2008'05.30 (Fri) 04:43
リトバスとONEを対比させてみる論の試論用のメモ。
(ただ、全部書いた後に思ったんだけど、CLANNADとかも絡めないと、どうにも片手落ちになってしまう感が強い)
以下、『リトルバスターズ!』と、『ONE』のネタバレを含みまくりです。
他Key作品のネタバレも、ちょっとあります。
先日、麻枝さんの歌詞について色々考えていた時、『Hanabi』(『Spica』のカップリング)の歌詞カード見ていて、ちょっと繋がった。
最初に『Hanabi』を聞いた時は、まだリトバスが発表される前で、僕はこれ見てちょっとONEっぽいなぁとか思ったものです。
リトバスをやった後にHanabiの歌詞見ると、まあこれは見事にリトバスだなぁと思うのですが。確か鍵っ子ブログさんが、以前そういった内容の考察を書かれていましたね。
で、どこがONEかというと。
このフレーズなんですけど。
増えては困る猫ばかり拾うのは長森じゃねえかよと。
や、ONEっぽいのはそのフレーズだけで、後はほぼ全くONEっぽくないのですが。
■
でもここで、ONEとリトバスを並べた時の、【増えては困る猫を拾う】者の遷移はちょっと面白いんじゃないかなぁと思った。
ONEで、【増えては困る猫を拾う】者は長森。本作のメインヒロイン。
その流れそのままならば、リトバスで【増えては困る猫を拾う】者は鈴であってもおかしくないのに、恭介へと遷移している。しかも彼は、虚構世界の創造主。
主人公と共に歩むもの(ヒロイン)が拾っていたONEから、リトバスでは、ヒロインが拾うのではなく、ヒロインは拾ってきた者からさらに貰い受ける形になってる。
いやなんつーかね、その符号の異相には99%意味なんて無いと思うんだけどね。ただ、ヒロインに持たせていた役目を、別の人物に持たせるようになったという変化は、面白いと思った。
ONEで【増えては困る猫を拾う】者は長森なのに、どうして、リトバスで【増えては困る猫を拾う】者は鈴ではないのか。
■
ある意味、ONEにおいて、【増えては困る猫を拾う】者もまた、虚構世界の創造主でもあります。あの「えいえん」な虚構世界の創造に、”みずか”が一助しているという繋がり。
ただ一助でしかなくて、恭介のソレとは大いに異なる。
リトバスにおける恭介は、その世界の創造主、支配者に近い。もちろん恭介一人で作り出したものではないのですが、恭介が中心になっている、特別な地位を得ているのは確実。
途中までは、恭介の描いたシナリオ通りに。
そして途中からは、どれだけ恭介が描いたシナリオなのかは定かではありませんが、それでもなお、恭介の思惑通りに、シナリオに近く事は進んでいる。
リトバスの話を作り出しているのは恭介である、とも言える。
というと、少し語弊があるのですが。けれど大枠においては、それで正しい。
てゆうか、字面以上に、その印象が強い。
強烈なのが、黒バックに白文字で示されるシステムメッセージみたいなの(「よくここまできた」とか「お前が選ばなかった日々を〜」とか言ってるアレ)。あれは明らかに恭介の口調で語られていて(=恭介があれ言ってるということ)、そしてただ虚構世界の道作り以上の強さを、アレは有している。
具体的には、あのシステムメッセージが紡がれるタイミング。
それが少しおかしい。
例えば、事故現場から理樹と鈴、二人だけが生き残った後の言葉とか。病院で聞こえるメッセージ。それって、虚構世界では無い場所で聞こえるメッセージということ。(もちろんソレも虚構世界内でのシュミレートに過ぎない、と見ることも出来る)
最後のメッセージも、なんか、違和感。
や、その辺について、細かいことは措いといて。
こういうのの検証は、まだ踏み出す段階じゃない。
今の所言えるのは、一応。
恭介とリトルバスターズ世界との繋がりは、虚構世界の存在だけ”以上の”意味を有しているっぽい。
■
てゆうか。
虚構世界の創造主って立場は、まんま麻枝准と被ってるんだよなぁ。暗喩と見られてもおかしくない。
