麻枝准の世界観の魅力(の一つ)
2008-05-28
麻枝さんの世界観の魅力の一つに、最初からある縛りというか閉塞さを絶対に認めた上で先に進もうとする、という点があるかもなぁと、麻枝さん作曲・keyのボーカル曲を聞いてたら思った。歌詞のお話。
だいたいの曲において、「どうしようもならない」という前提については諦めた上で、その先に『強さ』を求めているんですね。特に「nostalgia」とか「spica」とかの、ゲームと直截的に関わりのない曲。
過去形というか、”それはもう変わらないよ”という前提が強く孕まれている。例えば『夏影』「今は違う途を」、『nostalgia』の最後のリリック、などから考えると、その楽曲で歌われたものは、その曲中の時間軸が一番進んだところから見れば、概ね過去形で語られるのと意味を同じくしている。そして、それを取り戻そうとかやり直そうという思考は微塵も見られない。また『spica』なんかは、明示的に過去形ではありませんが、いつかの終わる日を自覚できるくらいに近くに感じて書かれており(≒自覚しているからこそああいう風に書かれていて)、これもまた、その前提を覆そうとか認めないでいようなんて思考は欠片も見られない。こういった、前提の中に生きることを認めた上で、『強さ』なるものを求めているのですね。
なんでこんなことになったのか、とか、どうして、とか、何故、とか。
そういった思考が見当たらない。
というか、そういうのは既に通過している。
もう一つ付け加えると、殆どの場合において、過去はともかく今は”一人”、あるいは二人などでも世界と断絶されている、という要素があります。外部をとことん排除しているのです。描かれているのは精神論というか、つまりは自己完結のお話なのだから、外部と遮断されるのは方針的には間違っていないし、描かれているのが【過去形である】ということは、その過去を自身が如何に咀嚼するかという、己だけの問題(己―過去間の問題)である以上、そこに外部を絡ませると正確さ(てゆうか誠実さ。『強さ』に見合う誠実さ)に欠ける。他人とは関係ない、自己完結のお話であるんですけど。
その上で暗に『強さ』を求めるというんですよ。
要するに、過去や前提に対し、『強く』なれない(強くない)現在から罵声を浴びせないし疑問を投げつけないし、世界とかに、『強くなる』助けを求めない。現今の自分(あるいは自分と自分の親しい人)の力だけを頼る。
今まで、とか、今ある(今ない)、とかの前提を受け入れた上で。外部関係なく、自己完結(≒自己の力だけで)だけで、もう泣かなかったりする強さを手に入れる。ああそうだ、『失う』だ。だいたい全部の歌詞が、何かしら失ってる。それぞれにあるんですが、どれにも通用するのが『過去』ですね。今から過去に戻ったりやり直したりできない以上、過去はもう失われてしまった時間とイコールである。
そのことに対する、恨みや嘆きはないんだよなぁ、多分ひとつも。後悔はあっても、それは次の『失う』に対し、どう立ち向かうか(どうそれを『強さ』に繋げるか)という姿勢ではあるし。
そういうのは、麻枝さんのゲームのシナリオにも大なり小なり通低しているなぁと思う。
世界に助けなんて求めない。とっても親しい人に助けを求めることはあっても(それすら少ないですが)、社会やシステムなどに助けを求めることは在り得ないし、それが助けになることすら無い。CLANNADのアフターシナリオ、渚が○○(原作ネタバレ伏字)した後、朋也が立ち直るまでの軌跡なんかが、良い例(いや良い例じゃないかもしんないけど)。世界は、朋也に強さを与えることは無くて、そのきっかけすら無くて、結局は親密な人間によって助けられる。(元々親密じゃない人間が、”それが可能になるほどに”親密になったという、経緯の元で親密があるのは、多分注目に値する。てゆうかCLANNADのキモの一つ。断絶されていない世界の広がり)
そして前提や過去に対する嘆きや疑問が、現今では最低限に抑えられている。
