない。「りえちゃんは合唱、諦めちゃ駄目」と思ってる、下手すると『それしかない』くらいに思っていますから。しかしだからといって、無理矢理仁科さんに合唱部をやらせても意味はありません。『バイオリンに代わるもの』が第一義ですから、あくまでも仁科さんの意思で選び取った・見つけ出したものでなくては、意味が無い。
となると、杉坂さんとしては、このような行動を取ってもおかしくない。
脅迫状を送りつけてきた犯人=杉坂を春原が呼び出す。そこに一人でやってくる杉坂。
春原「感心に一人で来たみたいじゃん」
杉坂「手紙を出したのは、私一人の考えですから。仁科さんたちには関係ないです、悪いのは私だけです!」
これは本当に、杉坂さんらしい行動と発言です。「折れよう」としている仁科さんと、あくまで折らせたくない杉坂さん。仁科さんに無理強いしては意味がありません・あくまでも仁科さんの意思を尊重ですから、仁科さんに折らせない為には、暗躍して原因を取り除いた方が確実である。説得するよりも。(付き合いの長さから、説得できないという判断を下せたのかもしれません)(そもそも強迫的ですから、杉坂さんの判断力自体が鈍っていた可能性もありますが)。
「私一人」「関係ない」「私だけ」
これは言葉通りの意味、その言葉が真実で杉坂ひとりの意思でこうしている、という意味でもありますが、同時にこのことを仁科さんに知られたくないという杉坂の思いも見受けられます。この酷い反復には。
なんで知られたくないかというと、こんなことしっちゃったら仁科さんはソッコーで顧問を譲りかねないからでしょう(他にも意味はあるかもしれませんけど第一には)。
大した描写はされてませんが、初対面で・詳しい経緯事情も知らないのに・話をもちかけられて・すぐに折れようとする・仁科さんですから、相手に迷惑をかけたとなれば、より折れる方向に傾くであろうことは推察できます。

「仁科さんは、小さい頃からバイオリンを弾いていて、コンクールで何度も入賞したことがあるんです」
「大勢の人から才能を認められていて、留学もする予定でした」
「でも、それが決まる直前に……事故に遭って」
「握力が弱くなってしまって……」
「バイオリンも、前みたいに上手に弾けなくなっちゃって……」
「それでこの学校に入ったんですけど、ずっと寂しそうで……」
「……だから私たち、合唱部を作ろうって決めたんです!バイオリンは弾けなくても、歌はうたえます。仁科さんは、歌もすごく上手ですから!」
「お願いです、りえちゃんの邪魔をしないで下さい」
この時点では、泣いてはいません。
ちなみに、ここで初めて人前で「仁科さん」ではなく「りえちゃん」という呼び方を使います。

「そんな風に人の同情を誘うような奴は、卑怯者だ!」
「そんなハンデで贔屓されたいなんて考えが、甘すぎるんだよ!」
「そんなハンデで……!」
ここで。春原の言葉を受けて、初めて、杉坂は泣きます。
「そんな風に人の同情を誘うような奴は卑怯者」。そんなことは分かってたのでしょう。だから泣いた。
なんで『脅迫』なんて大胆で危険な行動を先にして、『同情を誘う』のような(脅迫に比べれば十分に)まっとうな説得手段を後に持ってきたのか。普通に考えたら逆でしょ?まず会話で同情を誘った方が安全だし、効果的。脅迫なんて下手に相手に敵愾心と警戒心を与えるし、そもそも犯罪。こんな弱みを相手に与えたら、交渉や説得としては大失敗。
それにも関わらず、なんでこの順番……しかもこの『ハンデ』の話を、積極的に語るではなく、渚に「お話しましょ?」と言われて初めて語り出す消極さは……春原の放った言葉を、重々理解していたからでしょう。春原の放った言葉、「そんなハンデで同情を誘う」が、どれだけ惨めで、どれだけ侮辱的なことか、それを杉坂が一番分かっているからです。
怪我をした。夢も目標も打ち込めるものも取り上げられた。苦しんだ。落ち込んで悔やんで悩んだ。そんな仁科さんの姿を杉坂は今まで見てきたワケです。新しく打ち込める目標に出会え、過去から脱却しようとしている今の仁科の姿も、杉坂はずっと見ているワケです。
そんな杉坂が、その仁科さんの苦悩を・悔いを・寂しさを、まるでダシのように使う。