そりゃ作者である麻枝さんは、虚構世界の創造主じゃん、って。
恭介=だーまえ、って説は、ある程度の説得力を有することができる。
以前どっかで、恭介の台詞はだーまえの台詞、みたいな考察を見かけたんだけど(理樹=プレイヤーで、恭介=麻枝が、プレイヤーにお別れを告げる(当初はだーまえのラストシナリオって予定だったしね)、みたいな考察)、それは概ねにおいては間違っていない。
てゆうかね、麻枝さんのシナリオは、ずっとそういうものを内包してきていたと、僕は思ってるんですよ。だからこそ好きなんすよ。
『AIR』の、発売当初に流行った、最後に出てくる子供はKeyスタッフ説。あれなんか直接的だと思う。
いやKeyスタッフと断言してしまうのは先走り感が強すぎると思うんだけど、そこの考察では、その前のシステムメッセージを、プレイヤーに対する直截的なメッセージと解釈していて。
実際はこんなに直截的じゃなくて、ひとつ迂回しているんですけど。この言葉が、そら(往人)に対する言葉としても有用である以上、ワンクッションが敷かれている。そらを媒介にして、伝わるようにできている。まあでも、伝わりやすいっていうか、直截的になりやすくなる、面白い仕掛けを用意してはいると思う。AIR編に入り、主人公(そら=往人)の存在が、プレイヤーと同じく”観測者でしかなくなっている”というのが面白いところ。
そういうメッセージがあると、思いやすくはなっている。
ちょっと話逸れて。
リトバスと対比させるなら、AIRとするのも面白いかも、と思った。
あくまでも観測者としてシナリオ通りに観鈴を救えないまま去っていくそら(往人)と、(恭介の)シナリオを超越して恭介たちを救い出せる理樹。とか。
とか思ったけど。
AIRは組み入り過ぎてて(どうとでも読めすぎて)よく分からんつうか収拾できん。
で、話戻して。
その辺は、Kanonの『思い出に還す』とか、CLANNADの『一回性に価値を見い”出さない”構造』なんかにも通じるところはあると思う。
うーんと、もっと包括的に語ると。
Key(麻枝准)の作品って、主人公とお話との関係(あるいは主人公の物語に対する姿勢)を、プレイヤーと作品の間に転移させてるというか、逆に主人公と物語が、プレイヤーと作品の関係を敷衍しているというか。メタってるんですよ。
うん自分でもどうかと思いかねない思考なんですけど、要するに正確性は担保されてないんですけど、僕としてはこういう在り方が在ると見ている。
で、話を戻しましょう。
リトバスの、恭介=だーまえ論。
これは大方正しいだろうけど、もう一段階(以上)、なにかが隠されている。
はずである。
そうでなくては、最終的に皆が助かる理由が生まれない。
■
リトバスのラストに対する解釈は、まあ最大限の注意が必要だけど、とりあえず字面通りに解釈しておけば、まず最初の一歩としては間違いないと思う。
つまり、友達の素晴らしさとか、他人の素晴らしさを語っている。
この辺は一つ前のエントリーにも記したけど、親密関係の広がりに通じる話でもあるでしょう。
”ひとり”とか、あるいは”ふたり”とか。初期は、共に歩いていく相手とか、一緒に強くなっていく相手しか、自分の中に取り入れられる世界には(殆ど)存在していなかったのに、それが後には、非常に広がっていく。
(余談だけど、Kanonの誰か助けると誰か不幸になる問題とか、AIRの佳乃・美凪の意義問題(あんな扱いになってしまった問題)って、その辺に絡むのかも)
■
【増えては困る猫を拾う】っていうのは、抱えきれないくらいの責任を(あるいは大切なモノを)手に入れてしまうってことに繋がると思うんだけど。その役目が、ヒロインから他者に移ったというのは、注目に値するっぽい。
ぽいけど、ちょっと現状、わからない。
鈴はヒロインとはいえ、かなり主人公(理樹)と同じ立場にいて、ちょっと特殊。……って、もしかして鈴が特殊な理由ってアレか。上の『友達うんぬん』のお話と繋がるけど、一人ではない(”一人では歩けない”)ということを明確付ける為に、ああいう立ち位置になったのかも。ああだから、あんだけ弱いから、鈴は自らで猫を拾わないのか。鈴シナリオの後半は、理樹がいるから拾えた、とか?(ゴメンここちょっとびみょー)
