2008'03.05 (Wed) 00:16
さて、今回は。堀口悠紀子さんが作画監督をされていて、それで他の回とは少し異なる絵柄になったようです。……や、その辺の事情はよく分かんないのですが、他の方のご意見とか拝見するかぎり、そんな感じらしいです。
僕個人としてはこの絵の感じはすごい好きで。今回はついつい、『絵』ばかりを注目して視てしまいました。
それで思ったのが、やはり『細かい』ということ。
非常に細かい所まで気を遣っていると思うのです。
例えばキャラクターが動いている場面で、"無駄な動き"をさせている所が結構あります。感情を表現するだけなら、もっと単純な動きでも構わないのに、そこに敢えて、その感情の表現という観点からは非効率にあたる"無駄な動き"を行わせる。
人間には"無駄な動き"が多いですから、それだけでリアリティが生じるとも言えますが、もう少し細かく砕くと。
表現から見て非効率にあたる動きが入っているというのが、動きそのものを只の記号にすることなく、その余剰にも意味を見出せるという点で、結果的にリアリティを持った表現になっているのではないか、と考えられます。

しかし、見てるとホント細かいです。
例えばここ、学校から帰ってきた場面。玄関に小さな靴が8足並んでて、客間に居る古河塾の生徒の数がちょうど8人だとか。

「なっちゃんのピンチ」とか言って朋也に蹴りを入れた男の子が、ちゃんと朋也となっちゃんの間に入るように――朋也からなっちゃんをガードできるポジションに座ったりとか。

智代が口を開いた直後……もしくは、幸村が「どれだけ大変かは~」と少し煽った直後に、ことみが朋也の腕をさりげなく掴んでいるとか(ことみと智代は面識なし)。


春原が近づいたとき、さりげなく、しかしもの凄い勢いで逃げる椋とかw
や、いつも細かくて丁寧だと思うんですけど、注目して視るとこんな所も非常に細かい。
といいつつも。今回一番細かいのは、やはり朋也に対する絵ですね。
Aパートにおける、朋也の歩く・走る場面におけるカメラの位置が特徴的。とりあえず、朋也が家を出るまでのところを、順番にピックアップしてみましょう。
※歩いてる・走ってる朋也に対するカメラの位置。「横から」なら朋也は左側・右側に向かっている、「後から」なら朋也は奥の方に向かっている、といった具合です。
※一歩や二歩程度の歩きの初期動作や方向転換時のちょっとした足踏みはもちろん除きます。
赤い字が、朋也の進行方向に対し前から写しているカメラアングルです。
家庭訪問をしようという教師と、そこから逃げる朋也。なぜ逃げるのかというと、教師と親父が会うと確実に、「自分のことを息子として扱わない父」という朋也にとって見たくないモノを見せられるからでしょう。
そこで朋也は逃げる。渚と一緒だと行ってみる気になりかねないから、渚からも逃げる。一旦は渚に捕まって、教師としぶしぶ家に向かうけれど、そこからも逃げる。その途中で渚に捕まり、渚に連れられ家に戻り、想定通りの親父の姿を確認し、そこを立ち去る。その後、渚の提案に乗って古河家で暮らすことにし、荷物を取りに家に戻る。
そこにおいて、歩いている・走っている朋也の姿を、前から写しているカメラアングルが圧倒的に少ないのです。
我ながら驚くほどありふれた考え方ですけど、前へと向かっているアングル・こちらに向かっているアングルの場面の朋也は、横・奥・後に向かうことの意味との対比からみても、「嘘を吐いていない」「逃げていない(=決断している)」、そして見たまんま「前を向けている」というように考えました。
『カメラを視聴者の眼』とする考え方に基づけば、嘘・逃げ・非決断・非前向きというどっちつかず(後述)のように視聴者に見えた朋也くんが、そうではない姿を視聴者側に見せている、といったニュアンスです(歩いているとはいえ決してカメラの方に近づいているワケではないので、『見せる』程度の表現が妥当かと思われます)。

最初の「前からのアングル」は、親父問題についてを逃げ回ってごまかしてやり過ごそうとしまくった後の、渚に対し放った、親父問題とは関係ない一言。「俺の言葉が信じられないのか」。ここには嘘もごまかしも逃げもありません(ただ『斜め』前からになっているように、本題(親父の事)に対する前向きさや決断もありません)。

