2008'10.04 (Sat) 14:34
今回はみんなで「野球」をやるというお話でしたが、敢えてこれを第1話に持ってきたところに、その”みんなで”という部分に対する指向を、強く感じました。
CLANNADにて「家族」や「町」、また「変化」が強調されていることは、原作を未プレイの方でもお気づきかと存じますが、今回のこの”みんなで”というのは、その部分に対する指向ですね。今現在、集る親密な人たちで集って野球をする。
ここでいう(というかCLANNADでいう)「町」というのは、私たちが考える、建物があって土地があって住人が居て……という実在的な町というより、もう少し比喩的で観念的なものであるでしょう。
この野球メンバーには、この街の住人でない者や、この町の住人かどうか不明な者、物語においていずれはこの街から出て行く人間も含まれていますが、それでも秋生は「この町・この町の」と繰り返し発言しています。これが示唆することは恐らく、ここでいう「町」という区分は、私たちが知る市区町村のそれではないということでしょう。
平たく考えると、同じ親密圏に属する間柄の相手を、自身の「町」の区分けに入れているのではないかと考えられます。もう少し細かく言うと、それは主観(この場合秋生)で親密であるかどうかだけではなく、――つまり秋生が親密ではない相手(例えば今回のメンバーでしたら、その殆どがそうでしょう)すらも、その「町」の中に入っていることから、親密の親密は親密、的な間柄、つまり秋生にとって親密である”朋也”が連れて来た人間(朋也と親密な人間)もまた、その「町」の中に含まれていると考えられるでしょう。
この辺りは「だんご大家族」の歌詞が、示唆的であると言えるでしょう。「仲良しだんご手を繋ぎ大きな丸い輪になるよ」。全てのだんごが仲良しで手を繋ぎ丸い輪になったのか、それとも対角線上くらいに離れただんご同士はお互いに面識もないけれど手を繋ぐという行為がお互いを結び付け丸い輪になったのか、真相の程は存じませんが、そのどちらであったにせよ――今言及しているのは後者的な観点ですが――「丸い輪になる」という事実は確固として御座いますでしょう。
「町」について、まだまだ触りの部分ではございますが、当然これ以上は時期尚早ですので、ひとまず措いておきまして。
今回の話に参りましょう。
【More】
類像・類音・時間の逆流
個人的には、ありとあらゆる点において気に入ってしまったこのCLANNADアフター第1話ですが、ラストの部分が最も印象的でした。


・乾杯の音 → ヒット音




・ボール → 光の玉 → ぼく(ぼくの目)
ご承知のように、ある物とある物を結び付けて、非常に連続的な見せ方をしております。(ボールの方に関しては、EDに出てくるだんごにも繋がっているかのように見ることもできるでしょう)
こういった、似ているものを似ているものと意識して扱う(あるいは、似させる)のは面白く効果的ですね。私たちの認識に類像性・類音性は非常に強く作用しているのですが、この場面は、それを意識して構成されています。
つまり、簡潔に申しますと、繋がりができているということです。
これは見た目だけではなく、意味作用においても、暗喩的な働きを持つでしょう。
後者(ボール → 光の玉 → ぼく(ぼくの目))に関しては、ネタバレを鑑みて今回は触れませんが、前者(乾杯の音 → ヒット音)で言えば、”みんなで乾杯”と、”朋也のヒット”が、暗喩的ながらも結び付いてるわけです。
また、これのように、時間が逆流している(ヒット→乾杯が、時間軸的には正しい)場合は、もっと強い意味作用をもたらすでしょう。時間の逆流は、書き手側の恣意性を示唆しているからです。この場合の最も顕著なパターンは、因果関係の整理・示唆でしょうか。
乾杯の部分は、そこだけ切り取ってみても、勝利や、団欒的な風景、大勢の親密な人たち(ならびに、その人たちで(乾杯するに足る)何かを行った)、などの意味を有していますが、それが朋也のヒットにも暗喩的に繋がる――つまり、彼は腕の怪我の関係で、ヒットなど打てないと考えていたのですが、それでも出来たことには、自分一人の力ではなく、彼ら仲間たちがいたから、あるいはその為に、あるいはそれが何かの寄与となり――、というような意味の牽引が起こるのです。
もちろんそれは暗喩的なものであり、あくまで示唆であり、決定的なものではありませんが、このように、時間軸の入れ替えと、類像的・類音的「繋がり」をコントロールすることにより、普通に(何の仕掛けもせずまるっきり時間軸どおりに)見せるより、私たちにこの”みんな”(ないし町・家族、仲間や親密な関係)といった要素を、強く印象付けていると云えるでしょう。
一人で。
さて今回、野球という動きの激しいスポーツの描写が多いというのもございますが、先にも書いたようにやはり”みんな”が集っていることもあり、非常に画面が賑やかでした。
常に、沢山のキャラクターが画面を賑わし、例えば誰かが、ひとりポツンと居る場面など、殆ど目にしていないと思いますが、実際に殆ど目にしていないはずです。
これには理由が二つ。
まず最初に、「誰かが一人で居る場面」自体が、殆ど無いことが挙げられます。その空間に、そのシーンに、他の人がいない(もしかしたら居るかもしれないけど不明)という場面が、殆ど無い――殆どっていうか、ラストの「ぼく」以外、ない。
次に、これは単純に、フレーム内に一人きりで収まっているという絵があまり無いことと、あっても”一人である”ということを感じさせないように上手く隠蔽されている、という点があります。
ここでいう隠蔽とは、アップの多用と、動きの激しさにより、です。フレーム内に一人しか納まっていないというカットは、思いのほか多くありますが、その大多数が、キャラクターの顔アップのカット、あるいは野球試合中の、守備や攻撃など、動きの激しい(あるいは動きの途中・予備動作)カットで占められています。
画面に一人しか映っていませんが、上に挙げたような見せ方をすることにより、通常、画面に一人しか映っていない事柄が孕んでいるような、【寂しさ・孤独・孤立・不安・焦燥】、といった意味付けが、ここでは忌避されています。それらと相反する要素――アップという、他者・他の物体という比較対象を取り除くことにより。あるいは、動きという流動性を取り入れること―により、それらを上手に回避しているのです。
渚が演劇部を作った動機のひとつに、「みんなで一つのことを」やりたい、という事がありましたが、それと同じ様に、みんなで野球をやるという今回は、その”みんなで”という部分が、映像にも現れていたのではないかということです。
だからこそ、このシーンは非常に目立つものになりました。


