ひだまりスケッチ×365 第一話「はじめまして! うめてんてー」
2008-07-05
久しぶりの「ひだまりスケッチ」。実に一年ちょっとぶりですね。ちなみにこのブログをまともに更新するのは一ヶ月ちょっとぶり(ぉ
時系列はぐっと戻って、第一期を併せても一番最初。ゆのの受験と、ひだまり荘メンバーとの出会いからです。


赤の他人はもはや人間として描かれない。
これは第一期から通じていることですね。「自分に(この物語に)関わりない・これから関わらない人間は『人間として描かれない』」。
これはある意味正しいです。例えば、自分の受験の時を思い出せば、名前も知らないしこれ以降も知ることにならない同じ教室に居ただけの人のことなんて、顔はおろか姿形すら覚えていません(他人から見た「自分」も、そうなのですけど)。つまり、ゆの(ひだまりスケッチの物語)の「主観」で観れば、この描写で事足りているのです。
主観の上では、その人たちは、「誰か居る」以上の意味は有していなくて、だからこういった「人間を表す記号」で、十全足り得てしまう。この描写で認識を十分に表現できてしまっているのです。

それは逆に、「ひとりぼっちである」ということを強調するものでもありました。
知らない周りと、知ってる自分。そこに内在する埋められない溝。
だからこそ、筆記用具で困っても、誰にも助けを求められない。
実技試験で、「みんな、私なんかよりずっと上手いんだろうな…」と言った後に、またこの一人の描写が出てきたのも、そう。顔を知らない、知る必要も無い「みんな」っていう集合に対する疎外。
「親密じゃない人の間に居るからこそ感じる疎外」を崩すのは、その逆。「親密な人と」ともに居ればいい。
その始まりが、あの「宮ちゃん」という言葉。ゆのっちの親密への歩み寄り。


「宮ちゃん」
この言葉は、上記の二つの画像にまたがって発せられています。
つまり。現実で、ひだまり荘の一部屋で「宮ちゃん」と発したゆのと。心の中で、ただ広く暗い体育館の中に一人佇みながら「宮ちゃん」と発したゆのと。外面と内面、この二つのゆのが、(ゆのが、そして僕らが)認識できる「ゆの」そのものを作っている。

ひだまり荘に、確かに居るのだけど。暗い体育館の中に一人で居るのと、何ら変わりはない。

それが、宮ちゃんがゆのっちと応えてくれたことにより、一気に瓦解するのです。
やー、なんというか、素晴らしいカタルシス。
親密に歩み寄り、その結果親密が生まれる。
「関係ない人間は人間として描かれない、人間という記号で描かれる、それで十全である」
というのは、彼女たちの間にも言えます。
今でこそ、このように親密を作れましたけど、でも、親密を作れないで記号で描かれた人間と彼女たちの間には、何の差もないわけです。

それこそ、絵を見たときの「ごめん、わかんない」のように、何でもかんでも分かり合えるわけではない。感性が似通っているというわけでもない。
ただただ、彼女たちがこうなれたということは。
場所、出会えたこと、知り合えたこと。
そして、親密を自ら作り上げられたこと。
ゆのの「宮ちゃん」のような小さな一歩が、記号で終わってしまう「その他大勢」では無い関係を、他者と作り出したのです。

