2009'05.08 (Fri) 02:49
つうことで『東のエデン』なんですが、まあ僕が言うまでもないことなんですが超面白いです。
何このワクワク感?
何でこんなワクワクできんの?
それはねえ、『幻想』なのよ。
たぶんきっといやマジで。
マジか?
誰か「物語の面白さにおける幻想」みたいなことを語った人はいないのだろうか。参考にしたい。むしろ引用してしゅぱっと終わらせたい。
物語の面白さというのは『幻想』に非常に強く担保される。いや、引き出される。最近そんなことばっか書いてますけど、本気でそんなこと思っています。うーんこれ、マジでそうなんじゃねえかな、てゆうか本当なんじゃねえかな、とかね、けっこう本気で思ってます。
幻想。見えているもの・知っているもの・分かっているものの【奥(裏)】側、というものへの想いです。それは「未来」ということも含めます。いま見えている・知っている・分かっているものは、「深層」から描写により表に滲み出た「表層」ではないだろうか。いま見えている・知っている・分かっているものを生み出すほどの<何か>が、その奥(裏)には”まだあるんじゃないか”、
という幻想。横軸(共時的)にはそれで、縦軸(通時的)には、描写されていない過去や未来に対するものとなります。
それはともかく、3話、あと2話のだいいちいんしょう。別の場所に書いたものの完全なるコピペ。
「東のエデン」第2話見た。
空港で一回別れて、(豊洲がわかんなくて)トイレに駆けつけて再会して、港で別れそうになりながらも『無言で』手を差し出して別れなかったり。細かい点だけど、出会いや別れには、いつもこう、「偶然的なもの」が添付されている……というか、されていてもおかしくない、シチュエーションである。そんな感じがしますねー。
そして第3話も見た。
上手いねー煽るねーという印象。「見た目」というのは、その文字通りですね、「奥」というのを想起させます。たとえば冒頭、豊洲の街の街灯の異様なくらいの赤さとその統一性は、それゆえに不吉なものを想起させたのではないでしょうか。
常に「見た目」には、その「奥」を想像させる余地が生まれる。とはいっても、それはあくまで想像の「奥」。もし本当に「奥」があったとしても、それは想像した「奥」とはまったく別物かもしれません。わんちゃんの影がまるで怪物だった箇所など、象徴的でしょう。見た目(影)は怪物に見える、だからその奥(影を生んだ生き物)もきっと怪物、そこにはどんな恐ろしい化物がいることか……しかし実際のところ、居たのは化物とは似ても似つかないカワイイわんちゃん。影として表れた見た目から想像できる姿(奥)とは似ても似つかない存在が、その奥には居たわけです。
記憶喪失だし、わけわかんないところいっぱいあるし、お金持ってるっぽいし……森美咲の滝沢くんに対する印象・心象は、はたしてどうか。謎とか不思議とか、またカッコイイとかちょっとイイかも、などなど思っているでしょうが、しかしまさか(恐らくですが)本当にテロリストで、ニート二万人誘拐してぶっ殺しちゃった(ぶっ殺そうとしちゃった)、などとは思っていないでしょう。ノブレスケータイに関してもそう。ショッピングモールが住みかなのは変だけど、まさかそれが出所も分からない超うさんくさいお金に拠るものだと、思ってもいないのではないでしょうか。森美咲は。その、見た目の滝沢くんの「裏」、色々想像しているだろうけど、まさかテロリスト、まさか人殺し(多分)、まさか救世主とは考えていない、恐らく。ならばこそ、疑念が生まれるわけですね。その「裏」を見て、森美咲は、それでも滝沢に興味・好意が持てるのだろうか。喪っている状態の記憶は、どんな想像でも受け入れる、崇高な対象だけれども、もし記憶が還ってくれば、その瞬間それは毒となるアガルマなんじゃないだろうか。
ふと横を見れば「証拠」に行き当たってしまう可能性もあるこのショッピングセンターで。


