2008'03.27 (Thu) 23:32
さて、感想後編。
「なんで杏・椋・ことみが演劇部にいて活動しまくってん?」みたいな、水を差すことを、こないだ書いてしまったので、そこに対する解釈に端を発しつつ記す、『京アニCLANNAD』そのものへの解釈、そのもののまとめです(←大言壮語)。
と思ったんだけど……なんか数日かけて書いてたら、何書いてるんだか分かんなくなって……書き終わってから見ると、あまりにも纏まってないというか、自分でもわけわかんないというか……やっべー、マジ意味わかんねー(セルフツッコミ)。
その辺は、まあ、アフターでリゾンベということで、ひとつ何とか。
まるでね、違うわけです。
思いが違う。
渚・朋也と春原・秋生。
それぞれこの演劇に、何かしらの思いを乗せています。でも、椋と杏とことみは、どうでしょう。
渚は、自分のやりたいこと……ずっとやりたい夢だったとして、演劇を行います。自分の夢という『思い』が、そこに乗っています。
朋也は、渚のことを手伝いたいから手伝っているのですが、そこに、彼が言ったこと――「俺や春原ができなかったことを、今お前が叶えようとしてくれてるんだ!」「俺たちの挫折した思いも、お前が今背負ってるんだよ!」――のような『思い』も乗っています。
秋生も、「俺たちは、お前が夢叶えるのを夢みてんだよ!」と言ったように、ここに『思い』を乗せています。
ですが、椋・杏・ことみは、そういった思いを乗せてないんです。乗せてるって何か変な表現かも……仮託とか、投射とかでもいいです。そういった、自分の何かしらの思いをそこに視る・そこに託すというようなことが、彼女たちにはありません。正確には「描写されていません」であって、何かしらの思いがあったのかも知れませんが、推測のしようすら無いほどにそれが表されていないのだから、乱暴ですが、真実、無いと同じ…。
この違いが、違和感として存在していました。
たとえば、
どんな思いがあるのか分からない――そもそも思いなんてあるのか、思いなんて言えるほど強いものを秘めているのか――そんなことすら、分からない。
明らかに、渚とも朋也・春原とも秋生とも違う。彼らみたいな思いは抱いていないように見える。彼らと比べれば、彼女たちが、何で演劇部の手伝いしてるのかも分からないくらいに思えてくる。特別な思いを託すことも投射することもなく。ただ友達として手伝うがために手伝っている"だけ"のように見えるから。
そして。
そこに何の思いも……少なくとも強い思いは仮託しても投射してもいないから。
たとえ友達として、助けたいとして、手伝っているのだとしても。
思いの問題である、渚の問題を助けられない。
そもそも気付けない。ほとんど、気付けない。


まったくもって絡んでこないんですよ、彼女たちは。
渚の問題に対して。ここの話に対して。
過大も過小もなく、正直な所を言うと、彼女たち――椋も・杏・ことみは、"ここにいなくても"、何の問題も無く話は進むのです。
つまり、お話を進めることだけに関して言えば。特にこの22話、最終回だけに限定すれば。彼女たちの存在は、何の意味も成してない。何の機能も果たしていない。
だから、彼女たちがここにいることに、かえって違和を感じるのです。
実際、原作において、彼女たちがこの地点に居ることはありえません。
原作では、彼女たちが居なくても、何の問題も無く話は進む。そしてアニメでも、そう。彼女たちはいたけれど、特段関わることも無く、恐らく彼女たちがいなくても、何の問題も無く話は進む。
わざわざ原作と変えたのに。話に、たいして意味を成していない。
じゃあなんで、彼女たちはいるのでしょう?
話に対して意味を成していないのなら。"話以外のこと"に対して、意味を成しているのではないでしょうか。
さて。
椋・杏・ことみが、渚の問題に絡めていない――演劇部の、渚の演劇の手助けをしていますが、渚個人の問題に対して積極的な手助けをできていない、と書きましたが。
実は朋也くんも同じだったりします。
朋也くんの言葉とか、行動とか、態度とかみると、「この人、渚の悩みの核心的な部分は何一つ分かってないんじゃない?」とか思えるくらいに、的はずれなんですよ。


