2008'05.09 (Fri) 02:46
僕個人としてはもの凄く大好き、10点満点なのに100点あげちゃいたいくらい高く評価している『リトルバスターズ!』ですが、作者側も自認している、ひとつの弱点があります。
それは「各ヒロインの個別シナリオが弱い」ということ。
小毬・来々谷・クド・葉留佳・美魚、各ヒロインの個別シナリオは、世間的にあまり高い評価を得ていないようです。悪いと断ずるほどのものではないですし、高く評価している方もおられるのですが、平均すると、悪くは無いんだけどKeyの過去作品(CLANNADとかKanonとか)の個別シナリオと比べると微妙かも、といったところではないかと見受け取れます。
僕自身も、個別シナリオをそれ単体で見ると、あまり高く評価していません。てゆうか低評価です。悪いってほどではないのですが、例えばCLANNADの風子シナリオとかことみシナリオとか、AIRの美凪シナリオとか、Kanonの舞シナリオとかに比べると、圧倒的に「弱い」。
実際に、Key側も個別シナリオの弱さを認識しています。
個別ルートのシナリオが弱いと言われていたので、『エクスタシー』ではもう一本感動できるシナリオを……と考えています。
(電撃G'sマガジン3月号より)
しかし、個別シナリオが「弱い」ということは、この『リトルバスターズ!』の構造上避けられないものでもありました。
その辺について、記していきたいと思います。
ということで、この記事は「個別シナリオが弱い」ということを前提として書かれており(つまりそのことの是非は問いません。真実は二の次、前提:弱いで固定)、
そして構造による要因が大きいという事から「『リトルバスターズ!』のネタバレ」を多いに含んでいます。
二度書きましょう。
- ■注意
- ・「個別シナリオが弱い」ってのが前提です。是非は問わない。
- ・当記事は『リトルバスターズ!』のネタバレを含みまくります。
そのあたり、ご了承下さい。
【More】
「構造の問題」と言ったとおり、単純にライターさんの力量だけに責任を押し付けるわけにもいかないところがあります。さすがにそれ"だけ"ではちょっとフェアじゃない。一言で言うと「仕方が無い」部分が内包されているのです。それはもう、ゲームをプレイした方はお分かりになると思いますが、本作の『構造』による制約の所為です。
この『リトルバスターズ!』はその構造上、個別シナリオでの理樹の成長がかなり制限されているべきなのです。
(明言されているのではないので、制限ではなく偶然と捉えることも出来ます……が、ここまで綺麗に統一されてて偶々ってのは都合が良すぎるワケでして……"べき"という言葉を用いました)
構造上、個別シナリオ内(リフレイン以前)での「理樹の成長」に大きな制約が存在します。理樹が個別シナリオで大きく成長してはならないのです。こつこつと下地を作り、その先での「強く生きる」という決意の先での成長、それだけが認められている構造である以上、個別シナリオで大きく成長してしまうわけにはいかないのです。
かつてのプレイ途中感想で僕は、「(個別シナリオで)理樹がロクに役に立たない、理樹のいる意味が薄い、理樹である必然性がない」といったことを記しましたけど、それはこの構造上「どうしようもない」ことだったのでした。
寧ろ、鈴以前の、各ヒロインシナリオにおいて表出する理樹の性格が、物語的に対し与える機能が"しょぼい"というのは、狙ってやっているのかもしれません。理樹が解決できるだけの強さを持つのは後のことだから、"ここでは"理樹に解決の決定打を打たせてはいけない。
つまるところ。
・理樹があまり成長してはいけない(なるべく情けない・弱い理樹のままでいる)(多少の成長は逆に必要)。
・理樹が問題解決の決定打を放ってはいけない(「リフレイン」までは、そういうことが不可能な弱い理樹であるということが必須)。(こっちはかなり多分。というか、前者の制約があると必然的にこうなり易い。前者は十中八九確実)
以上ふたつ(もしくは前者一個)の制約が、各ヒロインの個別シナリオには存在していると考えられます。理樹が自分から強さを掴み取っていくという「リフレイン」のシナリオに繋げるためには(そして、自ら掴み取っていくということこそが、ここで必要とされる強さの正体でもあるのでしょうが)、それらの制約は必要不可欠なものであります。事実個別シナリオにおいて、その二つは守られたままです。