まともに説得できない自分にとって、これがどれだけ惨めで情けないことか。りえちゃんにとって、これがどれだけ残酷で侮蔑的なことか。コイツはそのことを分かっている。だからここでこんだけ泣いてるんですよ。
ハンデをダシにして同情を誘うことは、そのハンデと向き合ってきた・向かい合っていること、立ち向かってきた・立ち向かっていること、乗り越えてきた・乗り越えていこうとすること、その全てを蔑ろにしてたかだか所詮の交渉材料に貶めてしまうという事でもあります。
そいつが分かっているから、誰もここで、渚の抱える・自身の抱えるハンデについて口にしない。例えば後の3on3の試合において朋也は、最初は幾らかゴネていましたが、やると決まったら自身の抱えるハンデについて口にしない。それを材料に使うのは、過去を貶め、現在を蔑ろにする行為ですから。
そのことをここで知った……もしくは改めて思い知ったからこそ杉坂は泣いたわけで、同時にここには、杉坂の未熟さと、それに対する反応……この涙と、それでもなお、頭を下げ続ける・懇願し続ける……つまりここに、"こうまでしてしまった"杉坂の思いの強さ・頑なさが見て取れたのです。
そんなワケで、僕としてはとてもじゃないけど責める気にはなれない、寧ろ好きになるくらい、という感じだったのです。
とはいえ、上に記したような僕なりの解釈があるから合唱部が許せるかというと、別にそんなことありませんよね。もちろん、許せる人もいると思います。けれど、そういう風に見てもやっぱ許せない・ムカつくという方もいらっしゃるでしょうし、そもそもそんな感じに受け止められないという方もいらっしゃるでしょう。そんな感じに受け止められないけど別にムカつかないぜ、という方もいらっしゃると思われます。
合唱部ムカつくという人もいれば。ああいう行動を取ったことに理解を持てなくもないという人もいる。あの行動の是非は別として、合唱部そのもの・ああいった思いは、寧ろ応援したいくらいという人もいるでしょう。
視聴者の中でも感じ方と意見が分かれるかと思います。
でも案外……案外ですよ、案外であって、そうではない人も勿論いらっしゃると思いますが。案外、これに対してムカつく人・ムカつかない人がいるということに、それぞれ別の立場の人同士でも、理解を示せるんじゃないでしょうか。
視聴者の中でも感じ方と意見が分かれるかと思います。
それと同じ様に、本編の中の渚・朋也・春原も、感じ方と意見が綺麗に分かれているのです。
渚はムカつかない・合唱部自体に対しては応援したいくらいに思っている。春原は超ムカついてる。朋也はどちらでもない……そもそも、渚にだいたいを委ねている。
この辺が、先に記した『理解を示せる』の根拠といいますか。
僕らそれぞれが、それぞれの感情・考えと、ベクトル上は似たようなモノをキャラクターが持っていて(最低でも自分が何処に視座を置くかの選択肢が3つの方向で存在していて)、自分の感情・考えと異なるベクトルの感情・考えを持つキャラクターが最低でも2人は存在している。
自分以外の感情・考えを持つ人物は既に作品内にいて、それぞれがどの様な感情を抱いているか・どの様な考えを持つかを、それなりに描写している。そして、その中のどれが『正しいか』というような、答えを示さない。通常の作品通り、自分の感性・考えに近いキャラクターに視点を置いて見ることが出来るかつ、自分に近くないキャラクターの感性・考え方も見ることができ、自分以外の感じ方・考えを多少は理解することが(理解は言い過ぎでも歩み寄ることくらいは)出来る。視聴者に対して批評的な視座を提供できていると思います。自分に近い感じ方・考え方のキャラクターと自分自身を参照するだけではなく、自分とは異なる感じ方・考え方を参照することができ、その差が、自分自身が映りこむ鏡になる。そしてそのどれもが、作品内において『正解』と言われることはない。
3on3の試合が、杉坂やバスケ部の面々に対し、どのような効果をもたらしたのかが細かくは言及されていなかったり(補足は下の※のところに)、どの感性・意見も、他の感性・意見を駆逐することなく場の主導権を握ることもなく(3on3に挑む動機が三者三様である)共存したり。どの考えを肯定するでもなく、どの考えを否定するでもない。