「あいつなら大丈夫だ…」
とか、あんたは何を見てきたんだよ、と問いたくなるほどのズレっぷり。的確な助言などまるで行えない。「何も考えるな」とか、問題を先送りにしようとすることを言ったり、「お前はお前だ」と、核心から逸れたことを言ったり。いったいなんで、舞台の幕の開閉ボタンを押す・押さないに迷ってるのか。このままでも、本当に「大丈夫」と思っているのか。それは信じるとは違う。それまでも、そして今も、見るからに大丈夫そうじゃないこの状況で、渚を「大丈夫」と信じる。これは信じるじゃなくて、大丈夫だという思い込みであろう。
朋也くんも、核心的な部分は全然わかってないのかもしれません。
……いや、わかってたら、もうちょっと助言のしようがあると思うんですよ。もし、あの助言が彼なりに間違っていないとしても、ここで「大丈夫だ」と思い込むことは無いと思うんですよ。渚見てれば、大丈夫じゃないことくらい、わかるじゃないですか。…って、もしかしたら朋也くんは、あの助言で、あの程度の助言で、渚はもう「大丈夫だろう」と判断したのでしょうか。
ということは。
朋也は、意外と、思ったよりも、渚のことが分かってないんじゃないかな、と。
渚が悩みを抱えていることはわかっているのでしょうけど。それがどんな悩みかもおおよそわかっているのでしょうけど。そして、それはすぐには解決できない種類の悩みだから、先送りしようとしているのでしょうけど。
けれど。
渚は、今解決したいし、なにより、今解決しなければ演劇はできない。
そこがわかってないんじゃないでしょうか。
渚の悩みを、わかってない友達。まったく気付いてないことは無いだろうけど、どんな悩みかなんて、少しもわからない。
渚の悩みが、それがどんなものなのかは、わかっている友達。でもそれ以上はわかっていない。渚の望みも、自分の言葉が渚にどう作用したかも、わかっていない。
わかってないわかってない。
真にわかってなどいない。真にわかり合えることはない。
言うなれば、ひとりぼっち。
他人が自分をわかってくれないでひとりぼっち。他人が自分の悩みを共感してくれなくてひとりぼっち。他人が自分の悩みを共有してくれなくてひとりぼっち。
他人が渚をひとりぼっちにする。
他人が、渚のことをわかっていないから。
でも、実は、渚だって、わかっていない。

渚がなにをわかってないのか、書くまでもなく皆わかってると思いますが、「親(秋生)の思い」。
わかっていません。もちろん、表明してくれなきゃわからない系(推測から確信を得られない)の問題ではあるんですけど。
実はみんな、わかり合えてなんかいない。
本当はみんな、ひとりぼっち。

他人の悩みは、他人のものだし。他人の思いも、他人のもの。
他人が何に悩んでいるのか。本当のところはわからない。
他人が何を望んでいるのか。本当のところはわからない。
他人がどんな思いを抱いているのか。本当のところはわからない。
人はそれぞれ違うヒトで、お互いの全てを知って共有することはできなくて、そこには齟齬があって、軋轢があって、すれ違いがあって……。
正確な他人などわからない。真実の他人なんてわからない。一緒に歩いているようでも、その全てを共感し共有することは適わない。
でも、それで終わるって、わけでもない。
わからないなら、喋って伝えればいい。思いを伝えればいい。
もちろん、これで、一人じゃなくなるなんてことは、全然、ない。
思いを伝えようが、わかり合おうが、絶対的に人と人は違う人間で、その全てを共感し共有することなんて不可能。
思いが伝わり、それが影響を持つのは、"ひとりじゃない"ということの表れではなく、むしろ逆。
思いが伝わって、それが影響を持ってしまうという事実が、"別々の人間であること"――ひとりであることの、証左になる。
お互い異なる人間。全部が通じ合えてるわけではない。
たとえば、幻想世界のふたりなんて、全然通じ合えていない。
片一方は、こんな世界に生まれてきて幸せなのだろうか?と疑問に思い、
もう片一方は、彼女と一緒にいたい、と思う。

