2008'04.30 (Wed) 04:09
およそ10年ぶりにエヴァンゲリオンに触れました。
映画『ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:序』のDVD。
情けないことに、10年経って「こんな作品だったのか」と初めて気付かされました。
以下には「ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:序」のネタバレが含まれています。お気をつけ下さい。
昔のエヴァとの比較的なものは殆どありませんが(なにせ記憶が比較できるほどではございませんので)、基本的に今回のEVAについては『ヱヴァ』、昔のEVAについては『エヴァ』と表記しています。

みんなが思ってそうな気もしますが、「2周目感」が強いですね。
ゲームの2周目。いろんなことがちょっと変わってる。
色が変わっていたり、1周目にはなかった選択肢が出てきたり、あと敵が強くなったり。クリボーがメットになっていました感覚。
約10年ぶりに触れる「エヴァンゲリオン」。一番驚いたのは、自分が、10年前に分からなかったことが、今は分かるようになったことです。作品も変わったし、自分も変わった。この分かるという感覚が嬉しいような寂しいような。10年という月日の重さが荷物ではなく自重(じじゅう)として身に沁みます。
そんなわけで。ぶっちゃけちょっと、泣いてしまいました。

You are (not) alone.
この作品は正にその言葉の通りでした。
父親、碇ゲンドウの求めに応じてネルフへときたシンジに対するゲンドウの求めは、「エヴァに乗ること」。
エヴァに乗ること。そのためだけにここに呼んだ。それ以外にお前に価値は無い。

ある意味では、再確認。愛されてもいない。必要とされてもいない。認められていない。そんなことは最初から分かっていた。
ミサトがシンジのことを「お父さんに褒めてもらいたいだけ」と述べていましたが、まさにそんなこと。
自分を認めて欲しい。
かつての「エヴァ」における「僕はここにいてもいいんだ!」。自分自身を肯定するためには他者からの承認が必要となる。子供の頃に、誰しもが当たり前のように享受する親からの無条件の承認をいただいていなかったからなのか――いや、だからでしょう。だから、彼はこんなにも親の――父親の承認を得たいと欲している。親に認めてもらって、必要とされて、あまつさえ愛されたい。そう願う。
そして。
「エヴァに乗るために」呼んだ父。つまりシンジの価値を「エヴァに乗ること」にだけ見い出すゲンドウと。
「父に承認されるため」に来た息子。つまり自分の価値は「エヴァに乗ること」でゲンドウに見い出してもらえる。
この二人の利害は、望んではいないだろうけど一致している。
いや、というより。
これ以外に道はない。シンジが承認される道は。命を懸けてエヴァに乗ることによってのみ、それが満たされる「可能性」――そうあくまでも可能性でしかない――が開かれる。
だからこそ、シンジはエヴァに乗る、のですが――。
可能性でしかない。
実際のところ、エヴァに乗ったシンジに対して、ゲンドウは褒めるはおろか関心すら抱かない風でした。病院で出くわしても、眉一つ動かさずにスルー。
それでも、エヴァに乗ることはシンジにとって唯一の、ゲンドウに褒められる可能性のある事柄。ゲンドウとのただ一つのつながり。だからエヴァに乗り続ける。
無理してエヴァに乗り、無理して訓練し続け、無理して戦う。それの繰り返し。お父さんに認めてもらうまで。
でもそのお父さんは、まったく認めてくれません。ミサトは言います。
でも実際には、そうとは言い切れません。トウジ、ケンスケはシンジを認めたけど、それはエントリープラグの中に入って、シンジと同じ目線に立って、間近で彼の恐怖を見つめたから。