『ムカつく』という視点も、『ムカつかない』という視点も、等価値で共存できている。
(※17話冒頭の仁科さんに依りまくる杉坂の態度とか(話し合いの内容が不明瞭な所も含めて)、原作の話になりますが「試合なんかしなくてもこういう結果(顧問の兼任)になったんじゃないか」という朋也のモノローグと、試合に負けたらその結果にならないという事実)
なんでこんな形を取っているかというと、最終的には自分自身というか、個人的な問題、に落としているからかなと思います。
渚・朋也・春原の各キャラクターも、ふたつ、自分に対して参照的な対象を持っています。
ひとつは、視聴者と各キャラクターが参照可能であるのと同じ様に、渚・朋也・春原の演劇部側の面々と、仁科・杉坂・原田の合唱部側の面々が、それぞれ対称的であるということ。"演劇部→合唱部"、"合唱部→演劇部"の考えや対処の仕方が、渚・仁科、春原・杉坂、朋也・原田で、それぞれ近しい面があるのです。
ふたつめは、過去の自分自身。渚が何故ここですんなり受け入れる・そして応援までするのか。朋也が何故ここで渚に委ねるのか。自体に対して諦観気味なのか。春原が何故ここで怒るのか。それでいて、何故今回は手を出さない・暴れないのか。
それぞれ、似たような事象――誰も悪くないという状況での諦めざるを得ない事柄と、(朋也の場合は自身ではなく他人のことになりますが)打ち込んでいるものを取り上げられること(渚・仁科の両者に対し)、自分にとって非常に腹立たしいこと――に、過去、直面しています。そしてその対応。過去と同じ様な対応、過去を汲んでいるからこそ出せない対処、過去と異なる対応。
このふたつが、現在の彼ら自身が参照できるもの。
それと照らし合わせ、現在の自分の感性・考えは如何なるものであろうか。
その事に答えを出せるのは、恐らく自分自身だけでしょう。
作品は、物語は、誰も肯定せず誰も否定しない。では肯定や否定をするのは誰かというと、恐らく自分自身。もちろん、他人でも他者でも肯定否定はできる。しかしそこに説得力は伴わない。作品も物語も、正解を示していないのですから。ではその状況で、一番説得力を持った解答を導き出せるのは誰か。それはもう、自分自身しかいないのではないでしょうか。その為の批評的構造。その為の材料を提示している。
『ムカつく』という視点、『ムカつかない』という視点。
作品も物語も、その視点に対して、否定も肯定も行わない。あるのはただ、自分と同じ様な・似ている様な・ちょっとだけ似ている様な・結構違う様な・全然違う様な・理解できないレベルに違う様な、情報だけ。
そこには他人の感性と考えが詰まっている。そのどれもが否定も肯定もされず、そのどれもが等価値で。つまり、客観的な基準に依れば、自分の感性・意見と同じ価値で・同じ正しさで存在している。それは自分の感性・考えと参照することができる。それをどう扱うかは、正当が無い以上、作中キャラクターと同じく自分次第。意思の構築が自己参照であり、他者参照できる環境でありながら、解答は他者の中には存在しない(どれも上位には立っていないから)。
作品の話でいえば。視聴者の中に存在している他の視点に対する対処が、ここには既に構築されているということです。それをどう扱うかも正当が無い以上、作中キャラクターと同じく、自分次第、他者参照しつつも答えは自己参照、じゃないでしょうか。
とはいえ、返事をしたくない、というワケではございませんでして、もっとこう、質問だったり、雑談だったり、気になるようなことであれば、積極的に返していきたいなと思っております。たぶん(あいまい)。
と、そんな前置きをしつつ。先日頂いたWEB拍手のコメントで、
クラナドの合唱部は胸糞悪いというのを頂きまして、実は似たような感想を余所のサイト様でも少し拝見したこともありまして、ちょっと気になりましたのでその辺りについてお話したいと思います。
自分の弱さを盾にして、要求を通そうとする、手段は問わず脅迫さえもする
(※前後を少し省略しております)
前提としてひとつ記しておきたいのは。そう思うのは悪いとか良くないとか読みが足らないとか、そういうのではありません。どう思うか、どう感じるかなんて人それぞれですし、読みにも感情にも正解なんてあるわけない、視座によっていくらでも流動するものですし、そこを変えろとか言われてもお互いマジ無理ですし。顕示欲の足しにしかならない議論をしても、不毛過ぎます。