たとえばONEなんかは過去に対し嘆きまくっちゃってああなったんですけど、それは現今の浩平の話じゃなくて、過去の浩平の話。そのかつての嘆きに後悔すら覚えるシナリオ展開になります。先に上げたCLANNADのアレなんかも、あんだけ重いものでありながら、それに対する嘆きの描写は非常に少ない。あと疑問というのがまず少ない。いや疑問というか憤慨というか。どうしようもない前提に対し、それを認めない・許さないなんてことはせず、どちらかというと受け入れて、受け入れた上でどうにかしようとする方向に進んでいる。AIRの観鈴1000年前の因縁とか、ONEのアッチの世界(えいえん)とか。その理由や意味を、強くは求めない。そこに対し疑問や怒りを覚えたところで、強さに繋がらないんです。その理由や意味を知ってしまったら、そこで得る強さは、その理由や意味に立脚した強さになってしまうのです。
なんというか、不純な強さになってしまう。なにかに依って作られた強さになってしまう。
たとえば「生きる意味(理由)が知りたい」なんてのは、「その意味(理由)のために生きたい」ということと同意(というかそういう願望の上に成り立っているっぽい)であって、それはあくまでも仮託であって、自己完結の強さではない。
世界とか、前提に対する意味とか理由とか、そういうのの上で得られた強さは、そういうものに依っているのであって、それが無くなったら、その強さも無くなってしまう。
ここで求めてる強さは、そんなんじゃないんですよね。そもそも、たいていの歌詞が、そういう立脚に足るものが崩れた後(最中)の歌詞なんだから。
自分自身のみで、何にも立脚しない(しても本当に親密な相手だけ(だからCLANNADで「生きる意味は家族や愛する人の中にある」と言った)。そして本当に一人だけで生きていくことを肯定してはいないから(そもそれでは、強さを求める始点から矛盾してしまうだろう)、そこには依存を認められたのでしょう)で、得る強さ。
でもこの方針もまた閉塞的なんですけど、でも。
その閉塞さを認めた上で得る強さに――傷つく可能性のある強さにこそ、価値を求めてるんじゃないでしょうか。とか。
(※あ、話がクラナドまでで終わっちゃった。リトバスが少し(あるいはかなり)変化を見せていたので、それも重要なんですが、そっちの話はまた今度)
(追記)えらく言葉足らず&話の方向がうろうろしすぎだった気がする。(上の文)
つまるところ、nostalgiaとか夏影とかBirthdaySong,Requiemとかspicaとかそのカップリングとか、kanonとかAIRの楽曲も半分くらい当て嵌まるけど、それらが何で、あんな色んなものを失いまくってる歌詞なのに、その字面より喪失感が薄いのかなといえば、上に書いたような理由じゃないかしら、みたいな。
失ってしまった過去とか、どうしようもならない前提とかは、それはそれで、認めてしまおう、というか。
それに立ち向かうのは基本的に自分ひとりで、そして過去はやり直しが効かなく認めざるを得ないものであるという、前提の元なんだけど。リトルバスターズの楽曲は、その辺なんか変化があるよね、とか思った。閉塞の中で悲愴なくらい自分を『強さ』に向かわせている(正確には「向かわせざるを得ない」。過去や前提を受け入れる以上、たとえ悲しく辛くたって、ああいう姿勢にならなければ進めない)という過去楽曲とは、「Little Busters」も「遥か彼方」も、全然異なる。ゲーム楽曲、「風の辿り着く〜」とか、「青空」と比べても変化が際立つ……けれど、冷静に考えたら「小さな手のひら」の時点で、変化が兆されていたなぁ。
うーんと、AIRまでは、親密による世界の広がりが、基本的に「一緒に強くなれる相手(主に作中で恋人になる関係)(そうではないけど、晴子・観鈴も一緒に強くな関係)」までだったのに対し、CLANNAD以降は、古河家とか芳野とか、「一緒に強くならない他人」とも、親密さを構築できている。