しかしこの、今僕が書いた滝沢くんに関すること(現在の情報からの推測)もまた、「見た目」でもあるわけです。見えてることから想像する。不安も、恐怖も。はたは希望も、期待も。わんちゃんの「影絵の怪物」が、やはり象徴的でしょう。それはひとつの定式を教えてくれるわけです。「怪物は常に影である――恐怖は常に影である」。怪物は喋ってはいけない。正体不明――イマジネールに作用するものが、はじめて、怪物となりうる。想像・幻想が、恐怖・怪物を生み出す。すべての幻想は、すべてそこにしかないわけで、見えてないからこそ幻想が介在できるのです。
それは小出しにされる、各々の情報に関してもそうでして、だからこそ上手いし煽られてるわけですよ。日本も、ミサイルも、セレソン・ノブレスケータイ、こいつらは何なのか、滝沢、さらに森美咲……見た目レベルで留めているのみならず、「奥」をまるで”魅力的なもの”として隠している。崇高が連ねるように構成されているわけです。
あー、上のは、それ放送直後に記したやつなんで、現時点の情報からすると何かアレじゃね?って箇所があるけれどみなさんには華麗にスルーなさることを期待しています。
で、第4話。
漠然。そして漠然は幻想を生む。
「ミスター・アウトサイド」「国を救う」。
この(ゲーム)の提案者であり支配者であり統治者である存在はただただ漠然としていて、彼が下す命令もまたただただ漠然としている。「国を救う」。それは、どうしたら達成できるのだ?
幻といえば、そのまんま「幻」が現われてましたね。爆心地での、あのなんかよくわかんないやつ。滝沢がそいつらに発した言葉は「役立たずどもが!」。
ここでの爆心地というのは、ある種空虚な中心的――存在として”あえていうなら”中心となるくらいに中心的だけど、それがおおやけに何かを為すということもなく、そもそもこの「システム」(ここでの場合は、東京という街とその機能、滝沢や咲にとって、あるいは本作の物語において)自体からもなかば排除されている――でもあるんじゃないでしょうか。この集合のなかで一番出っ張ってる、目立つ部分ではあるけれど――そして敢えて言うならば、それは「中心」であるけれど――実際に中心と呼べるのか。それほどの機能を果たしていないし、システムに不可欠ながらも実体はそこに組み込まれていない。
存在はあり人々や街や物語に深い痕跡と何らかの意味を与えているだろうけど、それが定かではない、つかめない霧散するようなそれである爆心地。
ここまで物語駆動の中心(動機)になっており、そして存在は確かにあるはずなのに、まるで見えない、重要度すらもここにきてはまるで量れない(良い意味でも悪い意味でも)滝沢くんの記憶。
セレソンにおける重要項、ある種のアウトサイダーでありながら、存在しているのは恐らく確かなのだろうけど、まるで見えないサポーター。
全てが、何だか分からない。否、見えない。
重要というのは分かるけど、中心的な部分を担っているけど、物語の重要な駆動点・動機となっているけれど、「漠然としている」それら。そしてそれらを追いかけている、あるいは追い立てられているのが、彼ら。
迂闊な月曜日に対する咲の感想は何だったか。面接官は何と聞いたか(第5話)。わくわくする。歓迎ムード。”そこに何かがある”。正確には、いま、明らかになっている”そこ”には、いま明らかになっている分の何かしかない。正確には、その奥、裏。
いま明らかになっているその奥に、裏に、何があるのか。
その想いのことを、「幻想」という。
「幻想」を孕ませる余地が多大に支配的であり、また彼ら自身も幻想を追っているからこそ、わたしたちもそれを宿らすことができる。ふくらむ。その漠然を糧に。
「サポーターというのは……(中略)……システムのことです」と、ジュイスは説明していましたが、これはちょっと注目に値するかもしれない別にしないかも(どっち)。