この縛りは、「リフレイン」において昇華される縛りなのですが、個別シナリオでは悪影響を及ぼしました。(むしろ僕としては、個別シナリオを捨ててリフレインを輝かせた、という理解をしているのですが)
性格に制約をかける(語呂合わせじゃないよ)ことは、基本的には大きなマイナスとなります。
性格というのは、物語において、もの凄く重要なファクターとなります。
その辺を軽く洗ってみますと……
性格と運命
まず最初に、大事なことなのですが、物語において性格というものはとても重要です。
運命を定める要因の最大のものは、「性格」です。
いや物語以外でも、現実でも、ですね。
人は、何らかの選択決定時、自身の性格によって大きく左右されます。
たとえば強気にガンガン攻める性格、臆病で怖気づく性格、面倒くさいからと適当に決めてしまう性格、他人に選択を委ねようとする性格……そういった自身の性格により、選択決定は大きく左右されます。
選択決定においては、『性格』というもの大きな比重を占めているのです。
もちろん性格以外にも、様々な状況や立場・いわゆる時と場合などがございますが、その状況や立場や時や場合を"どう受け止めるか・どう見るか・どう理解するか"という点においても、性格が強く作用することでしょう。
運命は偶然よりも必然である。
「運命は性格の中にある」という言葉は決して等閑に生まれたものではない。(芥川龍之介)
もちろん物語においても重要です。
物語というのは大雑把に言うと、出来事を(時間軸の上で)因果関係で繋げたものなのですが、その因果関係において性格というものは重要な一要素となります。
よくある「ご都合主義」や「超展開(悪い意味での)」といった分類は、その因果の提示が無い・あるいは下手くそな場合にしばしば当て嵌まるでしょう。
上の文章を踏まえて言うと、"なぜそのような選択をしたのか"という「因果」を埋める役割を、性格が有しているのです。
小説を書くときには、ストーリーを語らなくても性格を提示することができるかもしれないが、性格を示さずにストーリーをうまく語ることは不可能だ。(ウィルキー・コリンズ)
ある人物が"こういう状況である"ということ、ある人物が"こういう選択をした"ということ、ある人物が"結果こうなった"ということ、その選択決定において自身の『性格』が重要なファクターとして作用しており、なお且つ、読者がその人物の"状況・選択・結果"の因果関係的整合性を結び合わせる際に、その人物の"性格"が、まさに結び目のジョイントとして機能している。
とまあ、そんな感じで、性格というのは重要なのですヨ。
詳しいことや正しいところは詳しいヒトや正しいヒトに聞いてくださいなのですヨ。
その「性格」に対し、「制約」を課すことにより、悪影響が生じます。
性格に制約が課せられることにより生じる悪影響。
- ■性格に制約が課せられることにより生じる悪影響
- ・運命を劇的に変える性格の欠如
- ・カタルシスの欠如
- ・必然性の欠如
おおざっぱに、以上の三点に腑分けしてみました。
ただこれは、別々に発生したとか連鎖的に派生したとかじゃなくて、全て同じ一つの事柄です。記事を分かり易くするためだけに(てゆうかごめんなさい、ホントのトコは書き易くするためにです)、敢えて腑分けしてみました。
運命を劇的に変える性格の欠如
さて、『リトルバスターズ!』の各ヒロインシナリオで、その各ヒロインは、様々な問題や悩みに直面します。
それら問題や悩みは、自身の出自から、過去の出来事から、様々な理由があるのですけど、その一つに『性格』という理由も存在します。
違う性格なら、同じ状況でも、こうはならなかった可能性がある。例え話、小毬が葉留佳の状況だったら、あのような話にはならないでしょう。性格が全然違いますから。来々谷がクドの立場なら、また違った物語になったでしょう。性格が全然違いますから。逆に表現した方が分かりやすいでしょうか。葉留佳の性格が小毬と全く同じだったら。クドの性格が来々谷と全く同じだったら。確実に違う話になっていた。
性格と物語(運命)は固着しているのです。来々谷のお話が一番その傾向が強いですね。例えば来々谷の中身(性格)が小毬だったら、絶対にあのお話は起こりえないでしょう。なにせ自身の性格に強く起因しているお話ですから。