シンジの感情を知ったトウジは、殴ったのは一方的だったと悟る。
逆に言うと、ここまでなんです。
ここまで近づかないと、他人の感情なんてわからない。
「人に褒められる」と言っても、実際に褒めてくれる人は殆どいない。むしろトウジのように反感を持つ人のが多いのかもしれない。一人一人エントリープラグに乗せてシンジの恐怖を見てもらう? そんなのは現実的じゃない。現実にあるのは「誰かに褒められるかも」という「可能性」。そもそもシンジが欲しいのは「父さんに褒められること」であって、それ以外の誰かに褒められることじゃない。
誰かに褒められること。誰かに認められること。それは嬉しいことだろう。でも、命を懸けて身も心も削ってエヴァンゲリオンに乗った報酬が、その"「誰かに褒められるかも」という「可能性」"程度で、どうしてそれを成し得ようか。
エヴァに乗ること。
エヴァに乗らなきゃ価値がない。そういったのは父さんだ。
エヴァに乗らなきゃ価値がない。多分ミサトさんや、他のネルフの人にとってもそうだろう。
エヴァに乗らなきゃ価値がない。学校で黄色い声を浴びることも、トウジやケンスケらと親しくなることも無いだろう。
価値がない。誰も自分を認めず、自分は一人ぼっちだろう。
エヴァに乗らなきゃ価値が無い。
逆に言えば、エヴァに乗るならば価値があるのかもしれない。
それはあくまでも可能性。父さんが認めてくれなかったように、トウジが最初反感を抱いていたように、必ずしも良好な価値が得られるとは限らない。
けれど、最低でも、可能性だけはある。
父さんが認めてくれなくても、父さんと親しくなれなくても。
その代替として。
誰かに認めてもらえる可能性。
誰かと親しくなれる可能性。
乗らなきゃ、一人。
―― alone
乗れば、一人ではない? 一人ではないかも、しれない。一人ではない、可能性がある
―― (not) alone
命を懸けてまで、カッコ付きの、不確かな、『一人ではない』にかける。
綾波レイ。

「これで死ぬかもしれない」
「いいえ。あなたは死なないわ」
「私が守るもの」
少なくとも、一人ではない。エヴァに乗れば綾波が、自分を守ってくれる。綾波と繋がっている。

「綾波は、なぜエヴァに乗るの?」
「絆だから」
「絆……?」
「そう、絆」
「父さんとの……?」
「みんなとの」
絆。他者とのつながり。
ゲンドウもそう。ミサトもそう。リツコもそう。ネルフの他の人たちもそう。電気集めている人たちも、武器作ってる人たちもそう。この戦いに参加している全て。そしてこの戦いに参加していない全て。遠くの街で不穏を感じている人びと。シェルターに避難し不安を抱いている人びと。昨日まで共に机を並べたクラスメイト。自分の成功と無事を祈ってくれている人たち。
その人たちへの見えないつながり。あるかどうかも定かではないつながり。それが絆。
一人ではないかもしれないというほのかな可能性。
その為に、エヴァに乗る。
それは、シンジも全くもって、同じだった。
「私には、他に何もないもの」
「さよなら」
シンジにも、他に何もなかった。シンジもエヴァに乗ることでいつも、「さよなら」を告げれるくらい死と恐怖に面していた。
「エヴァ」から10年経って初めて分かった。シンジがここで
戦いに向かうたびにいつも死を恐怖していたシンジ。承認にも満たない絆というただの承認可能性のために命を張っていたシンジ。口にこそ出してないけど、シンジだって似たようなものじゃないか。別れ際に「さよなら」。
なぜシンジは「さよならなんて悲しいこと言うなよ」と言ったのか。それは自分に対する言葉でもあるんですね。死にただただ恐怖して、承認が得られないことにただただ嘆く。綾波レイは、同じではないけれど――いや、受け取り方はむしろシンジと対照的なんだろうけど――その動機は、酷似していた。
つまりシンジは、レイに自分を投影していたからこそ、このようなことを言ったのでしょう。

