CLANNAD 「もうひとつの世界 智代編」
2008-07-22
DVD8巻には、おまけの小冊子みたいなのが付いてますよね。そこの12ページに、今回の話の演出・コンテを担当された高雄さんのコメントが載っています。
「24話は”朋也編”だった」
「”無価値を自称する男”をどう描き、どう救済するか」
なぜ、この番外編が存在するのか、番外編がこのお話なのか、これがどうして(京アニCLANNADに)必要とされるのか、その答えは、この言葉に集約されましたね。
「飛べない翼に、意味はあるのでしょうか」に視る、意味が持つ柔軟性
2008-07-08
「飛べない翼に、意味はあるのでしょうか」AIR、遠野美凪の台詞。
この台詞には、『意味』というものが持つ柔軟性が含まれています。
「飛べない翼に、意味はあるのでしょうか」。この言葉を分解すると、『「飛べない翼の」「意味は疑問(無い)」』、ということになります。飛べなければ意味がないのではないか、という疑問。
これはつまり、有意とは本来の使用方法・あるいは本質に宿るものであって、そうではないものは「意味があるのかどうか」疑わしい状態にあるといえます。
例えば、データが壊れて読み取れないCDに意味はあるのでしょうか。水に濡れて読めない本に意味はあるのでしょうか。
「有意性の根拠」がそこにあるのなら、その真逆は、必然的に、意味があるということになります。つまり、「飛べる翼に意味がある」ということになる。
ここには美凪の、『意味』というものの考え方が表れています。ここまでに書いてきたことを纏めると、
・有意とは本来の使用方法・あるいは本質に宿るもの
・本来の使用方法で運用されている、あるいは本質を十全に発揮できているなら、それは『意味』がある
というのが、美凪の考え方。
これは(この言葉は、この考え方は)、美凪自身のことを指しているものでもあって、だからこそ、そこに切なる希望を込めて、「あるのでしょうか」という疑問文になっています。断定ではなく、問いかけ的に。「(遠野美凪という)本来・本質が失われている自分自身に、意味はあるのでしょうか?」
■
この『意味』に関する結論は、美凪シナリオ後半に出てきます。
「意味はあるさ。 それが、空を飛んでいた日々の大切な思い出だからな」
飛べない翼にも、意味はある。空を飛んだ時の思い出が宿っているから。
これは、美凪の当初の考えに反するものです。「思い出」などというものは、「翼」の、本来でもなければ本質でもない。しかし、この『意味』を、美凪は受け入れます。
つまり、どういうことかというと、『意味』というのは、本来や本質に依拠されるものではなく、視点によって創出されるものだということなのです。
データが壊れて読み取れないCDにだって、部屋のインテリアでもベランダに鳥除けで置いとくのでも何でもいい、別の使い方はあるし、いや使わなくたって、CDが読み取れた頃の思い出や、いや一度も読み取れたことがなくても、折角買ったのに読み取れなかったという思い出が宿る。そして、そこに『意味』を見い出すことができる。
そういったことです。
つまり、「飛べない翼に意味はあるのでしょうか?」という言葉には、『意味』は一つの観点だけが根拠となるものではなく、視点によっていくらでも見い出したり創り出したりすることが出来るという、『意味』が持つ柔軟性が表れているよね、というお話です。
ひだまりスケッチ×365 第一話「はじめまして! うめてんてー」
2008-07-05
久しぶりの「ひだまりスケッチ」。実に一年ちょっとぶりですね。ちなみにこのブログをまともに更新するのは一ヶ月ちょっとぶり(ぉ
時系列はぐっと戻って、第一期を併せても一番最初。ゆのの受験と、ひだまり荘メンバーとの出会いからです。
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おしらせとおわびとこくち
2008-06-20
お久しぶりです。ここは、Keyあるいは京アニもしくはアニメ感想をメインに記してきたブログであり、これからもそれを主に記していくブログであるがゆえに……、ゆえに…………現状、何も書くことが無いっす(汗)
やー、なんか。
微妙なネタのストックはあるんですけど。