そう、別に通じ合えてなくても、一緒にいることはできる。一緒にいることを、こんな世界でも、通じ合うことが出来ない相手でも、『選ぶ』ことができる。
《みんなで一つのことを頑張る》。その目標は、夢は、叶えられた。
朋也が、春原が、杏が、椋が、ことみが、そして渚が。このみんなで、一つのことを頑張れた。
……かつて、動機が・思いがそれぞれ違う、そこはみんなで一つじゃない、とか書いちゃったけど。
別に動機や思いが異なっていても、問題はない。そこに拘るのは、一つじゃなくて、統一。みんなで統一じゃなくて、みんなで一つなんだから、その違いはどうだっていいものでした。
みんなで一つってことの達成に、みんな同じ人間である、なんて必要はないですからね。
てゆうかむしろ、みんな別々の人間であるからこそ、
みんな別々の人間で、思いも悩みも人それぞれで、他人の思いや悩みに完全に共感し共有することができないからこそ、
みんなで一つのことを頑張るのが、素晴らしいことになる。
みんな同じ人間なら、そんなの当たり前。みんな同じ人間なら、渚はそんな夢を抱かないでしょう。
逆に言うと、そういう望みを抱くという事は、「みんな同じではない」ということの証左でもありますね。最初からみんなで一つなら、それは望みにもならない。最初からみんなで一つじゃないから、それは望みになれる。
他人の思いなんてわからないし、他人の悩みなんてわからないし、他人の望みなんてわからない。
それらを全部知って、共感して、共有することなんてありえない。一緒にいるように見えても、本当はとっくにひとりぼっり。
そんな中で『みんなで一つのこと』をだから、そこに価値を見い出せる。
さて、冒頭に陳述した「なんで杏・椋・ことみが演劇部にいて活動しまくってん?」の結論にまいりましょう。
それは上記したようなことです。
一緒に活動しながらも、思いや悩みを、全部、分かり合えたり共有したりできない。
春原と朋也でも、全部、分かり合えて、共有できているわけではないけれど、ある程度わかって、ある程度共有できてしまっている。そこに思いを視たり、投射したり。
それに対し、杏・椋・ことみは、全然、分かり合えても共有できてもいない。
こういう人物が必要だったのでしょう。
こういう、共有できてない人たちも一緒になって、『みんなでひとつ』であるということが。
そして、そういう中に居ながらこそ、共感や共有などの同定・軋轢込みにして、一緒にいたい相手を選び取る。
つまり椋とか杏とかことみとかは、みんなそれぞれ別々で、なのに朋也が渚を選んだ・渚が朋也を選んだということを価値あるものにするための、引き立て役とか露払いとか(なんだこの言葉の悪さ)。
えーと。

たとえばこのシーン、このカメラアングル。これに見覚えがあると思うんですよ。何回も何回も、出てきたアングルですから。



いや、画像取っといたのが3個しか無かったんで、3個しかあげてないですけど(笑)。
毎回のようにあったと思うんですよ。ここに固定されたカメラが。
ここに固定されていることで――視点が固定されていることで、その対象の、変化が分かる。
人が増えたり、人が減ったり。物が増えたり、物が減ったり。
最初はただ汚かっただけのこの部屋に、渚と朋也だけだったこの部屋が、綺麗になって、人が増えて、演劇部の活動をして、そして……最終的には、また、朋也と渚の二人だけになった。
第1回の、朋也と渚ふたりきりと、同じように。

このアングルで、夕日がかかっているのは、第1回と最終回の、このふたつだけ。
影二つ。
影二つにはじまり、影二つに終わる。
様々なものが流動的に変化するさまをよく観察できる、こういった固定アングルで。
最初と、最後が、同じ。はじまりと、終わりが、同じ。
そこに、この、二人は沢山の流動の中で磨耗して無くなる、なんてことはなかった、というのを見れるでしょう。
以前の描写と対比的、ってのは他にもありましたね。
たとえば劇終了後の中庭で、朋也が渚に「明日どうこう~」って言ってたら、杏が割り込んできた場面。
第15回の、原作では告白していた中庭の場面を思い出します。杏が割り込んできちゃったから、アニメではそこで告白は出来なかったのです。雰囲気や流れが崩されちゃったら、もう告白はできない。
でも今回は、杏が割り込んできても、告白時に「もし明日朝起きたら俺たちが恋人同士に~」とか、一回はずれちゃったこと言っても、ちゃんと終わりまで告白する。
以前の描写繋がりなら、何度も出てきた中庭も外せないでしょう。
朋也と渚で中庭ってシチュエーションは、大体あまり良い事じゃなくて、渚の落ち込みとか悩みとか多かったんですよね。そもそも最初が、一人で所在なさげに昼食を取ってる渚に、朋也が声を掛けたですし……っていうか、所在なさげっていうか、そのまんま、所在がなかったのでしょう。ひとりで、居場所がないから、ここに避難してきた。
第1話なんか見返すと、本当に驚きます。渚。
すごい元気なさそうな声。今にも消え入りそうというか、自信が無いというか、元気がないというか、その全てというか……。声も、下向いて伏し目がちな姿勢も、自信とか元気とかとはとてもじゃなくいくらい、正反対のものだったのです。