一人では歩けないというのは、鈴もそうなんだけど、理樹も同じ。どちらも、お互いがいなかったら、作中で描かれたような決断や行動は、多分できなかった。この二人の間でも、互いに対する依存度はちょっと違ってるけど(そして作品内で常々変化していくけど)。
その上での作品のテーマというか、理樹のあのラストの方の、ひらがなだらけの独白があるのか。
あれは、一人では歩けないということを指している。
一応補足。一人では歩けないという言葉は、一人で生きていける強さが無いという意味ではなくて、一人で生きていく意味が無い、という意味。失うことを乗り越える強さを得る、というお話だから、得る強さは、失うことを乗り越える強さでなくてはならない。その場合には、前提が必要。その前提が、他者(一人ではないということ)。つまり、失う前提が存在していなければならない(=”誰かがいなければならない”)。失う可能性のあるものが存在していなければ、その強さを手にした意義が無くなってしまう。
ああ、なるほど。
あのラストの、最終的に皆が助かるグランドフィナーレが、その存在意義が、少しつかめてなかったりしたんだけど。こういう意味か。失うものがあるということが、どれだけ素晴らしいものなのか、という意義か。
■
話が綺麗に纏まらないのですが、さておき。
上記の、「失うものがあるということが、どれだけ素晴らしいものなのか」という意義は、ONEと繋がります。ONEはその辺、めっちゃ直接的っていうか、真っ直ぐでした。つうかONEの物語は、そればっか物語ってました。
そして多分。ONEとリトバスは、その語り方が、真逆になっているのだと思う。
■
……うーん、と思ったんだけど、なんか引っかかるなぁ。
リトバス。あれの最後の方の語りを見ると、理樹は未来の喪失を許容できているのか? という点で疑問が(つうか懐疑が)残ります。果たして。あれだけ恭介を待ちわびて、いつかくる別れを、今既に許容できているのか。
いや待てよ。だからこそ、真逆でいいのかもしんない。恭介の立場を浩平に、理樹の立場をヒロインに置けば、あの待ちわびる感は、近しい感じで表現されている。その先に訪れるであろう喪失に対する許容の不明瞭さも。
いやいや。物語的には、大まかには。
リトバスは、失わなかったという結末です。ONEと同じく、虚構を捨て、現今にあるものを失わなかった。始点である両親の死、あれはもう取り返しが付かない過去なので、既に失われてしまっているものなのですが、しかし、そこに、意味を、意義を、そこを乗り越える力を、見い出すことができた。
ONE。これも失ってはいない物語。リトバスと同じく、虚構を捨て、現今にあるものを失わなかった。始点である妹の死、あれはもう取り返しが付かない過去なので、既に失われてしまっているもの、という、喪失が始点であるところも、リトバスと同じ。ただしかし、こちらは、リトバスほど深くは、意義や意味を描けなかった。
■
システムとプレイヤー側の受容について。
ONEは、「えいえんはあるよ、ここにあるよ」だったのに対し、リトバスは「ここにすらえいえんはねーよ」だった。
『ONE』の、「えいえんはあると、ここにあるよ」って有名な台詞の、その「えいえん」がある場所ってのは、言葉まんまの”ここ”なんですよ。つまりこのゲーム。ゲームディスク。データはえいえんに変わらない。何回やろうが、幾らでも同じ場面・瞬間を見れるでしょう。浩平が「えいえん」の世界で、思い出を反芻するだけで生きていけると語ったように、プレイヤーはこのゲームの中で何回でも思い出を反芻することができる。それこそ永遠に。
だからこそ、浩平が「こんな永遠なんていらなかった」と、「えいえん」を破棄したことには大きな意味がある。
で、リトバスは、永遠ではないです。周回ごとに、少しづつ変化していってしまう。何度も反芻することができる場面や瞬間もあるんですけど、セーブデータが残ってない限り、一度しか反芻することのできない場面や瞬間が沢山ある。