次の「前からのアングル」は、渚に連れられ家に戻る所。直前の「岡崎さん、ちゃんとついてきて下さいね」という渚の言葉に、朋也は返事をしなかったのですが、このアングルが返事の代わりとなっています。 そのことに対して逃げるつもりでも非決断的でもないよという意味での前からのアングル。
上記「前から写している場面」における朋也の心境や言動が、他のアングルの場面に比べ、「嘘を吐いていない」「逃げていない(=決断している)」「前を向けている」に寄っているように見えます。
それを踏まえた上で、後の2つ。
渚と一緒に親父から立ち去ったところ。(前に話したろ。親父と喧嘩して、肩を痛めてバスケができなくなったって)。この場で喋っているのではなく、恐らく少し前に喋ったことを反芻している形だと思われます。
最後、家から出て行くところ。親父から出て行くところ。
当たり前ですが、言葉を発したところで、行動を起こしたところで、その言動が、本人が本当に思っていることとは限りません。
また、本人が思う、自身の感情や思考が、本人が本当に思っていることとは限りません。
僕としては。朋也くんは、父親が嫌いだと口では言ってますけど、あまりそうには見えないんですよ。
本当に嫌ってるなら。寝ている親父に近づかず、何も言わず・書置き残すくらいで、とっとと出て行けばいい。「朋也くんはいい話し相手」と言われた時に、話を合わせたような返答をせず、怒鳴りつけてやればいい。文句の一つでも言ってやればいい。近づかなきゃいい。喋らなきゃいい。「そんなとこで寝てると風邪引くぞ」だなんて、心配したり、話しかけたりしなきゃいい。家を離れたいならさっさと離れればいい。春原の家にでも泊まればいいんだ。自分の中の何かの一線を越えそうだかって泊まるのを拒んでいた春原ん家にでも、逃げ込めばいい。
嫌ってるんじゃなくて。朋也は、求めているように見えるんです。普通の親子の関係に戻れることを。
それを諦めてないから……望みを捨てたわけじゃないから、こういう行動をしている。
自分が出て行くことを言えば、変わるかもしれないと思って、寝ている親父に近づく。本当に出て行くときになったら、変わるかもしれないという望みを持って、一線を越えない、話を合わせている。もしかしたら今日は普通の父親に戻ってるかもしれないという望みを持って、話しかけるきっかけ――「そんなとこで寝てると風邪引くぞ」――を見つけて、話しかける。まだ普通の親子の関係になる望みを捨ててないから、諦めてないから、春原の家に泊まるという一線を越えない。それをやっちゃうと……嫌だからって逃げちゃうと、その嫌に耐えて持ち続けている望みを捨てない心が、諦めない気持ちが、折れてしまうから。だから、たとえ嫌でも、自分の"家"には帰る、自分の家で寝る。
朋也の行動は、親父が嫌いだというその言葉とは異なって見える。
今現在の親父は、親父との関係は、もちろん好んでいない。でも、親父そのものを嫌っているわけではないと思います。嫌いなのは、今の"関係"。違う関係ならば好ましいからこそ、そう思いそうなる望みを捨ててないからこそ、その様な行動をしている。朋也の行動は言葉と乖離している。
そのことに対して、朋也自身は無自覚。自分では嫌いで、とっくに諦めてる・終わってると思っていても、行動は必ずしもそうだったとは言えません。

「前から見たアングル」の3箇所目。
「前に(渚に)話したこと」も、「親父と喧嘩して肩を痛めてバスケができなくなったこと」も本当のこと、事実なんですけど、「あの人の中で俺はもう息子じゃない」ことも、「同じ屋根の下で別々に暮らしてきた」ことも、本当のことなのか・事実なのかは分かりかねるのです。そして、朋也本人の心の中においても、それが本当のことなのか・事実なのか分かりかねる。口では言っているけど、本当にそう思ってるのか、分かりかねる。
親父の事を嫌いと言いながらも、諦めてる・終わっていると言いながらも、行動は決してそうではなかった。思考では親父との関係は終わっている・終わらせてしまおうと思いつつも、終わらせる決断を下せなかったし、決断を下したくなるようなシチュエーションから逃げていた。
歩く・走る……。しかし、視聴者から見て横・奥・後へと進んでいく姿は、"進む"でありながらも、前向きとも決意ともかけ離れた逃げと嘘で出来ていた。
その中で、この「前からのアングル」は嘘ではなく逃げでもなく決断であり前向きである。
この最後の。

