2009'05.10 (Sun) 23:52
わたしたちはこれを考えなければならない。
このイメージにより生じた新たなるイメージを。



この三つのイメージ。この連なり。
最初と2枚目の画像だけなら、そこから想定されるのは「パンツ」であろう。


澪が倒れ、観客がなんか騒いでて(しかも恥ずかしー的なニュアンスで)、カメラに映ってはいないが澪の体勢的には明らかにパンツが見えてる感じである。
もしも3枚目の画像がなく、この2つだけだとしたらと仮定しよう。
これが「パンツのドアップ」なのか、それとも「まったく関係ないただの柄(イメージ映像)」なのか、そこは深く取られない。どちらにしろ同じだからだ。これが本当にパンツ(をドアップで)見せたものであろうと、これが本当はパンツとは全く関係ないただの柄――たとえば「こういう柄のお茶碗を」、そうと分からないように、柄だけを映したものなのか、どちらにしろ効果は同じで、それはわたしたちに『パンツ』をイメージさせる。
映像においては、x+y は必ずしも「xy」になるとは限らない。それぞれの文脈を介し認識される。転んだ絵+なんかの柄は、その文脈に沿った認識から「パンツ」という、前者とも後者ともイコールで結ばれないものを想起させる。x+y×文脈=n となりえる。
のですが、今回の「けいおん!」の場合、ここに第三者、お米が、お茶碗が加わる。



ど、どういうことなの……?
1枚目と2枚目の画像なら、文脈を介して導き出されるイメージは「パンツ」で終わる。なのに、なぜかそこに3枚目の画像、「お茶碗@お米大盛り」が加わっている!
言うまでもありませんが、最後の画像が加わらなくて、「パンツ」としては認識されえます。パンツ的なものが、パンツと思わしきものが描かれた、と。その観点だけからいうと、最後の画像は、本来無くてもいい。1枚目と2枚目だけでパンツは伝わっているし、そしてなにより、3枚目の画像は「パンツ」のイメージに直接的には寄与しない!
そうですよ、お茶碗大盛りのごはんなんですよ? 「お茶碗大盛りのごはん」を見て、「パンツ」を想起する人間なんてこの世界にはたしてどのくらいいるというのでしょう? そういう特殊プレイ(お茶碗プレイ)をやったことある人とかならいざ知らず、てゆうかなんだそれ、そんなプレイあるのか、ちょう興味ある、やったことある人教えて下さい。それはともかくだ、3枚目はそれ単体でも、この文脈でも、「パンツ」に直截的には結び付かない。
もちろん、お茶碗からはみ出すほどの大盛りのごはんはパンツからはみ出すほどのエロティックボディ的な淫靡さを誘発するし、パンツ=性欲ときてごはん=食欲とくるコンビネーションはわれわれの欲望に突き刺さるような請求心を持つだろう。他にも色々な想像ができるだろう。しかし、どれも想像である。たしかではない。
そして、それは、「1枚目+2枚目」の『画像』の連鎖から、つまり視覚領域を主に導き出されたイメージ、それと異なる。「1枚目+2枚目+3枚目」は、画像のみならず、視覚領域からのイメージのみならず、そこに『意味』的な解釈があってはじめて解釈される、つまり暗喩や隠喩を求める部分から発動している。
眼で見て当たり前のように「そうだ」と分かる前者と異なり、後者は考えた末に「もしかしたらこうかも(こういう意味かも)」と解釈される。そしてその解釈も、当然分かりやすいもの、記号的なものではなく、分かりづらい、とらえにくい、人によって様々に解かれるようなものになっている。
この違いは大きいでしょう。
つまりここにおいて、この「1枚目+2枚目+3枚目」の画像の連鎖を「パンツ」という意味合いで解きほぐした場合、3枚目は「そこに収まりきらない何か」となっている。
そしてそれこそが、ここにおけるキモとなる。ひとつの意味に回収しきれない「何か」があるからこそ、この連鎖に「パンツ」に集約しきれないイメージが生まれる。しかも今回は、2枚目の画像がズームアウトして3枚目の画像に至るから、より――つまり、2枚目の画像はパンツをドアップに映したものでも他のイメージでもなんでもなく、「お茶碗のアップだ」ということが明らかになっている――そうなる。
「1枚目+2枚目」の組み合わせはパンツのようである、しかし「1枚目+2枚目+3枚目」の時点で、「1枚目+2枚目」はパンツでない(しかしパンツをイメージさせるものである)ことが明らかになっている、けれども。「3枚目」そのものに、お茶碗の柄としてのパンツが残存する。しかし、この「3枚目」は、『パンツ』だけを考えるなら不必要であり、むしろこれが無ければ、2枚目を単純にパンツのイメージと解釈できるのに、これがあるから、「単純に」ではなく、ひとつ迂回した形での「パンツ」としての理解に至る。そこにはひとつ、「何か」としての、3枚目(ならび3枚目という連鎖)の回収しきれないものが残る。
ここにはもはや、パンツそのものを描く以上のエロさと強度が生まれている。パンツを描くことなく、パンツを描かないでパンツのリアリティを描くこともなく、それ以上のものを描いている。回収しきれない何かが、そうであるがゆえ、そこに解釈しきれない余地と、自己解釈に陥らなければならない余地、その両方を生み出す。非隣接的な、非類似的なもの――お茶碗がそこにある――が、わずかな「柄」を頼りに隣接・類似しようとしている!てゆうかしている!(別にこの3枚目は、柄さえ一緒なら「お茶碗」でなくとも可能だったはずだ)