それが今や、こんなに自信ありげで、前を向いて、しっかりしている姿に、声に、なっている。
ここは、中庭は、自信無かったり、落ち込んだりすることが多かった場所ですから、余計際立ちます。
先の部室と異なり、『変化』をこそ表していると言えるでしょう。しかもかつては、朋也が渚に「お前も手を振ってみろよ」と言ってた場所で、渚が朋也に、お父さんと会わせたりするわけですから。
渚の変化がよく見えます。
中庭の描写のように、人は『変わっていく』ものであるけれど。
たくさんの人が居る中で、それぞれ異なる中で、渚を選んだ・朋也を選んだ・最初から最後までふたりであって『変わらなかった』――いや、正確には変わらなかったのではなくて、それを『選んだ』。そうするようにしたから、結果として変わらなかったのです。
たくさんの可能性と変化の中から選び取った現実世界。それと対比されるように、可能性がひとつもなく、ただ「(幸せと)肯定するか、そうでないと否定するか」しかない幻想世界。でも、どちらも同じ様に、『選ぶ』ことが重要である。
「なんで杏・椋・ことみが演劇部にいて活動しまくってん?」みたいな、水を差すことを、こないだ書いてしまったので、そこに対する解釈に端を発しつつ記す、『京アニCLANNAD』そのものへの解釈、そのもののまとめです(←大言壮語)。
と思ったんだけど……なんか数日かけて書いてたら、何書いてるんだか分かんなくなって……書き終わってから見ると、あまりにも纏まってないというか、自分でもわけわかんないというか……やっべー、マジ意味わかんねー(セルフツッコミ)。
その辺は、まあ、アフターでリゾンベということで、ひとつ何とか。
【More】
まるでね、違うわけです。
思いが違う。
渚・朋也と春原・秋生。
それぞれこの演劇に、何かしらの思いを乗せています。でも、椋と杏とことみは、どうでしょう。
渚は、自分のやりたいこと……ずっとやりたい夢だったとして、演劇を行います。自分の夢という『思い』が、そこに乗っています。
朋也は、渚のことを手伝いたいから手伝っているのですが、そこに、彼が言ったこと――「俺や春原ができなかったことを、今お前が叶えようとしてくれてるんだ!」「俺たちの挫折した思いも、お前が今背負ってるんだよ!」――のような『思い』も乗っています。
秋生も、「俺たちは、お前が夢叶えるのを夢みてんだよ!」と言ったように、ここに『思い』を乗せています。
ですが、椋・杏・ことみは、そういった思いを乗せてないんです。乗せてるって何か変な表現かも……仮託とか、投射とかでもいいです。そういった、自分の何かしらの思いをそこに視る・そこに託すというようなことが、彼女たちにはありません。正確には「描写されていません」であって、何かしらの思いがあったのかも知れませんが、推測のしようすら無いほどにそれが表されていないのだから、乱暴ですが、真実、無いと同じ…。
この違いが、違和感として存在していました。
たとえば、
「俺や春原ができなかったことを、今お前が叶えようとしてくれてるんだ!」の台詞のところ。この台詞は、朋也や春原にとっては適用されてしかるべきですが、椋・杏・ことみにとっては、当て嵌まらない台詞であります。「俺たちの挫折した思いを背負ってる」と言いながらも、"夢が閉ざされて努力することを忘れてもう届かないと挫折したその思いを今の渚に投射している"、なんてのは朋也と春原だけで、別にそんなことは無い椋・杏・ことみは、そんな思いを渚に背負ってもらってない、つまりここで言う『俺たち』の中には入っていないのです。
「俺たちの挫折した思いも、お前が今背負ってるんだよ!」
どんな思いがあるのか分からない――そもそも思いなんてあるのか、思いなんて言えるほど強いものを秘めているのか――そんなことすら、分からない。
明らかに、渚とも朋也・春原とも秋生とも違う。彼らみたいな思いは抱いていないように見える。彼らと比べれば、彼女たちが、何で演劇部の手伝いしてるのかも分からないくらいに思えてくる。特別な思いを託すことも投射することもなく。ただ友達として手伝うがために手伝っている"だけ"のように見えるから。
そして。
そこに何の思いも……少なくとも強い思いは仮託しても投射してもいないから。
たとえ友達として、助けたいとして、手伝っているのだとしても。
思いの問題である、渚の問題を助けられない。
そもそも気付けない。ほとんど、気付けない。