ここでいう親密さってのは、仮託でなく強さを自分のものに出来る範囲、つまり自分の世界の広がりのこと。
それが、共に歩む相手以外にも、繋がってるというか。
ぬー、やっぱ足らないなぁ、考えが。
続きはいつか、できた日に。
過去形というか、”それはもう変わらないよ”という前提が強く孕まれている。例えば『夏影』「今は違う途を」、『nostalgia』の最後のリリック、などから考えると、その楽曲で歌われたものは、その曲中の時間軸が一番進んだところから見れば、概ね過去形で語られるのと意味を同じくしている。そして、それを取り戻そうとかやり直そうという思考は微塵も見られない。また『spica』なんかは、明示的に過去形ではありませんが、いつかの終わる日を自覚できるくらいに近くに感じて書かれており(≒自覚しているからこそああいう風に書かれていて)、これもまた、その前提を覆そうとか認めないでいようなんて思考は欠片も見られない。こういった、前提の中に生きることを認めた上で、『強さ』なるものを求めているのですね。
なんでこんなことになったのか、とか、どうして、とか、何故、とか。
そういった思考が見当たらない。
というか、そういうのは既に通過している。
もう一つ付け加えると、殆どの場合において、過去はともかく今は”一人”、あるいは二人などでも世界と断絶されている、という要素があります。外部をとことん排除しているのです。描かれているのは精神論というか、つまりは自己完結のお話なのだから、外部と遮断されるのは方針的には間違っていないし、描かれているのが【過去形である】ということは、その過去を自身が如何に咀嚼するかという、己だけの問題(己―過去間の問題)である以上、そこに外部を絡ませると正確さ(てゆうか誠実さ。『強さ』に見合う誠実さ)に欠ける。他人とは関係ない、自己完結のお話であるんですけど。
その上で暗に『強さ』を求めるというんですよ。
要するに、過去や前提に対し、『強く』なれない(強くない)現在から罵声を浴びせないし疑問を投げつけないし、世界とかに、『強くなる』助けを求めない。現今の自分(あるいは自分と自分の親しい人)の力だけを頼る。
今まで、とか、今ある(今ない)、とかの前提を受け入れた上で。外部関係なく、自己完結(≒自己の力だけで)だけで、もう泣かなかったりする強さを手に入れる。ああそうだ、『失う』だ。だいたい全部の歌詞が、何かしら失ってる。それぞれにあるんですが、どれにも通用するのが『過去』ですね。今から過去に戻ったりやり直したりできない以上、過去はもう失われてしまった時間とイコールである。
そのことに対する、恨みや嘆きはないんだよなぁ、多分ひとつも。後悔はあっても、それは次の『失う』に対し、どう立ち向かうか(どうそれを『強さ』に繋げるか)という姿勢ではあるし。
そういうのは、麻枝さんのゲームのシナリオにも大なり小なり通低しているなぁと思う。
世界に助けなんて求めない。とっても親しい人に助けを求めることはあっても(それすら少ないですが)、社会やシステムなどに助けを求めることは在り得ないし、それが助けになることすら無い。CLANNADのアフターシナリオ、渚が○○(原作ネタバレ伏字)した後、朋也が立ち直るまでの軌跡なんかが、良い例(いや良い例じゃないかもしんないけど)。世界は、朋也に強さを与えることは無くて、そのきっかけすら無くて、結局は親密な人間によって助けられる。(元々親密じゃない人間が、”それが可能になるほどに”親密になったという、経緯の元で親密があるのは、多分注目に値する。てゆうかCLANNADのキモの一つ。断絶されていない世界の広がり)
そして前提や過去に対する嘆きや疑問が、現今では最低限に抑えられている。