イメージとして”だけ”確固として存在しているのだ(あの世界に実際にある(このお茶碗が)かどうかは定かではない)。パンツと何も関係ないものが、パンツと隣接して。それは、われわれの脳内、認識、解釈でも隣接する。無駄に隣接しやがると言いたくなるくらい隣接するが、「在る」以上無駄でも何でもなく、それは「1枚目+2枚目」の幸せな連鎖を突き崩し、外部的な「何か」を(しかもこの3枚目ではそれまでと「示すこと」/「語ること」の区分が変化している(図像的な記号と象徴的な記号)、より外部的なもの)そこに突き刺し、ただのパンツのイメージ以上の混沌、カオスをそこに招き入れるのだ。
そして、それは、忘れちゃいけない。
あっちの世界のなかでは、澪がパンツを見られて、観客がパンツを見ている。このひとつのわけのわからなさ、外部性、「パンツ」に回収しきれないイメージはどこに繋がるかといえば、そこにである。
つまり、これは、パンツを描く(あるいはパンツのイメージを描く)だけではなく、そのときの澪や観客、あるいはその場の混沌なども間接的に描いているのだ。
単純にパンツを描くだけだったら、ただ「パンツ」を描いただけだっただろう。1枚目と2枚目を描くだけなら、ただ「パンツ」を描いただけだっただろう。しかし3枚目が描かれることにより、あの場、あの瞬間、澪、観客、軽音部のみんな、そういったものも、その混沌も、間接的に描かれている。
もはやパンツが描かれていないことなど何の問題にもならない。ここにはパンツ以上のものが描かれているのだから。
という解釈はどうだろうか。
このイメージにより生じた新たなるイメージを。



この三つのイメージ。この連なり。
最初と2枚目の画像だけなら、そこから想定されるのは「パンツ」であろう。


澪が倒れ、観客がなんか騒いでて(しかも恥ずかしー的なニュアンスで)、カメラに映ってはいないが澪の体勢的には明らかにパンツが見えてる感じである。
もしも3枚目の画像がなく、この2つだけだとしたらと仮定しよう。
これが「パンツのドアップ」なのか、それとも「まったく関係ないただの柄(イメージ映像)」なのか、そこは深く取られない。どちらにしろ同じだからだ。これが本当にパンツ(をドアップで)見せたものであろうと、これが本当はパンツとは全く関係ないただの柄――たとえば「こういう柄のお茶碗を」、そうと分からないように、柄だけを映したものなのか、どちらにしろ効果は同じで、それはわたしたちに『パンツ』をイメージさせる。
映像においては、x+y は必ずしも「xy」になるとは限らない。それぞれの文脈を介し認識される。転んだ絵+なんかの柄は、その文脈に沿った認識から「パンツ」という、前者とも後者ともイコールで結ばれないものを想起させる。x+y×文脈=n となりえる。
のですが、今回の「けいおん!」の場合、ここに第三者、お米が、お茶碗が加わる。



