2009'06.19 (Fri) 03:14
……どうしようか。
ものすごくよかった。
もうなんというか、言葉もないです。
「いまいるこの講堂が、わたしたちの武道館です!」
これ。
……なんかもう、なんもいう必要はないわなー。言語化するだけ野暮というもの。
「わたしにとっての」なんですよね。唯にとっての、律にとっての、ムギにとっての、澪にとっての、あずにゃんにとっての。それは”この中身だから”いまいるここがそれになったんだし、”いまいるここがそう”だからこの中身がその内実になった。講堂=武道館だけじゃなくて、全部そうなんですよ。彼女にとっての軽音部、部室、ギー太、軽音部の誰か、あるいは全体、……もう、もろもろの何か。
たとえば梓は今回「このまま唯先輩抜きで演奏しても意味ないです」とまで云ってましたが、これは当初の梓から考えるととても大きな変化です。「意味がない」とまで云っちゃってる。梓にとっての(学祭での)演奏に、唯がいなくては意味すらない。梓がそんなふうに思えるようになった、つまり「梓にとっての」がそのような形になったのは、それまでの言動・出来事・中身によるでしょうし、ということは逆に、その「梓にとっての」の内実は、それまでの言動・出来事・中身そのものである。
そんな風にね……、彼女たちは練習ばっかやってたわけじゃなく、部室でお茶飲んでだべってることが多く、合宿も半分以上遊んでて、でもさ、だから、だからこそ、ここで、「いまいるこの講堂が、わたしたちの武道館です!」になれたんだと思う。もちろん、違う道でもここに辿り着けたかもしれない。けど。この道が辿り着いた場所は、そこだった。その価値は、本当に武道館ライブを行うことと比べて少しも目劣りするようなものじゃないでしょう。わたしにとっての武道館でライブをすることは、本当の武道館でライブをすることに、少しも劣らない。そして交換できるものでもない。仮に、必死に練習して本当に武道館ライブが出来てたとしても、その価値はその価値で、この講堂でのライブとは全く違う意味である。そしてその場合は、もし学祭でライブをやるとしても、このセリフはなく、つまり「この気持ち」はなく、今回のライブとは全く別の価値になる。
「いまいるここ」でのライブは、「いまいるここ」以外でのライブと交換できないし、決して価値も低くない。
自分が「いまいるここ」は、自分が過去・未来・あるいは”if”のなかに居た「そこ」と交換できないし、それと比べて価値が低いものでもない。
これは、この軽音部だから、この人たちだから、こうであったという、何ものにも換え難い、何ものにも劣らない、価値。
もう言葉いらないです。完璧な肯定を見せられた。僕もこれを完璧に肯定せざるを得ない。いや、そんなん抜きにしても素晴らしいんだけど。本当に素晴らしい。
「何かしなくちゃと思うんだけど、いったい何をしたらいいんだろう?」(第一話)から、辿り着いたところ。もちろん、「わたしにとっての」は、ここで終わりじゃなくて、永遠にどこにでも何処まででも辿り着き続けるんだけど。それが、他人から見てどんなに中身のないようなものでも、どんなに価値の低いようなものでも、彼女(ら)にとってみれば、自分自身の、唯ひとつの、何ものにも換え難いものなんでしょう。『けいおん!』は中身がないとかいう感想は、正直、もう全く違いすぎると言わざるを得ません。むしろ逆です。描かれているものは、「わたしたち(視聴者)」にとってはどうでもいい中身かもしんないけど、「彼女たち」にとっては何ものにも換えられず価値も劣らない中身に溢れている。成長も変化も、成功も栄光も、ドラマも物語も、それとは別次元。ここにあるのは、唯の、ムギの、律の、澪の、梓の、または憂の、和の、さわちゃんの、その他もろもろの、みんなの、「彼女(たち)にとっての」であった。
ものすごくよかった。
もうなんというか、言葉もないです。
「いまいるこの講堂が、わたしたちの武道館です!」
これ。
……なんかもう、なんもいう必要はないわなー。言語化するだけ野暮というもの。
「わたしにとっての」なんですよね。唯にとっての、律にとっての、ムギにとっての、澪にとっての、あずにゃんにとっての。それは”この中身だから”いまいるここがそれになったんだし、”いまいるここがそう”だからこの中身がその内実になった。講堂=武道館だけじゃなくて、全部そうなんですよ。彼女にとっての軽音部、部室、ギー太、軽音部の誰か、あるいは全体、……もう、もろもろの何か。