まったくもって絡んでこないんですよ、彼女たちは。
渚の問題に対して。ここの話に対して。
過大も過小もなく、正直な所を言うと、彼女たち――椋も・杏・ことみは、"ここにいなくても"、何の問題も無く話は進むのです。
つまり、お話を進めることだけに関して言えば。特にこの22話、最終回だけに限定すれば。彼女たちの存在は、何の意味も成してない。何の機能も果たしていない。
だから、彼女たちがここにいることに、かえって違和を感じるのです。
実際、原作において、彼女たちがこの地点に居ることはありえません。
原作では、彼女たちが居なくても、何の問題も無く話は進む。そしてアニメでも、そう。彼女たちはいたけれど、特段関わることも無く、恐らく彼女たちがいなくても、何の問題も無く話は進む。
わざわざ原作と変えたのに。話に、たいして意味を成していない。
じゃあなんで、彼女たちはいるのでしょう?
話に対して意味を成していないのなら。"話以外のこと"に対して、意味を成しているのではないでしょうか。
さて。
椋・杏・ことみが、渚の問題に絡めていない――演劇部の、渚の演劇の手助けをしていますが、渚個人の問題に対して積極的な手助けをできていない、と書きましたが。
実は朋也くんも同じだったりします。
朋也くんの言葉とか、行動とか、態度とかみると、「この人、渚の悩みの核心的な部分は何一つ分かってないんじゃない?」とか思えるくらいに、的はずれなんですよ。


「あいつなら大丈夫だ…」
とか、あんたは何を見てきたんだよ、と問いたくなるほどのズレっぷり。的確な助言などまるで行えない。「何も考えるな」とか、問題を先送りにしようとすることを言ったり、「お前はお前だ」と、核心から逸れたことを言ったり。いったいなんで、舞台の幕の開閉ボタンを押す・押さないに迷ってるのか。このままでも、本当に「大丈夫」と思っているのか。それは信じるとは違う。それまでも、そして今も、見るからに大丈夫そうじゃないこの状況で、渚を「大丈夫」と信じる。これは信じるじゃなくて、大丈夫だという思い込みであろう。
朋也くんも、核心的な部分は全然わかってないのかもしれません。
……いや、わかってたら、もうちょっと助言のしようがあると思うんですよ。もし、あの助言が彼なりに間違っていないとしても、ここで「大丈夫だ」と思い込むことは無いと思うんですよ。渚見てれば、大丈夫じゃないことくらい、わかるじゃないですか。…って、もしかしたら朋也くんは、あの助言で、あの程度の助言で、渚はもう「大丈夫だろう」と判断したのでしょうか。
ということは。
朋也は、意外と、思ったよりも、渚のことが分かってないんじゃないかな、と。
渚が悩みを抱えていることはわかっているのでしょうけど。それがどんな悩みかもおおよそわかっているのでしょうけど。そして、それはすぐには解決できない種類の悩みだから、先送りしようとしているのでしょうけど。
けれど。
渚は、今解決したいし、なにより、今解決しなければ演劇はできない。
そこがわかってないんじゃないでしょうか。
渚の悩みを、わかってない友達。まったく気付いてないことは無いだろうけど、どんな悩みかなんて、少しもわからない。
渚の悩みが、それがどんなものなのかは、わかっている友達。でもそれ以上はわかっていない。渚の望みも、自分の言葉が渚にどう作用したかも、わかっていない。
わかってないわかってない。
真にわかってなどいない。真にわかり合えることはない。
言うなれば、ひとりぼっち。
他人が自分をわかってくれないでひとりぼっち。他人が自分の悩みを共感してくれなくてひとりぼっち。他人が自分の悩みを共有してくれなくてひとりぼっち。
他人が渚をひとりぼっちにする。
他人が、渚のことをわかっていないから。
でも、実は、渚だって、わかっていない。