・前から (朋也「じゃあ、行くから」)
親父に別れを告げ、家を出て行く場面は「前からのアングル」。
ここが「前からのアングル」であるのは、非常に重要だと思います。
これを、嘘でも、逃げでもなくて、前向きな決断だと捉えることは。
言葉では終わったといいながら、諦めてると言いながら、行動からは終わっていない・諦めてもいないという節が見受けられる。そう、非常に中途半端で、前向きでも何向きでもなく、決断もしていなかったのです。必死でもなく、頑張ってもなく、信じてもいない。けど、その真逆という程でもない。終わってないと思われるような行動だけど、真に終わってない・まだ頑張ろうという行動には見えず。諦めてる姿にはまだ遠いけど、信じている姿にもやはり遠い。
決めかねている、というよりも、決めれていない。
親父を捨てるという決断には遠いし、親父を信じるという決意にも遠い。
彼の親父に対する態度は、どっちつかずのものだった。中途半端なものだったのです。
ここにきて、朋也は、『捨てる』という決断を下した。逃げるではなく捨てるという決断。中途半端な、諦めきれない気持ちも終わってないと思う気持ちも、全部を捨てる。これでようやく前向きになれたんです。縛っていたものが無くなった。中途半端な、どっちつかずの気持ちというのが無くなった。どっちつかずだと、"どっちにも進めない"ですからね。
それを決断することができた。片一方を捨て、片一方を選ぶことができた。
これでようやく、前へと――決断した方向へと、歩くことができるのです。
「白黒つけた」のです。中途半端だった思いに。

これは朋也のエプロンにも表れています。「白黒をつける」。
ただしかし、かつての(Aパートの)朋也のどっちつかずな中途半端な思いもまた、このエプロンと同じ「白と黒」「陰と陽」の構図でもあります。気持ちや思いは、一色に染め抜かれていない。それどころか、どちら側にもつけず、相反する色が同時に存在している。
今の朋也は。捨てると決断しながら、本当はどうなのか。彼の気持ちは、思いは、完全に一色に染まっているのでしょうか。
それとも、「エプロン=前掛け」、つまり前だけ、表面的には渚の「距離を置けば~」に頷いておき、二色を保っているように見せながらも、エプロンがかかっていない裏側では一色に染まっているのでしょうか。親父を完全に捨てるという一色に。
そういったものが、このエプロンにも表れています(注:超深読み)。
(深読みついでに、このエプロンにも描かれているパンダという生き物は、基本、群れや家族を持たず、一人で行動します)
えー、エプロンはともかく。
朋也にとっての新しいはじまり、新しい生活ですね。
最初の方は、もちろん戸惑いがあります。「いってきます」の挨拶とか、渚と一緒に登校することとか。
でも慣れればすぐに、この新しい生活を、新しい道を、前向きに一歩踏み出しているのではないでしょうか。先に「歩く時の前からのカメラアングル」の話をしましたが、最初を越えて慣れてきたさき(つまりBパート以降)、朋也が歩いた場面は、全て『前からのカメラアングル』でした。
嘘もなく逃げもなく、前向きにこの生活を、この道を決断していく。
その思いが見える第19回『新しい生活』でした。
僕個人としてはこの絵の感じはすごい好きで。今回はついつい、『絵』ばかりを注目して視てしまいました。
それで思ったのが、やはり『細かい』ということ。
非常に細かい所まで気を遣っていると思うのです。
例えばキャラクターが動いている場面で、"無駄な動き"をさせている所が結構あります。感情を表現するだけなら、もっと単純な動きでも構わないのに、そこに敢えて、その感情の表現という観点からは非効率にあたる"無駄な動き"を行わせる。
人間には"無駄な動き"が多いですから、それだけでリアリティが生じるとも言えますが、もう少し細かく砕くと。
表現から見て非効率にあたる動きが入っているというのが、動きそのものを只の記号にすることなく、その余剰にも意味を見出せるという点で、結果的にリアリティを持った表現になっているのではないか、と考えられます。
【More】

