2008'04.25 (Fri) 03:52
鈴→小毬→姉御→美魚とプレイして、そこから積むことはや半年。
半年というか、半年プラスちょっとを経て。
「リトルバスターズ!」感想のお時間が帰ってまいりました。
この度は"能美クドリャフカ"シナリオ。一度しかプレイしておりませんし、"雑感"ということでどうかおひとつ。
先に、ちょっと個人的なことを書かせて頂きますと……『リトルバスターズ!』も発売から長い時間が経ちました昨今、ウェブを巡っていると多少のネタバレに触れてしまいます。
怪しいものを見つけたら触れないように注意しているのですが、やはり多少のネタバレに出くわしてしまうことは、ネットをやっている以上仕方がないことでもあります。ということで、ご他聞に漏れず僕もほんのちょっとだけネタバレには触れてしまっています。
(ネタバレになる部分のみ反転文字で)
注意しているので殆ど触れてはいないのですが、僕が知ってしまったのは……いやまあ薄々感付いてはいたのですが、この世界が「虚構世界」であるということ。いやぁ逆に嬉しかったといえば嬉しかったです。麻枝さんの引退作でこれをやってくれるということが分かって。今までの作品も迂遠にそういうニュアンスがあるなって、ずっと思っていたのです。僕は作家論で語れるほどには麻枝さんを知りませんが、それでも、こういうものは彼のテーマであるとも思っています。
そこから色々想像できることもあるのですが、それでも他のことに関しては、幸いながら未だ知らないままでおります。
以下にはクドシナリオのネタバレが含まれています。
どうにも……最後の方の、「しゅうがくりょこうへいく直前のことです」とか、「だから、『今度は』」など、ループ? 時間跳躍? に対する自覚的な台詞など、ここまでのプレイだけでは、どうにも掴めない部分が存在します。
なのでその辺は無視します。そして当然、そこを無視してしまう以上、お話の全容が掴めません。
つまりあれですよ、リトルバスターズ全部クリアしたら新たに書く、とか。
と記した後、クドシナリオ最後の選択肢で逆の項目(行かないで欲しい)を選んだら、多少は答えが分かりました。
これが『今度は』にかかっているのですね。
その理解でも色々と疑問点はあるのですが、全クリしないと分からなそうですので、その辺は端に除けといて。
つまり、このクドシナリオ雑感は、『リトルバスターズ!』クリア後に修正する必要がある可能性が高い出来のものになるかもしれないということですが、とりあえず現時点で分かることと導き出せることから感想を。
■クドリャフカの気持ち・意思が作り出す『クドリャフカ』
――――――――――――――――――――――――――――――――
幾度も記して申し訳ないのですが。やはり、現時点ではどうしても疑問が残ってしまいます。
『世界の歯車となれ』。
世界、そして歯車。その言葉の正鵠はどこにあるのか。ここでいう"世界"とは、何処のことを指しているのか。ここでいう"歯車"が動かすのは、いずこの世界のことなのか。
先の「ネタバレ」の話もあって、現時点ではここが判別できない。
それが解明できなければ、クドの行動の本質も判明しない。
なのですが、そう言っていても話が進まないので、ここは仮定的に上で記したようなこと、つまり
なのでちょっと、色んなところをスルーします。その辺は、全部クリア後の宿題ということで。
◇
『気持ちを犠牲にする』ことと、『意思を犠牲にする』ことを、同意にしてはいけません。
気持ちと意思とは別物です。
◇
さて、クドリャフカシナリオ、いきなり最後近くの局面から。
かような経験(時間的には未来ですが)を持つクドリャフカは、母から頂いた言葉――『世界の良き歯車になれ』――もあり、自身の気持ちを殺し犠牲になることを重んじます。
自分ひとりの犠牲で、世界を前進させる。自分の命を歯車として、世界を回す。
中盤に出てきた絵本『鳥さん村と獣さん村のお話』と同じ様な状況ですね。世界を回すための犠牲になったコウモリと、同じ様な立場。
そもそも「クドリャフカ」という名前からして、犠牲と歯車を想起させます。
Wikipediaを見た程度の知識しかありませんが、宇宙開発のための犠牲といい、他の細かい点といい、この物語と一致する符合が非常に多いです(てゆうか、それを意識して作っているのでしょうけど)。