画像サイズを大きくしてもわかりづらいですが、戦闘後、綾波を助けるため、零号機(のエントリープラグを出すために)にナイフを振るう初号機の絵。
まるで殺しているような構図。いや、多分きっと殺している。エヴァンゲリオンという機体は、そこにいるパイロットを殺す檻のようなもの。僅か14歳の子供が、たくさんのものを犠牲にしてたくさんの重荷を背負わされて、乗るもの。死や恐怖に直面するもの。得たいものが得られないけれど得られる可能性だけはあるからそれにすがって離れられなくなってしまう檻。閉じ込めている。シンジを閉じ込めている。
だから殺す。シンジは殺す。
レイを檻から解放し救い出すこと。それは酷似しているから、投影しているから、自分を救い出すことに仮想的に繋がる。
自分を縛っている様々な事物心情欲求に対する、自我の抵抗。
そして同時に、少なくとも綾波だけは自分と同じ場所にいるという、カッコ付きの否定を飛び越えた肯定――
(not) alone から not alone
への第一歩。
承認を求める。一人はイヤ。居場所が欲しい。
シンジを動かしたのはそういう欲求によるものが殆どでした。
でも"殆ど"であり、それが"全て"ではありません。
最初と最後。
乗らないなら帰れと言われ自分をいらない人間だと思ったのに、綾波の姿を見て考えを改めたことも、自分が何故戦うのかの意味も見出せず嫌々ながら戦っていたのに、身を犠牲にして自分を守る綾波を見て「はやく、はやく!」と戦う意義を見い出したのも。
どちらも、自分が認められたいとか自分が一人なのはイヤとか自分の居場所が欲しいとかの『自分が』では無い動機。
傷ついた他人を前にして何とか力になりたいという、自分を一時棚上げして他人のために動く心。自分よりも他人を優先する思考。
それがシンジの原動力にほんのちょっとだけある。そしてそのほんのちょっとが、ほんのちょっと以外の大多数と混じって、彼の居場所を彼自身が見い出せるように導いていくのではないでしょうか。
一人で生きているのなら、そんなもの無くてもいい。
でも、誰かに認めてもらいたいだとか一人はイヤだとか自分の居場所が欲しいとか――つまり、一人で出来ないことを欲してしまったのなら、『自分』だけでは上手く行かない。
それらは他人との関係の上で手に入るもの。「ヤマアラシのジレンマ」じゃあないけれど、自分のことしか考えられなかったら、他人との距離が見い出せず、他人との関係が悪くなり、傷ついて、傷つけて、失敗してしまう。
承認欲求は悪いことばかりじゃない。それが己を動かす原動力にもなり得る。けど、それしか考えられなかったら、誰かと結ぶ関係なんて上手く行かない。
『誰か』を思うことにより見い出せる『自分』の価値や居場所。
父さんが認めてくれなくても、父さんと親しくなれなくても、その代替として誰かに認めてもらう、誰かと親しくなるんじゃなくて。
父を関係なく。自分自身が、他人自身に認められ、親しくなる可能性。
映画『ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:序』のDVD。
情けないことに、10年経って「こんな作品だったのか」と初めて気付かされました。
以下には「ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:序」のネタバレが含まれています。お気をつけ下さい。
昔のエヴァとの比較的なものは殆どありませんが(なにせ記憶が比較できるほどではございませんので)、基本的に今回のEVAについては『ヱヴァ』、昔のEVAについては『エヴァ』と表記しています。
【More】

みんなが思ってそうな気もしますが、「2周目感」が強いですね。
ゲームの2周目。いろんなことがちょっと変わってる。
色が変わっていたり、1周目にはなかった選択肢が出てきたり、あと敵が強くなったり。クリボーがメットになっていました感覚。
約10年ぶりに触れる「エヴァンゲリオン」。一番驚いたのは、自分が、10年前に分からなかったことが、今は分かるようになったことです。作品も変わったし、自分も変わった。この分かるという感覚が嬉しいような寂しいような。10年という月日の重さが荷物ではなく自重(じじゅう)として身に沁みます。
そんなわけで。ぶっちゃけちょっと、泣いてしまいました。

You are (not) alone.
この作品は正にその言葉の通りでした。
父親、碇ゲンドウの求めに応じてネルフへときたシンジに対するゲンドウの求めは、「エヴァに乗ること」。
「乗るなら早く乗れ。でなければ帰れ」逡巡をみせたシンジに対する、ゲンドウの言葉。
エヴァに乗ること。そのためだけにここに呼んだ。それ以外にお前に価値は無い。

やっぱり僕は、いらない人間なんだシンジの思い。
ある意味では、再確認。愛されてもいない。必要とされてもいない。認められていない。そんなことは最初から分かっていた。
ミサトがシンジのことを「お父さんに褒めてもらいたいだけ」と述べていましたが、まさにそんなこと。
自分を認めて欲しい。
かつての「エヴァ」における「僕はここにいてもいいんだ!」。自分自身を肯定するためには他者からの承認が必要となる。子供の頃に、誰しもが当たり前のように享受する親からの無条件の承認をいただいていなかったからなのか――いや、だからでしょう。だから、彼はこんなにも親の――父親の承認を得たいと欲している。親に認めてもらって、必要とされて、あまつさえ愛されたい。そう願う。
そして。
「エヴァに乗るために」呼んだ父。つまりシンジの価値を「エヴァに乗ること」にだけ見い出すゲンドウと。
「父に承認されるため」に来た息子。つまり自分の価値は「エヴァに乗ること」でゲンドウに見い出してもらえる。
この二人の利害は、望んではいないだろうけど一致している。
いや、というより。
これ以外に道はない。シンジが承認される道は。命を懸けてエヴァに乗ることによってのみ、それが満たされる「可能性」――そうあくまでも可能性でしかない――が開かれる。
だからこそ、シンジはエヴァに乗る、のですが――。
可能性でしかない。
実際のところ、エヴァに乗ったシンジに対して、ゲンドウは褒めるはおろか関心すら抱かない風でした。病院で出くわしても、眉一つ動かさずにスルー。
それでも、エヴァに乗ることはシンジにとって唯一の、ゲンドウに褒められる可能性のある事柄。ゲンドウとのただ一つのつながり。だからエヴァに乗り続ける。
「父さんも見てないのに、なんでまた乗ってるんだろ。人に嫌われてまで」
無理してエヴァに乗り、無理して訓練し続け、無理して戦う。それの繰り返し。お父さんに認めてもらうまで。
でもそのお父さんは、まったく認めてくれません。ミサトは言います。
「人に褒められることをしたのよ」お父さんに認めてもらえないけれど、違う人には認められて然るべきだよ、と。
でも実際には、そうとは言い切れません。トウジ、ケンスケはシンジを認めたけど、それはエントリープラグの中に入って、シンジと同じ目線に立って、間近で彼の恐怖を見つめたから。