それだけだとこれ以上書いてもムダなんですけど、何気にこの京アニCLANNAD、そこのところも見越して作られている節が見受けられますので、その辺を記していきます。いきたいです。
【More】
ひとまず、僕個人の意見ですと、えー、合唱部に対しては、全然まったく少しもムカつきませんでした。
取りあえず僕が、何でそう思ったのかについて。一応記しておくと、杉坂や合唱部の弁護をしたいというわけでは間違ってもありません。念のため。
「仁科さんは、小さい頃からバイオリンを弾いていて、コンクールで何度も入賞したことがあるんです」
「大勢の人から才能を認められていて、留学もする予定でした」
「でも、それが決まる直前に……事故に遭って」
「握力が弱くなってしまって……」
「バイオリンも、前みたいに上手に弾けなくなっちゃって……」
「それでこの学校に入ったんですけど、ずっと寂しそうで……」
「……だから私たち、合唱部を作ろうって決めたんです!バイオリンは弾けなくても、歌はうたえます。仁科さんは、歌もすごく上手ですから!」
(仁科さんの『過去』のこと、春原曰く『ハンデ』のこと)
話を順に追っていくと、まず最初に、音楽室に居る仁科・杉坂・原田の合唱部の面々に対し、渚が演劇部と顧問の事情についてを話をしにいく場面――。
原田「どうするの、りえちゃん」
杉坂「先に幸村先生に話を持っていったのはコッチなんだから、遠慮することないよ」
仁科「でも……、幸村先生はもともと演劇部の顧問だし、先輩方は、今年一年しか活動できる時間が無いし……」
杉坂「……いいのっ!?合唱部、できなくなっちゃうかもしれないんだよ!りえちゃんは合唱、諦めちゃ駄目なんだよっ!」
仁科「だからね、みんなが上手くいくには、どうしたらいいか考えてみよう。ね」
(※原田はショートカットの子)


表情と台詞に注目です。
まず最初に杉坂は、「遠慮することない」と述べるように、仁科さんに対しかなり強い思いで、合唱部を続けて欲しいと思っています。……いや、かなり強い思いというか、コレ、強迫的な勢いで、合唱部を続けて欲しいと思っているのではないでしょうか。
どうするのかを問われた仁科さんは、演劇部に「折れる」ような思考を口にします。
それに対し杉坂は、顔を赤らめ激昂して、「りえちゃんは合唱、諦めちゃ駄目なんだよっ!」と口にします。
正直、めちゃくちゃ言ってます、この子。
先刻までは冷静に聞いていたんですよ。そりゃもちろん、仁科さんの意思がもっとも重要でもありますから。でも、仁科さんの話を聞いて、仁科さんが合唱部に折れそうな感じなのを見たら、顔を赤らめて激論。この時の台詞が、「りえちゃんは合唱、諦めちゃ駄目なんだよっ!」。
諦めちゃ駄目なんだよ、って、理屈としておかしいです。だって合唱以外の道も、無くはないワケじゃないですか、可能性として。それに目が行かないが如くの一言。なんとしてもコレ(合唱)を固持しようという一言。正直、少しおかしいくらいに固執していると思えるのですが、これは前述した『ハンデ』の部分に繋がっていきます。
夢・目標・打ち込めるもの。そういったものを、不意の事故で取り上げられる。その先に待っているのは失意や寂しさ。
でも、ここで新しい夢や目標や打ち込めるものが出来た。それが合唱部。
合唱を諦めるということ。それは、バイオリンを失くしたのに続き、また、夢や目標や打ち込めるものを失くすことに繋がる。だから強迫的なほどの「諦めちゃ駄目」。
バイオリンを失った後の仁科さんが、どんな風に過ごしてきたのかは分かりません。でも、杉坂さんのこの激昂と、盲目的なほどの固執を見ると、ある程度想像できます。どれだけ失意の日々を過ごしてきたのか。どれだけ悔し涙を流してきたのか。どれだけ寂しい思いをしてきたのかを。
そこから立ち直る合唱部。それを失うってしまうと、また、あの頃の仁科さんに戻ってしまうかもしれない。だからこそ、杉坂はここまで強迫的に思う。