「システムのこと」。人物のことでも、役割のことでもないんですよね。ある種の自動的な、何かであると考えられるくらい。それゆえに、よりつかめないのですが。
第5話。
「君は記憶を消してまで何かをしようとしたんだろ?」(第4話)
ミスター・アウトサイドへの滝沢くんの怒りというのは、つまりそういうことなのかもしれないっすね。旧滝沢くんがどこまで・どれまで頭脳明晰なのかは分からないですけど。考えていたのか分からないですけど。全てを計算した上で記憶を消したのならば、「記憶を失った自分がどういった行動をとるか」が、ある程度計算できる。
そうすると、知っていたらできないことも、知らないからできるようになりうる。
「社会へのコミット」という咲のひとつの問題は、ここにきて、それこそ「誰かが何とかする/しなければならない/してくれる」という、セレソンの国を救うというゲーム(閉塞からの脱却への期待)、迂闊な月曜日に対する人々の反応(閉塞からの脱却への期待)、そこと酷似している。
別のロジックへの迎合を見つけなければそこには入れない。たとえるなら、パンを陳列するセンスのような幻想のロジックを、「学生気分を置いてくるための旅行」みたいに捨ててこなければならず(逆にいえば、そのセリフがあるということは、咲の学生気分は脱色されていない)、そして、その会社・社会の、ひとつの幻想のロジック――共同体としてのそれに染まらなければならない。
そうしなければならない。
そうしなければならないという、閉塞。
泣き出した咲は滝沢に胸を借りようとしないし、滝沢も胸を貸そうとしない。けれど、キスをする。そのくらいには――それほどには、「何かをする」。彼は閉塞からの脱却を誘う。咲にとっての「誰かが何かをしてくれる」の「誰か」は、言うまでもなく「彼のこと」と、今まで散々示唆的でしたが、ここにきて、示唆をひとつ飛び越えた。
またひとつ、わたしたちにとっては『幻想』が生まれた。
幻想。新たなセレソンも、完全に謎ではなくて、ある程度のプロフィールは分かるように・匂わせるように描いている。少しの――多少の情報は開示されているのです。そのことにより、わたしたちは幻想を抱ける。そこに。
ということでねー、まあしかしお前はずっと『幻想幻想』とバカの一つ覚えだなって感じですけど、いやもう幻想に注目したいんですよ。そういう季節なんですよ、なう。意外とね、物語――つうか、物語っていうのはどうかと思うんだけど、まあいっか、物語、それを駆動するものとして幻想的なもの・それを作り出すモノがいい具合に機能的なんじゃないかなぁとかね。とかね。ね。
何このワクワク感?
何でこんなワクワクできんの?
それはねえ、『幻想』なのよ。
たぶんきっといやマジで。
マジか?
誰か「物語の面白さにおける幻想」みたいなことを語った人はいないのだろうか。参考にしたい。むしろ引用してしゅぱっと終わらせたい。
物語の面白さというのは『幻想』に非常に強く担保される。いや、引き出される。最近そんなことばっか書いてますけど、本気でそんなこと思っています。うーんこれ、マジでそうなんじゃねえかな、てゆうか本当なんじゃねえかな、とかね、けっこう本気で思ってます。
幻想。見えているもの・知っているもの・分かっているものの【奥(裏)】側、というものへの想いです。それは「未来」ということも含めます。いま見えている・知っている・分かっているものは、「深層」から描写により表に滲み出た「表層」ではないだろうか。いま見えている・知っている・分かっているものを生み出すほどの<何か>が、その奥(裏)には”まだあるんじゃないか”、
という幻想。横軸(共時的)にはそれで、縦軸(通時的)には、描写されていない過去や未来に対するものとなります。
それはともかく、3話、あと2話のだいいちいんしょう。別の場所に書いたものの完全なるコピペ。
「東のエデン」第2話見た。
