2008'03.16 (Sun) 06:20
劇場版『CLANNAD』 DVD(通常版)
(2008/03/07)
野島健児、桑島法子 他
商品詳細を見る
『劇場版CLANNAD』。期待度が低かったのもありますが、思ったよりも良かったです。
で、こういう、使える時間が短い尺のお話だと、『選択と集中』が非常に大事になるなと思ったのです(原作モノで、原作が長かったりすると特に)。
物語においてはあるとあらゆるもの・あらゆる要素が機能的で、例えばキャラクター一つとってみても、
その性格・性別・年齢・出身・人種・身体的特徴・経歴・所属・喋り方・歩き方・癖・思想・趣味・好きな食べ物嫌いな食べ物・血筋・性癖・座右の銘……他、果てしなくetc
ってくらいに、メッチャ沢山の要素がありまして、それは勿論人物だけではなくて、小物からエピソードから舞台から設定から何から何までもが、他の要素や、小さな意味での・大きな意味での『物語』に対し、効果の大小に関わらず、なんらかの『意味』や『機能』を持っています(基本的にあくまで、物語内に記されたものだけに限りますけども)。
例えば『北斗の拳』のキャラクターの服装が、たとえばケンシロウの服装が、革ジャンじゃなくてジャージとかスーツとか普通の服装だったら、作品の印象が変わってくるでしょう。
極端な喩えですが、そんな感じです。
今ある作品は、今ある要素が、今ある形で存在しているからこそ『今ある作品』で、その要素が少しでも変わってしまったら、厳密には『違った作品』になり、たとえほんの僅かでも、違った印象を受けるでしょう。それは要素が異なるからで、つまり(エピソードも人物も設定も全て『要素』として捉えれば)要素を構造と構成で複合し表現方法で表現したものが、物語である。
そのくらい、要素の持つ意味は、物語の意味に対し、大きな影響を持っています。
ならば、先に物語の意味――この物語で見せたいことを『選択』して、そこに物語内の要素を『集中』させれば、たとえば使える時間が短い作品において、効果的に物語の意味を深められるのではないでしょうか。
それがこの、『劇場版CLANNAD』に感じ取れました。
原作は沢山の登場人物がいて、沢山のエピソードや要素があるのですが、それをかなり大部分カット。いわゆる『渚ルート』、一つに集約させています。
ですが。その『渚ルート』に集約させながらも、ネタバレになるので詳しくは書きませんが、さらに色々削ってるのです。しかも原作では重要である部分も。もちろん原作に無い部分も足しています。
でも、その代わり。ある一つ、ないし二つのことについてに、この物語を集約している。原作にある色んなモノ(意味)を排除している代わりに、この物語は、ある一つないし二つの意味に集約されてきている。
そこ――この物語から見い出せる意味、その要素を強く含む部分を原作から取り出し、その要素を強くは含まない・もしくは効果的ではない部分を敢えてカット・もしくは改変している――つまり、ここ(劇場版CLANNAD)で物語られていることに、ここ(劇場版CLANNAD)で描かれる要素を集約している。
この作品の、原作の要素に対する取捨選択には、そういった意味での『選択と集中』が見て取れ、またそれは原作モノをアニメ化する際には欠かせないものでもあると思いますが、このような使える時間の短い作品を行う際には、いっそう欠かせないものであるんじゃないか、と思いました。
(そういえば京アニの『AIR』にも「選択と集中」を思いました。こっちは要素もそうですけど、それ以上に『構造』『構成』に対して選択と集中をしている感じです)
もちろん良い事尽くしではなく、原作と比して『狭く深くになってしまう』という弊害はありますけども(利点になる場合もあると思いますが)。や、効果的に表現できなければ『狭い』だけで終わってしまいかねないですけどもね。
スポンサーサイト
この記事のトラックバックURL
→http://bdkiss.blog54.fc2.com/tb.php/493-113d6ef1
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
| BLOGTOP |