2008'03.16 (Sun) 06:28
劇場版CLANNADを見ながら記したメモ&感想。なんか書いてる内に凄いまったりしてしまいました。
初見時のメモ書きは、初見時のメモなだけあって、乱雑&なんか言葉が悪かったりしますが、気にしないで下さるとありがたいというか超助かります。
なんか一個前の記事じゃ劇場クラナドのことを高評価してるっぽい気がしますけど、まあ何というか、そんなに高評価って程では無いですよ。原作と京アニのことを忘れ、"劇場版は劇場版"と、一己の作品として見るとフツーに見れるかな、みたいな。
以下、『劇場版CLANNAD』のネタバレです。
ちなみに、京アニCLANNADの現時点(21話)より先の内容にも触れていると思われるので、閲覧の際はホントにご注意下さい。
・渚に出会うまで
・渚と出会ってから、告白するまで
・渚を失ってから(前を向けてないという意味での。"誰か"を"渚"にするとバッチリ)
そんで、渚に告白してから夢を見なくなって、最後には「夢の最後」を幻視して、なんか終わるんですけど……そこは後でまた改めて。
勿論普通といっても、「原作とは異なるもの」という大前提を念頭に置きまくってからじゃないと普通には見れないんですけど、「そういうものだ」と念頭に置いておけば、「そういうものだ」と楽しめる。
つまりは劇場版の個性といいますか。
これが描くものは"原作と異なって"いて、これに描かれているものも"原作と異なって"いて、この描きは"他の何ものでもない、劇場版CLANNADというもの"だということ。それが優れているか否かはさておき、ですが。
はてさて、それはさておき、原作における『中庭』のポジションに、『屋上』が宛がわれている感じがありますね。
屋上は中庭と異なり、開放感・可能性ある感――どこまでも広がっている感じ、この空はどこにでも繋がってる感じ、どこまでも行ける感じ、つまりは広がる可能性――があり、また孤独感・孤立感――外部から覗き見されることは決して無い、他者は(確認出来る以外に)存在しないという孤独感、入り口も出口も一つだけという閉塞性(見た目は開放的だけど、あくまでも入り口・出口以外からは出られない(前述の"可能性"を反証していますが))に生じる"どこにも行けない・行ける場所は決まっている"という閉塞さ故の孤立感(目に見える世界(=屋上から見える景色)は広いのに、私の世界(私が行ける場所)はなんて狭く限定的なんだろう、という意味)。
どっちが良いとかじゃなくて、原作なら「周りから見られる」ことがより孤立していることを際立てたり、あくまで地続きである(立地的な意味だけでなく、屋上という記号(異・別世界への入り口)と対比する意味でも)点が、その先の可能性の価値を高めたりしています。
どっちが優れているか、ではなく、あくまで、この物語(原作なら原作、劇場版なら劇場版)で語られることに対して効果的か、またこの要素は物語に対してどういう意味で機能的か、になるでしょう。
そしてこの『劇場版』だけでいうと、中庭を屋上にしたことは効果的である可能性が高い、と言えます。(これが原作であるならば、中庭の方が恐らく良いでしょう)
地を歩くというよりも、別世界に行くような一気の変化。
もちろんそれは、尺の問題もあるのでしょうが。選択と集中。物語の様々な要素を何処に機能させるかを、この作品にある制約の中で、そこを選択し、そこに集中した。
一回見れば気にしなくなります(すみません言い過ぎでした、気にしなくなるかもしれませんくらいです)。馴致完了です(すみません言い過ぎました、完了かもです)。
ことみの謎指揮者とかもアレなんですけど、いくらメインヒロインだからって、無理して出さなくても~と思わなくもないといいますか。
杏は智代の付き人。智代は原作と違うけど、この作品にしては比較的近い方。ことみは謎指揮者でちょっとだけ出演。オッサン・早苗さんは当然、出番あります。ちゃんと作品の中に居ます。公子さんと芳野祐介も普通に居ます。椋はいません。有紀寧・芽衣・柊・ボタン・幸村・美佐枝さんなど、本作にいないキャラもおりますが、まあサブキャラだし、仕方ないんじゃないでしょうか。メインは一応みんな出てますし。……え、風子?風子はちゃんと居ますよ。みなさんの心の中にいm(ry
それとも。
学校の中で生きる朋也が、失意の朋也から見た、過去として挿入されているのか。