ど、どういうことなの……?
1枚目と2枚目の画像なら、文脈を介して導き出されるイメージは「パンツ」で終わる。なのに、なぜかそこに3枚目の画像、「お茶碗@お米大盛り」が加わっている!
言うまでもありませんが、最後の画像が加わらなくて、「パンツ」としては認識されえます。パンツ的なものが、パンツと思わしきものが描かれた、と。その観点だけからいうと、最後の画像は、本来無くてもいい。1枚目と2枚目だけでパンツは伝わっているし、そしてなにより、3枚目の画像は「パンツ」のイメージに直接的には寄与しない!
そうですよ、お茶碗大盛りのごはんなんですよ? 「お茶碗大盛りのごはん」を見て、「パンツ」を想起する人間なんてこの世界にはたしてどのくらいいるというのでしょう? そういう特殊プレイ(お茶碗プレイ)をやったことある人とかならいざ知らず、てゆうかなんだそれ、そんなプレイあるのか、ちょう興味ある、やったことある人教えて下さい。それはともかくだ、3枚目はそれ単体でも、この文脈でも、「パンツ」に直截的には結び付かない。
もちろん、お茶碗からはみ出すほどの大盛りのごはんはパンツからはみ出すほどのエロティックボディ的な淫靡さを誘発するし、パンツ=性欲ときてごはん=食欲とくるコンビネーションはわれわれの欲望に突き刺さるような請求心を持つだろう。他にも色々な想像ができるだろう。しかし、どれも想像である。たしかではない。
そして、それは、「1枚目+2枚目」の『画像』の連鎖から、つまり視覚領域を主に導き出されたイメージ、それと異なる。「1枚目+2枚目+3枚目」は、画像のみならず、視覚領域からのイメージのみならず、そこに『意味』的な解釈があってはじめて解釈される、つまり暗喩や隠喩を求める部分から発動している。
眼で見て当たり前のように「そうだ」と分かる前者と異なり、後者は考えた末に「もしかしたらこうかも(こういう意味かも)」と解釈される。そしてその解釈も、当然分かりやすいもの、記号的なものではなく、分かりづらい、とらえにくい、人によって様々に解かれるようなものになっている。
この違いは大きいでしょう。
つまりここにおいて、この「1枚目+2枚目+3枚目」の画像の連鎖を「パンツ」という意味合いで解きほぐした場合、3枚目は「そこに収まりきらない何か」となっている。
そしてそれこそが、ここにおけるキモとなる。ひとつの意味に回収しきれない「何か」があるからこそ、この連鎖に「パンツ」に集約しきれないイメージが生まれる。しかも今回は、2枚目の画像がズームアウトして3枚目の画像に至るから、より――つまり、2枚目の画像はパンツをドアップに映したものでも他のイメージでもなんでもなく、「お茶碗のアップだ」ということが明らかになっている――そうなる。
「1枚目+2枚目」の組み合わせはパンツのようである、しかし「1枚目+2枚目+3枚目」の時点で、「1枚目+2枚目」はパンツでない(しかしパンツをイメージさせるものである)ことが明らかになっている、けれども。「3枚目」そのものに、お茶碗の柄としてのパンツが残存する。しかし、この「3枚目」は、『パンツ』だけを考えるなら不必要であり、むしろこれが無ければ、2枚目を単純にパンツのイメージと解釈できるのに、これがあるから、「単純に」ではなく、ひとつ迂回した形での「パンツ」としての理解に至る。そこにはひとつ、「何か」としての、3枚目(ならび3枚目という連鎖)の回収しきれないものが残る。
ここにはもはや、パンツそのものを描く以上のエロさと強度が生まれている。パンツを描くことなく、パンツを描かないでパンツのリアリティを描くこともなく、それ以上のものを描いている。回収しきれない何かが、そうであるがゆえ、そこに解釈しきれない余地と、自己解釈に陥らなければならない余地、その両方を生み出す。非隣接的な、非類似的なもの――お茶碗がそこにある――が、わずかな「柄」を頼りに隣接・類似しようとしている!てゆうかしている!(別にこの3枚目は、柄さえ一緒なら「お茶碗」でなくとも可能だったはずだ)

イメージとして”だけ”確固として存在しているのだ(あの世界に実際にある(このお茶碗が)かどうかは定かではない)。パンツと何も関係ないものが、パンツと隣接して。それは、われわれの脳内、認識、解釈でも隣接する。無駄に隣接しやがると言いたくなるくらい隣接するが、「在る」以上無駄でも何でもなく、それは「1枚目+2枚目」の幸せな連鎖を突き崩し、外部的な「何か」を(しかもこの3枚目ではそれまでと「示すこと」/「語ること」の区分が変化している(図像的な記号と象徴的な記号)、より外部的なもの)そこに突き刺し、ただのパンツのイメージ以上の混沌、カオスをそこに招き入れるのだ。
そして、それは、忘れちゃいけない。
あっちの世界のなかでは、澪がパンツを見られて、観客がパンツを見ている。このひとつのわけのわからなさ、外部性、「パンツ」に回収しきれないイメージはどこに繋がるかといえば、そこにである。
つまり、これは、パンツを描く(あるいはパンツのイメージを描く)だけではなく、そのときの澪や観客、あるいはその場の混沌なども間接的に描いているのだ。
単純にパンツを描くだけだったら、ただ「パンツ」を描いただけだっただろう。1枚目と2枚目を描くだけなら、ただ「パンツ」を描いただけだっただろう。しかし3枚目が描かれることにより、あの場、あの瞬間、澪、観客、軽音部のみんな、そういったものも、その混沌も、間接的に描かれている。
もはやパンツが描かれていないことなど何の問題にもならない。ここにはパンツ以上のものが描かれているのだから。
という解釈はどうだろうか。
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