2008'04.11 (Fri) 03:18
大変遅くなりましたが、「京アニCLANNAD」、最後の回、「番外編」の感想です。
今回、最後という事で、少し恣意的ではありますが、僕の趣味に沿った考察をしたためさせて頂きました。
とりあえずの最後、「番外編」。

どことなく、渚・朋也のキャラデザが大人っぽくなってるような…(たまたま?)。
第10話を思い起こさせるような序盤。「好き」という方向での意識を自覚することすらできなかったあの頃から、「手を繋ごう」としているこの時、その違い。
少し前、諸事情あって全話見返したのですけど、その時に心底思ったのです。こいつら、マジ奥手だ、こいつら、いわゆる純情だ、と。
と~~~~~~っても、恥ずかしがる。
その理由。
経験が無いゆえの失敗に対する恥じらいとか、周囲の目に対する自意識とか、自意識の中のイメージに対する恥じらいとか、そのイメージを実現してしまう自己、イメージと同定される自分ということに対する恥じらいとか。
ベクトル的には大まかに二つに別けれまして、"他人の目線"に対する意識と、"自分の目線"に対する意識、その二つによる恥ずかしがりが存在します。
ひとつめの、"他人の目線"。たしかに二人とも、言葉から、仕草から分かるように、他人の目線を気にはしていますが、決定的な程に気にしているわけではありません。言葉から、仕草から、そして何より、二人きりの時間(他人の目線が存在しない時間)が十分にあるだろうに全く進展していない、という現状が、周りの目を多少しか気にしていないという証左となるでしょう。気にしていないということはない、周りの目を多少は気にしていますが、それが決定打になることはない、自意識過剰や被害妄想みたいな圧倒さは持っていません。
ふたつめ、"自分の目線"。イメージと同定される自分自身(彼らが思う自分自身ということなのですが)という存在、そのミスマッチさとかアンバランスさとか役不足さ(誤用的な意味で)に対する恥じらい。自分自身に対する恥じらいの目線です。そして、その目線を作っているのは、他ならない「自分自身の過去」。ここまでの歩みが、そういうものを作らざるを得ないものだったのです。
自分を卑下せざるを得ないほど不自信な渚は「私なんかが、こんな状態に」、アウトローぶる事で過去に対し賢いやりくりをするという自意識を持ってきた朋也は「こんなまとも(普通の恋愛)な状況にこの俺が」。
つまり、一言で言うと、『自信が無い』。自分自身に自信が無い。
そういう理由で……いや本質的には理由なぞどうでもいいのですが、とにかく彼らは恥ずかしがって、行動を起こせない。
恥ずかしがって行動を起こせない理由というのは、当然単純ながらも、行動を起こすよりも行動を起こさない(恥ずかしいということ)の方が勝ってしまうからです。
これをどうやって脱却するかというのは当然単純で、要はそれ以上の気になればいい、ということです。
恥ずかしさを乗り越えるくらい好きになるとか、恥ずかしさを乗り越えるくらい手を繋ぎたくなる、とか。


「前にもここで、誰かに同じことを言われた気がします」
それを助けるのが、手伝うのが、『みんな』です。
上の画像にいる面子から、渚の台詞にあるように風子も、今回に限れば特に芽衣、……振り返れば春原や有紀寧とかも。
アドバイスだったり、揶揄だったり要求だったり、さりげない気遣いだったり、今回の芽衣のように、真面目に、でも半分楽しみながら、ちょっかいだしたり。
ある意味、何でもいいんです。恥ずかしさを乗り越えられれば。『それ以上』の気持ちを得られれば。
「デートはここまでです」
芽衣の台詞。芽衣がお膳立てしたデートはここまで=つまり手助けはここまで。ここから先は自分たちだけで乗り越えてください。それ以上の気持ちになってください。
そして見事、彼らは乗り越えたし、それ以上の気持ちにもなったのです。
恋愛なのだから当事者二人の問題、でもあるのですけど。
周りの人物も、それを助けたり、手伝ったりできるし、する。
原作と異なり一本道にして「みんな」を絡ませたアニメ版なのだから、この、みんなが居るから今の朋也・渚がある、そんなに重大な要素ではないけれど、みんながいなければ、確実に何かしら変わっていた、そういう作りにした意義が、こういう所にもあるでしょう。
もう一つ話題があるのですが、話の質がガラッと変わっちゃいますので、続きは「感想その2」に持ち越し。
その2では、「なぜこれが『第23話』じゃなくて『番外編』なのか」という点についてを。
別に番外編じゃなくて23話として放送できるような内容じゃんという今回が、TBSが番外編好きっぽいからとかそういうの抜きに、作品的に見て、『番外』に置かれるだけの理由がどこにあったのかを記すとか、そういう感じ……になるといいなぁ。