のめり込ませられた。
映像に対するツッコミはしませんが、反応はやっぱしちゃいます。つうか本当公子さんの表情が怖いつうか、あの人の底が計れない表情。
なんか抱え込んでるものがある感じの性格なんですよ。と思ったけど無いかも。つか解析不能かも。
この後のシーン、鏡いじりながら結構どうでもいい感じに演劇部の話を聞く春原と、結構真面目な朋也との温度差、そこもこの『変化』に対していい味を出してます。
朋也が渚を、渚が朋也を好きになる理由とか道筋とか出来事(たち)とかは、この物語的にはそんなに重要ではないでしょう。
これ、"ここ(アフター直後)"の時点でも、現在進行形的な形でも、無いような気がします。
過去を受け入れ・今に向く為の通過儀礼ならば、原作の汐に渚のことを話す場面、あんな感じの場所がいい具合に当てはまりそうな気がするんですけど……つまり、この劇場版CLANNADが終わった後(直後)の描かれてない場所の朋也から回想されてる、とか。
もしくは。「渚はもう居ない」と電車の中で言っていたように、もしくは。
その前。親父に、「自分と同じ」と言われた後なのかも。
親父と同じと言われ、自分自身を見つめなおそうとしているのかも。
あーでも、モノローグ的には微妙かも。
結局。人それぞれは別の道を歩いてて、別々に走る電車みたいなもので、同じ道を歩けることなんて、電車同士がすれ違うほんの僅かな時間と同じくらい、貴重で得がたく、短く儚いものなんじゃないでしょうか。
だから、ここも変化してる(つか、原型無いですけど)し、親父自体も、親父と朋也の関係も変化している。ここは『選択と集中』から外れた場所。
最後。
『変化』のお話し。色々な要素が、『変化』に対して機能している。
変化のお話し、それは『別れ』のお話でもあります。変わっていくこと、変わること。それは変わる前との別れでもある。
夢を見なくなったということは。それは夢を必要としなくなったということ。その願望も運命も成就しているということ。
夢の最後を見ること。それは夢が完結すること。その願望も運命も完結すること。
誰かを追って彷徨う夢は、もう無い。アフターに入り、"誰か"など必要なくなるほど、すぐ近くに渚がいたから。渚は死に、"誰か"などという渚以外の存在は必要なくなったから。ここで夢の最後を見て、"誰か"が渚だと確実に知り、それは追ってももう決して届かないものだと気付いたから。
先にも書いたけど、この物語は多分、全部が終わった後の回想なんじゃないでしょうか。もしくは夢の最後の場所に居る、渚に対する語りかけ。
電車はすれ違わない。
追ってももう、届かないけど。
春原たちのように、変化は決して別れだけではない。
居たことは、確実に残っている。
ここに渚が居たんだよ、ということを語りかける。渚に(もしかすると汐にも)。そして自分にも語りかける。
エンディング曲の変化、3つの曲。汐への曲と、渚への曲(歌詞から察するに)と、だんご大家族。
来年も桜がまた咲くのと同じ様に、変化せずあり続けるものなんて無かったけど。渚が居たから、汐が居て、だんご大家族のようなみんなが居て、今の自分が居る。
そういったお話なのではないでしょうか。
こうやって括った中に書いてあるものが、初見時に記したメモ書きで、その下に書いてあるものは、この記事書き上げる時、まれに劇場版CLANNADを再視聴したりしながら、初見時の自分にセルフツッコミを入れたりしながら、記したものです。
(色つきの文字は本編内での台詞やモノローグ。緑が朋也、赤が渚、紫色が春原って感じ)
初見時のメモ書きは、初見時のメモなだけあって、乱雑&なんか言葉が悪かったりしますが、気にしないで下さるとありがたいというか超助かります。
なんか一個前の記事じゃ劇場クラナドのことを高評価してるっぽい気がしますけど、まあ何というか、そんなに高評価って程では無いですよ。原作と京アニのことを忘れ、"劇場版は劇場版"と、一己の作品として見るとフツーに見れるかな、みたいな。
以下、『劇場版CLANNAD』のネタバレです。
ちなみに、京アニCLANNADの現時点(21話)より先の内容にも触れていると思われるので、閲覧の際はホントにご注意下さい。
【More】
いつも窓の向こうに、誰かが居る気配がした。一番最初の台詞。作品の軸になるかも~と思ってメモしたんですけど、この台詞ってかなり機能してますね。