しかし、見てるとホント細かいです。
例えばここ、学校から帰ってきた場面。玄関に小さな靴が8足並んでて、客間に居る古河塾の生徒の数がちょうど8人だとか。

「なっちゃんのピンチ」とか言って朋也に蹴りを入れた男の子が、ちゃんと朋也となっちゃんの間に入るように――朋也からなっちゃんをガードできるポジションに座ったりとか。

智代が口を開いた直後……もしくは、幸村が「どれだけ大変かは~」と少し煽った直後に、ことみが朋也の腕をさりげなく掴んでいるとか(ことみと智代は面識なし)。


春原が近づいたとき、さりげなく、しかしもの凄い勢いで逃げる椋とかw
や、いつも細かくて丁寧だと思うんですけど、注目して視るとこんな所も非常に細かい。
といいつつも。今回一番細かいのは、やはり朋也に対する絵ですね。
Aパートにおける、朋也の歩く・走る場面におけるカメラの位置が特徴的。とりあえず、朋也が家を出るまでのところを、順番にピックアップしてみましょう。
※歩いてる・走ってる朋也に対するカメラの位置。「横から」なら朋也は左側・右側に向かっている、「後から」なら朋也は奥の方に向かっている、といった具合です。
※一歩や二歩程度の歩きの初期動作や方向転換時のちょっとした足踏みはもちろん除きます。
・前から(正面向いたまま後に歩く朋也)
・横から
・横から (朋也「んなこたどーでもいい、俺は帰る」)
・後から (渚「さっきと言ってることが」)
・横から (渚「岡崎さん、夢中で掴めって」)
・上から (朋也「その話は後でな」)
・横から (朋也「なんでついて来るんだ」)
・横から (「3年B組、岡崎朋也」の放送)
・上から (朋也「引っ張らなくても逃げないって」)
・前、少し斜め (朋也「俺の言葉が信じられないのか」)
・斜め横から (先生「お前のところ、小さいときから家族は親父さん一人~」 朋也「ああ」)
・横 (朋也「出かけてるみたいだ」)
・後から (朋也「俺、親父探してくる」)
・横から (信号のとこ)
・横から (渚「岡崎さん、ちゃんとついてきて下さいね」)
・前から
・後上方から
・横から (朋也の家のすぐ近く)
・上から (ああいう人なんだよ。あの人の中では、俺はもう息子じゃないんだ)
・前から (前に話したろ。親父と喧嘩して、肩を痛めてバスケができなくなったって)
・横から (あの時から、ずっとあんなふうなんだ。同じ屋根の下で別々に暮らしてきた)
・横から
・横から
・上から
・横から
・横から
・後から
・前から (朋也「じゃあ、行くから」)
赤い字が、朋也の進行方向に対し前から写しているカメラアングルです。
家庭訪問をしようという教師と、そこから逃げる朋也。なぜ逃げるのかというと、教師と親父が会うと確実に、「自分のことを息子として扱わない父」という朋也にとって見たくないモノを見せられるからでしょう。
そこで朋也は逃げる。渚と一緒だと行ってみる気になりかねないから、渚からも逃げる。一旦は渚に捕まって、教師としぶしぶ家に向かうけれど、そこからも逃げる。その途中で渚に捕まり、渚に連れられ家に戻り、想定通りの親父の姿を確認し、そこを立ち去る。その後、渚の提案に乗って古河家で暮らすことにし、荷物を取りに家に戻る。
そこにおいて、歩いている・走っている朋也の姿を、前から写しているカメラアングルが圧倒的に少ないのです。
我ながら驚くほどありふれた考え方ですけど、前へと向かっているアングル・こちらに向かっているアングルの場面の朋也は、横・奥・後に向かうことの意味との対比からみても、「嘘を吐いていない」「逃げていない(=決断している)」、そして見たまんま「前を向けている」というように考えました。
『カメラを視聴者の眼』とする考え方に基づけば、嘘・逃げ・非決断・非前向きというどっちつかず(後述)のように視聴者に見えた朋也くんが、そうではない姿を視聴者側に見せている、といったニュアンスです(歩いているとはいえ決してカメラの方に近づいているワケではないので、『見せる』程度の表現が妥当かと思われます)。