クドのそういう思いは、この状況になる以前から持っていたものでありました。過去(未来)の経験もあるし、母の言葉もある。自分の気持ちを殺すというのと、犠牲になるというの。
そもそも
外人なんだから、英語喋って、日本文化に戸惑って、外国っぽい行動を取る、であろうという固定観念。外人に対し人が普通考えるもの。
しかしクドは異なっていました。英語喋れず、日本文化に慣れ親しんでいて、外国っぽい行動を滅多に取らない。
クドはクド。クドリャフカは当然一己のクドリャフカ。そういうのも含めてクドという個人でありますし、クドに近しい周りの皆はそういうのがクドだと認めておりましたが、クド本人はそれを拒みました。
英語を喋れるよう努力して、日本文化に慣れ親しんでいる姿を隠して、外国っぽい行動が取れたことにはしゃぐ。
その為に、犠牲にしたのは『気持ち』。
無理にでも英語を使おうと努力したり(この動機はそれだけではありませんが)、日本文化に慣れていないフリをしたり、外国っぽさに一喜一憂したり。
クドっぽさ、つまり自分の気持ちを犠牲にしたのです。
『鳥さん村と獣さん村のお話』のお話に出てくる、世界を回す犠牲となったコウモリに対し、クドは「自分と同じ」という思いを抱きました。
世界を回すための歯車になる、という意思。過去の経験や母の言葉から作られたその意思を、気持ちを犠牲にして実践していったのです。
◇
『気持ち』と『意思』は別物です。
歯車になるという意思を持ちながらも、しかしながら、気持ちまでもは完全に歯車にはなれなかった。
そういう『意思』を持っていても、『気持ち』は別物に存在していた。
そしてその『気持ち』――"理樹に対する思い"が、クドに意思とは異なる行動をさせていました。
クドとの物語の、最初の引越しの荷物も、次の同居人探しも。理樹は手伝ってくれましたが、それはクドからの頼みではなく、理樹の自発的な行動。クドが最初に理樹に頼んだのは、家具部から家具を貰い受ける時のことでした。
そして、その最初の頼みの後には。理樹に対する呼び方が、「直枝さん」から「リキ」に変わっていたのです。
クドの方からの歩み寄り。世界の歯車になることとは、全く関係のない行動。意思とは違う、気持ちでの行動。そして気持ちでの行動だからこそ、親密を作っていけた――さらなる親密、告白もそう。クドの方から。気持ちが意思を凌駕するかのように、世界の歯車とは関係ない理樹への彼女の思いを、行動に移させたのです。
意思を越える気持ちでの行動。
意思を持ちながら。気持ちを殺し、歯車になる意思を持ちながらの、その行動。
ちぐはぐで、ばらばら。
だから、二木さんにこんなこと言われてしまうのです。
(※ちなみに二木さんは、その言動から(一応ネタバレかも反転)「相変らず知られてないというおかしな話になっているわけね…しょうがないか(5/18)」などから、世界の秘密に対して何らかの自覚を持っているのではないかと考えています。最初に記したネタバレの部分に何らかの関わりがあるのではないかと。ですので、彼女の言動に対しては、僕はある程度加味して考えています)(もしかしたら全然違うかも)
◇
『意思』と『気持ち』の『歪んだ歯車』であるクドリャフカ。
さて、クドリャフカシナリオ、最後近くの局面です。
母国でのロケット発射施設の事故を知り、母親の安否が不明な状況になり、戸惑う彼女の元に、母国へ戻る飛行機のチケットが手渡されます。
ここで。帰るのか、帰らないのか。
歯車としての意思と、理樹への思いという気持ち。
どちらを優先するのか。
クドは、どちらも優先できませんでした。
『意思』にも『気持ち』にもどちらにも傾けず。
理樹に、託す。
そして。
かつて(というか別の世界、次元で)。『気持ち』を理由に帰らなかった。そしたら、悔やんでも悔やみきれないほどの後悔をしてしまった。はじめての母親の頼みも顧みず。理樹と一緒にいたいという気持ちに依って学校に残ることを選択したら、母のこと、全てが終わっていた。鉄の破片一つ残して。
だから、だから『今度は』、歯車になるという意思の元、気持ちでの選択をしないように努めた。気持ちを殺して、意思での選択に。
でも、そうは成りきれなかった。二木に「歪んだ歯車」と称されたように、母国に帰る選択を理樹に仮託してしまったように、最後まで気持ちを殺しきれなかった。