(※補足として、恐らくの推論ですが、この二人の付き合いの長さから、この状態の仁科さんは放っておけば折れてしまう、つまり「放っておけばりえちゃんは顧問を譲りかねない」と、杉坂は思ったのではないでしょうか。相手に対する理解もまた、この言葉を発させる因になっているのかも)
その後は、杉坂が一人で書いて一人で出した脅迫状。「演劇部を諦めろ。さもないと痛い目に遭うぞ」。何故これを書いて出したのかは、先のやり取りから推察できますね。「折れる」に傾いている仁科さん。あくまで仁科さんに折れてほしくない杉坂さん。「だからね、みんなが上手くいくには、どうしたらいいか考えてみよう。ね」の台詞の後の「考え」で、やはり『折れる』の方向、何かしら妥協する方向の考えに至ったのではないかと推測できます。
杉坂としては折れてほしくない。「りえちゃんは合唱、諦めちゃ駄目」と思ってる、下手すると『それしかない』くらいに思っていますから。しかしだからといって、無理矢理仁科さんに合唱部をやらせても意味はありません。『バイオリンに代わるもの』が第一義ですから、あくまでも仁科さんの意思で選び取った・見つけ出したものでなくては、意味が無い。
となると、杉坂さんとしては、このような行動を取ってもおかしくない。
脅迫状を送りつけてきた犯人=杉坂を春原が呼び出す。そこに一人でやってくる杉坂。
春原「感心に一人で来たみたいじゃん」
杉坂「手紙を出したのは、私一人の考えですから。仁科さんたちには関係ないです、悪いのは私だけです!」
これは本当に、杉坂さんらしい行動と発言です。「折れよう」としている仁科さんと、あくまで折らせたくない杉坂さん。仁科さんに無理強いしては意味がありません・あくまでも仁科さんの意思を尊重ですから、仁科さんに折らせない為には、暗躍して原因を取り除いた方が確実である。説得するよりも。(付き合いの長さから、説得できないという判断を下せたのかもしれません)(そもそも強迫的ですから、杉坂さんの判断力自体が鈍っていた可能性もありますが)。
「私一人」「関係ない」「私だけ」
これは言葉通りの意味、その言葉が真実で杉坂ひとりの意思でこうしている、という意味でもありますが、同時にこのことを仁科さんに知られたくないという杉坂の思いも見受けられます。この酷い反復には。
なんで知られたくないかというと、こんなことしっちゃったら仁科さんはソッコーで顧問を譲りかねないからでしょう(他にも意味はあるかもしれませんけど第一には)。
大した描写はされてませんが、初対面で・詳しい経緯事情も知らないのに・話をもちかけられて・すぐに折れようとする・仁科さんですから、相手に迷惑をかけたとなれば、より折れる方向に傾くであろうことは推察できます。

「仁科さんは、小さい頃からバイオリンを弾いていて、コンクールで何度も入賞したことがあるんです」
「大勢の人から才能を認められていて、留学もする予定でした」
「でも、それが決まる直前に……事故に遭って」
「握力が弱くなってしまって……」
「バイオリンも、前みたいに上手に弾けなくなっちゃって……」
「それでこの学校に入ったんですけど、ずっと寂しそうで……」
「……だから私たち、合唱部を作ろうって決めたんです!バイオリンは弾けなくても、歌はうたえます。仁科さんは、歌もすごく上手ですから!」
「お願いです、りえちゃんの邪魔をしないで下さい」
この時点では、泣いてはいません。
ちなみに、ここで初めて人前で「仁科さん」ではなく「りえちゃん」という呼び方を使います。

「そんな風に人の同情を誘うような奴は、卑怯者だ!」
「そんなハンデで贔屓されたいなんて考えが、甘すぎるんだよ!」
「そんなハンデで……!」
ここで。春原の言葉を受けて、初めて、杉坂は泣きます。
「そんな風に人の同情を誘うような奴は卑怯者」。そんなことは分かってたのでしょう。だから泣いた。
なんで『脅迫』なんて大胆で危険な行動を先にして、『同情を誘う』のような(脅迫に比べれば十分に)まっとうな説得手段を後に持ってきたのか。普通に考えたら逆でしょ?まず会話で同情を誘った方が安全だし、効果的。脅迫なんて下手に相手に敵愾心と警戒心を与えるし、そもそも犯罪。こんな弱みを相手に与えたら、交渉や説得としては大失敗。