渚「朋也くんのお父さんにも、来ていただきましょう」
渚「頑張ってる朋也くんを、見てもらいましょう」
渚「私もちゃんとお会いしたいです、朋也くんのお父さん」
朋也「また、今度にしよう。な」
というセリフの場面ですが、この見事なまでに分断された描写は、その悲壮なまでに分断された「朋也の父」に対する両者の考え・接し方の差を、如実に表していました。
今回の話で、朋也がフレームの中で一人で収まっているカットは、この一連の場面を除くと僅かに7回。
そのいずれも、指向としては、ここにおいて”みんなで”よりも”彼一人で”に向いている場面でもあります。

打席に向かう時分で1回。


実際に打席に入りながら2回。
仲間はいるが実際に行う(打席に立つ・バットを振る)のは自分一人、自分一人の戦いでもあるという面を見て取れます。

送りバント後、秋生に「好きじゃねえがな……まぁ、悪くない作戦だ」と言われた後に1回。

送球を受け取る段で1回。

「高校三年の俺たちは、そろそろ進路を決めなきゃいけない時期だ。
でも、俺はまだ自分の将来が見えないままだ。」
というモノローグのところで1回。

冒頭、
秋生「おい、野球やるぞ」
朋也「やれば」
という場面で1回。
これらは、”みんなで”というより”一人で”――「個人の・あるいは共有できない、したくない」である、というところに指向が向いてる瞬間でもある、と見ることもできます。「やれば」という拒否的な姿勢、自分の進路という自分個人の問題(と現時点で見ている)、捕球直前と言う受け手主体の瞬間、作戦という含みでのバントというより「の肩で出来ること」からの個人的な帰結、実際にバッターボックスに立つ自分。
勿論、見ることもできると記したように、そうであると確実に強い意味づけを持って描かれているわけではないかと思われます。そういうことを示唆的に孕んでいるように見ることもできる。意味なんてものは常にそういうもので、恣意的な決断があってはじめて生成されるものです。このように共通項があれば、意図がどうであれ、共通するに足る意味を見出すことはできるでしょう。
さて、然るに、朋也が”一人で映っている”という場面が、全て「個人の・あるいは(現時点で)共有できない、したくない」瞬間でもあるということを考えると、さきほども提示した、橋の上でのシーン、その断絶さはより大きく感じられるでしょう。


渚「朋也くんのお父さんにも、来ていただきましょう」
渚「頑張ってる朋也くんを、見てもらいましょう」
渚「私もちゃんとお会いしたいです、朋也くんのお父さん」
朋也「また、今度にしよう。な」
”みんなで”という部分を非常に強調された今回の話において、ここまで”ひとり”を強調したシーン。それはコントラストとして、他の部分が”みんなで”取り組んで、共有しているのに対し、この部分だけは”そうではない(一人)”ということを、克明に顕現しているでしょう。みんなで埋め尽くされてるからこそ、ここの断絶がさらに強調される。
思い返してみれば、冒頭の、朋也が夢から醒める瞬間(夢から醒ました)の渚のセリフは、「危ない!」でした。
なぜ夢から覚める呼び水となったのが、渚の「危ない」なのか。ボールが飛んできたから危ないと喋るのは当たり前ですが、しかしここで、何故ボールを飛ばしたのか。なぜ朋也は寝てたのか。なぜ野球をしてたのか。なぜ夢を見てたのか。なぜ渚の「危ない」を挿入する必要があったのか。なぜこのような作りとなったのか。なぜ夢から覚める呼び水となったのが、渚の「危ない」なのか。
それは現時点の、父と自分との問題を”ひとりで””共有せず”取り組む朋也が、見てしまうと(思い出すと)危ない内容の夢だったからかもしれません。
今の彼に、それを思い出したところで、何ができるか。どう思うか。
だからこそ、今回の話のように、”みんなで”――「家族」「町」――に、徐々に指向が繋がっていくのでしょう。
というところで、今回は、おしまい。
テーマ : CLANNAD -AFTER STORY- - ジャンル : アニメ・コミック
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