だが……誰かが居るはずなど、ないのだ。
目覚めて俺は後悔する。その誰かを追っていた自分に。
・渚に出会うまで
・渚と出会ってから、告白するまで
・渚を失ってから(前を向けてないという意味での。"誰か"を"渚"にするとバッチリ)
そんで、渚に告白してから夢を見なくなって、最後には「夢の最後」を幻視して、なんか終わるんですけど……そこは後でまた改めて。
ちょ、母親の写真w ちょ、親父スーツww 仕事してるww朋也がマジ不良チックというか理由なき反抗というかにww上に記したのは1回目の視聴時の感想でして、この時はツッコミまくりの笑いまくりだったんですが……これね、2回目見て驚いたんですよ。まるで突っ込もうと思わなかった。笑いも全然無い。普通に見れる。
「どこにも、居場所は無かった」
渚出たーー!なにこのマフラーwww
「本当に美しいです……心が躍ります」
「来年また咲いてくれます。次の年も、その次の年も、また美しく咲いてくれます」(←なんというフラグ)
背中合わせでいきなりイミワカンナイこという女の子。謎すぎるw
てゆうかなんだココ。謎会話が展開されてる。
「今思えば…あの時、俺とあいつとの初めての出会いだった」
や、別に今あらためて思わなくても、あれが初めてでしょ。
「全ての……はじまりだった」
なるほど、そういう物語なんですね。全ての始まりはもっと前で、それこそ朋也が物心つくかつかないころだというのが原作では言及されているのですが、そこを切り捨てるんですね。つまり、そういう物語なんですね。了解。
勿論普通といっても、「原作とは異なるもの」という大前提を念頭に置きまくってからじゃないと普通には見れないんですけど、「そういうものだ」と念頭に置いておけば、「そういうものだ」と楽しめる。
つまりは劇場版の個性といいますか。
これが描くものは"原作と異なって"いて、これに描かれているものも"原作と異なって"いて、この描きは"他の何ものでもない、劇場版CLANNADというもの"だということ。それが優れているか否かはさておき、ですが。
最初の坂の場面。中庭を屋上にしたこと。"最初の坂の場面"って何のメモだ…?自分でも分からん。
はてさて、それはさておき、原作における『中庭』のポジションに、『屋上』が宛がわれている感じがありますね。
屋上は中庭と異なり、開放感・可能性ある感――どこまでも広がっている感じ、この空はどこにでも繋がってる感じ、どこまでも行ける感じ、つまりは広がる可能性――があり、また孤独感・孤立感――外部から覗き見されることは決して無い、他者は(確認出来る以外に)存在しないという孤独感、入り口も出口も一つだけという閉塞性(見た目は開放的だけど、あくまでも入り口・出口以外からは出られない(前述の"可能性"を反証していますが))に生じる"どこにも行けない・行ける場所は決まっている"という閉塞さ故の孤立感(目に見える世界(=屋上から見える景色)は広いのに、私の世界(私が行ける場所)はなんて狭く限定的なんだろう、という意味)。
どっちが良いとかじゃなくて、原作なら「周りから見られる」ことがより孤立していることを際立てたり、あくまで地続きである(立地的な意味だけでなく、屋上という記号(異・別世界への入り口)と対比する意味でも)点が、その先の可能性の価値を高めたりしています。
どっちが優れているか、ではなく、あくまで、この物語(原作なら原作、劇場版なら劇場版)で語られることに対して効果的か、またこの要素は物語に対してどういう意味で機能的か、になるでしょう。
そしてこの『劇場版』だけでいうと、中庭を屋上にしたことは効果的である可能性が高い、と言えます。(これが原作であるならば、中庭の方が恐らく良いでしょう)
地を歩くというよりも、別世界に行くような一気の変化。
もちろんそれは、尺の問題もあるのでしょうが。選択と集中。物語の様々な要素を何処に機能させるかを、この作品にある制約の中で、そこを選択し、そこに集中した。
「あんぱん」。 ダメだあきらめてたハズなのに笑ってしまう。まだこの頃は、キャラクターの性格の違いとか設定の違いとか気にしてました。ホントすみません。
「屋上は立ち入り禁止、生活指導に見つかったら怒られる」「その時はごめんなさいって謝ります」
というか謎すぎる。どうしても笑ってしまう。キャラが違いすぎる。
すまん、親父が普通に親父すぎる。親父として朋也に接している。