どの物語でも大抵はそうであるように、この『リトルバスターズ!』でも、「今がこうである」という事実、そして「今より以降に」起こりうる問題に対しては、自身の性格が大きく関わっています。この物語――運命を作り出しているのは、性格でもある。
それに対し、第三者であるところの理樹が介入し、その問題を解決していくのですが……ここで焦点を当てるべきなのは、"理樹の性格"です。
「運命は性格のなかにある」、これは"ひとり"の問題ではなく、"ふたり(複数人)"の問題にも当てはまります。これまでの話を踏まえれば、ひとりであれば、その一人個人の性格が、運命形成に重要な要素となりますが、ふたりであれば、相手も含めた二人複数の性格が、運命形成に重要な要素となるはずです。
特に理樹の場合は、問題解決にダイレクトに繋がる特殊技能や財産などの、性格以外に運命に介入できる要素を殆ど持ちえていないのですから、より、性格に比重が置かれるでしょう。
キャラクターの性格が、そのキャラクターの"今の"運命(直面している問題など)に、自身を導いている。それを解決させるのに、第三者の介入――つまり理樹の介入――があったのですが……。
理樹の性格を思い出して下さい。
「弱い」「情けない」
さらに言うと、何でも失うのを恐れるし、だから変化を拒むし、よって他人が傷つくのを許容できないし、他人が変わるのも好んでいない。
これらの性格が、如何に上手いこと問題解決に絡めるか? それは非常に難しいところでしょう。
理樹自身が持っているもの……特殊なスキルや、身体能力や、問題を覆せるほどの財産などは、特に持ってはいない。とすると、理樹自身が持っているもの、その一番は、彼自身、つまり『性格』。
彼女の性格だから、この問題に直面し、悩まされるという運命。その解決に、つまりその運命の干渉に、『理樹の性格』はどれだけの力を持てているのでしょうか。
実際の物語を思い出して下さい。
例えば「クドシナリオ」なんかでは、「自分には何もできない」と阿呆のように繰り返す。
例えば「葉留佳シナリオ」なんて、何も出来ず、目先の問題に突っかかったりあたふたするばかりで、「葉留佳さん落ち着いて」って言うだけのマシーンと化している。
そして何よりも、あの『制約』。
理樹が(ほとんど)成長しない(してはいけない)。
理樹の性格が、ほとんど変化しないのです。
「運命は性格の中にある」。それはひとり(個人)でも、ふたり(複数人)でも同じこと。
理樹とヒロインキャラクターの性格。
理樹は、性格以外に有効打を放つ持ち物がない上に、理樹の性格が殆ど変わらないのならば、彼が運命に与える影響も殆ど変わらない。(葉留佳シナリオなんかは、一番極端でしょう)
実際、どうでしょうか。どのお話も。
理樹は確かに助けになっていましたけど、それは背中を押すとかちょっとの力添えくらいで、運命を劇的に変えるほどのものではなく、結局は、ヒロイン自身が自己の性格(による問題の問題視)を超克したことにより、この物語の運命にあたる問題や悩みが解決したように見えないでしょうか。
言い換えると、理樹はちょっと手助けしただけで、殆どヒロインの自己解決に近いよね、と。
彼女ひとりだけじゃどうにも立ち行かなくなるっぽい。けれど、理樹の効力が果たしてどれだけ効果があったのか、理樹の性格が、彼女の運命にどれだけ干渉し得たのか。そこに、この制約の(個別シナリオだけ見た時の)悪影響が宿るのです。
実はここ(ヒロインの自己解決に近い)にはもう一つ、この個別シナリオにおける制約というか方針というか決まりごとというか、そんな感じのものが見て取れます。それは一まず後述として。
この構図で見ると、これは理樹である必然性はあったのか、という疑問が生まれます。
別に理樹じゃなくて、謙吾とか恭介でも良かったんじゃないか、むしろ彼らの方が上手くやったのではないか。彼ら――あるいは理樹以外の誰か――の性格の方が、運命に対してより明確に、物語に対してより豊かに、干渉できたのではないか。
カタルシスの欠如
これは、ゲームプレイしているこちら側としては、カタルシスに欠けるような印象を受けます。
なにせ、理樹が大した役に立ってないのですから。
そこを強く追求しろ、そこを力一杯助けろ、そこで引くな、そこで諦めるな、そこで悔やむな、そこで嘆くな、もっと何とかしようと努力しろ、もっと熱くなれ、もっと戦え、もっとがむしゃらになれ、もっと頑張れ、情けないぞ弱いぞお前主人公だろ何とかしろよ!
――みたいなことを、個別シナリオプレイ中に思ったことはないでしょうか?