これが、クド自身の気持ち。
でも、それを抑え続けて、殺し続けて、ここまできた。気持ちを殺し、自分が犠牲になることで、世界を回そうという意思の元、ここまできた。
だけど……そんなのは嫌だと、理樹は語る。
『自分の気持ち』を手放して、自分を殺すことなど認めないと、理樹は語る。
だから、理樹は声をかける。かけ続ける。理樹の気持ちの声を。思いを。
自分の意思でこうなった。自分の意思でここまできた。歯車になるということ。
気持ちは違う。本心は全然違う。それを押し殺して、ここまできた。
だけど理樹は、自分の気持ちを手放すな、と語る。
自分の気持ちを手放さないのなら……自分の気持ちを殺さないのなら、答えはひとつ。
自分の気持ちを押し殺した上でもまだ、「選択」がそうであったように、『気持ち』と『意思』が天秤を保っていた。
でももし、自分の気持ちを殺さないのなら。当然のように。
理樹と一緒にいたいという気持ちが、歯車になるという意思に勝る。
気持ちそのものが、新しい意思になる。
◇
国を転々としていた女の子。
日本人からすると見た目は外人だし、外人からすると中身は日本人な彼女。
英語喋れず、日本文化に慣れ親しんでいて、外国っぽい行動を滅多に取らない。
クドっぽさ。
クドリャフカという一己の人間。
彼女は、それを認めていなかった。
クドリャフカという人間。
英語喋れず、日本文化に慣れ親しんでいて、外国っぽい行動を滅多に取らないハーフの女の子が自分である。それが、他人に受け入れられても、自分自身に受け入れられず。無理にでも英語を使おうと努力したり、日本文化に慣れていないフリをしたり、外国っぽさに一喜一憂する。それもまた、クドっぽさ。でもやはりクドは、それを受け入れているわけでもない。もっと英語を喋れるよう努力する。もっと日本文化に詳しいことを隠そうと努める。もっと外国人っぽさを探し求める。
オープニングムービー、クドリャフカの時に出てくる言葉。
なんでクドが、今ここにいるクドをクド(自分を自分)と認めていないのか。
『ふー・あむ・あい?』の答えは『クドリャフカ』。言うのは簡単。でも、その根拠が見当たらないから、それを認められないのでしょう。何にも属していない自分を作りだしているのは何なのか?
それは、クドの『気持ち』から生じた『意思』です。
何で、無理にでも英語を使おうと努力したり、日本文化に慣れていないフリをしたり、外国っぽさに一喜一憂したりするのか。それらをしたいという気持ちがあって、それらをしようという意思があったからでしょう。
『気持ち』が、その『気持ち』が転化した『意思』が、今のクドリャフカ自身を作っている。
他人の視線と同一化を図るのもクドリャフカだし、ちょっと変わった自分自身を持ち付けるのもクドリャフカだし、理樹と一緒にいたいという気持ちを最後まで失くさないのも――それを意思にして、理樹の元へ帰ってくるのもクドリャフカ。
何にも寄る辺がないもののアイデンティティ。それは自分自身。
自分自身の気持ち、自分自身の意思。
そのクドっぽさこそが、まさにクドリャフカなのでしょう。
半年というか、半年プラスちょっとを経て。
「リトルバスターズ!」感想のお時間が帰ってまいりました。
この度は"能美クドリャフカ"シナリオ。一度しかプレイしておりませんし、"雑感"ということでどうかおひとつ。
先に、ちょっと個人的なことを書かせて頂きますと……『リトルバスターズ!』も発売から長い時間が経ちました昨今、ウェブを巡っていると多少のネタバレに触れてしまいます。
怪しいものを見つけたら触れないように注意しているのですが、やはり多少のネタバレに出くわしてしまうことは、ネットをやっている以上仕方がないことでもあります。ということで、ご他聞に漏れず僕もほんのちょっとだけネタバレには触れてしまっています。
(ネタバレになる部分のみ反転文字で)
注意しているので殆ど触れてはいないのですが、僕が知ってしまったのは……いやまあ薄々感付いてはいたのですが、この世界が「虚構世界」であるということ。いやぁ逆に嬉しかったといえば嬉しかったです。麻枝さんの引退作でこれをやってくれるということが分かって。今までの作品も迂遠にそういうニュアンスがあるなって、ずっと思っていたのです。僕は作家論で語れるほどには麻枝さんを知りませんが、それでも、こういうものは彼のテーマであるとも思っています。