細かい点まで含めれば、以前の再現はほぼ不可能ですからね。パラメーターとか野球とかバトルとか、VSささみ戦とか。細かい数字とかまで気にしだすと、全てが同じである場面や瞬間は、ほぼ二度とない。
つまり永遠が存在しないのです、この世界には。
この違い。
既にして永遠を破棄して、ある意味”遊び場”的な要素を強くしたリトルバスターズの、こういった構造は、永遠を作り出したONEと対比するとより際立つ。
あと、ONEと、一回性だらけのリトバスとの間に。一回性に価値を見い出さなかった、プレイヤーを強引に置いてけぼりにした(一回性の価値は自身で見い出せよ、とした)(←この理解は暫定なんすけど)CLANNADが存在していた、というのも大きいと思いますが。
ああ、それ(クラ)鑑みると、リトバスはかなり真面目というか、ど直球で来た、と考えて然るべきかなぁ。
一回性と、永遠に近いもの、その相反する二つのものを、何とか用意した。
それでいて。失うものの貴さを語る、とかなんとか。
ONEは永遠しか用意できなかったから。あの世界に、失われていくものは存在しなかったのよね。
■
まだまだ煮詰めなきゃお話にならないメモなんですけど。
試論用のメモってことは、いつか試論があるってことなんですけど。
なんかこう書いてたら、すごい満足しちゃいました(なんという身勝手)。
試論は、やっぱ、あれです。「エクスタシー」含めて。
あれも「リトルバスターズ」なんだから、含めないと、どうにも歯切れないものに成らざるを得ないというか。
(ただ、全部書いた後に思ったんだけど、CLANNADとかも絡めないと、どうにも片手落ちになってしまう感が強い)
以下、『リトルバスターズ!』と、『ONE』のネタバレを含みまくりです。
他Key作品のネタバレも、ちょっとあります。
【More】
先日、麻枝さんの歌詞について色々考えていた時、『Hanabi』(『Spica』のカップリング)の歌詞カード見ていて、ちょっと繋がった。
最初に『Hanabi』を聞いた時は、まだリトバスが発表される前で、僕はこれ見てちょっとONEっぽいなぁとか思ったものです。
リトバスをやった後にHanabiの歌詞見ると、まあこれは見事にリトバスだなぁと思うのですが。確か鍵っ子ブログさんが、以前そういった内容の考察を書かれていましたね。
で、どこがONEかというと。
このフレーズなんですけど。
増えては困る猫ばかり拾ってた
増えては困る猫ばかり拾うのは長森じゃねえかよと。
や、ONEっぽいのはそのフレーズだけで、後はほぼ全くONEっぽくないのですが。
■
でもここで、ONEとリトバスを並べた時の、【増えては困る猫を拾う】者の遷移はちょっと面白いんじゃないかなぁと思った。
ONEで、【増えては困る猫を拾う】者は長森。本作のメインヒロイン。
その流れそのままならば、リトバスで【増えては困る猫を拾う】者は鈴であってもおかしくないのに、恭介へと遷移している。しかも彼は、虚構世界の創造主。
主人公と共に歩むもの(ヒロイン)が拾っていたONEから、リトバスでは、ヒロインが拾うのではなく、ヒロインは拾ってきた者からさらに貰い受ける形になってる。
いやなんつーかね、その符号の異相には99%意味なんて無いと思うんだけどね。ただ、ヒロインに持たせていた役目を、別の人物に持たせるようになったという変化は、面白いと思った。
ONEで【増えては困る猫を拾う】者は長森なのに、どうして、リトバスで【増えては困る猫を拾う】者は鈴ではないのか。
■
ある意味、ONEにおいて、【増えては困る猫を拾う】者もまた、虚構世界の創造主でもあります。あの「えいえん」な虚構世界の創造に、”みずか”が一助しているという繋がり。
ただ一助でしかなくて、恭介のソレとは大いに異なる。
リトバスにおける恭介は、その世界の創造主、支配者に近い。もちろん恭介一人で作り出したものではないのですが、恭介が中心になっている、特別な地位を得ているのは確実。