シンジの感情を知ったトウジは、殴ったのは一方的だったと悟る。
逆に言うと、ここまでなんです。
ここまで近づかないと、他人の感情なんてわからない。
「人に褒められる」と言っても、実際に褒めてくれる人は殆どいない。むしろトウジのように反感を持つ人のが多いのかもしれない。一人一人エントリープラグに乗せてシンジの恐怖を見てもらう? そんなのは現実的じゃない。現実にあるのは「誰かに褒められるかも」という「可能性」。そもそもシンジが欲しいのは「父さんに褒められること」であって、それ以外の誰かに褒められることじゃない。
誰かに褒められること。誰かに認められること。それは嬉しいことだろう。でも、命を懸けて身も心も削ってエヴァンゲリオンに乗った報酬が、その"「誰かに褒められるかも」という「可能性」"程度で、どうしてそれを成し得ようか。
「いやなんだよ、エヴァに乗るのが」
「エヴァに乗らない僕は必要ないんだ」
エヴァに乗ること。
エヴァに乗らなきゃ価値がない。そういったのは父さんだ。
エヴァに乗らなきゃ価値がない。多分ミサトさんや、他のネルフの人にとってもそうだろう。
エヴァに乗らなきゃ価値がない。学校で黄色い声を浴びることも、トウジやケンスケらと親しくなることも無いだろう。
価値がない。誰も自分を認めず、自分は一人ぼっちだろう。
エヴァに乗らなきゃ価値が無い。
逆に言えば、エヴァに乗るならば価値があるのかもしれない。
それはあくまでも可能性。父さんが認めてくれなかったように、トウジが最初反感を抱いていたように、必ずしも良好な価値が得られるとは限らない。
けれど、最低でも、可能性だけはある。
父さんが認めてくれなくても、父さんと親しくなれなくても。
その代替として。
誰かに認めてもらえる可能性。
誰かと親しくなれる可能性。
乗らなきゃ、一人。
―― alone
乗れば、一人ではない? 一人ではないかも、しれない。一人ではない、可能性がある
―― (not) alone
命を懸けてまで、カッコ付きの、不確かな、『一人ではない』にかける。
綾波レイ。

「これで死ぬかもしれない」
「いいえ。あなたは死なないわ」
「私が守るもの」
少なくとも、一人ではない。エヴァに乗れば綾波が、自分を守ってくれる。綾波と繋がっている。

「綾波は、なぜエヴァに乗るの?」
「絆だから」
「絆……?」
「そう、絆」
「父さんとの……?」
「みんなとの」
絆。他者とのつながり。
ゲンドウもそう。ミサトもそう。リツコもそう。ネルフの他の人たちもそう。電気集めている人たちも、武器作ってる人たちもそう。この戦いに参加している全て。そしてこの戦いに参加していない全て。遠くの街で不穏を感じている人びと。シェルターに避難し不安を抱いている人びと。昨日まで共に机を並べたクラスメイト。自分の成功と無事を祈ってくれている人たち。
その人たちへの見えないつながり。あるかどうかも定かではないつながり。それが絆。
一人ではないかもしれないというほのかな可能性。
その為に、エヴァに乗る。
それは、シンジも全くもって、同じだった。
「私には、他に何もないもの」
「さよなら」
シンジにも、他に何もなかった。シンジもエヴァに乗ることでいつも、「さよなら」を告げれるくらい死と恐怖に面していた。
「エヴァ」から10年経って初めて分かった。シンジがここで
「さよならなんて悲しいこと言うなよ」と言った理由。
戦いに向かうたびにいつも死を恐怖していたシンジ。承認にも満たない絆というただの承認可能性のために命を張っていたシンジ。口にこそ出してないけど、シンジだって似たようなものじゃないか。別れ際に「さよなら」。
なぜシンジは「さよならなんて悲しいこと言うなよ」と言ったのか。それは自分に対する言葉でもあるんですね。死にただただ恐怖して、承認が得られないことにただただ嘆く。綾波レイは、同じではないけれど――いや、受け取り方はむしろシンジと対照的なんだろうけど――その動機は、酷似していた。
つまりシンジは、レイに自分を投影していたからこそ、このようなことを言ったのでしょう。