そこから色々想像できることもあるのですが、それでも他のことに関しては、幸いながら未だ知らないままでおります。
以下にはクドシナリオのネタバレが含まれています。
【More】
どうにも……最後の方の、「しゅうがくりょこうへいく直前のことです」とか、「だから、『今度は』」など、ループ? 時間跳躍? に対する自覚的な台詞など、ここまでのプレイだけでは、どうにも掴めない部分が存在します。
なのでその辺は無視します。そして当然、そこを無視してしまう以上、お話の全容が掴めません。
つまりあれですよ、リトルバスターズ全部クリアしたら新たに書く、とか。
と記した後、クドシナリオ最後の選択肢で逆の項目(行かないで欲しい)を選んだら、多少は答えが分かりました。
そうだ、そうでした。母の死をテレビで見た、その時のクドの言葉。
私、これを見て。
こんなの…見たくない…信じたくない…。
これが『今度は』にかかっているのですね。
その理解でも色々と疑問点はあるのですが、全クリしないと分からなそうですので、その辺は端に除けといて。
つまり、このクドシナリオ雑感は、『リトルバスターズ!』クリア後に修正する必要がある可能性が高い出来のものになるかもしれないということですが、とりあえず現時点で分かることと導き出せることから感想を。
■クドリャフカの気持ち・意思が作り出す『クドリャフカ』
――――――――――――――――――――――――――――――――
幾度も記して申し訳ないのですが。やはり、現時点ではどうしても疑問が残ってしまいます。
『世界の歯車となれ』。
世界、そして歯車。その言葉の正鵠はどこにあるのか。ここでいう"世界"とは、何処のことを指しているのか。ここでいう"歯車"が動かすのは、いずこの世界のことなのか。
先の「ネタバレ」の話もあって、現時点ではここが判別できない。
それが解明できなければ、クドの行動の本質も判明しない。
なのですが、そう言っていても話が進まないので、ここは仮定的に上で記したようなこと、つまり
そうだ、そうでした。ここで生じた後悔が、クドの行動の根源であると仮定いたします。
私、これを見て。
こんなの…見たくない…信じたくない…。
なのでちょっと、色んなところをスルーします。その辺は、全部クリア後の宿題ということで。
◇
『気持ちを犠牲にする』ことと、『意思を犠牲にする』ことを、同意にしてはいけません。
気持ちと意思とは別物です。
◇
さて、クドリャフカシナリオ、いきなり最後近くの局面から。
かような経験(時間的には未来ですが)を持つクドリャフカは、母から頂いた言葉――『世界の良き歯車になれ』――もあり、自身の気持ちを殺し犠牲になることを重んじます。
自分ひとりの犠牲で、世界を前進させる。自分の命を歯車として、世界を回す。
中盤に出てきた絵本『鳥さん村と獣さん村のお話』と同じ様な状況ですね。世界を回すための犠牲になったコウモリと、同じ様な立場。
そもそも「クドリャフカ」という名前からして、犠牲と歯車を想起させます。
Wikipediaを見た程度の知識しかありませんが、宇宙開発のための犠牲といい、他の細かい点といい、この物語と一致する符合が非常に多いです(てゆうか、それを意識して作っているのでしょうけど)。
クドのそういう思いは、この状況になる以前から持っていたものでありました。過去(未来)の経験もあるし、母の言葉もある。自分の気持ちを殺すというのと、犠牲になるというの。
そもそも
他人からの視線と自己存在の不一致を気にかけるのは何か。それは自分自身が気持ちを犠牲にし歯車になろうというクドの意思からでありました。
(クドシナリオ、理樹のモノローグより)
外人なんだから、英語喋って、日本文化に戸惑って、外国っぽい行動を取る、であろうという固定観念。外人に対し人が普通考えるもの。
しかしクドは異なっていました。英語喋れず、日本文化に慣れ親しんでいて、外国っぽい行動を滅多に取らない。
クドはクド。クドリャフカは当然一己のクドリャフカ。そういうのも含めてクドという個人でありますし、クドに近しい周りの皆はそういうのがクドだと認めておりましたが、クド本人はそれを拒みました。
英語を喋れるよう努力して、日本文化に慣れ親しんでいる姿を隠して、外国っぽい行動が取れたことにはしゃぐ。