空港で一回別れて、(豊洲がわかんなくて)トイレに駆けつけて再会して、港で別れそうになりながらも『無言で』手を差し出して別れなかったり。細かい点だけど、出会いや別れには、いつもこう、「偶然的なもの」が添付されている……というか、されていてもおかしくない、シチュエーションである。そんな感じがしますねー。
そして第3話も見た。
上手いねー煽るねーという印象。「見た目」というのは、その文字通りですね、「奥」というのを想起させます。たとえば冒頭、豊洲の街の街灯の異様なくらいの赤さとその統一性は、それゆえに不吉なものを想起させたのではないでしょうか。
常に「見た目」には、その「奥」を想像させる余地が生まれる。とはいっても、それはあくまで想像の「奥」。もし本当に「奥」があったとしても、それは想像した「奥」とはまったく別物かもしれません。わんちゃんの影がまるで怪物だった箇所など、象徴的でしょう。見た目(影)は怪物に見える、だからその奥(影を生んだ生き物)もきっと怪物、そこにはどんな恐ろしい化物がいることか……しかし実際のところ、居たのは化物とは似ても似つかないカワイイわんちゃん。影として表れた見た目から想像できる姿(奥)とは似ても似つかない存在が、その奥には居たわけです。
記憶喪失だし、わけわかんないところいっぱいあるし、お金持ってるっぽいし……森美咲の滝沢くんに対する印象・心象は、はたしてどうか。謎とか不思議とか、またカッコイイとかちょっとイイかも、などなど思っているでしょうが、しかしまさか(恐らくですが)本当にテロリストで、ニート二万人誘拐してぶっ殺しちゃった(ぶっ殺そうとしちゃった)、などとは思っていないでしょう。ノブレスケータイに関してもそう。ショッピングモールが住みかなのは変だけど、まさかそれが出所も分からない超うさんくさいお金に拠るものだと、思ってもいないのではないでしょうか。森美咲は。その、見た目の滝沢くんの「裏」、色々想像しているだろうけど、まさかテロリスト、まさか人殺し(多分)、まさか救世主とは考えていない、恐らく。ならばこそ、疑念が生まれるわけですね。その「裏」を見て、森美咲は、それでも滝沢に興味・好意が持てるのだろうか。喪っている状態の記憶は、どんな想像でも受け入れる、崇高な対象だけれども、もし記憶が還ってくれば、その瞬間それは毒となるアガルマなんじゃないだろうか。
ふと横を見れば「証拠」に行き当たってしまう可能性もあるこのショッピングセンターで。


しかしこの、今僕が書いた滝沢くんに関すること(現在の情報からの推測)もまた、「見た目」でもあるわけです。見えてることから想像する。不安も、恐怖も。はたは希望も、期待も。わんちゃんの「影絵の怪物」が、やはり象徴的でしょう。それはひとつの定式を教えてくれるわけです。「怪物は常に影である――恐怖は常に影である」。怪物は喋ってはいけない。正体不明――イマジネールに作用するものが、はじめて、怪物となりうる。想像・幻想が、恐怖・怪物を生み出す。すべての幻想は、すべてそこにしかないわけで、見えてないからこそ幻想が介在できるのです。
それは小出しにされる、各々の情報に関してもそうでして、だからこそ上手いし煽られてるわけですよ。日本も、ミサイルも、セレソン・ノブレスケータイ、こいつらは何なのか、滝沢、さらに森美咲……見た目レベルで留めているのみならず、「奥」をまるで”魅力的なもの”として隠している。崇高が連ねるように構成されているわけです。
あー、上のは、それ放送直後に記したやつなんで、現時点の情報からすると何かアレじゃね?って箇所があるけれどみなさんには華麗にスルーなさることを期待しています。
で、第4話。
漠然。そして漠然は幻想を生む。
「ミスター・アウトサイド」「国を救う」。
この(ゲーム)の提案者であり支配者であり統治者である存在はただただ漠然としていて、彼が下す命令もまたただただ漠然としている。「国を救う」。それは、どうしたら達成できるのだ?