途中までは、恭介の描いたシナリオ通りに。
そして途中からは、どれだけ恭介が描いたシナリオなのかは定かではありませんが、それでもなお、恭介の思惑通りに、シナリオに近く事は進んでいる。
リトバスの話を作り出しているのは恭介である、とも言える。
というと、少し語弊があるのですが。けれど大枠においては、それで正しい。
てゆうか、字面以上に、その印象が強い。
強烈なのが、黒バックに白文字で示されるシステムメッセージみたいなの(「よくここまできた」とか「お前が選ばなかった日々を〜」とか言ってるアレ)。あれは明らかに恭介の口調で語られていて(=恭介があれ言ってるということ)、そしてただ虚構世界の道作り以上の強さを、アレは有している。
具体的には、あのシステムメッセージが紡がれるタイミング。
それが少しおかしい。
例えば、事故現場から理樹と鈴、二人だけが生き残った後の言葉とか。病院で聞こえるメッセージ。それって、虚構世界では無い場所で聞こえるメッセージということ。(もちろんソレも虚構世界内でのシュミレートに過ぎない、と見ることも出来る)
最後のメッセージも、なんか、違和感。
や、その辺について、細かいことは措いといて。
こういうのの検証は、まだ踏み出す段階じゃない。
今の所言えるのは、一応。
恭介とリトルバスターズ世界との繋がりは、虚構世界の存在だけ”以上の”意味を有しているっぽい。
■
てゆうか。
虚構世界の創造主って立場は、まんま麻枝准と被ってるんだよなぁ。暗喩と見られてもおかしくない。
そりゃ作者である麻枝さんは、虚構世界の創造主じゃん、って。
恭介=だーまえ、って説は、ある程度の説得力を有することができる。
以前どっかで、恭介の台詞はだーまえの台詞、みたいな考察を見かけたんだけど(理樹=プレイヤーで、恭介=麻枝が、プレイヤーにお別れを告げる(当初はだーまえのラストシナリオって予定だったしね)、みたいな考察)、それは概ねにおいては間違っていない。
てゆうかね、麻枝さんのシナリオは、ずっとそういうものを内包してきていたと、僕は思ってるんですよ。だからこそ好きなんすよ。
『AIR』の、発売当初に流行った、最後に出てくる子供はKeyスタッフ説。あれなんか直接的だと思う。
いやKeyスタッフと断言してしまうのは先走り感が強すぎると思うんだけど、そこの考察では、その前のシステムメッセージを、プレイヤーに対する直截的なメッセージと解釈していて。
あなたにはあなたの幸せを、その翼に宿して下さいこの辺とか。観鈴ちんはもういいだろ(ゲームなんだし)、プレイヤーは現実で幸せ宿せや、と言ってる、という解釈をしていた。(もうそのサイトのページ残ってないっぽいからリンクも貼れないけど)
実際はこんなに直截的じゃなくて、ひとつ迂回しているんですけど。この言葉が、そら(往人)に対する言葉としても有用である以上、ワンクッションが敷かれている。そらを媒介にして、伝わるようにできている。まあでも、伝わりやすいっていうか、直截的になりやすくなる、面白い仕掛けを用意してはいると思う。AIR編に入り、主人公(そら=往人)の存在が、プレイヤーと同じく”観測者でしかなくなっている”というのが面白いところ。
そういうメッセージがあると、思いやすくはなっている。
ちょっと話逸れて。
リトバスと対比させるなら、AIRとするのも面白いかも、と思った。
あくまでも観測者としてシナリオ通りに観鈴を救えないまま去っていくそら(往人)と、(恭介の)シナリオを超越して恭介たちを救い出せる理樹。とか。
とか思ったけど。
AIRは組み入り過ぎてて(どうとでも読めすぎて)よく分からんつうか収拾できん。
で、話戻して。
その辺は、Kanonの『思い出に還す』とか、CLANNADの『一回性に価値を見い”出さない”構造』なんかにも通じるところはあると思う。
うーんと、もっと包括的に語ると。
Key(麻枝准)の作品って、主人公とお話との関係(あるいは主人公の物語に対する姿勢)を、プレイヤーと作品の間に転移させてるというか、逆に主人公と物語が、プレイヤーと作品の関係を敷衍しているというか。メタってるんですよ。