ひとが普通考えるものから適合していないと感じる想いクドは、自分が、人が普通考えるもの――この場合は外国人像――に適合しようとしていたのです。
(クドシナリオ最後の方)
その為に、犠牲にしたのは『気持ち』。
無理にでも英語を使おうと努力したり(この動機はそれだけではありませんが)、日本文化に慣れていないフリをしたり、外国っぽさに一喜一憂したり。
クドっぽさ、つまり自分の気持ちを犠牲にしたのです。
『鳥さん村と獣さん村のお話』のお話に出てくる、世界を回す犠牲となったコウモリに対し、クドは「自分と同じ」という思いを抱きました。
世界を回すための歯車になる、という意思。過去の経験や母の言葉から作られたその意思を、気持ちを犠牲にして実践していったのです。
真人「意外と寂しがり屋なのな、クー公は」自分自身の気持ちを他人にははぐらかしたり。
クド「そんなことは…ないこともあることもないこともないかもあるかも」
クドは恥ずかしそうに俯いた。
(5/18)
クド「でも、なんとなく時々選択を何かに委ねたくなりませんか?」気持ちによる選択を何かに仮託することで回避したり。
クド「学食のメニューとか。この場合は偶然というか必然というか」
(5/18)
◇
『気持ち』と『意思』は別物です。
歯車になるという意思を持ちながらも、しかしながら、気持ちまでもは完全に歯車にはなれなかった。
そういう『意思』を持っていても、『気持ち』は別物に存在していた。
そしてその『気持ち』――"理樹に対する思い"が、クドに意思とは異なる行動をさせていました。
クドとの物語の、最初の引越しの荷物も、次の同居人探しも。理樹は手伝ってくれましたが、それはクドからの頼みではなく、理樹の自発的な行動。クドが最初に理樹に頼んだのは、家具部から家具を貰い受ける時のことでした。
そして、その最初の頼みの後には。理樹に対する呼び方が、「直枝さん」から「リキ」に変わっていたのです。
クドの方からの歩み寄り。世界の歯車になることとは、全く関係のない行動。意思とは違う、気持ちでの行動。そして気持ちでの行動だからこそ、親密を作っていけた――さらなる親密、告白もそう。クドの方から。気持ちが意思を凌駕するかのように、世界の歯車とは関係ない理樹への彼女の思いを、行動に移させたのです。
意思を越える気持ちでの行動。
意思を持ちながら。気持ちを殺し、歯車になる意思を持ちながらの、その行動。
ちぐはぐで、ばらばら。
だから、二木さんにこんなこと言われてしまうのです。
『中途半端な存在』
『世界の役に立たない歪んだ歯車』
(※ちなみに二木さんは、その言動から(一応ネタバレかも反転)「相変らず知られてないというおかしな話になっているわけね…しょうがないか(5/18)」などから、世界の秘密に対して何らかの自覚を持っているのではないかと考えています。最初に記したネタバレの部分に何らかの関わりがあるのではないかと。ですので、彼女の言動に対しては、僕はある程度加味して考えています)(もしかしたら全然違うかも)
◇
『意思』と『気持ち』の『歪んだ歯車』であるクドリャフカ。
さて、クドリャフカシナリオ、最後近くの局面です。
母国でのロケット発射施設の事故を知り、母親の安否が不明な状況になり、戸惑う彼女の元に、母国へ戻る飛行機のチケットが手渡されます。
ここで。帰るのか、帰らないのか。
歯車としての意思と、理樹への思いという気持ち。
どちらを優先するのか。
クドは、どちらも優先できませんでした。
クド「でも、なんとなく時々選択を何かに委ねたくなりませんか?」それと同じ様に、この傾けられない天秤を、迷いを後押しする存在(つまり理樹)に仮託したのです。
『意思』にも『気持ち』にもどちらにも傾けず。
理樹に、託す。
そして。
「わたしは、あとでしりました」
「しゅうがくりょこうへいく直前のことです」
「私は、かえることができたのにしなかったのです」
「自分勝手もいいところです…!」
「ダメな子です…役に立たない子です…」
「それどころか、できるのにしなかった…!」
「くやんでも…くやみきれないできごと」
「だから、『今度は』」
「かえらなかった理由」
「…あなたがいたから」