微妙すぎて書く必要がないなぁって感じで。
週一くらいでは更新したいのですが。
えっと、とりあえず。
来月頭からは「ひだまりスケッチ」がはじまるので、アニメの感想はそこから復活します。
たぶん。
おそらく。
いみじくも。
(以下に続く文章は削除しました。なんつうか、めっちゃハズイので。もう見て欲しい人は見てくださったっぽいし。)
「リトルバスターズ!」のBGMが弱いワケ
2008-06-07
本編のBGMがこれまでに比べるとやや弱いかなと。
http://tangerine.sweetstyle.jp/?eid=700214
や、僕も最初はそう感じたのですが、Amazonのレビューよろしくに、サントラを聞くと、その評価ががらっと変わりました。
この評価の変化の原因は、楽曲の質うんぬんだけでなく、リトバスの構造にも求められるのではないかと思います。
『リトルバスターズ!』の音楽がCLANNADとかに比べて弱い理由も、個別シナリオが弱い理由と同じく、質だけの問題ではなく、ある程度はその構造に求められるのではないかと。
作曲者の変化(新しい人)や、本作で求められている楽曲が過去作と方向性が違う(ロック的な主題歌なんかは際立っているでしょう)ということによる変化なども一因としてあると思いますが、楽曲の良し悪しは主観以上では分からないのでその辺はスルーさせていただいて。
まあ、そんなこと以上に重要なのが、「Key作品に置ける音楽の位置づけや重要度が下がった」と言うことだと思いました。
・CLANNAD・AIR
CLANNADやAIRでの音楽は、音楽そのものがシナリオを演出するための手段として使われていました。場面場面で音楽が切り替わる、と言うよりは、その場面に、こういうイベントのときに、と、音楽が専用で作られていたわけです。CLANNADの「遥かな年月」とか「願いが叶う場所II」とかは、本当にその場面専用に作られた曲で、その場面を彩る、重要なシーンだと印象付ける意味合いでも置かれていました。
http://d.hatena.ne.jp/rikio0505/20071116/1195153151
このご意見は、ユーザーに対する音楽の「印象度」という点で非常に正しいと思うのですが、音楽の印象という話で言えば、「会話部分でBGMのボリュームが自動的に下がる」という点も無視できないのではないかと思います。
「リトルバスターズ!」はキャラクター音声があるゲームだからか、キャラクターが喋っている場面だと、自動的にBGM音量が低くなります。
つまり、プレイ中のBGMは、音量が高い部分・低い部分が混在することになります。
こうなると、プレイヤーはゲーム中にきちんとした(音量が安定した)BGMをゲーム中に聞く機会が少なくなり、自然BGMに対する印象は薄くなります。また、このようにゲームの場面の一部としてBGMが組み込まれている為、”BGMだけの”印象というのも薄くなってしまいます。
勿論これは、ゲーム演出としてみれば上手く作用している箇所もあり、例えば作中5月19日、
真人「ちっ…女の相手はする暇あんのに、オレたちの相手する暇はねぇってかよ」
謙吾「…なんのことだ」
真人「学食の裏のベンチで並んでお茶してたじぇねえか、女と」
(ここで音声が終わり、BGMボリュームが大幅に上がる)
その言葉に、帰り支度をしていたクラスメイトたちが一斉にざわめいた後、不自然に静まりかえる。
このシーンなんかは、「声がある、BGMが薄い」→「声の無音、BGM音量アップ」という変化が、理樹のモノローグ「ざわめいた後、不自然に静まりかえる」を強調しているようで、とても上手く作用しているように感じました。
作中で音楽が強く取り扱われていない、主になる場面が少ないというのが、楽曲の質うんぬん以外にいえる、「リトルバスターズ!」の音楽が弱い理由のひとつではないでしょうか。
amazonのレビューで「スルメのようなアルバム」と書いていた人がいましたが、確かに何度か聴いているうちに、印象が良くなったり好きになったりする曲が結構出てきているんですよ。
http://d.hatena.ne.jp/rikio0505/20071116/1195153151
このような意見などは、まさにその点を反映しているのではないかと思えます。