うん自分でもどうかと思いかねない思考なんですけど、要するに正確性は担保されてないんですけど、僕としてはこういう在り方が在ると見ている。
で、話を戻しましょう。
リトバスの、恭介=だーまえ論。
これは大方正しいだろうけど、もう一段階(以上)、なにかが隠されている。
はずである。
そうでなくては、最終的に皆が助かる理由が生まれない。
■
リトバスのラストに対する解釈は、まあ最大限の注意が必要だけど、とりあえず字面通りに解釈しておけば、まず最初の一歩としては間違いないと思う。
つまり、友達の素晴らしさとか、他人の素晴らしさを語っている。
この辺は一つ前のエントリーにも記したけど、親密関係の広がりに通じる話でもあるでしょう。
AIRまでは、親密による世界の広がりが、基本的に「一緒に強くなれる相手(主に作中で恋人になる関係)(そうではないけど、晴子・観鈴も一緒に強くな関係)」までだったのに対し、CLANNAD以降は、古河家とか芳野とか、「一緒に強くならない他人」とも、親密さを構築できている。
ここでいう親密さってのは、仮託でなく強さを自分のものに出来る範囲、つまり自分の世界の広がりのこと。
”ひとり”とか、あるいは”ふたり”とか。初期は、共に歩いていく相手とか、一緒に強くなっていく相手しか、自分の中に取り入れられる世界には(殆ど)存在していなかったのに、それが後には、非常に広がっていく。
(余談だけど、Kanonの誰か助けると誰か不幸になる問題とか、AIRの佳乃・美凪の意義問題(あんな扱いになってしまった問題)って、その辺に絡むのかも)
■
【増えては困る猫を拾う】っていうのは、抱えきれないくらいの責任を(あるいは大切なモノを)手に入れてしまうってことに繋がると思うんだけど。その役目が、ヒロインから他者に移ったというのは、注目に値するっぽい。
ぽいけど、ちょっと現状、わからない。
鈴はヒロインとはいえ、かなり主人公(理樹)と同じ立場にいて、ちょっと特殊。……って、もしかして鈴が特殊な理由ってアレか。上の『友達うんぬん』のお話と繋がるけど、一人ではない(”一人では歩けない”)ということを明確付ける為に、ああいう立ち位置になったのかも。ああだから、あんだけ弱いから、鈴は自らで猫を拾わないのか。鈴シナリオの後半は、理樹がいるから拾えた、とか?(ゴメンここちょっとびみょー)
一人では歩けないというのは、鈴もそうなんだけど、理樹も同じ。どちらも、お互いがいなかったら、作中で描かれたような決断や行動は、多分できなかった。この二人の間でも、互いに対する依存度はちょっと違ってるけど(そして作品内で常々変化していくけど)。
その上での作品のテーマというか、理樹のあのラストの方の、ひらがなだらけの独白があるのか。
あれは、一人では歩けないということを指している。
一応補足。一人では歩けないという言葉は、一人で生きていける強さが無いという意味ではなくて、一人で生きていく意味が無い、という意味。失うことを乗り越える強さを得る、というお話だから、得る強さは、失うことを乗り越える強さでなくてはならない。その場合には、前提が必要。その前提が、他者(一人ではないということ)。つまり、失う前提が存在していなければならない(=”誰かがいなければならない”)。失う可能性のあるものが存在していなければ、その強さを手にした意義が無くなってしまう。
ああ、なるほど。
あのラストの、最終的に皆が助かるグランドフィナーレが、その存在意義が、少しつかめてなかったりしたんだけど。こういう意味か。失うものがあるということが、どれだけ素晴らしいものなのか、という意義か。
■
話が綺麗に纏まらないのですが、さておき。
上記の、「失うものがあるということが、どれだけ素晴らしいものなのか」という意義は、ONEと繋がります。ONEはその辺、めっちゃ直接的っていうか、真っ直ぐでした。つうかONEの物語は、そればっか物語ってました。