夢を見始めたら父と疎遠になった。
何理論すかww
一回見れば気にしなくなります(すみません言い過ぎでした、気にしなくなるかもしれませんくらいです)。馴致完了です(すみません言い過ぎました、完了かもです)。
「あんぱん」のくだりは原作と全然違うけど、これはこれで正直格好良いと思った。「あんぱん買ってやるよ。それで我慢しろ」って感じのところです。ここで「原作と違う」みたいなことを考えるのを、基本的にやめました(考えるのはやめたけど、反応はしちゃう)。原作と違うけど、これはこれで、一つの作品として、結構できてるじゃん、と。
「わーい、やったよー!今日は惣菜パン、手に入れたよ!」そう、のちに、このアニメの春原は、難点もありますが、それでも素晴らしいと思い知らされることになるのです。
春原かわいすぎw
杏が智代の付き人なんすけどいや、これは流石に反応するでしょw
ことみの謎指揮者とかもアレなんですけど、いくらメインヒロインだからって、無理して出さなくても~と思わなくもないといいますか。
杏は智代の付き人。智代は原作と違うけど、この作品にしては比較的近い方。ことみは謎指揮者でちょっとだけ出演。オッサン・早苗さんは当然、出番あります。ちゃんと作品の中に居ます。公子さんと芳野祐介も普通に居ます。椋はいません。有紀寧・芽衣・柊・ボタン・幸村・美佐枝さんなど、本作にいないキャラもおりますが、まあサブキャラだし、仕方ないんじゃないでしょうか。メインは一応みんな出てますし。……え、風子?風子はちゃんと居ますよ。みなさんの心の中にいm(ry
幾度も挿入される未来の朋也、失意の上の朋也。雨の中彷徨う失意の朋也は、この物語の未来として挿入されているのか。
あるいは、幾度も挿入されているのは過去の朋也か。まだ何も知らなかった無垢な頃。
それとも。
学校の中で生きる朋也が、失意の朋也から見た、過去として挿入されているのか。
春原が唯一原作っぽい、たまに原作以上に。「魂のポスターなんだよ!」。行ってくるぜよ・金メダル目指して!とかの謎発言はございますが。"周囲の冷たさ"って何だろ。自分でメモっといてよく分からん。多分ポスターうんぬんのくだり辺りで、周りの関係ない生徒が、少しも春原の心や行動の理由に興味を示さず(しかも全員が)、関係ない生徒があまりにも"関係ない"ことから、冷たい・孤立を感じ取ったモノだったような気がします。
この周囲の冷たさが孤立感を加速させてるよな。
「放課後、屋上だ」この辺から、かなり、本腰入れて見だしたつうか見させられました。
「…はい」
「屋上で待ってろ!」
「……はい」
名場面すぐる。
うしろ姿の渚に対しての朋也の察し。表情や(ポスター見ての)リアクションを見なくても察することができて、その上「放課後、屋上だ」と有無を言わさぬ時間・場所指定。今は何も考えるな的な。渚の消え入りそうな「はい」も素晴らしい。
のめり込ませられた。
wwwwwwww公子さん登場www 現役教師、武術の達人、生活指導みたいな厳しい姿勢、英語、つまり別人、ありえんwwいやいくらなんでも反応せざるを得ないつうか反応しないわけがない。で、結局、大雑把に言うと幸村とのミックス教師だったのですが、そこを鑑みると、この性格もアリなんじゃないかなぁと。あくまでも、この物語の上では。
てゆうか幸村とのミックス教師かも。若き日の幸村の魂を受け継いだ公子さんか。そんな感じで自分を納得させる。
時々挿入される電車のカット。すれ違い?電車のカットが幾度か(つうかしょっちゅう)挿入されてましたね。また後でも記します。
「大丈夫です、私、また書きますから。また書いて、学校中に貼ります」この渚はただの不思議ちゃんというか、オタクが理想にしそうな女の子像な感じ(もちろん憶測的な意味で)がして嫌なんですが、ダメでも諦めず歩き続けるという姿勢は、遺伝されてるようで何よりです。
まあ言ってることが渚じゃないというのはともかく、この『ダメでもまた』また歩き出すという姿勢が、なんかこう、なんかねえ。
春原がなんかアレなんですが、これはまあこれでカワイイといいますか。多分あれです、「生徒会と戦争じゃー!」とか言いながら金網によじ登ってたトコ。この作品の春原はどんどん良くなっていきます。最終的にはちょっとビビるくらいの素晴らしさ。