かつて(というか別の世界、次元で)。『気持ち』を理由に帰らなかった。そしたら、悔やんでも悔やみきれないほどの後悔をしてしまった。はじめての母親の頼みも顧みず。理樹と一緒にいたいという気持ちに依って学校に残ることを選択したら、母のこと、全てが終わっていた。鉄の破片一つ残して。
だから、だから『今度は』、歯車になるという意思の元、気持ちでの選択をしないように努めた。気持ちを殺して、意思での選択に。
でも、そうは成りきれなかった。二木に「歪んだ歯車」と称されたように、母国に帰る選択を理樹に仮託してしまったように、最後まで気持ちを殺しきれなかった。
「…なのに…私、私、どうして、こうかい、してる…んでしょう…」
「本当はそばに…いたかったのに…となりに、いたかったのにっ」
これが、クド自身の気持ち。
でも、それを抑え続けて、殺し続けて、ここまできた。気持ちを殺し、自分が犠牲になることで、世界を回そうという意思の元、ここまできた。
だけど……そんなのは嫌だと、理樹は語る。
『自分の気持ち』を手放して、自分を殺すことなど認めないと、理樹は語る。
だから、理樹は声をかける。かけ続ける。理樹の気持ちの声を。思いを。
自分の意思でこうなった。自分の意思でここまできた。歯車になるということ。
気持ちは違う。本心は全然違う。それを押し殺して、ここまできた。
だけど理樹は、自分の気持ちを手放すな、と語る。
自分の気持ちを手放さないのなら……自分の気持ちを殺さないのなら、答えはひとつ。
自分の気持ちを押し殺した上でもまだ、「選択」がそうであったように、『気持ち』と『意思』が天秤を保っていた。
でももし、自分の気持ちを殺さないのなら。当然のように。
「…かえり、たい、です…!」
理樹と一緒にいたいという気持ちが、歯車になるという意思に勝る。
気持ちそのものが、新しい意思になる。
◇
国を転々としていた女の子。
日本人からすると見た目は外人だし、外人からすると中身は日本人な彼女。
英語喋れず、日本文化に慣れ親しんでいて、外国っぽい行動を滅多に取らない。
クドっぽさ。
クドリャフカという一己の人間。
彼女は、それを認めていなかった。
クドリャフカという人間。
英語喋れず、日本文化に慣れ親しんでいて、外国っぽい行動を滅多に取らないハーフの女の子が自分である。それが、他人に受け入れられても、自分自身に受け入れられず。無理にでも英語を使おうと努力したり、日本文化に慣れていないフリをしたり、外国っぽさに一喜一憂する。それもまた、クドっぽさ。でもやはりクドは、それを受け入れているわけでもない。もっと英語を喋れるよう努力する。もっと日本文化に詳しいことを隠そうと努める。もっと外国人っぽさを探し求める。
オープニングムービー、クドリャフカの時に出てくる言葉。
『ふー・あむ・あい?』一体自分とは何なのか。母国は在ってない様なもの。国と言う大きな集団に属していない。どこかの文化一色に染まっているわけでもない。周囲が思い描くようなクドという外人に溶け込みでもしなかれば、その世界に溶け込めない。どの場所にも属せていないクドリャフカのアイデンティティ。
なんでクドが、今ここにいるクドをクド(自分を自分)と認めていないのか。
『ふー・あむ・あい?』の答えは『クドリャフカ』。言うのは簡単。でも、その根拠が見当たらないから、それを認められないのでしょう。何にも属していない自分を作りだしているのは何なのか?
それは、クドの『気持ち』から生じた『意思』です。
何で、無理にでも英語を使おうと努力したり、日本文化に慣れていないフリをしたり、外国っぽさに一喜一憂したりするのか。それらをしたいという気持ちがあって、それらをしようという意思があったからでしょう。
『気持ち』が、その『気持ち』が転化した『意思』が、今のクドリャフカ自身を作っている。
他人の視線と同一化を図るのもクドリャフカだし、ちょっと変わった自分自身を持ち付けるのもクドリャフカだし、理樹と一緒にいたいという気持ちを最後まで失くさないのも――それを意思にして、理樹の元へ帰ってくるのもクドリャフカ。
何にも寄る辺がないもののアイデンティティ。それは自分自身。
自分自身の気持ち、自分自身の意思。
そのクドっぽさこそが、まさにクドリャフカなのでしょう。
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