そして多分。ONEとリトバスは、その語り方が、真逆になっているのだと思う。
■
……うーん、と思ったんだけど、なんか引っかかるなぁ。
リトバス。あれの最後の方の語りを見ると、理樹は未来の喪失を許容できているのか? という点で疑問が(つうか懐疑が)残ります。果たして。あれだけ恭介を待ちわびて、いつかくる別れを、今既に許容できているのか。
いや待てよ。だからこそ、真逆でいいのかもしんない。恭介の立場を浩平に、理樹の立場をヒロインに置けば、あの待ちわびる感は、近しい感じで表現されている。その先に訪れるであろう喪失に対する許容の不明瞭さも。
いやいや。物語的には、大まかには。
リトバスは、失わなかったという結末です。ONEと同じく、虚構を捨て、現今にあるものを失わなかった。始点である両親の死、あれはもう取り返しが付かない過去なので、既に失われてしまっているものなのですが、しかし、そこに、意味を、意義を、そこを乗り越える力を、見い出すことができた。
ONE。これも失ってはいない物語。リトバスと同じく、虚構を捨て、現今にあるものを失わなかった。始点である妹の死、あれはもう取り返しが付かない過去なので、既に失われてしまっているもの、という、喪失が始点であるところも、リトバスと同じ。ただしかし、こちらは、リトバスほど深くは、意義や意味を描けなかった。
■
システムとプレイヤー側の受容について。
ONEは、「えいえんはあるよ、ここにあるよ」だったのに対し、リトバスは「ここにすらえいえんはねーよ」だった。
『ONE』の、「えいえんはあると、ここにあるよ」って有名な台詞の、その「えいえん」がある場所ってのは、言葉まんまの”ここ”なんですよ。つまりこのゲーム。ゲームディスク。データはえいえんに変わらない。何回やろうが、幾らでも同じ場面・瞬間を見れるでしょう。浩平が「えいえん」の世界で、思い出を反芻するだけで生きていけると語ったように、プレイヤーはこのゲームの中で何回でも思い出を反芻することができる。それこそ永遠に。
だからこそ、浩平が「こんな永遠なんていらなかった」と、「えいえん」を破棄したことには大きな意味がある。
で、リトバスは、永遠ではないです。周回ごとに、少しづつ変化していってしまう。何度も反芻することができる場面や瞬間もあるんですけど、セーブデータが残ってない限り、一度しか反芻することのできない場面や瞬間が沢山ある。
細かい点まで含めれば、以前の再現はほぼ不可能ですからね。パラメーターとか野球とかバトルとか、VSささみ戦とか。細かい数字とかまで気にしだすと、全てが同じである場面や瞬間は、ほぼ二度とない。
つまり永遠が存在しないのです、この世界には。
この違い。
既にして永遠を破棄して、ある意味”遊び場”的な要素を強くしたリトルバスターズの、こういった構造は、永遠を作り出したONEと対比するとより際立つ。
あと、ONEと、一回性だらけのリトバスとの間に。一回性に価値を見い出さなかった、プレイヤーを強引に置いてけぼりにした(一回性の価値は自身で見い出せよ、とした)(←この理解は暫定なんすけど)CLANNADが存在していた、というのも大きいと思いますが。
ああ、それ(クラ)鑑みると、リトバスはかなり真面目というか、ど直球で来た、と考えて然るべきかなぁ。
一回性と、永遠に近いもの、その相反する二つのものを、何とか用意した。
それでいて。失うものの貴さを語る、とかなんとか。
ONEは永遠しか用意できなかったから。あの世界に、失われていくものは存在しなかったのよね。
■
まだまだ煮詰めなきゃお話にならないメモなんですけど。
試論用のメモってことは、いつか試論があるってことなんですけど。
なんかこう書いてたら、すごい満足しちゃいました(なんという身勝手)。
試論は、やっぱ、あれです。「エクスタシー」含めて。
あれも「リトルバスターズ」なんだから、含めないと、どうにも歯切れないものに成らざるを得ないというか。
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