書く内容自体は決まってるのですが、文章が構築できない…今週中くらいには形にしたいと思っています。
趣味に沿った考察というのはソッチの話です、はい。
■追記
http://bdkiss.blog54.fc2.com/blog-entry-511.html
その2、上げました。
「なぜこれが『第23話』じゃなくて『番外編』なのか」についての一文は、全体的なバランスからカットしてしまったので(おい)、申し訳ありませんのでこちらに記します。
『その2』を読んだ上でないと意味不明ですので、その2を読んだ後にお願い致します。一応反転文字にしておきます。
「なぜ」という"理由"というより、「どこが」という"意味"になってしまいました。や、すいません。
(ここから)
「現実に帰す」というと少しニュアンスが異なる感じですが、それに近いといえば近いでしょう。
視聴者がこの後、別にどこに行ってもいいんです。現実の諸問題に真剣に取り組もうが、別の虚構に入り込もうがご自由に。
でも。
少なくとも、この作品は『終わり』。この作品――CLANNADという虚構は『終わり』。
物語は続くかもしれないけれど、"あなたの居場所はここには無いよ"、"あなたにとっては続きませんよ"、ということをキッチリ描き示す。
視聴者にとっての『虚構の終わり』を描く。
そこに今回のが『番外編』である意味があるんじゃないかな、と思ったのです。
勿論、これが『第23話(最終回)』にならず『番外編』になった理由には、裏事情やらTBSや京アニやらの意向とかあるのでしょうが。"意味"としては、これが"終わり"だから。
ご存知の通り、「CLANNAD」は終わりません。現在続きにあたる「AFTER STORY」が作られています。
そうである以上、この「CLANNAD」を、視聴者にとって完全に終わらせてしまってはいけない。だって二期があるんだもの。本編に絶対の「出口」を作って「完結」させてしまったら、これ以上「続かなく」なってしまう。
では出口を、番外編に作ればどうでしょう。これならば、CLANNADは終わるのにCLANNADは終わらない。番外編で視聴者にとっては終わるけれど、正編である本編の方は視聴者にとっても続いていく。例えば第一期しか見ない人、アフターを見れない人にとっても、これならば『終わり』を描けている。
(ここまで)
今回、最後という事で、少し恣意的ではありますが、僕の趣味に沿った考察をしたためさせて頂きました。
とりあえずの最後、「番外編」。
【More】

どことなく、渚・朋也のキャラデザが大人っぽくなってるような…(たまたま?)。
第10話を思い起こさせるような序盤。「好き」という方向での意識を自覚することすらできなかったあの頃から、「手を繋ごう」としているこの時、その違い。
少し前、諸事情あって全話見返したのですけど、その時に心底思ったのです。こいつら、マジ奥手だ、こいつら、いわゆる純情だ、と。
と~~~~~~っても、恥ずかしがる。
その理由。
経験が無いゆえの失敗に対する恥じらいとか、周囲の目に対する自意識とか、自意識の中のイメージに対する恥じらいとか、そのイメージを実現してしまう自己、イメージと同定される自分ということに対する恥じらいとか。
ベクトル的には大まかに二つに別けれまして、"他人の目線"に対する意識と、"自分の目線"に対する意識、その二つによる恥ずかしがりが存在します。
ひとつめの、"他人の目線"。たしかに二人とも、言葉から、仕草から分かるように、他人の目線を気にはしていますが、決定的な程に気にしているわけではありません。言葉から、仕草から、そして何より、二人きりの時間(他人の目線が存在しない時間)が十分にあるだろうに全く進展していない、という現状が、周りの目を多少しか気にしていないという証左となるでしょう。気にしていないということはない、周りの目を多少は気にしていますが、それが決定打になることはない、自意識過剰や被害妄想みたいな圧倒さは持っていません。
ふたつめ、"自分の目線"。イメージと同定される自分自身(彼らが思う自分自身ということなのですが)という存在、そのミスマッチさとかアンバランスさとか役不足さ(誤用的な意味で)に対する恥じらい。自分自身に対する恥じらいの目線です。そして、その目線を作っているのは、他ならない「自分自身の過去」。ここまでの歩みが、そういうものを作らざるを得ないものだったのです。
自分を卑下せざるを得ないほど不自信な渚は「私なんかが、こんな状態に」、アウトローぶる事で過去に対し賢いやりくりをするという自意識を持ってきた朋也は「こんなまとも(普通の恋愛)な状況にこの俺が」。
つまり、一言で言うと、『自信が無い』。自分自身に自信が無い。