それにも関わらず、なんでこの順番……しかもこの『ハンデ』の話を、積極的に語るではなく、渚に「お話しましょ?」と言われて初めて語り出す消極さは……春原の放った言葉を、重々理解していたからでしょう。春原の放った言葉、「そんなハンデで同情を誘う」が、どれだけ惨めで、どれだけ侮辱的なことか、それを杉坂が一番分かっているからです。
怪我をした。夢も目標も打ち込めるものも取り上げられた。苦しんだ。落ち込んで悔やんで悩んだ。そんな仁科さんの姿を杉坂は今まで見てきたワケです。新しく打ち込める目標に出会え、過去から脱却しようとしている今の仁科の姿も、杉坂はずっと見ているワケです。
そんな杉坂が、その仁科さんの苦悩を・悔いを・寂しさを、まるでダシのように使う。
まともに説得できない自分にとって、これがどれだけ惨めで情けないことか。りえちゃんにとって、これがどれだけ残酷で侮蔑的なことか。コイツはそのことを分かっている。だからここでこんだけ泣いてるんですよ。
ハンデをダシにして同情を誘うことは、そのハンデと向き合ってきた・向かい合っていること、立ち向かってきた・立ち向かっていること、乗り越えてきた・乗り越えていこうとすること、その全てを蔑ろにしてたかだか所詮の交渉材料に貶めてしまうという事でもあります。
そいつが分かっているから、誰もここで、渚の抱える・自身の抱えるハンデについて口にしない。例えば後の3on3の試合において朋也は、最初は幾らかゴネていましたが、やると決まったら自身の抱えるハンデについて口にしない。それを材料に使うのは、過去を貶め、現在を蔑ろにする行為ですから。
そのことをここで知った……もしくは改めて思い知ったからこそ杉坂は泣いたわけで、同時にここには、杉坂の未熟さと、それに対する反応……この涙と、それでもなお、頭を下げ続ける・懇願し続ける……つまりここに、"こうまでしてしまった"杉坂の思いの強さ・頑なさが見て取れたのです。
そんなワケで、僕としてはとてもじゃないけど責める気にはなれない、寧ろ好きになるくらい、という感じだったのです。
とはいえ、上に記したような僕なりの解釈があるから合唱部が許せるかというと、別にそんなことありませんよね。もちろん、許せる人もいると思います。けれど、そういう風に見てもやっぱ許せない・ムカつくという方もいらっしゃるでしょうし、そもそもそんな感じに受け止められないという方もいらっしゃるでしょう。そんな感じに受け止められないけど別にムカつかないぜ、という方もいらっしゃると思われます。
合唱部ムカつくという人もいれば。ああいう行動を取ったことに理解を持てなくもないという人もいる。あの行動の是非は別として、合唱部そのもの・ああいった思いは、寧ろ応援したいくらいという人もいるでしょう。
視聴者の中でも感じ方と意見が分かれるかと思います。
でも案外……案外ですよ、案外であって、そうではない人も勿論いらっしゃると思いますが。案外、これに対してムカつく人・ムカつかない人がいるということに、それぞれ別の立場の人同士でも、理解を示せるんじゃないでしょうか。
視聴者の中でも感じ方と意見が分かれるかと思います。
それと同じ様に、本編の中の渚・朋也・春原も、感じ方と意見が綺麗に分かれているのです。
渚はムカつかない・合唱部自体に対しては応援したいくらいに思っている。春原は超ムカついてる。朋也はどちらでもない……そもそも、渚にだいたいを委ねている。
この辺が、先に記した『理解を示せる』の根拠といいますか。
僕らそれぞれが、それぞれの感情・考えと、ベクトル上は似たようなモノをキャラクターが持っていて(最低でも自分が何処に視座を置くかの選択肢が3つの方向で存在していて)、自分の感情・考えと異なるベクトルの感情・考えを持つキャラクターが最低でも2人は存在している。
自分以外の感情・考えを持つ人物は既に作品内にいて、それぞれがどの様な感情を抱いているか・どの様な考えを持つかを、それなりに描写している。そして、その中のどれが『正しいか』というような、答えを示さない。通常の作品通り、自分の感性・考えに近いキャラクターに視点を置いて見ることが出来るかつ、自分に近くないキャラクターの感性・考え方も見ることができ、自分以外の感じ方・考えを多少は理解することが(理解は言い過ぎでも歩み寄ることくらいは)出来る。視聴者に対して批評的な視座を提供できていると思います。自分に近い感じ方・考え方のキャラクターと自分自身を参照するだけではなく、自分とは異なる感じ方・考え方を参照することができ、その差が、自分自身が映りこむ鏡になる。そしてそのどれもが、作品内において『正解』と言われることはない。