画像サイズを大きくしてもわかりづらいですが、戦闘後、綾波を助けるため、零号機(のエントリープラグを出すために)にナイフを振るう初号機の絵。
まるで殺しているような構図。いや、多分きっと殺している。エヴァンゲリオンという機体は、そこにいるパイロットを殺す檻のようなもの。僅か14歳の子供が、たくさんのものを犠牲にしてたくさんの重荷を背負わされて、乗るもの。死や恐怖に直面するもの。得たいものが得られないけれど得られる可能性だけはあるからそれにすがって離れられなくなってしまう檻。閉じ込めている。シンジを閉じ込めている。
だから殺す。シンジは殺す。
レイを檻から解放し救い出すこと。それは酷似しているから、投影しているから、自分を救い出すことに仮想的に繋がる。
自分を縛っている様々な事物心情欲求に対する、自我の抵抗。
そして同時に、少なくとも綾波だけは自分と同じ場所にいるという、カッコ付きの否定を飛び越えた肯定――
(not) alone から not alone
への第一歩。
承認を求める。一人はイヤ。居場所が欲しい。
シンジを動かしたのはそういう欲求によるものが殆どでした。
でも"殆ど"であり、それが"全て"ではありません。
最初と最後。
乗らないなら帰れと言われ自分をいらない人間だと思ったのに、綾波の姿を見て考えを改めたことも、自分が何故戦うのかの意味も見出せず嫌々ながら戦っていたのに、身を犠牲にして自分を守る綾波を見て「はやく、はやく!」と戦う意義を見い出したのも。
どちらも、自分が認められたいとか自分が一人なのはイヤとか自分の居場所が欲しいとかの『自分が』では無い動機。
傷ついた他人を前にして何とか力になりたいという、自分を一時棚上げして他人のために動く心。自分よりも他人を優先する思考。
それがシンジの原動力にほんのちょっとだけある。そしてそのほんのちょっとが、ほんのちょっと以外の大多数と混じって、彼の居場所を彼自身が見い出せるように導いていくのではないでしょうか。
一人で生きているのなら、そんなもの無くてもいい。
でも、誰かに認めてもらいたいだとか一人はイヤだとか自分の居場所が欲しいとか――つまり、一人で出来ないことを欲してしまったのなら、『自分』だけでは上手く行かない。
それらは他人との関係の上で手に入るもの。「ヤマアラシのジレンマ」じゃあないけれど、自分のことしか考えられなかったら、他人との距離が見い出せず、他人との関係が悪くなり、傷ついて、傷つけて、失敗してしまう。
承認欲求は悪いことばかりじゃない。それが己を動かす原動力にもなり得る。けど、それしか考えられなかったら、誰かと結ぶ関係なんて上手く行かない。
『誰か』を思うことにより見い出せる『自分』の価値や居場所。
父さんが認めてくれなくても、父さんと親しくなれなくても、その代替として誰かに認めてもらう、誰かと親しくなるんじゃなくて。
父を関係なく。自分自身が、他人自身に認められ、親しくなる可能性。
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ヤシマ作戦ヤバイデス!!!!!!!!!!!
「破」が楽しみですね!メガネっ子、かわゆす!!
「破」が楽しみですね!メガネっ子、かわゆす!!
ノトフ | 2008年05月02日(金) 22:34 | URL | コメント編集
>ノトフさん
予告見る限りじゃめっちゃ急展開(というか急速度)ですからね、「破」。何が起こるかまるで分からない、楽しみっす。
メガネっ子がメガネを外す時に期待(邪道)。
てゆうかこんだけ続報が無いと、「破」は本当にやってくれるのか!? っていう不安が湧いてきます。当初は2008年春予定とかだった気がしたんですけど……。
予告見る限りじゃめっちゃ急展開(というか急速度)ですからね、「破」。何が起こるかまるで分からない、楽しみっす。
メガネっ子がメガネを外す時に期待(邪道)。
てゆうかこんだけ続報が無いと、「破」は本当にやってくれるのか!? っていう不安が湧いてきます。当初は2008年春予定とかだった気がしたんですけど……。
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