進学校の中で、三年生なのに、周りと同じ様に受験勉強するわけでもなく、だらだら遊ぶ朋也・春原。京アニと比べて評価なんてしたら、ホント両者に対して失礼なんですけど、あくまで評価抜きで構造面だけで対比すると、劇場版は『孤立・孤独』において、京アニより非常に意識的ですね。尺という制約が必然的に選択と集中を生んで、それが逆に上手く嵌ってる感じ。もちろん京アニにも、「出来るだけ沢山のルートを進める」みたいな制約はあるのですけど。つまり『孤立・孤独』を京アニがあまり重視してなくて、その代わりの何かがそこにはあるのでしょうけど。
進学校の中で、三年生なのに、周りと同じ様に受験勉強するわけでもなく、演劇部なんか作ろうという渚。
はみ出しもの。不良。ダブり。
周囲との圧倒的な差異が生む、そこにある孤立感・孤独感。
孤独感が、京アニに比べると雲泥の差で表現"している"。周囲が「購買」とか「春原見学」とか、かなり統一的な動きを見せていますが、前者ならパン買えない・後者ならその当本人や目的意識の違い(さらにそれの不理解)があって、単純に絵の色合い(いちいち暗い&光でいちいち明るい)とかでもそうだけど、その孤立・孤独っぷりが表現できている。
パンを買いに行くと(割り込んでいるのですが)メッチャぼこられる春原。本気でキレてる春原に対し、「面白い」「見に行こうぜ」で見に行くギャラリー。このいずれにも、春原に対する理解は存在しない。
そりゃ渚一人のルートだから、京アニよりはそっちの方に持っていき易いのだろうけど。
「廃部になる前に、演劇部の顧問をなさってた先生です」幸村とのミックス教師なら、これも何か腑に落ちる。
あ、やっぱり公子さんは、幸村とのミックス先生だったか。
なんか渚と公子さんにオーラ出てるんすけど。つうか公子さんの無表情っぷりが怖い。
映像に対するツッコミはしませんが、反応はやっぱしちゃいます。つうか本当公子さんの表情が怖いつうか、あの人の底が計れない表情。
ファミレス:さり気に朋也と渚が隣同士の席に。
春原「部活をやらないことで僕も岡崎も、その真価を発揮しているんだ!」この作品の春原大好き。劇場版CLANNADの半分は春原で出来ています。
春原ステキすぎw
渚が非常に押しが強いというか、相手を引っ張っていく力が強い。2回目見て気付いたのですけど、最初の「一緒に坂を登ってくれませんか」のとこで、渚、めっちゃ足をガクガク震わせているんですよね。この性格は、自分の臆病を覆い隠し奮い立たせる為とか?
「流されるままで。それはそれで、俺らしかったのかもしれない」
渚の積極マイペースは……まあ、尺、短いですしね、みたいな。
なんか抱え込んでるものがある感じの性格なんですよ。と思ったけど無いかも。つか解析不能かも。
「お前ん家?」そう、なんかね、本気でいい感じに思えてきたんですよ、この辺から。朋也の性格が、結構イイんですよ。
「お前ん家……ねぇ」
「なんだって、お前ん家なんだよ?」
「ごはん? 打ち合わせ?」
「スケジュールなんて検討しない。お前一人でやれ。シナリオだのなんだの、何のことか分からないし、興味ねぇし」
「ごはん食いに、いちいち人ん家行けるかよ。パパッとコンビニ飯が俺の性に合ってるんだ」
春原「バイトなんだ~~今日が初日なんだ。遅れるとマズイしさ…」
朋也「春原。悪かったな、引き止めたりして。頑張ってこいや」
原作朋也の、何気に「わがまま」な所(結構ダダこねるんですよね)と、それでも大事なトコは外さない所が、いい感じに出ています。
「先輩が世話してくれた」って時の春原の態度もまた、孤立感を漂わせている。
春原のそんなことを知らなかった朋也というのもまた、孤独感を漂わせている。
早苗さんもやっぱり謎早苗さん。新キャラ出たら、やっぱり反応はしてしまう。
オッサンと謎キャッチボール。少林ベースボール。つらつらと肩のコト語る朋也。原作より弱い感じっすね。そして当然のように秋生も謎秋生。
「古河、ありがとな」
「今日俺、久しぶりに大勢でメシを食った。すごく楽しかったよ」
「あたたかくて、うれしかった」
幻想世界は朋也の夢に。誰かフロイト先生呼んでこーい!ここは正直、かなり落胆したというか。分かりやすい作りに集約しているんでしょうね、尺も短いことですし。
春原と芳野が先輩後輩に。ここ!ここは素晴らしいシーン! 『変化』ですよ、変わっていってしまうことへの不安と変わらないで居て欲しい懇願が、この僅かなシーンで表現されているんスよ!