渚がなにをわかってないのか、書くまでもなく皆わかってると思いますが、「親(秋生)の思い」。
わかっていません。もちろん、表明してくれなきゃわからない系(推測から確信を得られない)の問題ではあるんですけど。
実はみんな、わかり合えてなんかいない。
本当はみんな、ひとりぼっち。

他人の悩みは、他人のものだし。他人の思いも、他人のもの。
他人が何に悩んでいるのか。本当のところはわからない。
他人が何を望んでいるのか。本当のところはわからない。
他人がどんな思いを抱いているのか。本当のところはわからない。
人はそれぞれ違うヒトで、お互いの全てを知って共有することはできなくて、そこには齟齬があって、軋轢があって、すれ違いがあって……。
正確な他人などわからない。真実の他人なんてわからない。一緒に歩いているようでも、その全てを共感し共有することは適わない。
でも、それで終わるって、わけでもない。
秋生「俺たちは、お前が夢叶えるのを夢みてんだよ!」
秋生「あの日からずっと……パン焼きながらずっと、俺たちはそれ待ち焦がれて生きてきたんだよ!!」
朋也「俺や春原ができなかったことを、今お前が叶えようとしてくれてるんだ!」
朋也「俺たちの挫折した思いも、お前が今背負ってるんだよ!」
わからないなら、喋って伝えればいい。思いを伝えればいい。
もちろん、これで、一人じゃなくなるなんてことは、全然、ない。
思いを伝えようが、わかり合おうが、絶対的に人と人は違う人間で、その全てを共感し共有することなんて不可能。
思いが伝わり、それが影響を持つのは、"ひとりじゃない"ということの表れではなく、むしろ逆。
思いが伝わって、それが影響を持ってしまうという事実が、"別々の人間であること"――ひとりであることの、証左になる。
お互い異なる人間。全部が通じ合えてるわけではない。
たとえば、幻想世界のふたりなんて、全然通じ合えていない。
片一方は、こんな世界に生まれてきて幸せなのだろうか?と疑問に思い、
もう片一方は、彼女と一緒にいたい、と思う。

そう、別に通じ合えてなくても、一緒にいることはできる。一緒にいることを、こんな世界でも、通じ合うことが出来ない相手でも、『選ぶ』ことができる。
そもそもお前、どうして演劇をやりたいんだ?経験ゼロだろ?
「好きだからです」
(中略)
「力を併せて、みんなで一つのことを頑張る。それは素晴らしいことだと思うんです」
「私、そういうのが……ただ、好きなんです」
《みんなで一つのことを頑張る》。その目標は、夢は、叶えられた。
朋也が、春原が、杏が、椋が、ことみが、そして渚が。このみんなで、一つのことを頑張れた。
……かつて、動機が・思いがそれぞれ違う、そこはみんなで一つじゃない、とか書いちゃったけど。
別に動機や思いが異なっていても、問題はない。そこに拘るのは、一つじゃなくて、統一。みんなで統一じゃなくて、みんなで一つなんだから、その違いはどうだっていいものでした。
みんなで一つってことの達成に、みんな同じ人間である、なんて必要はないですからね。
てゆうかむしろ、みんな別々の人間であるからこそ、
みんな別々の人間で、思いも悩みも人それぞれで、他人の思いや悩みに完全に共感し共有することができないからこそ、
みんなで一つのことを頑張るのが、素晴らしいことになる。
みんな同じ人間なら、そんなの当たり前。みんな同じ人間なら、渚はそんな夢を抱かないでしょう。
逆に言うと、そういう望みを抱くという事は、「みんな同じではない」ということの証左でもありますね。最初からみんなで一つなら、それは望みにもならない。最初からみんなで一つじゃないから、それは望みになれる。
他人の思いなんてわからないし、他人の悩みなんてわからないし、他人の望みなんてわからない。
それらを全部知って、共感して、共有することなんてありえない。一緒にいるように見えても、本当はとっくにひとりぼっり。
そんな中で『みんなで一つのこと』をだから、そこに価値を見い出せる。
さて、冒頭に陳述した「なんで杏・椋・ことみが演劇部にいて活動しまくってん?」の結論にまいりましょう。
それは上記したようなことです。
一緒に活動しながらも、思いや悩みを、全部、分かり合えたり共有したりできない。
春原と朋也でも、全部、分かり合えて、共有できているわけではないけれど、ある程度わかって、ある程度共有できてしまっている。そこに思いを視たり、投射したり。
それに対し、杏・椋・ことみは、全然、分かり合えても共有できてもいない。
こういう人物が必要だったのでしょう。
こういう、共有できてない人たちも一緒になって、『みんなでひとつ』であるということが。
そして、そういう中に居ながらこそ、共感や共有などの同定・軋轢込みにして、一緒にいたい相手を選び取る。
つまり椋とか杏とかことみとかは、みんなそれぞれ別々で、なのに朋也が渚を選んだ・渚が朋也を選んだということを価値あるものにするための、引き立て役とか露払いとか(なんだこの言葉の悪さ)。
えーと。