たとえばONEなんかは過去に対し嘆きまくっちゃってああなったんですけど、それは現今の浩平の話じゃなくて、過去の浩平の話。そのかつての嘆きに後悔すら覚えるシナリオ展開になります。先に上げたCLANNADのアレなんかも、あんだけ重いものでありながら、それに対する嘆きの描写は非常に少ない。あと疑問というのがまず少ない。いや疑問というか憤慨というか。どうしようもない前提に対し、それを認めない・許さないなんてことはせず、どちらかというと受け入れて、受け入れた上でどうにかしようとする方向に進んでいる。AIRの観鈴1000年前の因縁とか、ONEのアッチの世界(えいえん)とか。その理由や意味を、強くは求めない。そこに対し疑問や怒りを覚えたところで、強さに繋がらないんです。その理由や意味を知ってしまったら、そこで得る強さは、その理由や意味に立脚した強さになってしまうのです。
なんというか、不純な強さになってしまう。なにかに依って作られた強さになってしまう。
たとえば「生きる意味(理由)が知りたい」なんてのは、「その意味(理由)のために生きたい」ということと同意(というかそういう願望の上に成り立っているっぽい)であって、それはあくまでも仮託であって、自己完結の強さではない。
世界とか、前提に対する意味とか理由とか、そういうのの上で得られた強さは、そういうものに依っているのであって、それが無くなったら、その強さも無くなってしまう。
ここで求めてる強さは、そんなんじゃないんですよね。そもそも、たいていの歌詞が、そういう立脚に足るものが崩れた後(最中)の歌詞なんだから。
自分自身のみで、何にも立脚しない(しても本当に親密な相手だけ(だからCLANNADで「生きる意味は家族や愛する人の中にある」と言った)。そして本当に一人だけで生きていくことを肯定してはいないから(そもそれでは、強さを求める始点から矛盾してしまうだろう)、そこには依存を認められたのでしょう)で、得る強さ。
でもこの方針もまた閉塞的なんですけど、でも。
その閉塞さを認めた上で得る強さに――傷つく可能性のある強さにこそ、価値を求めてるんじゃないでしょうか。とか。
(※あ、話がクラナドまでで終わっちゃった。リトバスが少し(あるいはかなり)変化を見せていたので、それも重要なんですが、そっちの話はまた今度)
(追記)えらく言葉足らず&話の方向がうろうろしすぎだった気がする。(上の文)
つまるところ、nostalgiaとか夏影とかBirthdaySong,Requiemとかspicaとかそのカップリングとか、kanonとかAIRの楽曲も半分くらい当て嵌まるけど、それらが何で、あんな色んなものを失いまくってる歌詞なのに、その字面より喪失感が薄いのかなといえば、上に書いたような理由じゃないかしら、みたいな。
失ってしまった過去とか、どうしようもならない前提とかは、それはそれで、認めてしまおう、というか。
それに立ち向かうのは基本的に自分ひとりで、そして過去はやり直しが効かなく認めざるを得ないものであるという、前提の元なんだけど。リトルバスターズの楽曲は、その辺なんか変化があるよね、とか思った。閉塞の中で悲愴なくらい自分を『強さ』に向かわせている(正確には「向かわせざるを得ない」。過去や前提を受け入れる以上、たとえ悲しく辛くたって、ああいう姿勢にならなければ進めない)という過去楽曲とは、「Little Busters」も「遥か彼方」も、全然異なる。ゲーム楽曲、「風の辿り着く〜」とか、「青空」と比べても変化が際立つ……けれど、冷静に考えたら「小さな手のひら」の時点で、変化が兆されていたなぁ。
うーんと、AIRまでは、親密による世界の広がりが、基本的に「一緒に強くなれる相手(主に作中で恋人になる関係)(そうではないけど、晴子・観鈴も一緒に強くな関係)」までだったのに対し、CLANNAD以降は、古河家とか芳野とか、「一緒に強くならない他人」とも、親密さを構築できている。
ここでいう親密さってのは、仮託でなく強さを自分のものに出来る範囲、つまり自分の世界の広がりのこと。
それが、共に歩む相手以外にも、繋がってるというか。
ぬー、やっぱ足らないなぁ、考えが。
続きはいつか、できた日に。