最初の「前からのアングル」は、親父問題についてを逃げ回ってごまかしてやり過ごそうとしまくった後の、渚に対し放った、親父問題とは関係ない一言。「俺の言葉が信じられないのか」。ここには嘘もごまかしも逃げもありません(ただ『斜め』前からになっているように、本題(親父の事)に対する前向きさや決断もありません)。

次の「前からのアングル」は、渚に連れられ家に戻る所。直前の「岡崎さん、ちゃんとついてきて下さいね」という渚の言葉に、朋也は返事をしなかったのですが、このアングルが返事の代わりとなっています。 そのことに対して逃げるつもりでも非決断的でもないよという意味での前からのアングル。
上記「前から写している場面」における朋也の心境や言動が、他のアングルの場面に比べ、「嘘を吐いていない」「逃げていない(=決断している)」「前を向けている」に寄っているように見えます。
それを踏まえた上で、後の2つ。
渚と一緒に親父から立ち去ったところ。(前に話したろ。親父と喧嘩して、肩を痛めてバスケができなくなったって)。この場で喋っているのではなく、恐らく少し前に喋ったことを反芻している形だと思われます。
最後、家から出て行くところ。親父から出て行くところ。
当たり前ですが、言葉を発したところで、行動を起こしたところで、その言動が、本人が本当に思っていることとは限りません。
また、本人が思う、自身の感情や思考が、本人が本当に思っていることとは限りません。
僕としては。朋也くんは、父親が嫌いだと口では言ってますけど、あまりそうには見えないんですよ。
本当に嫌ってるなら。寝ている親父に近づかず、何も言わず・書置き残すくらいで、とっとと出て行けばいい。「朋也くんはいい話し相手」と言われた時に、話を合わせたような返答をせず、怒鳴りつけてやればいい。文句の一つでも言ってやればいい。近づかなきゃいい。喋らなきゃいい。「そんなとこで寝てると風邪引くぞ」だなんて、心配したり、話しかけたりしなきゃいい。家を離れたいならさっさと離れればいい。春原の家にでも泊まればいいんだ。自分の中の何かの一線を越えそうだかって泊まるのを拒んでいた春原ん家にでも、逃げ込めばいい。
嫌ってるんじゃなくて。朋也は、求めているように見えるんです。普通の親子の関係に戻れることを。
それを諦めてないから……望みを捨てたわけじゃないから、こういう行動をしている。
自分が出て行くことを言えば、変わるかもしれないと思って、寝ている親父に近づく。本当に出て行くときになったら、変わるかもしれないという望みを持って、一線を越えない、話を合わせている。もしかしたら今日は普通の父親に戻ってるかもしれないという望みを持って、話しかけるきっかけ――「そんなとこで寝てると風邪引くぞ」――を見つけて、話しかける。まだ普通の親子の関係になる望みを捨ててないから、諦めてないから、春原の家に泊まるという一線を越えない。それをやっちゃうと……嫌だからって逃げちゃうと、その嫌に耐えて持ち続けている望みを捨てない心が、諦めない気持ちが、折れてしまうから。だから、たとえ嫌でも、自分の"家"には帰る、自分の家で寝る。
朋也の行動は、親父が嫌いだというその言葉とは異なって見える。
今現在の親父は、親父との関係は、もちろん好んでいない。でも、親父そのものを嫌っているわけではないと思います。嫌いなのは、今の"関係"。違う関係ならば好ましいからこそ、そう思いそうなる望みを捨ててないからこそ、その様な行動をしている。朋也の行動は言葉と乖離している。
そのことに対して、朋也自身は無自覚。自分では嫌いで、とっくに諦めてる・終わってると思っていても、行動は必ずしもそうだったとは言えません。