たとえばこのシーン、このカメラアングル。これに見覚えがあると思うんですよ。何回も何回も、出てきたアングルですから。



いや、画像取っといたのが3個しか無かったんで、3個しかあげてないですけど(笑)。
毎回のようにあったと思うんですよ。ここに固定されたカメラが。
ここに固定されていることで――視点が固定されていることで、その対象の、変化が分かる。
人が増えたり、人が減ったり。物が増えたり、物が減ったり。
最初はただ汚かっただけのこの部屋に、渚と朋也だけだったこの部屋が、綺麗になって、人が増えて、演劇部の活動をして、そして……最終的には、また、朋也と渚の二人だけになった。
第1回の、朋也と渚ふたりきりと、同じように。

このアングルで、夕日がかかっているのは、第1回と最終回の、このふたつだけ。
影二つ。
影二つにはじまり、影二つに終わる。
様々なものが流動的に変化するさまをよく観察できる、こういった固定アングルで。
最初と、最後が、同じ。はじまりと、終わりが、同じ。
そこに、この、二人は沢山の流動の中で磨耗して無くなる、なんてことはなかった、というのを見れるでしょう。
以前の描写と対比的、ってのは他にもありましたね。
たとえば劇終了後の中庭で、朋也が渚に「明日どうこう~」って言ってたら、杏が割り込んできた場面。
第15回の、原作では告白していた中庭の場面を思い出します。杏が割り込んできちゃったから、アニメではそこで告白は出来なかったのです。雰囲気や流れが崩されちゃったら、もう告白はできない。
でも今回は、杏が割り込んできても、告白時に「もし明日朝起きたら俺たちが恋人同士に~」とか、一回はずれちゃったこと言っても、ちゃんと終わりまで告白する。
以前の描写繋がりなら、何度も出てきた中庭も外せないでしょう。
朋也と渚で中庭ってシチュエーションは、大体あまり良い事じゃなくて、渚の落ち込みとか悩みとか多かったんですよね。そもそも最初が、一人で所在なさげに昼食を取ってる渚に、朋也が声を掛けたですし……っていうか、所在なさげっていうか、そのまんま、所在がなかったのでしょう。ひとりで、居場所がないから、ここに避難してきた。
第1話なんか見返すと、本当に驚きます。渚。
すごい元気なさそうな声。今にも消え入りそうというか、自信が無いというか、元気がないというか、その全てというか……。声も、下向いて伏し目がちな姿勢も、自信とか元気とかとはとてもじゃなくいくらい、正反対のものだったのです。

それが今や、こんなに自信ありげで、前を向いて、しっかりしている姿に、声に、なっている。
ここは、中庭は、自信無かったり、落ち込んだりすることが多かった場所ですから、余計際立ちます。
先の部室と異なり、『変化』をこそ表していると言えるでしょう。しかもかつては、朋也が渚に「お前も手を振ってみろよ」と言ってた場所で、渚が朋也に、お父さんと会わせたりするわけですから。
渚の変化がよく見えます。
中庭の描写のように、人は『変わっていく』ものであるけれど。
たくさんの人が居る中で、それぞれ異なる中で、渚を選んだ・朋也を選んだ・最初から最後までふたりであって『変わらなかった』――いや、正確には変わらなかったのではなくて、それを『選んだ』。そうするようにしたから、結果として変わらなかったのです。
たくさんの可能性と変化の中から選び取った現実世界。それと対比されるように、可能性がひとつもなく、ただ「(幸せと)肯定するか、そうでないと否定するか」しかない幻想世界。でも、どちらも同じ様に、『選ぶ』ことが重要である。
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