たとえば梓は今回「このまま唯先輩抜きで演奏しても意味ないです」とまで云ってましたが、これは当初の梓から考えるととても大きな変化です。「意味がない」とまで云っちゃってる。梓にとっての(学祭での)演奏に、唯がいなくては意味すらない。梓がそんなふうに思えるようになった、つまり「梓にとっての」がそのような形になったのは、それまでの言動・出来事・中身によるでしょうし、ということは逆に、その「梓にとっての」の内実は、それまでの言動・出来事・中身そのものである。
そんな風にね……、彼女たちは練習ばっかやってたわけじゃなく、部室でお茶飲んでだべってることが多く、合宿も半分以上遊んでて、でもさ、だから、だからこそ、ここで、「いまいるこの講堂が、わたしたちの武道館です!」になれたんだと思う。もちろん、違う道でもここに辿り着けたかもしれない。けど。この道が辿り着いた場所は、そこだった。その価値は、本当に武道館ライブを行うことと比べて少しも目劣りするようなものじゃないでしょう。わたしにとっての武道館でライブをすることは、本当の武道館でライブをすることに、少しも劣らない。そして交換できるものでもない。仮に、必死に練習して本当に武道館ライブが出来てたとしても、その価値はその価値で、この講堂でのライブとは全く違う意味である。そしてその場合は、もし学祭でライブをやるとしても、このセリフはなく、つまり「この気持ち」はなく、今回のライブとは全く別の価値になる。
「いまいるここ」でのライブは、「いまいるここ」以外でのライブと交換できないし、決して価値も低くない。
自分が「いまいるここ」は、自分が過去・未来・あるいは”if”のなかに居た「そこ」と交換できないし、それと比べて価値が低いものでもない。
これは、この軽音部だから、この人たちだから、こうであったという、何ものにも換え難い、何ものにも劣らない、価値。
もう言葉いらないです。完璧な肯定を見せられた。僕もこれを完璧に肯定せざるを得ない。いや、そんなん抜きにしても素晴らしいんだけど。本当に素晴らしい。
「何かしなくちゃと思うんだけど、いったい何をしたらいいんだろう?」(第一話)から、辿り着いたところ。もちろん、「わたしにとっての」は、ここで終わりじゃなくて、永遠にどこにでも何処まででも辿り着き続けるんだけど。それが、他人から見てどんなに中身のないようなものでも、どんなに価値の低いようなものでも、彼女(ら)にとってみれば、自分自身の、唯ひとつの、何ものにも換え難いものなんでしょう。『けいおん!』は中身がないとかいう感想は、正直、もう全く違いすぎると言わざるを得ません。むしろ逆です。描かれているものは、「わたしたち(視聴者)」にとってはどうでもいい中身かもしんないけど、「彼女たち」にとっては何ものにも換えられず価値も劣らない中身に溢れている。成長も変化も、成功も栄光も、ドラマも物語も、それとは別次元。ここにあるのは、唯の、ムギの、律の、澪の、梓の、または憂の、和の、さわちゃんの、その他もろもろの、みんなの、「彼女(たち)にとっての」であった。
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けいおん! 第12話 「軽音!」泣いた。いい最終回だった。この作品に、京都アニメーションに出会えて、今の時代に日本に生まれて本当によかったと思います。いつか自分もこういう事ができるようになりたい。 1話と被せて来るこの演出、唯のモノローグ、王道とはいいも
2009/06/19(金) 09:36:59 | ProjectLily@ブログ
TVアニメ「けいおん!」オリジナルサウンドトラック K-ON! ORIGINAL SOUND TRACKクチコミを見る
注目の学園祭ライブ!しかし、今回けいおん部に最大のピンチが!!・・・さて最終回も思うままに書き綴っていきますかね・・・。
☆<6/19更新>前回、けいおん!(第11話
2009/06/20(土) 02:02:45 | ゲームやアニメについてぼそぼそと語る人
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