3on3の試合が、杉坂やバスケ部の面々に対し、どのような効果をもたらしたのかが細かくは言及されていなかったり(補足は下の※のところに)、どの感性・意見も、他の感性・意見を駆逐することなく場の主導権を握ることもなく(3on3に挑む動機が三者三様である)共存したり。どの考えを肯定するでもなく、どの考えを否定するでもない。
『ムカつく』という視点も、『ムカつかない』という視点も、等価値で共存できている。
(※17話冒頭の仁科さんに依りまくる杉坂の態度とか(話し合いの内容が不明瞭な所も含めて)、原作の話になりますが「試合なんかしなくてもこういう結果(顧問の兼任)になったんじゃないか」という朋也のモノローグと、試合に負けたらその結果にならないという事実)
なんでこんな形を取っているかというと、最終的には自分自身というか、個人的な問題、に落としているからかなと思います。
渚・朋也・春原の各キャラクターも、ふたつ、自分に対して参照的な対象を持っています。
ひとつは、視聴者と各キャラクターが参照可能であるのと同じ様に、渚・朋也・春原の演劇部側の面々と、仁科・杉坂・原田の合唱部側の面々が、それぞれ対称的であるということ。"演劇部→合唱部"、"合唱部→演劇部"の考えや対処の仕方が、渚・仁科、春原・杉坂、朋也・原田で、それぞれ近しい面があるのです。
ふたつめは、過去の自分自身。渚が何故ここですんなり受け入れる・そして応援までするのか。朋也が何故ここで渚に委ねるのか。自体に対して諦観気味なのか。春原が何故ここで怒るのか。それでいて、何故今回は手を出さない・暴れないのか。
それぞれ、似たような事象――誰も悪くないという状況での諦めざるを得ない事柄と、(朋也の場合は自身ではなく他人のことになりますが)打ち込んでいるものを取り上げられること(渚・仁科の両者に対し)、自分にとって非常に腹立たしいこと――に、過去、直面しています。そしてその対応。過去と同じ様な対応、過去を汲んでいるからこそ出せない対処、過去と異なる対応。
このふたつが、現在の彼ら自身が参照できるもの。
それと照らし合わせ、現在の自分の感性・考えは如何なるものであろうか。
その事に答えを出せるのは、恐らく自分自身だけでしょう。
作品は、物語は、誰も肯定せず誰も否定しない。では肯定や否定をするのは誰かというと、恐らく自分自身。もちろん、他人でも他者でも肯定否定はできる。しかしそこに説得力は伴わない。作品も物語も、正解を示していないのですから。ではその状況で、一番説得力を持った解答を導き出せるのは誰か。それはもう、自分自身しかいないのではないでしょうか。その為の批評的構造。その為の材料を提示している。
『ムカつく』という視点、『ムカつかない』という視点。
作品も物語も、その視点に対して、否定も肯定も行わない。あるのはただ、自分と同じ様な・似ている様な・ちょっとだけ似ている様な・結構違う様な・全然違う様な・理解できないレベルに違う様な、情報だけ。
そこには他人の感性と考えが詰まっている。そのどれもが否定も肯定もされず、そのどれもが等価値で。つまり、客観的な基準に依れば、自分の感性・意見と同じ価値で・同じ正しさで存在している。それは自分の感性・考えと参照することができる。それをどう扱うかは、正当が無い以上、作中キャラクターと同じく自分次第。意思の構築が自己参照であり、他者参照できる環境でありながら、解答は他者の中には存在しない(どれも上位には立っていないから)。
作品の話でいえば。視聴者の中に存在している他の視点に対する対処が、ここには既に構築されているということです。それをどう扱うかも正当が無い以上、作中キャラクターと同じく、自分次第、他者参照しつつも答えは自己参照、じゃないでしょうか。
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