幻といえば、そのまんま「幻」が現われてましたね。爆心地での、あのなんかよくわかんないやつ。滝沢がそいつらに発した言葉は「役立たずどもが!」。
ここでの爆心地というのは、ある種空虚な中心的――存在として”あえていうなら”中心となるくらいに中心的だけど、それがおおやけに何かを為すということもなく、そもそもこの「システム」(ここでの場合は、東京という街とその機能、滝沢や咲にとって、あるいは本作の物語において)自体からもなかば排除されている――でもあるんじゃないでしょうか。この集合のなかで一番出っ張ってる、目立つ部分ではあるけれど――そして敢えて言うならば、それは「中心」であるけれど――実際に中心と呼べるのか。それほどの機能を果たしていないし、システムに不可欠ながらも実体はそこに組み込まれていない。
存在はあり人々や街や物語に深い痕跡と何らかの意味を与えているだろうけど、それが定かではない、つかめない霧散するようなそれである爆心地。
ここまで物語駆動の中心(動機)になっており、そして存在は確かにあるはずなのに、まるで見えない、重要度すらもここにきてはまるで量れない(良い意味でも悪い意味でも)滝沢くんの記憶。
セレソンにおける重要項、ある種のアウトサイダーでありながら、存在しているのは恐らく確かなのだろうけど、まるで見えないサポーター。
全てが、何だか分からない。否、見えない。
重要というのは分かるけど、中心的な部分を担っているけど、物語の重要な駆動点・動機となっているけれど、「漠然としている」それら。そしてそれらを追いかけている、あるいは追い立てられているのが、彼ら。
迂闊な月曜日に対する咲の感想は何だったか。面接官は何と聞いたか(第5話)。わくわくする。歓迎ムード。”そこに何かがある”。正確には、いま、明らかになっている”そこ”には、いま明らかになっている分の何かしかない。正確には、その奥、裏。
いま明らかになっているその奥に、裏に、何があるのか。
その想いのことを、「幻想」という。
「幻想」を孕ませる余地が多大に支配的であり、また彼ら自身も幻想を追っているからこそ、わたしたちもそれを宿らすことができる。ふくらむ。その漠然を糧に。
「サポーターというのは……(中略)……システムのことです」と、ジュイスは説明していましたが、これはちょっと注目に値するかもしれない別にしないかも(どっち)。
「システムのこと」。人物のことでも、役割のことでもないんですよね。ある種の自動的な、何かであると考えられるくらい。それゆえに、よりつかめないのですが。
第5話。
「君は記憶を消してまで何かをしようとしたんだろ?」(第4話)
ミスター・アウトサイドへの滝沢くんの怒りというのは、つまりそういうことなのかもしれないっすね。旧滝沢くんがどこまで・どれまで頭脳明晰なのかは分からないですけど。考えていたのか分からないですけど。全てを計算した上で記憶を消したのならば、「記憶を失った自分がどういった行動をとるか」が、ある程度計算できる。
そうすると、知っていたらできないことも、知らないからできるようになりうる。
「社会へのコミット」という咲のひとつの問題は、ここにきて、それこそ「誰かが何とかする/しなければならない/してくれる」という、セレソンの国を救うというゲーム(閉塞からの脱却への期待)、迂闊な月曜日に対する人々の反応(閉塞からの脱却への期待)、そこと酷似している。
別のロジックへの迎合を見つけなければそこには入れない。たとえるなら、パンを陳列するセンスのような幻想のロジックを、「学生気分を置いてくるための旅行」みたいに捨ててこなければならず(逆にいえば、そのセリフがあるということは、咲の学生気分は脱色されていない)、そして、その会社・社会の、ひとつの幻想のロジック――共同体としてのそれに染まらなければならない。
そうしなければならない。
そうしなければならないという、閉塞。
泣き出した咲は滝沢に胸を借りようとしないし、滝沢も胸を貸そうとしない。けれど、キスをする。そのくらいには――それほどには、「何かをする」。彼は閉塞からの脱却を誘う。咲にとっての「誰かが何かをしてくれる」の「誰か」は、言うまでもなく「彼のこと」と、今まで散々示唆的でしたが、ここにきて、示唆をひとつ飛び越えた。
またひとつ、わたしたちにとっては『幻想』が生まれた。
幻想。新たなセレソンも、完全に謎ではなくて、ある程度のプロフィールは分かるように・匂わせるように描いている。少しの――多少の情報は開示されているのです。そのことにより、わたしたちは幻想を抱ける。そこに。
ということでねー、まあしかしお前はずっと『幻想幻想』とバカの一つ覚えだなって感じですけど、いやもう幻想に注目したいんですよ。そういう季節なんですよ、なう。意外とね、物語――つうか、物語っていうのはどうかと思うんだけど、まあいっか、物語、それを駆動するものとして幻想的なもの・それを作り出すモノがいい具合に機能的なんじゃないかなぁとかね。とかね。ね。
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