「前から見たアングル」の3箇所目。
・上から (ああいう人なんだよ。あの人の中では、俺はもう息子じゃないんだ)渚と歩きながら、恐らく少し前に話したであろうことを反復しているのですが、ここで前からのアングルなのは(前に話したろ。親父と喧嘩して、肩を痛めてバスケができなくなったって)の部分だけなんですね。そして実は、ここだけが"本当のこと"を話しています。
・前から (前に話したろ。親父と喧嘩して、肩を痛めてバスケができなくなったって)
・横から (あの時から、ずっとあんなふうなんだ。同じ屋根の下で別々に暮らしてきた)
「前に(渚に)話したこと」も、「親父と喧嘩して肩を痛めてバスケができなくなったこと」も本当のこと、事実なんですけど、「あの人の中で俺はもう息子じゃない」ことも、「同じ屋根の下で別々に暮らしてきた」ことも、本当のことなのか・事実なのかは分かりかねるのです。そして、朋也本人の心の中においても、それが本当のことなのか・事実なのか分かりかねる。口では言っているけど、本当にそう思ってるのか、分かりかねる。
親父の事を嫌いと言いながらも、諦めてる・終わっていると言いながらも、行動は決してそうではなかった。思考では親父との関係は終わっている・終わらせてしまおうと思いつつも、終わらせる決断を下せなかったし、決断を下したくなるようなシチュエーションから逃げていた。
歩く・走る……。しかし、視聴者から見て横・奥・後へと進んでいく姿は、"進む"でありながらも、前向きとも決意ともかけ離れた逃げと嘘で出来ていた。
その中で、この「前からのアングル」は嘘ではなく逃げでもなく決断であり前向きである。
この最後の。

・前から (朋也「じゃあ、行くから」)
親父に別れを告げ、家を出て行く場面は「前からのアングル」。
ここが「前からのアングル」であるのは、非常に重要だと思います。
これを、嘘でも、逃げでもなくて、前向きな決断だと捉えることは。
言葉では終わったといいながら、諦めてると言いながら、行動からは終わっていない・諦めてもいないという節が見受けられる。そう、非常に中途半端で、前向きでも何向きでもなく、決断もしていなかったのです。必死でもなく、頑張ってもなく、信じてもいない。けど、その真逆という程でもない。終わってないと思われるような行動だけど、真に終わってない・まだ頑張ろうという行動には見えず。諦めてる姿にはまだ遠いけど、信じている姿にもやはり遠い。
決めかねている、というよりも、決めれていない。
親父を捨てるという決断には遠いし、親父を信じるという決意にも遠い。
彼の親父に対する態度は、どっちつかずのものだった。中途半端なものだったのです。
ここにきて、朋也は、『捨てる』という決断を下した。逃げるではなく捨てるという決断。中途半端な、諦めきれない気持ちも終わってないと思う気持ちも、全部を捨てる。これでようやく前向きになれたんです。縛っていたものが無くなった。中途半端な、どっちつかずの気持ちというのが無くなった。どっちつかずだと、"どっちにも進めない"ですからね。
それを決断することができた。片一方を捨て、片一方を選ぶことができた。
これでようやく、前へと――決断した方向へと、歩くことができるのです。
「白黒つけた」のです。中途半端だった思いに。

これは朋也のエプロンにも表れています。「白黒をつける」。
ただしかし、かつての(Aパートの)朋也のどっちつかずな中途半端な思いもまた、このエプロンと同じ「白と黒」「陰と陽」の構図でもあります。気持ちや思いは、一色に染め抜かれていない。それどころか、どちら側にもつけず、相反する色が同時に存在している。
今の朋也は。捨てると決断しながら、本当はどうなのか。彼の気持ちは、思いは、完全に一色に染まっているのでしょうか。
それとも、「エプロン=前掛け」、つまり前だけ、表面的には渚の「距離を置けば~」に頷いておき、二色を保っているように見せながらも、エプロンがかかっていない裏側では一色に染まっているのでしょうか。親父を完全に捨てるという一色に。
そういったものが、このエプロンにも表れています(注:超深読み)。
(深読みついでに、このエプロンにも描かれているパンダという生き物は、基本、群れや家族を持たず、一人で行動します)
えー、エプロンはともかく。
朋也にとっての新しいはじまり、新しい生活ですね。
最初の方は、もちろん戸惑いがあります。「いってきます」の挨拶とか、渚と一緒に登校することとか。
でも慣れればすぐに、この新しい生活を、新しい道を、前向きに一歩踏み出しているのではないでしょうか。先に「歩く時の前からのカメラアングル」の話をしましたが、最初を越えて慣れてきたさき(つまりBパート以降)、朋也が歩いた場面は、全て『前からのカメラアングル』でした。
嘘もなく逃げもなく、前向きにこの生活を、この道を決断していく。
その思いが見える第19回『新しい生活』でした。
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