「何時に終わんだよ、春原」
に返ってくる言葉はなし。これはいい孤独感ですね。「今日のバイトがいつ終わるのか」に対して「返事なし・何処かへ行ってしまう」が、「春原のその生活(バイト)はいつ終わるんだ・前と同じ様にダラダラ遊べるのはいつになるのか」に対して返事をしない・つまり「終わらない」ということにかかっている。
何事も変化していく。春原と朋也の関係だって。否応無しに。それに取り残される人もいる。
この後のシーン、鏡いじりながら結構どうでもいい感じに演劇部の話を聞く春原と、結構真面目な朋也との温度差、そこもこの『変化』に対していい味を出してます。
秋生「渚~。今日はあの、岡崎なんたら君のお泊り、無いのかな~?」オッサンが朋也のことを気に入ってる、ということを僅かワンカットで表現しているというこの事実に対し思うところがあれば、これを評価してもいいし、そうしなくてもいい。
オッサン可愛すぎw
演劇部室の窓と幻想世界の窓はかかってるのね(気付くの遅っ)こんな風に書きつつも、別にかかってないかも。こんなことメモりつつも、その台詞に重要な意味は見出せないかも。いやまじで。
公演の失敗と、「俺たちらしいや」という朋也の受け入れ。
「誰が付いてこようが関係ない。俺は俺の行きたい方に歩く」と言っていた朋也が、「(渚に)お前を信じて、お前に付いていく」とかいう変化。渚が好きっていうか渚がいたから変われたっていうか、それって逆から読めば渚依存気味ですよね、というか。
朋也が渚を、渚が朋也を好きになる理由とか道筋とか出来事(たち)とかは、この物語的にはそんなに重要ではないでしょう。
劇。
公子さんの存在がかなり大きい。ともすれば淡白な、デキレースでも見てるかのように成りかねないメタ劇において、緊迫感というか、こいつら頑張って劇やってるんだなー感を作り出してくれている。
幻想世界=夢(寝てる間に見る意味での)=運命+願望
原作の幻想世界が材料少なすぎて意味分かんないのに対し、こちらは材料豊富すぎて直球すぎる。つーか直球すぎてて、なんか見てて恥ずかしくなる。
「それから……それからまだ、お前の一人芝居は続いた」
"お前の"? これは今際の際にある渚に対して語っているとか、心の中の渚に対して語っているとか、そういう設定なのか。"これは"つうかこの本編自体が。ある場所からの回想で、多分過去の咀嚼で、受け入れるための通過儀礼なのかも。
映像関係は、とにかく絞って単純化している。ということにリソースを注ぎ込んでる印象。
そしてアフターへ。あの時点からの回想だったのか。あの時点からか?この物語は、朋也が語っていると見るのは恐らく正しいと思いますが、それはどこから語られているのか。
これ、"ここ(アフター直後)"の時点でも、現在進行形的な形でも、無いような気がします。
過去を受け入れ・今に向く為の通過儀礼ならば、原作の汐に渚のことを話す場面、あんな感じの場所がいい具合に当てはまりそうな気がするんですけど……つまり、この劇場版CLANNADが終わった後(直後)の描かれてない場所の朋也から回想されてる、とか。
もしくは。「渚はもう居ない」と電車の中で言っていたように、もしくは。
その前。親父に、「自分と同じ」と言われた後なのかも。
親父と同じと言われ、自分自身を見つめなおそうとしているのかも。
あーでも、モノローグ的には微妙かも。
春原が来てくれた!先のバイトの所でも書いたけど、ああいう『変わる』ことを描いていおいて、こういう『変わらない』とこも描いてくれる。もう断言する、「劇場版CLANNADの春原は最高!」。正直最高すぎる。ある面では原作を越えた。はい、「劇場版CLANNADの春原は最高!」です。……あ、でも、ギャグセンスとかあれだし、動きとか変だし、喋りもたまにおかしいし……なんか最高というのは、心が先走りすぎてる気がする……。限定条件付きで最高、とか。