僕はあります、特にはるちんとかクド公のルートで。
しかし、ですが、その願望は、決して叶うことはありませんでした。
そう、なにせ理樹が「成長してはいけない」し、小さいことならともかくあまり大きな「何かを成し遂げてはいけない」のですから。
つまりは、(物語的ではなくプレイヤー―理樹間において)カタルシスが欠けているのです。
- カタルシス
- 俗に音楽や文学、演劇などの連続性のある芸術作品において、あるポイントを境にそれまで準備され蓄積されてきた伏線や地道な表現が一気に快い感覚に昇華しだす状態や、またその快い感覚のことを正式用法の「抑圧からの解放」になぞらえてカタルシスと表現することも多い。(はてなダイアリー)
むしろ正式用法の「抑圧からの解放」の方です。情けない・弱い理樹という括りからどうしたって解放されない。「リフレイン」まで、理樹は情けないし、弱いし、何度も何度も失敗を繰り返し、それをこちらは見させられる。
構造上必要とはいえ、毎度毎度そうなのですから、毎度毎度プレイヤーの分身である主人公が弱くて情けないのですから、こちらとしてはちょっと嫌になってしまいます。
必然性の欠如
「ヒロインの自己解決に近い」個別シナリオのお話。
しかし、こうやって見ると、「鈴以外の個別シナリオ」は、この『リトルバスターズ!』において一体何だったんだろう? という疑問が湧いてこないでしょうか。湧いてこないですかそうですか。でも話は続けます(強引)。
「理樹(&鈴)を成長させるためにこの世界を作った」と恭介は言っていましたが、その言葉だけでは説明できないものがあります、それが個別シナリオ。
確かに、アレは理樹の成長に一役買った。鈴が他人を欲するようになることにも一役買った。でもそれだけが目的なら、個別シナリオは無くてもいい筈なのです。
実際、結果論ですが、理樹は個別シナリオでたいして成長しないではないですか。鈴は個別シナリオにたいして絡まないではないですか。共通ルート部分だけでも、それらの目的は達成されています。
それなのに、個別シナリオというものがある。
ある、どころか、それを全て体験しなくてはいけないようにできている。
「お前が選ばなかった日々を」 「今度は迎えてみろ」
「よくやった」「もう十分だろう」「かつて終わってしまった日へむかえ」
理樹と鈴を成長させるという為だけならば、この作りは明らかに非効率です。
必要な所だけを抽出して、それだけを体験させ、さっさと終わってしまった日にむかえさせればいい。
それなのに、わざわざ全てのルートを回らなくてはいけなくて、そしてわざわざみんなの問題や悩みを解決させる理由。
それは、真人・謙吾・恭介と、結果的には同じような理由と考えられます。
この「作られた世界」の終わりは、理樹の立場からすると恭介たちとの別れなのですが、恭介たちの立場からすると、理樹・鈴との別れ、そして自身のこの世からの別れ――つまり死を迎えることに繋がります。
恭介にとっても、真人にとっても、謙吾にとっても、小毬も来々谷も葉留佳もクドも美魚にとっても。理樹が成長し、この世界が終わるということは、自分が死ぬということでもある。
彼女たちにとっては、この世界を終わらせるということは、自分の死を受け入れることと同意であるのです。
ですから、この『リトルバスターズ!』の個別シナリオで語られた問題や悩みというのが、ああいった非常に個人的なモノ――自分一人の時点で既に問題や悩みが(表層化されていなくても)発生しているモノ――なのでしょう。
そしてだからこそ――死に至った淵で「これを解決させておきたい」と思ったであろう問題や悩みだからこそ――彼女たちの自己解決に近いカタチを取っているのでしょう。
(※この『作られた世界』では、彼女たちが発生させる問題を、つまり解決させたい問題を、彼女たち自身が意図的に選別できる(ある程度かも)と考えています)
この辺が、先に記した制約というか方針というか決まりごとみたいなヤツです。確証までは言えませんが、多分あると考えられます。
こうだったからこそ、例えば恋愛話なんかに終始出来なかったのでしょう。まさか理樹と恋愛関係になってない人が、今際の際に解決させておきたい・やり残したことで<理樹との恋愛>を選ぶとは考えられません(代替可能な"誰か"との恋愛ならなら現実的ですが)。そこで選ばれるのは彼女たちの個人的な問題で、そしてだからこそ、かなりの部分で自己解決っぽくせざるを得なかったのではないでしょうか、と思われます。(姉御は変わったお話ですけど、彼女はあんなヒトなので、今際の際でやりたい事もあんな感じになったのでしょう、とかなんとか)
この辺もまた、"必然性の欠如"に一役買っています。
どのシナリオも、理樹というパーソナリティでも無くても良いんです。それは理樹じゃない方が上手く行く、とかではなくて。理樹でなくても再現可能だ、ということ。弱くて、情けなくて、成長したとしてもほんのちょびっとだけ、そんな人物であれば再現可能な運命。再現可能な物語。
理樹と彼女、実は幼いころに出会ってた、とかの、過去からの因縁もなく。