そういう理由で……いや本質的には理由なぞどうでもいいのですが、とにかく彼らは恥ずかしがって、行動を起こせない。
恥ずかしがって行動を起こせない理由というのは、当然単純ながらも、行動を起こすよりも行動を起こさない(恥ずかしいということ)の方が勝ってしまうからです。
これをどうやって脱却するかというのは当然単純で、要はそれ以上の気になればいい、ということです。
恥ずかしさを乗り越えるくらい好きになるとか、恥ずかしさを乗り越えるくらい手を繋ぎたくなる、とか。


「前にもここで、誰かに同じことを言われた気がします」
それを助けるのが、手伝うのが、『みんな』です。
上の画像にいる面子から、渚の台詞にあるように風子も、今回に限れば特に芽衣、……振り返れば春原や有紀寧とかも。
アドバイスだったり、揶揄だったり要求だったり、さりげない気遣いだったり、今回の芽衣のように、真面目に、でも半分楽しみながら、ちょっかいだしたり。
ある意味、何でもいいんです。恥ずかしさを乗り越えられれば。『それ以上』の気持ちを得られれば。
「デートはここまでです」
芽衣の台詞。芽衣がお膳立てしたデートはここまで=つまり手助けはここまで。ここから先は自分たちだけで乗り越えてください。それ以上の気持ちになってください。
そして見事、彼らは乗り越えたし、それ以上の気持ちにもなったのです。
恋愛なのだから当事者二人の問題、でもあるのですけど。
周りの人物も、それを助けたり、手伝ったりできるし、する。
原作と異なり一本道にして「みんな」を絡ませたアニメ版なのだから、この、みんなが居るから今の朋也・渚がある、そんなに重大な要素ではないけれど、みんながいなければ、確実に何かしら変わっていた、そういう作りにした意義が、こういう所にもあるでしょう。
もう一つ話題があるのですが、話の質がガラッと変わっちゃいますので、続きは「感想その2」に持ち越し。
その2では、「なぜこれが『第23話』じゃなくて『番外編』なのか」という点についてを。
別に番外編じゃなくて23話として放送できるような内容じゃんという今回が、TBSが番外編好きっぽいからとかそういうの抜きに、作品的に見て、『番外』に置かれるだけの理由がどこにあったのかを記すとか、そういう感じ……になるといいなぁ。
書く内容自体は決まってるのですが、文章が構築できない…今週中くらいには形にしたいと思っています。
趣味に沿った考察というのはソッチの話です、はい。
■追記
http://bdkiss.blog54.fc2.com/blog-entry-511.html
その2、上げました。
「なぜこれが『第23話』じゃなくて『番外編』なのか」についての一文は、全体的なバランスからカットしてしまったので(おい)、申し訳ありませんのでこちらに記します。
『その2』を読んだ上でないと意味不明ですので、その2を読んだ後にお願い致します。一応反転文字にしておきます。
「なぜ」という"理由"というより、「どこが」という"意味"になってしまいました。や、すいません。
(ここから)
「現実に帰す」というと少しニュアンスが異なる感じですが、それに近いといえば近いでしょう。
視聴者がこの後、別にどこに行ってもいいんです。現実の諸問題に真剣に取り組もうが、別の虚構に入り込もうがご自由に。
でも。
少なくとも、この作品は『終わり』。この作品――CLANNADという虚構は『終わり』。
物語は続くかもしれないけれど、"あなたの居場所はここには無いよ"、"あなたにとっては続きませんよ"、ということをキッチリ描き示す。
視聴者にとっての『虚構の終わり』を描く。
そこに今回のが『番外編』である意味があるんじゃないかな、と思ったのです。
勿論、これが『第23話(最終回)』にならず『番外編』になった理由には、裏事情やらTBSや京アニやらの意向とかあるのでしょうが。"意味"としては、これが"終わり"だから。
ご存知の通り、「CLANNAD」は終わりません。現在続きにあたる「AFTER STORY」が作られています。
そうである以上、この「CLANNAD」を、視聴者にとって完全に終わらせてしまってはいけない。だって二期があるんだもの。本編に絶対の「出口」を作って「完結」させてしまったら、これ以上「続かなく」なってしまう。
では出口を、番外編に作ればどうでしょう。これならば、CLANNADは終わるのにCLANNADは終わらない。番外編で視聴者にとっては終わるけれど、正編である本編の方は視聴者にとっても続いていく。例えば第一期しか見ない人、アフターを見れない人にとっても、これならば『終わり』を描けている。
(ここまで)
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