「少なくとも俺じゃない。みんなお前に惹かれて集っていた」
これは渚に対する言葉。
でも、まだ、今も、渚が死んだ後も、みんな、朋也を心配して、集ってくれる。
「どうなってんだよ、ついに一言も口聞いてくれなかった」
「何もしてやれなかった僕が、情けないよ…」
逆の立場から見た、『変化』。その変化が苦しみならば、少しでも解いてやりたいと思うこと。
ここに来て電車はすれ違わなく、その一つの車両で遥か遠い先まで。そう、先に「すれ違う電車のカットが多い」と書きましたが、このアフター(渚死後)に入ってからは、電車は「決してすれ違うこともない」のですよ。
結局。人それぞれは別の道を歩いてて、別々に走る電車みたいなもので、同じ道を歩けることなんて、電車同士がすれ違うほんの僅かな時間と同じくらい、貴重で得がたく、短く儚いものなんじゃないでしょうか。
朋也に、自分と同じだと言う父。親父と和解することは、本作において大事ではない(つーか原作においても、『和解』というその事象自体は大事ではなく、そこに至る過程・心境の変化こそが大事だと思う。つまり『和解』が実際問題起こるかどうかは二の次だと僕は思ってます(変化の証左だと思ってるので))。
親父の使ったかわいいカップは渚のかな。
だから、ここも変化してる(つか、原型無いですけど)し、親父自体も、親父と朋也の関係も変化している。ここは『選択と集中』から外れた場所。
「もういないんだぜ、渚はさぁっ!」もう渚と道を同じくすることもない。すれ違うことも無い一つの電車。
走る電車。すれ違うことなく。
汐を抱えて待ってる古河両親。渚が最後に見たのと同じ。すみません、PS2版はそこまで進んでなくて、フルボイス版は積んでるので、声、初聞き。XBOX360版は楽しみにしてるんですけど(実績がどうなるのか的な意味で)、またまた積みそうな予感です。
汐ってこんな声だったのか……
最後。
夢を見なくなったこと。夢の最後を見たこと。渚が立ってる姿を見たこと。夢を見なくなったこと。必要が無くなったということ。
『変化』のお話し。色々な要素が、『変化』に対して機能している。
変化のお話し、それは『別れ』のお話でもあります。変わっていくこと、変わること。それは変わる前との別れでもある。
夢を見なくなったということは。それは夢を必要としなくなったということ。その願望も運命も成就しているということ。
夢の最後を見ること。それは夢が完結すること。その願望も運命も完結すること。
誰かを追って彷徨う夢は、もう無い。アフターに入り、"誰か"など必要なくなるほど、すぐ近くに渚がいたから。渚は死に、"誰か"などという渚以外の存在は必要なくなったから。ここで夢の最後を見て、"誰か"が渚だと確実に知り、それは追ってももう決して届かないものだと気付いたから。
先にも書いたけど、この物語は多分、全部が終わった後の回想なんじゃないでしょうか。もしくは夢の最後の場所に居る、渚に対する語りかけ。
電車はすれ違わない。
追ってももう、届かないけど。
春原たちのように、変化は決して別れだけではない。
居たことは、確実に残っている。
ここに渚が居たんだよ、ということを語りかける。渚に(もしかすると汐にも)。そして自分にも語りかける。
エンディング曲の変化、3つの曲。汐への曲と、渚への曲(歌詞から察するに)と、だんご大家族。
来年も桜がまた咲くのと同じ様に、変化せずあり続けるものなんて無かったけど。渚が居たから、汐が居て、だんご大家族のようなみんなが居て、今の自分が居る。
そういったお話なのではないでしょうか。
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