理樹固有の性格(この場合はニアイコールで存在)が彼女の運命を大いに変えた、なんて固有性もない。
ここには、理樹である必然性がかなり薄い。
『CLANNAD』とか『Kanon』とか、この『リトルバスターズ!』も世界の仕組みを知るまではそうですね、こういった「並行世界での可能性」を探るような形を採用しているギャルゲーでは、こういった"そのヒロインの物語である必然性"というのはかなり重要であると考えています。
並行世界が前提なのに、必然性が無いということは、その並行世界には"価値がない"ということですから。
加えて読者と主人公との自己同一化が他メディアと比べて強い、という文化を形成してきたギャルゲー。価値のない可能性を辿る己の分身の物語に、どうして価値を見い出せましょうか。
そして何より、一番の問題が、理樹というパーソナリティは、この個別シナリオの性格で完結していないということです。鈴シナリオを経て、大きく成長してしまうのです。
つまりは、個別シナリオの存在の必然性すらも、失われてしまう。
いやまあ、その必然性は、先に記した「この世界の成り立ち」「彼女たちの死の受け入れ」に担保されているのですが、個別シナリオだけで見てしまうと、必然性が無いと錯覚しかねない。
さて、長々と書いてたら自分でもなんか分けわかんなくなってきたんですが、つうか論点も落とし所も見失って久しいのですが、まあいいやと措いといて突っ走ろう。
さてこのように、『リトルバスターズ!』においては、構造上制約がかせられており、それが『個別シナリオが「弱い」』ことの一因となっているように考えられます。
個別シナリオだけで見ると、理樹はあんま役に立た無いわ、理樹のいる意味あんまり無いわ、フラストレーション溜まる(かもしんない)わ、理樹である意味もぜんぜん無いわ、てゆうか理樹である必然性が薄いわ、もっと言うと個別シナリオがあるめっちゃ薄いわ。
「個別シナリオが弱く」なるような「構造」を、この『リトルバスターズ!』は有しているのです。
ですが。
『リトルバスターズ!』を正確に評価するのならば、この構造を忘れてはいけないでしょう。
一個前の記事に書いた文章を、そのまま持ってきます(←手抜き)。
理樹・鈴の成長と、恭介たちの自己認識、自己の受け入れ→そして別れ(死)の受け入れ。さらに彼らの死を受け入れない理樹・鈴による自己認識、自己の受け入れ、自己の超克。つまりは成熟を掴み取っていく。
その物語の為に完璧なる構造を用意し、結果物語を完璧なものへと昇華させた。
しかし、物語の為のこの構造は、小さな単位の物語(つまり個別ヒロインシナリオ)においては逆効果となってしまいました。大きな単位で見れば物語の為の構造というのが機能しているのですが、小さな単位で見るとそれが足枷となり、構造の為の物語として逆にその小さな物語は未熟なものとなってしまっている。具体的には、小さな単位の物語においては、理樹の成長・成熟・達成が制約されている(べき)なのです。鈴シナリオの後、恭介すら上手く行かず彼が引いたレールを半分離れた後に、理樹が"己の力でそこに達した"――つまり他者の導きやお膳立ての上ではなく、自己の力でそこに達したという点がこの物語の重要なところである以上、小さな物語においてそれを成し遂げてしまうことは構造的に不適格なのです。
しかしこれらは、『リトルバスターズ!』という作品・あるいは物語単位で見るのであれば、完璧な構造と言って然るべきでしょう。 『リトルバスターズ!』という大きな単位の物語の為に、小さな単位の物語を纏めて機能体と成した。つまりこの物語においては、個別シナリオをそれぞれの物語で評するのは正統なる評価とは呼べず、むしろそれらは全体に作用する為の機能であると見た方が正しいと言えるでしょう。「リフレイン前」「リフレイン~Last Episode 『Little Busters』」「Last Episode 『Little Busters』~それ以降」という区分け(あるいは「鈴シナリオ(2回目)」「Episode『鈴』と『理樹』」「修学旅行(皆を助ける方の)~帰還後」まで区分けを広げても良いかもしれない)での機能単位として、この『リトルバスターズ!』という物語は評されるべきであるのです。
「リフレイン」以降の為にこの制約が在り、「リフレイン」以降に機能させるために、この「個別シナリオ」が在った。
個別シナリオ個々で、構造は分けられていません。大雑把に見るのならば、『共通ルート・個別シナリオ全て』『リフレイン』『「いい」「よくない」で「よくない選んだ後」』で構成されているのが、この『リトルバスターズ!』でしょう。
つまり個別シナリオ(というか、『共通ルート・個別シナリオ全て』を一つの単位と見て)は『リフレイン』以降に機能する為にその存在があった、こういった感じに見る方が正しいのではないかと思います。そしてそういった見方をすると最高すぎる。リトバス最高、いやっほうーーーーっ!(何だこのシメ)
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